平安時代前期から中期の女子の成人儀礼(着裳または加笄)は、大体12歳~16歳頃に行われたことが各史料の記録から判明している(注1)。文献上の成人年齢の初出は、延暦20年(801)の桓武天皇皇女高志内親王(13歳)であり、天慶元年(938)の醍醐皇女英子内親王が18歳とやや遅いものの、その後11世紀まで見渡しても、年齢のわかる内親王の殆どは10歳~16歳の間に成人儀礼を行っており、10歳未満で行った例は皇族・臣下を問わず殆ど見られない。
しかしその中で唯一、醍醐天皇皇女韶子内親王の着裳記事(延長2年(924)3月25日)は、7歳で行ったとされている。先行研究では着裳ではなく着袴の誤りであろうとする説や、年紀の誤記で韶子内親王の記事ではないとする説があり、本稿ではこれについて検証する。
なお本稿では以下、女子の成人儀礼(成女式)は原則として「着裳」で統一し、9世紀以前に限定される場合のみ「加笄」とする。ただし原史料で「著裳」「始笄」「初笄」等の異なる表記の場合は、原典表記に従う。
年齢は原則数え年で表記するが、満年齢の場合はその旨を付記する。
- 『西宮記』の着裳記事と着袴
『西宮記』(臨時九、内親王着裳)には、次のような記事がある。
「延長二三廿五、昌子(内)親王、於承香殿西廂著裳、天皇結腰、有送物御遊、宸筆叙品、<三品>雖不后腹、依先朝恩云々、以黄紙書叙品、給上卿、令作位記、」
(『神道大系 朝儀祭祀編二 西宮記』p781, 神道大系編纂会, 1993)
これについて、『大日本史料』では延長2年(924)3月25日に「韶子内親王御著裳」とする。原文では「昌子」とあるが、『醍醐天皇実録』も皇女韶子内親王の項目に「延長二年三月二十五日、著裳ノ儀アリ、三品ニ叙セラル」として「本條西宮記ノ昌子は韶子ヲ云ヘルナルベシ、微證ナシト雖モ、他ニ該當ノ内親王ナケレバ姑ク之ニ充ツ」と補記しており、同名の昌子内親王(朱雀天皇皇女)は天暦4年(950)生まれであることから誤記と判断したものと思われる。
延長2年当時、醍醐後宮で承香殿にいたと見られる妃は女御源和子(光孝天皇皇女)である(『一代要記』醍醐皇子常明親王条)。和子所生の皇女は3人おり、うち長女慶子内親王は延喜3年(903)生まれで、同16年(916)11月27日に14歳で裳着を行い(『紀略』『醍醐天皇御記』)、同23年(923)2月10日に21歳(無品)で死去している(『紀略』)。また次女韶子内親王は延喜18年(918)生まれ(『紀略』延喜21年(921)2月25日条)、三女斉子内親王は延喜21年(921)生まれ(『一代要記』)で、『日本紀略』等に韶子・斉子の着裳記事は見られないが、年齢から見て斉子より韶子の方が可能性は高い。
しかしその後の例を見ても、内親王の着裳は最低でも10歳(一条皇女脩子内親王、『紀略』寛弘2年3月27日条)であり、服籐早苗氏が指摘するように7歳は10世紀半ばの着裳年齢としては早すぎる(注2)。
さらに着裳の腰結役も、韶子の同母姉慶子内親王の着裳(当時14歳。腰結役の初見)では尚侍藤原満子(高藤女、醍醐天皇の叔母)が、また異母妹の康子内親王(皇后穏子所生。当時14歳前後)の時は左大臣藤原忠平(穏子の兄、康子の伯父)があたっており、どちらも両親以外の親族である(ただし康子の場合は、父醍醐天皇の没後であった)。
これについて服籐氏は「着裳の儀式では、父天皇が結腰した例は他に無いのに対し、着袴は父天皇が結腰するのが一般的」であるとしている(注3)。また内親王の着裳は清涼殿で行われた記録が多く、一方で着袴は母方の殿舎で行われるのが慣例であったと見られる(注4)ことから、当該記事も着袴の誤りである可能性が考えられる(注5)。
【表1.平安時代の皇族成女式一覧】(延長2年記事を除く)
名前 | 父 | 母 |
着裳 | 年齢 |
高志内親王 |
桓武天皇 | ▲皇后 藤原乙牟漏 |
801/11/9 | 13 |
大宅内親王 |
桓武天皇 | 女御 橘常子 |
801/11/9 | 不明 |
高津内親王 |
桓武天皇 | 坂上全子 |
801/11/9 | 不明 |
儀子内親王 |
▲文徳天皇 | 皇太后 藤原明子 |
869/2/9 | 不明 |
均子内親王 |
△宇多天皇 | 皇太夫人 藤原温子 |
903/10/19 | 14 |
勧子内親王 |
醍醐天皇 | ▲妃 為子内親王 |
914/11/19 | 16 |
慶子内親王 |
醍醐天皇 | 女御 源和子 |
916/11/27 | 14 |
勤子内親王 |
醍醐天皇 | 更衣 源周子 |
918? | 15? |
普子内親王 |
醍醐天皇 | 更衣 満子女王 |
925/2/24 | 16 |
康子内親王 |
▲醍醐天皇 | 皇后 藤原穏子 |
933/8/27 | 14? |
英子内親王 |
▲醍醐天皇 | 更衣 藤原淑姫 |
938/8/27 | 18 |
昌子内親王 |
▲朱雀天皇 | ▲女御 熙子女王 |
961/12/17 | 12 |
保子内親王 |
村上天皇 | 更衣 藤原正妃 |
962/4/25 | 14 |
規子内親王 |
村上天皇 | 女御 徽子女王 |
964/2/23 | 16 |
楽子内親王 |
村上天皇 | 女御 荘子女王 |
965/3/6 | 14 |
盛子内親王 |
村上天皇 | 更衣 源計子 |
965/8/20 | 不明 |
輔子内親王 |
村上天皇 | ▲中宮 藤原安子 |
965/8/27 | 13 |
資子内親王 |
▲村上天皇 | ▲中宮 藤原安子 |
968/12/28 | 14 |
選子内親王 |
▲村上天皇 | ▲中宮 藤原安子 |
974/11/11 | 11 |
恭子女王 |
為平親王 | 為平親王女 |
1000/11/4 | 17 |
脩子内親王 |
一条天皇 | ▲皇后 藤原定子 |
1005/3/27 | 10 |
敦康親王妃 |
▲具平親王 | 為平親王女 |
1013/12/10 | 不明 |
禔子内親王 |
三条天皇 | 皇后 藤原娍子 |
1019/2/29 | 17 |
禎子内親王 [陽明門院] |
▲三条天皇 | 皇太后 藤原妍子 [三条中宮] |
1023/4/1 | 11 |
嫥子女王 |
▲具平親王 | 為平親王女 |
1025/11/25 | 21 |
章子内親王 [二条院] |
後一条天皇 | 中宮 藤原威子 |
1037/12/13 | 12 |
良子内親王 |
後朱雀天皇 | 皇后 禎子内親王 |
1042/6/26 | 13 |
姝子内親王 [高松院] |
△鳥羽天皇 | 皇后 藤原得子 |
1156/3/5 | 16 |
※▲は着裳当時故人。△は父天皇譲位後。
もっとも当時の着袴記録は3歳で行われた例が殆どで、着袴年齢としては7歳はやや遅い(注6)。仮に着袴だとすれば、むしろ韶子の同母妹斉子の方が延長2年当時4歳で年齢的にも適当かと思われるが、着袴と同時の叙品も当時は着裳以上に例がなく、やはり断定しがたい(注7)。
さらに服藤氏は現存史料の記録から、着袴の日時は多くの例が「秋から冬にかけて行われるのが特徴である」と指摘している(注8)。特に10世紀は、日時の判明している皇族の着袴12例のうち、8月が5例、10月・11月が各1例、12月が5例で、春から夏にかけて実施された記録はまったく見られない。服藤氏は元服が正月に多いことと比較して「着袴が未だ一人前の「人」ではないゆえであろうか」と推測するが、これは恐らく、年の後半に生まれた子の場合は数え3歳の春や夏に着袴を行おうとしても、実質的には満2歳に満たないことが理由だったのではないだろうか。
3歳という着袴年齢の根拠について、服藤氏は「三歳は、満二歳であるから、ちょうど歩行を始めたころで、袴が必要になる年齢であろう」と述べている。秋澤亙氏もまた『源氏物語』に登場する「蛭の子が齢」から「蛭児は三歳で脚が立たずに流される。逆に言えば、脚が立たなくとも、三歳までは許された。つまり、脚の立つ、立たないという成長過程の臨界点が三歳において把握されているのであり、その認識が袴着を幼児三歳の儀礼として成立せしめてゆく経緯が想像されるのである」(注9)と推察しており、着袴儀礼の由来を考える上で共に妥当な見解と思われる。
しかし同じ3歳でも1月生まれと12月生まれでは1年近い差があり、12月生まれの子が数え3歳を迎えても、実際は満1歳を過ぎたばかりでしかない(当時は新生児の生年月日を誕生後に産衣に書き留めており、着袴の際にそれが日時の勘申に使われた(注10))。そのため数え年の当時であっても満2歳を越えるのを待って挙行され、結果として何月生まれでも満2歳を迎えている確率の高い冬に多く行われたのではないかと推測する。
ともあれこの点からも、延長2年3月という年紀には疑問が残り、韶子・斉子のいずれにせよ、着裳ではなく着袴の誤りであろうとする見解もまた問題があると思われる。
【表2.10~12世紀皇族の生年月日及び着袴一覧】
名前 | 父 |
誕生 | 着袴 |
着袴年齢(満) | 数え年齢 |
寛明親王 [朱雀] | 醍醐天皇 |
923/7/24 | 925/8/29 |
2歳1ヶ月 | 3歳 |
承子内親王 | 村上天皇 |
948/4/11 | 950/10/4 |
2歳6ヶ月 | 3歳 |
皇太子 憲平親王 [冷泉] | 村上天皇 |
950/5/24 | 952/12/8 |
2歳6ヶ月 | 3歳 |
守平親王 [円融] | 村上天皇 |
959/3/2 | 961/8/16 |
2歳5ヶ月 | 3歳 |
選子内親王 | 村上天皇 |
964/4/24 | 966/8/25 |
2歳4ヶ月 | 3歳 |
具平親王 | 村上天皇 |
964/6/19 | 966/8/27 |
2歳2ヶ月 | 3歳 |
師貞親王 [花山] | 冷泉天皇 |
968/10/26 | 970/12/23 |
2歳2ヶ月 | 3歳 |
懐仁親王 [一条] | 円融天皇 |
980/6/1 | 982/12/7 |
2歳6ヶ月 | 3歳 |
敦明王 | 皇太子 居貞親王 [三条] |
994/5/9 | 996/12/14 |
2歳7ヶ月 | 3歳 |
脩子内親王 | 一条天皇 |
996/12/16 | 998/12/17 |
2歳 | 3歳 |
敦儀王 | 皇太子 居貞親王 [三条] |
997/5/19 | 999/8/19 |
2歳3ヶ月 | 3歳 |
敦康親王 | 一条天皇 |
999/11/7 | 1001/11/13 |
2歳 | 3歳 |
媄子内親王 | 一条天皇 |
1000/12/16 | 1002/12/23 |
2歳 | 3歳 |
師明王 | 皇太子 居貞親王 [三条] |
1005/8/1 | 1007/12/26 |
2歳4ヶ月 | 3歳 |
敦成親王 [後一条] | 一条天皇 |
1008/9/11 | 1010/10/22 |
2歳1ヶ月 | 3歳 |
敦良親王 [後朱雀] | 一条天皇 |
1009/11/25 | 1011/12/28 |
2歳1ヶ月 | 3歳 |
禎子内親王 | 三条天皇 |
1013/7/6 | 1015/4/7 |
1歳9ヶ月 | 3歳 |
嫄子女王 | ▲敦康親王 |
1016/7/19 | 1020/11/27 |
4歳4ヶ月 | 5歳 |
儇子内親王? | 敦明親王 [小一条院] |
1018/12/9 | 1020/12/27 |
2歳 | 3歳 |
親仁王 [後冷泉] | 皇太子 敦良親王 [後朱雀] |
1025/8/3 | 1027/4/5 |
1歳8ヶ月 | 3歳 |
章子内親王 | 後一条天皇 |
1026/12/9 | 1030/11/26 |
4歳11ヶ月 | 5歳 |
馨子内親王 | 後一条天皇 |
1029/2/1 | 1031/10/24 |
2歳8ヶ月 | 3歳 |
尊仁親王 [後三条] | 後朱雀天皇 |
1034/7/18 | 1038/11/25 |
4歳4ヶ月 | 5歳 |
祐子内親王 | 後朱雀天皇 |
1038/4/21 | 1040/11/28 |
2歳7ヶ月 | 3歳 |
善子内親王 | 白河天皇 |
1077/9/23 | 1081/11/28 |
5歳2ヶ月 | 6歳 |
善仁親王 [堀河] | 白河天皇 |
1079/7/9 | 1083/2/9 |
3歳7ヶ月 | 5歳 |
宗仁親王 [鳥羽] | 堀河天皇 |
1103/1/16 | 1105/10/27 |
2歳9ヶ月 | 3歳 |
顕仁親王 [崇徳] | 鳥羽天皇 |
1119/5/28 | 1123/1/3 |
3歳7ヶ月 | 5歳 |
統子内親王 | 鳥羽天皇 |
1126/7/23 | 1128/1/17 |
2歳6ヶ月 | 3歳 |
雅仁親王 [後白河] | 鳥羽天皇 |
1127/9/11 | 1131/1/1 |
3歳4ヶ月 | 5歳 |
叡子内親王 | △鳥羽天皇 |
1135/12/4 | 1137/12/10 |
2歳 | 3歳 |
体仁親王 [近衛] | △鳥羽天皇 |
1139/5/18 | 1141/10/26 |
2歳5ヶ月 | 3歳 |
重仁親王 | 崇徳天皇 |
1140/9/2 | 1144/10/28 |
4歳2ヶ月 | 5歳 |
姝子内親王 | △鳥羽天皇 |
1141/11/8 | 1146/2/17 |
4歳3ヶ月 | 6歳 |
守仁王 [二条] | 雅仁親王 [後白河] |
1143/6/17 | 1150/12/13 |
7歳6ヶ月 | 8歳 |
憲仁親王 [高倉] | △後白河天皇 |
1161/9/3 | 1166/12/22 |
5歳3ヶ月 | 6歳 |
覲子内親王 | △後白河天皇 |
1181/10/5 | 1187/8/3 |
5歳10ヶ月 | 7歳 |
範子内親王 | 高倉天皇 |
1177/11/6 | 1179/12/21 |
2歳1ヶ月 | 3歳 |
言仁親王 [安徳] | 高倉天皇 |
1178/11/12 | 1180/1/20 |
1歳2ヶ月 | 3歳 |
※▲は着袴当時故人、△は父天皇譲位後。
以上は誕生及び着袴の年月日が判明している例のみである。
10世紀の親王・内親王着袴で8月に行われた5例はすべて、誕生日が1~7月の場合である。その他、1~7月生まれながら10月以降に着袴を行った例については、本来は8月頃を予定していたところ事情があり延期となった可能性が考えられ、以下4例が該当すると思われる。
- 承子内親王~天暦4年(950)は5月24日に承子の同母弟憲平親王(冷泉)が誕生、7月に立太子、8月に百日儀と慶事が続いていた。憲平の外祖父師輔には待望の皇子誕生でもあり、このため承子の着袴が10月に延期されたものか。
- 憲平親王~『西宮記』によれば天暦6年(952)4月29日、皇太子憲平が母藤原安子の殿舎である藤壺に参入した。憲平は同4年(950)10月22日に「初入内」で桂芳坊に入っていたが、後宮入りの記録はこれ以前にはないことから、この藤壺入りは5月で満2歳を迎える憲平の着袴の準備のためであった可能性が考えられる。しかし3月に病で出家していた朱雀上皇が同年8月15日に崩御、この影響で憲平の着袴も延期になったものと思われる。その後同年11月18日に大祓が行われ(『北山抄』)、10日後の同月28日に朱雀上皇の一人娘昌子内親王の着袴があり(『李部王記』)、憲平の着袴はさらに10日後の12月8日に行われた(なお『玉蘂』は桂芳坊で着袴が行われたとする)。
- 懐仁親王~天元5年(982)3月11日、藤原遵子が円融天皇の中宮に立后した。『栄花物語』(巻2・花山たづぬる中納言)では懐仁の外祖父藤原兼家がこれに激怒し、その娘で懐仁の生母である女御詮子も円融天皇の便りになかなか応えなかったとある。その後「若宮(懐仁)の…(中略)今年は三つにならせたまへば、秋つ方御袴着の事あるべう、内には造物ところに御具どもせさせたまひ、その御事ども思しまうけさせたまふべし」とあり、秋に備えて懐仁の着袴を父円融自ら差配していた。しかし兼家も独断で「この冬、若宮の御袴着は、東三条院にてあるべう思し掟てさせ」ており、こうした両者の意図の齟齬が着袴の遅れに繋がったと思われる。最終的には円融の強い要望に兼家が妥協、詮子も宮中入りして12月の着袴開催となったが、この描写からも始めは秋頃を想定していたこと、また『栄花』作者もそれに違和感を覚えていなかったことが伺える。
- 敦明王~敦明着袴の長徳2年(996)は有名な長徳の変で藤原伊周・隆家兄弟が左遷、中宮定子も出家する等、前年の政権交代以降朝廷内の混乱が続いている時期であった。敦明の父である皇太子居貞親王も、自身は政変による直接の影響は被っていなかったとみられるものの、敦明の外祖父である大納言藤原済時(生母娍子の父)が前年4月23日に疫病で死去している。このため有力な後見を失ったことも、敦明の着袴が遅れた一因かと思われる。
天禄元年(970)以降は12月の着袴例が増えてきたことや、1~7月生まれの親王・内親王の着袴記録自体が少ないこともあってか、10~12月に着袴の例が多い傾向を示している。ただし満2歳未満での着袴例は、11世紀半ばまでの24人の中では禎子内親王・親仁王(後冷泉)の2人に限られ、その後は全体的に着袴年齢が上がったこともあり、平安末期の言仁親王(安徳)のみである(※六条天皇は満8ヶ月で即位しているが、着袴の記録はない)。禎子は7月生まれ、親仁は8月生まれであり、特に禎子は誕生時に父三条天皇が皇女には異例の御佩刀下賜を行われていることから、満2歳以前の着袴も外祖父道長への配慮が一因であろうかと思われる(服藤氏作成の着袴一覧によれば、藤原良経の寛弘4年(1007)2月21日が春または夏の着袴初例(ただし良経は当時7歳)で、同年4月27日に藤原道長の子である尊子(4歳以上?)・長家(3歳)も着袴を行っているが、天皇家では禎子内親王以前に春・夏の着袴記録は見られない(注11))。
なお服藤氏の着袴一覧では、良子内親王の着袴を長元3年(1030)6月23日とするが、当時良子は満6ヶ月(数え2歳)であり、着袴には早すぎると思われる。また典拠とされる『更級日記』奥書には『土右記』より「長久三年(1042)六月二十六日 蔵人少将隆俊、為勅使参斎宮(良子)御着裳」の記載があることから、これを誤って引いたものと推測し、本稿では除外した。
またもう一点、管見では先行研究に指摘は見られないが、韶子内親王の経歴で注目すべき問題がある。
『日本紀略』によれば韶子は延喜21年(921)2月25日、賀茂斎院に卜定されている(『北山抄』(巻第6備忘略記「斎王卜定事」)では延喜20年(920)とするが、『貞信公記抄』延喜20年閏6月9日条に「斎内親王薨」とあり、また『紀略』同日条で「今上第二皇女賀茂斎院宣子内親王薨」とされることから、『北山抄』の年紀は誤りであろう)。初斎院入り年月日は不明だが、『紀略』延喜23(923)年4月17日条に「依前皇太子(保明親王)穢、停賀茂祭」とあり、さらに『貞信公記抄』延長2年(924)4月17日条に「初斎院御禊(※初斎院入りの御禊ではなく、初斎院から紫野本院入りする際の御禊の意)」とある。通常斎院は卜定から3年目の4月に本院入りと定められているが、延喜23年(923)3月に皇太子保明親王(韶子の異母兄)が急死しており(『紀略』延長元年3月21日条)、恐らくこのために同年4月に予定されていた賀茂祭は中止とされ、韶子の本院入りも翌年に延期されたものと見られる。
よって延長2年3月当時、斎院韶子は宮中の初斎院(場所は不明)で潔斎中であったと推測される。
韶子の母源和子が当時承香殿にいたのが事実としても、既に初斎院入りを済ませ、本院入りに備えて潔斎中である斎王が敢えて初斎院を出て、後宮の殿舎で着袴または着裳に臨んだとは考えにくい。また既に本院入りしていたのならば、着袴や着裳のために現任の斎院が紫野本院からわざわざ宮中へ戻ることはなおさらありえないと思われる。
着袴記事の初見は、延長3年(925)8月29日の寛明親王(朱雀天皇、韶子の異母弟)であるとされる(注12)。これ以後10歳未満で卜定された斎院の記録を見ると、17代斎院馨子内親王は長元4年(1031)9月21日に16代斎院選子内親王が退下の後、同年10月29日に3歳で着袴、12月16日に斎院に卜定されている(『左経記』『紀略』)。『左経記』同年11月7日条には「二宮(馨子)御出并可奏牧場斎院之日」とあり、『栄花物語』(巻31「殿上の花見」)の記述「斎院は、村上の十の宮(選子)、ゐさせたまひて年久しくならせたまひぬるが、おりゐさせたまひぬれば、二の宮(馨子)ゐさせたまふべし」からも伺えるように、この場合は選子退下の時点で馨子が次代斎院に内定していたものと見られる。
また元々選子退下以前の7月始めの時点で馨子の着袴は検討されており、『左経記』長元4年(1031)7月5日条の記述「八月三十日姫宮(馨子)御袴着可有之由」から、2月生まれの馨子の着袴は先例と同様当初は8月を予定していたことがわかる。しかし同年8月10日条に「或人云、斎院(選子)遁世今月之内可有云々(中略)今朝或人云、今月可令避給云」とあり、この頃既に斎院選子内親王が退下すると噂になっていたらしい。結局馨子の着袴は8月には行われず、同年9月14日条になって再び「二宮(馨子)着御袴日内々可令問者、召陰陽師則秀問之申云十月廿八日」とある。つまり選子の正式な退下より前に再度日程を決め、9月21日に斎院選子の退下があったがほぼ予定通り10月末に着袴を挙行、その後斎院卜定としたものであろう。
さらに時代下って、28代斎院統子内親王は大治3年(1128)1月17日に3歳で着袴を行っており(『中右記目録』)、統子(当時は初名の恂子)は前年に2歳で斎院に卜定されていた。『中右記』及び『中右記目録』によれば、同元年(1126)11月3日と12月27日に統子の「御著袴定」が行われているが、当時の統子は同年7月23日に誕生したばかりの乳児で、まだ着袴を行うような年齢ではなかった。にもかかわらずこれほど早くに着袴の検討がされたのは、統子誕生の僅か2日後、同月25日に27代斎院悰子内親王が母の急死により退下したために斎院交替となったことが影響していると思われる。当時斎院候補の内親王は統子と同母姉の禧子内親王(5歳)の2人しかおらず(※後の30代斎院怡子内親王は皇孫であり、内親王宣下の時期も不明)、鳥羽天皇の第一皇女で后腹内親王でもあった禧子は父院の鍾愛深かったことが知られている。そのため生まれたばかりの統子が次の斎院として内定したと思われるが、数え1歳での斎王卜定は例がなく、当時は幼児の死亡率も高かったことから、統子の斎院卜定は翌年に持ち越されたのであろう。
その後同2年(1127)4月6日に統子は斎院に卜定、同年12月25日に再度著袴定の後、同3年(1128)1月17日に着袴を挙行、同年4月14日に初斎院入りとなっている。この頃には春に着袴を行った前例も増えており、また統子の場合は4月に初斎院入りを控えていたことからも、初斎院入り前に着袴を済ませてしまうため、3歳の年明け早々に行ったものと推測される。なお『中右記』(大治2年4月5日条)によれば統子の卜定所は相模守(藤原)盛重宅であり、恐らく着袴もここで行われたと思われる(父鳥羽上皇は当時三条烏丸第を御所としていたが、統子の着袴にあたり腰結役となったかは不明)。
もう一例、34代斎院範子内親王は『百練抄』(治承3年(1179)12月21日条)に「賀茂斎内親王(範子)著袴<于時御坐左近府>」とあり、歴代斎院の中で確実な記録としては唯一、初斎院内で着袴を行ったことが知られる。
範子は治承2年(1178)6月27日に2歳で斎院に卜定、同3年(1179)4月9日に3歳で初斎院(左近衛府)へ入り、同4年(1180)4月12日に4歳で紫野本院へ入った(『玉葉』『山槐記』)。範子の場合は統子の例とは逆に、卜定にあたって着袴を前倒しすることはせず、初斎院入りの8ヵ月後に着袴を行っている。これは範子が治承元年(1177)11月6日生まれで、初斎院入りの頃は数え3歳とはいえいまだ満1歳5か月に過ぎなかったため、初斎院入りを終えて満2歳を迎えた年末を待っての着袴挙行になったものであろう。またこの時範子の着袴が初斎院で行われたということは、それ以前に斎院が初斎院を出て後宮で着袴を行った前例が存在しなかったことを意味すると考えられ、従って韶子の初斎院での着袴はなかったと思われる。
なお範子着袴の頃、父高倉天皇は閑院を里内裏としていた。また範子の生母小督局はこの頃出家(『山槐記』治承4年4月12日条)、範子自身は中宮平徳子の猶子となって藤原光隆に養育されていたが、着袴の腰結役の記録はなく、高倉天皇が自ら左近衛府へ出向いて範子の腰結を行った可能性は低いと思われる。
そもそも年齢の確かな斎宮・斎院の着袴記事は少ないため、検証には不十分な点も多いが、服藤氏の指摘では10世紀の着袴は3歳が多く、11世紀になると5歳での着袴が増えていったとされる(注13)。
馨子の例では、『栄花物語』には「(斎院に)定まらせたまひなば、え削がせたまふまじければ、削ぎたてまつらせたまふ」とあり、卜定に備えて事前に馨子の髪をそぐ等の配慮がされた様子が伺える。まして内親王の着袴ともなると、宮中で行う場合は先述のように父天皇自ら腰結役を務めるのが慣例であったから、正式に斎院となって諸々の制約が増える前に急ぎ挙行したものと考えられる。
また韶子の場合、紫野本院へ入ったのは延長2年(924)4月17日であり、問題の着裳記事の3月25日から一月足らずしか経っていない。しかも延喜21年(921)の卜定当時、韶子は既に4歳であり、卜定前に着袴を行うにあたってまったく問題はなかった(むしろ既に着袴を終えていてもおかしくない)。それを慣例に反して3年も延期した上、初斎院での潔斎中、しかも本院入りを一月後に控えた慌ただしい時期に挙行したと考えるのは、不可能ではないがやや不自然である(服藤氏が「着袴儀は父や親族の服喪期間中も問題なく行われている」と指摘するように、着袴の場合は最も重い親の服喪中でも中止理由にならなかったので、服喪による延期も可能性は低い(注14))。
既に述べたように、確実な着袴記事の初見は韶子の異母弟寛明であり、それ以前に親王・内親王の着袴が宮中で行われた確かな記録はない。無論、現存文献に記録が残っていないだけで行われていただけかもしれず、『今昔物語集』24巻第31に「延喜ノ天皇御子ノ御着袴ノ料ニ御屏風ヲ為サセ給ヒテ…」とある「御子」は、この逸話が事実とすれば寛明の兄か姉である可能性も考えられる(注15)。ただし親王・内親王のために作られる屏風歌は、『貫之集』に醍醐天皇皇女勤子内親王の着裳の際に詠まれたものはあるが、管見の限り着袴に際しての屏風歌の記録は見られないことから、『今昔』の「着袴」は着裳の誤りであるとも考えられる。
ところで寛明の幼少期については、母后穏子が「御帳の内にて三まで生したてまつらせ」たという『大鏡』の逸話がよく知られている。この「三まで」というのはまさに着袴可能な年齢であり、しかも寛明が3歳になった延長3年(925)6月19日、甥にあたる皇太子慶頼王がわずか5歳で死去している。長男に続いて忘れ形見の愛孫をも失った穏子の悲嘆は想像するに余りあるが、寛明の着袴が挙行されたのは、慶頼王死去からわずか2ヵ月後の8月29日のことであった。
そもそも寛明はその誕生からして同母兄保明の急死(延長元年(923)3月21日)から4か月後(同年7月24日)であったが、今また二代にわたる皇太子死去という異例の事態に遭遇した穏子や忠平、そして醍醐天皇の動揺は相当なものであっただろう。そこでこの不吉な前例を振り払おうと、7月生まれの寛明が満2歳を迎え、さらに慶頼王の四十九日が明ける8月を待ってことさら盛大に祝いの儀式を行い、それによって「后腹親王」たる寛明こそ次の皇太子であることを世間に示そうとしたのではないだろうか。約100年ぶりの立后という強硬手段を用いてまで慶頼王を立太子させた北家一門のことであるから、道真の怨霊を恐れつつも、かくなる上は一日も早く寛明の立太子を実現させねばと焦りを覚えていたと思われる。
そして同年10月21日に寛明は立太子、その後も無事成長して8歳で即位した(もっとも父醍醐天皇は、清涼殿落雷の衝撃で譲位直後に崩御してしまったが)。その結果、寛明の着袴が先例とされ、その後天皇家の生育儀礼として受け継がれていったのではないか。
なお同じ穏子所生でも、寛明の兄皇太子保明親王、姉康子内親王、そして弟成明親王(村上天皇)の着袴記事は残っていない。保明の場合は、その生前には母穏子の立后はなかったため当然「后腹」ではなく、また康子も延喜20年(920)以前の誕生とすると、着袴があったとしても同22年(922)頃のはずであり、やはり同23年(923)の穏子立后以前で「后腹内親王の着袴」にはならなかったとみられる。また成明については、寛明と同様に生まれながらの「后腹親王」であったが、成明の立太子は成人後であった。従って3歳を迎えた頃は寛明の時ほどには重要視されず、着袴自体行われなかった可能性も考えられる。
しかし村上天皇の皇子女では、承子内親王・憲平親王(冷泉天皇)・守平親王(円融天皇)・選子内親王・具平親王の5人について、『日本紀略』『西宮記』に着袴記事が記載されている。また藤原師輔の『九暦』(天暦4年7月11日条)には「延長・天慶之例、(中略)此両太子(寛明・成明)者、已后腹親王也」の記載があり、自身も皇后所生であった村上天皇の時代には既に「后腹」という概念が定着していたと見られる。上記の着袴記事が残る5人の内、具平親王(母は女御荘子女王)を除く4人が中宮藤原安子所生であり、承子・憲平の着袴は安子の立后以前だが、憲平は既に皇太子となっていたことから、皇太子及びその同母姉(承子は村上天皇の第一子でもあった)としての殊遇によるかと思われる。
なお具平親王は選子内親王より約2ヶ月早い生まれだが、着袴は選子が2日早くに行われている。こうした記録からも、女御所生の親王よりも后腹内親王の方が重んじられていた様子が伺えよう。
- 「后腹内親王」の着裳について
服籐早苗氏は成女式の研究において、「とりわけ后腹の場合は、着裳と同時に三品に叙される慣例だった」としている(注16)。しかしこれまでも指摘されてきたように、そもそも平安時代前期においては仁明天皇から醍醐天皇までの間、約100年近く皇后冊立が断絶した時代があり、このため「皇后所生内親王」は非常に少ないのである(注17)。
そこで、平安初期の「后腹内親王」の顔ぶれと、その品位を確認してみる(※光仁天皇皇女の酒人内親王(母:皇后井上内親王)は、時期から見て父天皇即位に伴う叙品であることが明らかなため、ここでは除く)。
桓武天皇皇女(母:皇后藤原乙牟漏)
・高志内親王~延暦20年(801)11月9日加笄(13歳)、延暦23年(804)1月5日三品(16歳)。
※高志の長子と思われる恒世親王は延暦24年(805)生まれであることから、高志が大伴親王(淳和)の妃になったのは三品に叙品された延暦23年以前と推測される。
嵯峨天皇皇女(母:皇后橘嘉智子)
・正子内親王~淳和天皇皇后。記録なし。
・秀子内親王~無品。
・芳子内親王~記録なし。
・繁子内親王~無品。
以上、桓武天皇ならびに嵯峨天皇の皇女合計5人が、9世紀前半の皇后所生内親王である。また親王では、嵯峨天皇皇子で皇后嘉智子の次男である秀良親王が元服と同時に三品直叙されている(『類聚国史』天長9年(832)2月11日)。
なお淳和天皇の皇后正子内親王に皇女はなく、3人の皇子たちも元服と同時の三品直叙はない。次男基貞親王は承和11年(844)に18歳で三品に直叙されているが、これは正月七日に実施される叙品・叙位の時であり、元服と直接の関係はないとみられる(嵯峨天皇の皇子たちが14~16歳で元服していることから見ても、基貞の三品直叙は元服後数年経ってからのことであろう)。また淳和の皇太子時代の妃であった高志内親王所生の恒世親王は、母高志が皇后を追贈された後に三品直叙となったと思われるが(『紀略』弘仁14年(823)6月6日、9月28日条)(注18)、これも19歳の時で元服と同時とは考えにくい。
その後仁明天皇の即位から醍醐天皇の中宮藤原穏子が立后するまでの92年間は、天皇に「皇后」という正妃が存在しなかった。従って当代天皇の娘としての「后腹内親王」も存在せず、また上記の桓武天皇・嵯峨天皇の皇后が産んだ皇女たちを見ても、成人と同時期に三品に叙された人物はいなかったと見られることから、桓武~嵯峨の頃にはまだ「皇后所生の内親王は成人によって三品直叙となる」という慣例はなかったと考えられる(既に述べたように、親王でも嵯峨天皇皇子秀良が唯一、皇后所生で元服時に三品直叙の例であった)。
それでは、天皇在位中の皇后(妻)ではないもののそれに準じる「后」、即ち天皇の母となった「皇太后」所生の皇女たちについてはどうであろうか。
文徳天皇皇女
・儀子内親王(母:女御藤原明子)~貞観11年(869)2月9日初笄、同月11日三品。
貞観元年(859)10月5日斎院卜定、同18年(876)10月5日退下。
※父文徳天皇は天安2年(858)8月27日没。
母明子は天安2年(858)11月7日皇太夫人、貞観6年(864)1月7日皇太后、元慶6年(882)1月7日太皇太后。
清和天皇皇女
・敦子内親王(母:女御藤原高子)~無品。元慶元年(877)2月17日斎院卜定、同4年12月退下。
※父清和天皇は元慶4年(880)12月4日没。
母高子は貞観19年(877)1月3日皇太夫人、元慶6年(882)1月7日皇太后、寛平8年(896)9月22日廃后。天慶6年(943)追復。
同母兄弟貞保親王(貞観12年(870)生)は元慶6年(882)1月2日、13歳で元服と同時に三品直叙。
光孝天皇皇女(母:女御班子女王)
・忠子内親王~元慶8年(884)4月13日臣籍降下、寛平3年(891)12月内親王宣下。三品。
・簡子内親王~元慶8年(884)4月13日臣籍降下、寛平3年(891)12月内親王宣下。無品。
・綏子内親王~元慶8年(884)4月13日臣籍降下、寛平3年(891)12月内親王宣下。陽成院妃。三品。
・為子内親王~元慶8年(884)4月13日臣籍降下、寛平3年(891)12月内親王宣下。醍醐天皇妃。
寛平9年(897)7月3日入内、同月25日三品直叙。
※父光孝天皇は仁和3年(887)8月26日没。
母班子は仁和3年(887)11月17日皇太夫人、寛平9年(897)7月26日皇太后。
こうして見ると、儀子内親王は成人直後に三品となっているので「后腹(皇太后所生)内親王は成人と同時に三品とする」に合致する例であるように思われる。これについて山本一也氏は、仁明天皇皇女新子内親王が母藤原沢子の皇太后追贈直後に四品から三品へ昇叙したこと(『日本三代実録』元慶8年2月22日・26日条)と合わせて、皇后を経ていない皇太后の所生子も「后腹」と見なされたと推察している(注19)。ただし山本氏は三品に叙品された内親王については検証しているが、敦子内親王も皇太后所生で、年齢的にも恐らく母高子が「后」となった後に成人したにもかかわらず、三品どころか生涯無品であった点には触れていない。
宇多天皇の第一皇女均子内親王の場合は母温子が醍醐養母として皇太夫人とはなったが、皇太后位は醍醐の生母藤原胤子に追贈されている。温子に中宮職がつけられたとはいえ、醍醐の同母きょうだいではない均子は『日本紀略』の薨伝には品位の記録がなく(延喜10年2月25日条)、『帝王系図』(群書類従に『皇胤系図』として収録)『一代要記』『本朝皇胤紹運録』では無品とされている(※『紹運録』は均子を「母同天皇(醍醐)」とする。しかし均子は敦慶親王室であり、同母きょうだい同士で結婚した可能性は考えにくいため、『要記』の「母温子」が正しいと思われる)。
しかし敦子内親王は母高子が皇太后で自身も陽成天皇の同母妹であり、しかも儀子という先例があるにもかかわらず叙品されていないのである。とすれば、儀子と新子が母の皇太后立后(追贈)の直後に叙品(昇叙)されたのは事実としても、その理由が「后腹内親王」と見なされたためとは必ずしも断定できない。
ところで彦由三枝子氏は儀子内親王の叙品について、「天皇(清和)同腹の斎院として充分な待遇を受けている」と指摘している(注20)。加えて儀子は皇太后所生内親王であるだけでなく、清和天皇にとっては唯一の同母きょうだいでもあり、甥陽成天皇の即位後には一品にまで昇叙された。
また新子内親王の場合、母沢子追贈の根拠となったのは言うまでもなく同母兄時康親王(光孝天皇)の即位であり、沢子所生の皇子女は光孝天皇と新子の他に宗康親王(868没)・人康親王(872没)の2人がいた。しかし宗康と人康はどちらも元慶8年(884)の光孝即位前に死去しており、存命中に「贈皇太后腹親王」となった光孝の同母きょうだいは新子のみなのである。
そして敦子内親王の場合、確かに母は皇太后、同母兄は天皇であるが、にもかかわらず敦子の加笄の記録は見られない。母高子の入内が貞観8年(866)12月27日、陽成天皇の誕生が貞観10年(868)12月16日、貞保親王の誕生が貞観12年(870)9月13日、そして敦子の内親王宣下が貞観15年(873)4月21日であり、更に元慶6年(882)1月2日に陽成天皇(15歳)と貞保親王(13歳)が同時に元服していることから、敦子は陽成天皇と貞保親王の妹である可能性が高く、貞保の生年月日と敦子の宣下年月日から推して、おおよそ貞観13年(871)~同14年(872)頃の生まれと見られる。
敦子は賀茂斎院も元慶4年(880)に退下しており、貞観13年(871)生まれとすれば元慶7年(883)には13歳で、加笄を行っても不自然ではない年齢であった。しかしまさにその元慶7年11月10日、宮中で陽成乳兄弟の源益が殺されるという事件が起こり(『三代実録』)、これに陽成天皇が関与していたと言われている。この影響で新嘗祭が停止、また天変や宮中の失火も相次いだ上、関白藤原基経も事件以前の10月9日から殆ど参内していなかったらしい。仮に敦子が元慶7年(883)11月10日までに加笄を行っていなかったとすれば、翌年2月4日に陽成天皇がとうとう譲位にまで追い込まれるような状況の中では、敦子の加笄も不可能であったろう。その結果、兄陽成の譲位により「当代天皇の同母妹」ではなくなった敦子の初笄は内裏以外で挙行されて、記録に残らなかったものかと思われる(なお儀子の場合は賀茂斎院在任中の「始笄」であり(『日本三代実録』貞観11年(869)2月9日条)、貞観3年(861)に本院入りを済ませているため始笄も紫野斎院で行われた可能性が高いが、当時儀子は「当代(清和)天皇の同母妹」であった)。いずれにせよ、敦子は皇太后所生の内親王でありながら、成人後も終生叙品されることはなかった(ただし母高子は寛平8年(896)に皇太后位を廃されており、その復位は敦子の没後であった)。
ということは、儀子と新子の三品直叙または昇叙は単に「皇太后所生内親王」であるためではなく、「当代天皇の唯一の(生存する)同母きょうだい」に由来するものだったのではないだろうか。
ここで親王の例を確認すると、敦子内親王・陽成天皇と同母の貞保親王は、元慶6年(882)1月2日に兄陽成天皇と共に元服、同時に三品直叙されている。また宇多天皇の同母兄是忠親王(光孝天皇第一皇子)も、源氏から皇族へ復帰した親王宣下と同時に三品直叙されており(『紀略』寛平3年(893)12月29日条)、これらの例はいずれも当代天皇同母きょうだいの中でも筆頭または唯一の親王なのである。皇后所生の皇子は次代の皇太子候補にもなりうる重要な親王であり、平安前期から中期にかけて嵯峨天皇(平城弟)、村上天皇(朱雀弟)、円融天皇(冷泉弟)、後朱雀天皇(後一条弟)が同母兄に続いて即位している(なお桓武天皇の弟早良親王は、生母高野新笠が皇太后を追贈されたのは早良の死後のことであり、天皇同母の皇太子とはいえ「后腹」ではなかった)。よって他に幾人年長の内親王がいようとも、まず同母の親王が天皇に次いで重んじられ、親王がいない場合のみ内親王がそれに準じる待遇となったのであろう(今江広道氏は是忠の三品直叙を「天皇の同母弟(正しくは同母兄)」であるためかとしながらも、やはり同母の是貞は四品であり該当しないことから「一律に三品に直叙されるものではなかった」と述べるに留まっている。また山本一也氏はこの問題を指摘して「天皇の同母弟」という要件が成立しないことを示していると結論付けており、いずれも「当代天皇同母の筆頭親王」であることについての指摘はない(注21))。
なお先に触れた嵯峨天皇皇子秀良親王の場合は、元服当時同母兄の正良親王(仁明)は即位前であり(弘仁14年(823)4月18日立太子)、従って秀良は「皇太子の同母弟」ではあったが「天皇の同母弟」ではなかった。また当代天皇(淳和)の皇子でもなかったため、元服は内裏ではなく冷然院で挙行されている(『類聚国史』巻九十九、天長9年2月11日条)。にもかかわらず元服と同時の三品直叙という殊遇は、やはり皇后所生であったこと、また「皇太子の唯一の同母弟」であったことも理由であろうか(注22)。
一方で淳和天皇と皇后正子内親王の皇子たちは、長男恒貞親王の廃太子後に成人したためか、元服と同時の三品直叙にはなっていない(次男基貞親王は承和11年(844)、兄恒貞に先んじて三品に叙品されている)。そしてその後仁明天皇からは皇后冊立も絶えた上に、仁明の子文徳天皇、さらに文徳の子清和天皇の二代に渡って天皇の同母弟はまったく存在しなかった。
結局清和天皇の子陽成天皇の代に至ってようやく、陽成の同母弟貞保親王が秀良以降およそ50年ぶりで元服と同時の三品直叙となった。ただし「皇太子の同母弟」であった秀良とは異なり、貞保は「当代天皇の同母きょうだい」としては初めて元服三品直叙となったのである。嵯峨・淳和の両統迭立が解消されて直系の皇位継承となったことに加え、清和天皇に始まる幼帝即位の増加は「天皇元服」という新たな儀礼を生み出したが、それは同時に天皇に同母弟がいれば必ず天皇即位後の成人となることにもなった。光孝・宇多の二代は一時それが途絶えたが、醍醐天皇以降は再び幼帝即位が増えたことにより、天皇同母弟の「成人と同時期の三品直叙」が慣例化していったのではないか(また幼帝即位は「天皇嫡子の立太子」の遅れを引き起こし、しばしば「天皇同母弟の立太子(ひいては即位)」にも繋がっている)。
なお文徳天皇に同母きょうだいがなく、従って優遇すべき「天皇同母(=皇太后所生)」の親王・内親王が一人もいなかったのに対し、清和天皇には同母弟はいなかったものの同母妹儀子内親王がいた。この頃は幼帝即位によっていわゆる中継ぎ女帝も消滅しており、従って儀子にも即位の可能性はなかったと思われるが、ただ一人の天皇同母(さらには摂政良房の外孫)という立場は内親王といえども三品に直叙されるほど重んじられる存在であったのではないか。従って「当代天皇の筆頭同母きょうだい」として成人とほぼ同時に三品直叙となった初例は、厳密には貞保ではなくその叔母の儀子ということになり、儀子の先例があったからこそ貞保の三品直叙も問題なく行われたものと思われる。
ところで光孝天皇の皇女たちは、父光孝が即位したにもかかわらず同母兄弟の定省(宇多天皇)と共に一度臣籍降下し、宇多即位後にようやく皇族復帰・内親王宣下を受けたという、非常に変則的なケースである。そもそも宇多天皇は、陽成院に「当代(宇多)は家人にはあらずや」と言われたという『大鏡』の逸話でも知られるように、その即位自体が極めて異例のことであった。河内祥輔氏はこの点について、(臣籍降下により)「皇位継承権を放棄したにもかかわらず、一転して皇位に即いたとなれば、天皇としての権威が具わるはずもない」と指摘している(注23)。宇多の即位後も同母きょうだいたちが臣籍のまま据え置かれ(当時宇多は即位直後の「阿衡事件」による関白藤原基経との対立の最中で、きょうだいの皇族復帰どころではなかったと思われる)、寛平3年(891)1月に基経が死去した後、同年暮れにようやく皇族へ復帰した(『紀略』同年12月29日条)のも、基経以下貴族たちの間にそうした認識があったことの表れであろう。
なお浅尾広良氏は為子内親王入内を「后腹内親王の入内」とみなしており、「為子内親王は、父が光孝天皇、母が班子女王で、班子の父は桓武天皇の皇子仲野親王である。宇多の同腹の妹で、桓武以来の血を引く。これによって皇族の純潔性を高めるとともに、周りを身内で固めることで、自己の権威と保護のもとに醍醐を支え、繋ぎとめる方策の一つとしようとした」と推察している(注24)。確かに、わざわざ皇女出身の皇妃に限定される「妃(ひ)」としている点からも、宇多上皇のこだわりが伺える。
しかし一方で為子は内親王宣下後も入内まで無品であったことを考えると、少なくともこの時の叙品は「妃」が令制において四品以上と定められていたことに由来していたのではないかと思われる(注25)(ならば四品でもよかったはずだが、為子の同母姉綏子内親王は陽成院に嫁し、三品となっている。綏子の叙品時期は不明だが、宇多天皇としては共に同母の姉妹とはいえ、やがては我が子醍醐の皇后にとも意図して入内させたとされる為子を、因縁ある陽成院の妃よりも格下に甘んじさせる気にはならなかったのではないか)。
そもそも仁和3年(887)の宇多天皇即位により班子女王が皇太夫人となった(『紀略』同年11月17日条)後、さらに皇太后となったのは寛平9年(897)7月26日のことで、為子の皇太子入内及び醍醐の即位(同年同月3日)よりも20日あまり後のことであった。しかも為子の三品直叙は同月25日で、班子の皇太后冊立はその翌日であるから、厳密には為子の入内は元より三品直叙も「皇太后所生内親王」としてではなかったということになる(当時の「后」は、清和天皇女御で陽成天皇生母であった皇太后藤原高子(寛平8年(896)9月22日廃后)と、当時は文徳天皇女御であった太皇太后藤原明子が存命(昌泰3年(900)5月23日没)であった。班子は醍醐の祖母であるから本来であれば太皇太后のはずだが、明子がいるため太皇太后にはできず、高子の皇太后位を廃したのを機に班子を皇太后に冊立したものか(注26))。
さらにもう一つ、既に触れた宇多の同母兄是忠親王・是貞親王が親王宣下で是忠は三品、是貞は四品とされた件だが、この時(寛平3年(891)12月29日)是忠・是貞の母班子女王は皇太夫人(中宮)であった。従って是忠の三品直叙も当然「后腹(皇太后所生)」を根拠としたものではなかったと思われる。宇多が醍醐の周りを身内で固めようとしたとする浅尾氏の推察は妥当と思われるが、為子を始めとする宇多のきょうだいたちが当時「后腹(内)親王」と見なされたかについては、時期的に見てその血筋や母班子の后位のみで単純に参考にできる例とは言えない(『西宮記』巻12「皇后御賀」は是貞について「后腹」と記載するが、該当記事はやはり寛平3年(891)のものであり、「后腹」とするのは正しくない(注27))。
そもそも班子女王が藤原基経女の穏子入内へ強硬に反対した(『九暦』天暦4年6月15日条)という事実から見ても、いかに為子が宇多の妹で醍醐の叔母にあたる内親王であるとはいえ、強力な後見を持つ藤原氏の女御候補たちが入内すればそれに対抗するのは容易ではなかったろう。そこで単なる女御ではなく既に廃れて久しい「妃」に敢えて据えることで、為子の立場を別格のものとしようと図り、さらには為子の三品直叙もそもそもは「妃」とすることを目的に為されたのではないか。その結果天皇の祖母、妃の母である班子の立場も重みを増し、班子が皇太后に冊立されたことで為子も「皇太后所生内親王」としてさらに格上げされたと思われる。しかし為子は皇女一人を産んで早世し、醍醐天皇は為子との間に皇嗣を得ることはできなかった。
結局為子の没後に穏子の入内が実現したのだが、一方で醍醐天皇自身もさらなる身内強化を図ろうとした結果か、醍醐の同母弟敦固親王、敦実親王は相次いで元服と同時に三品直叙されている(敦慶親王のみ元服・初叙は不明だが、敦慶は醍醐の同母弟3人の中で最年長であり、醍醐が元服と同時に即位したことから見て、敦慶の元服は醍醐より後、即ち「天皇同母弟」としてであったと思われる。従って、弟2人と同様に三品直叙であった可能性が高い(注28))。醍醐以前に天皇同母の筆頭親王に限り三品直叙の先例はあったが、1人の天皇の同母兄弟が同時期に2人以上三品直叙となったのはこれが最初であった。この時筆頭親王以外の兄弟たちも三品直叙となったことで、その根拠が当代天皇同母=皇太后所生、即ち「后腹」という観念を一歩前進させ、やがて次代に登場する「皇后」穏子所生の子女たちの優遇に繋がった可能性が考えられる。
以上の点を総合すると、名実共に「后腹内親王である故をもって着裳と同時期に三品直叙された初例」は、醍醐天皇と中宮藤原穏子の娘である康子内親王(承平3年(933)着裳)であった可能性が高いのではないかと思われる。
既に触れたように、康子以前の皇太后所生内親王のうち、敦子内親王は生涯無品であった。儀子内親王と新子内親王は三品だが、「天皇の筆頭(この場合は唯一)同母きょうだい」であったことが叙品の根拠だとすれば、やはり「后腹内親王」としての前例にはなりえない。
また贈皇太后藤原胤子所生の柔子内親王(醍醐同母)については、『帝王系図』に三品と記載されているが『日本紀略』の薨伝には品位の記載はなく、着裳と同時期の直叙の可能性は低いと考えられる(注29)。
柔子の異母姉で皇太夫人温子所生の均子内親王は、既に触れたように無品であった可能性が高いが、21歳の若さで死去していることもあり、60歳を越える長寿で薨じた柔子の死亡時の品位と単純に比較はできない。また均子は柔子の同母兄敦慶親王の妃となっているのに対して、柔子は醍醐即位と共に斎宮に卜定されており、成人も斎宮任期中に伊勢で迎えたばかりか、その後も醍醐退位までの30年あまりを伊勢で過ごしていた(柔子の場合は母胤子が卜定前に死去しており、逆に父宇多上皇は醍醐よりも長生きであったのも、退下の機会がなかった一因である)。斎宮は格式こそ高いとはいえ、清和天皇以降の斎王制度は賀茂斎院に比して伊勢斎宮は生母の身分が低い例が続いており、桓武以降醍醐以前に「后腹」で斎宮となった皇女は、淳和朝の「贈皇后」所生の氏子内親王のみであった(逆に斎院は清和朝の儀子内親王、陽成朝の敦子内親王が二代続いて皇太后所生であり、宇多朝も斎宮が仁明皇孫(宇多の従姉妹)の元子女王に対して斎院は女御橘義子所生の君子内親王である)。こうした前例と比較すると、いかに贈皇太后所生で天皇同母の内親王とはいえ、柔子が醍醐即位当時に均子よりも重んじられた結果斎宮に卜定されたとは考えにくい。そして均子が21歳で無品であったことから見ても、柔子の場合も成人と同時の三品直叙はなかったと思われる。
※『勧修寺文書』には天暦元年(947)5月18日に「六条斎宮<延喜同胞、諱柔子内親王是>被供養之、(中略)為贈皇太后被供養者」即ち柔子が贈皇太后(生母藤原胤子)のために供養を行ったとあり、胤子を贈皇太后、柔子を醍醐天皇同腹と明記している。天暦年間は醍醐の子村上天皇の時代であり、醍醐皇統の権威が確立されるにつれて同母弟の敦慶親王・敦固親王は二品へ、さらに最も長命を保った末弟の敦実親王は一品にまで進んでいた。柔子もやはり醍醐の同母、また30年以上に及ぶ歴代最長の斎宮在任という実績もあって成人後に叙品があり、最終的に三品に至ったのではないだろうか。
そして康子は朱雀天皇の同母姉ではあったが、当時康子と朱雀には同母弟成明親王(村上)がいた。よって康子は、当時皇后所生の三人きょうだいの最年長とはいえ「当代天皇の筆頭同母きょうだい」ではなく、従って儀子や新子の叙品と同じ条件とは言えない。
即ち、康子こそが名実共に「后腹(=天皇同母)内親王の着裳」を根拠とした三品直叙の初例であり、だとすれば康子よりも早くに行われた韶子の着裳(?)の頃にはいまだ「后腹内親王着裳による三品直叙」の前例自体が存在しなかったことになる。従って韶子に、当時はまだなかったはずの前例に反して「雖不后腹」という但し書きがつくのは、当然辻褄が合わない。
岡村幸子氏の研究では、「后腹」という概念は10世紀初頭の中宮(皇后)の復活とともに表れたとされている(注30)。また第1節でも触れたように、村上天皇の時代には既に「后腹」という概念が定着していたと見られることからも、醍醐天皇の頃がひとつの分岐点であった可能性は高いのではないか。こうした点からも、康子内親王の時に「后腹内親王」という認識が確定し、「后腹内親王の着裳=三品直叙」という慣例が定まったのではないかと思われる。
なお康子の次に后腹内親王が成人儀礼を行ったのは、康保2年(965)8月27日の村上天皇皇女輔子内親王の「始笄」だが(同母姉承子内親王は母安子の立后前に死去)、この時は『日本紀略』の記事には叙品についての記載はない(注31)。ただし同日に1歳上の同母兄為平親王が元服・三品となっており、また安和元年(968)12月28日には同母妹の資子内親王が加笄、翌年1月5日に三品とされている(いずれも『紀略』)。
輔子自身も『日本紀略』992年3月3日条の薨伝で「前斎宮二品輔子内親王」とあるので、記録はないものの始笄と同じ頃に三品になっていた可能性は高いと思われる。
その後は冷泉天皇、円融天皇、花山天皇の三代に后腹内親王は存在せず、一条天皇の代に脩子内親王(母は皇后定子)が着裳に際して三品直叙となった(『紀略』寛弘2年3月27日条)。だが次の三条天皇の時、皇后藤原娍子所生の長女当子内親王(斎宮)は着裳をしていないので恐らく叙品もないまま死去、同母の次女禔子内親王は寛仁3年(1019)2月29日に17歳で着裳、同年3月4日三品となったが、中宮妍子所生の三女禎子内親王は治安3年(1023)4月1日に11歳で着裳、一品直叙という破格の待遇となった(『小右記』『紀略』)。さらに後一条天皇の代に至っては、中宮威子所生の長女章子内親王は長元3年(1030)11月20日に何と5歳の着袴で一品となるが(『紀略』)、後朱雀天皇と皇后禎子内親王の長女良子内親王は一品に至るも、斎宮となったこともあってか最初の叙品の年月日及び品位は不明であり、同母妹の娟子内親王(18代斎院)も同様である(異母妹で中宮藤原嫄子所生の祐子内親王は准三宮だが叙品を辞退して無品、同禖子内親王(19代斎院)は品位不明)。
そして後冷泉天皇、後三条天皇に后腹内親王はなく、白河天皇は中宮藤原賢子所生の内親王三人を准三宮とはしたが、叙品の記録はない。以後は女院という新たな内親王優遇制度の広がりと共に、内親王への叙品自体が次第に廃れていったと見られる。
【表3.平安時代の皇后・皇太后所生子一覧】(后位は追贈含む)
名前 | 父 | 母 |
元服/着裳 | 年齢 |
初叙 | 品位 |
皇太子 安殿親王 [平城] |
桓武天皇 | 皇后 藤原乙牟漏 |
788/1/15 | 15 |
-- | -- |
神野親王 [嵯峨] |
桓武天皇 | 皇后 藤原乙牟漏 |
799/2/7 | 14 |
803/1/7? | 三品 |
高志内親王 |
桓武天皇 | 皇后 藤原乙牟漏 |
801/11/9 | 13 |
804/1/5 | 三品 |
大伴親王 [淳和] |
桓武天皇 | ▲贈妃 藤原旅子 [823/5/贈皇太后] |
798/4/17 | 13 |
803/1/7 | 三品 |
皇太子 正良親王 [仁明] (833即位) |
嵯峨天皇 | 皇后 橘嘉智子 |
823/8/1 | 14 |
-- | -- |
秀良親王 |
△嵯峨天皇 | 皇后 橘嘉智子 |
832/2/11 | 14 |
832/2/11 | 三品 |
正子内親王 |
嵯峨天皇 | 皇后 橘嘉智子 |
不明 | 不明 |
不明 | 不明 |
秀子内親王 |
嵯峨天皇 | 皇后 橘嘉智子 |
不明 | 不明 |
-- | 無品 |
繁子内親王 |
嵯峨天皇 | 皇后 橘嘉智子 |
不明 | 不明 |
-- | 無品 |
芳子内親王 |
嵯峨天皇 | 皇后 橘嘉智子 |
不明 | 不明 |
不明 | 不明 |
恒世親王 |
淳和天皇 | ▲贈皇后 高志内親王 |
不明 | 不明 |
823 | 三品 |
氏子内親王 |
淳和天皇 | ▲贈皇后 高志内親王 |
不明 | 不明 |
-- | 無品 |
有子内親王 |
淳和天皇 | ▲贈皇后 高志内親王 |
不明 | 不明 |
-- | 無品 |
貞子内親王 |
淳和天皇 | ▲贈皇后 高志内親王 |
不明 | 不明 |
-- | 無品 |
皇太子 恒貞親王 |
淳和天皇 | 皇后 正子内親王 |
838/11/27 | 14 |
849/1/7 | 三品 |
基貞親王 |
淳和天皇 | 皇后 正子内親王 |
不明 | 不明 |
844/1/7 | 三品 |
恒統親王 (842/3/16没) |
淳和天皇 | 皇后 正子内親王 |
-- | -- |
-- | -- |
道康親王 [文徳] |
仁明天皇 | 女御 藤原順子 |
827 | 16 |
842/2/16 | -- |
宗康親王 (868/6/11没) |
仁明天皇 | 女御 藤原沢子 |
843/8/19 | 16 |
844/1/7 | 四品 |
時康親王 [光孝] |
仁明天皇 | 女御 藤原沢子 |
845/2/16 | 16 |
846/1/7 | 四品 |
人康親王 (872/5/5没) |
仁明天皇 | 女御 藤原沢子 |
845/2/16 | 15 |
848/1/7 | 四品 |
新子内親王 (884/2/26三品) |
仁明天皇 | 女御 藤原沢子 [884/2/22贈皇太后] |
不明 | 不明 |
不明 | 四品 |
清和天皇 |
▲文徳天皇 | 皇太后 藤原明子 [文徳女御] |
864/1/1 | 15 |
-- | -- |
儀子内親王 |
▲文徳天皇 | 皇太后 藤原明子 [文徳女御] |
869/2/9 | 不明 |
869/2/11 | ■三品 |
陽成天皇 |
▲清和天皇 | 皇太夫人 藤原高子 [清和女御, 882/1/7皇太后] |
882/1/2 | 14 |
-- | -- |
貞保親王 |
清和天皇 | 皇太夫人 藤原高子 [清和女御, 882/1/7皇太后] |
882/1/2 | 13 |
882/1/2 | ■三品 |
敦子内親王 |
清和天皇 | 皇太后 藤原高子 [清和女御] |
不明 | 不明 |
-- | 無品 |
是忠親王 |
光孝天皇 | 班子女王 [887/11/17皇太夫人] |
不明 | 不明 |
893/12/29 | 三品 |
是貞親王 |
光孝天皇 | 班子女王 [887/11/17皇太夫人] |
不明 | 不明 |
893/12/29 | 四品 |
(源?)定省 [宇多] |
光孝天皇 | 班子女王 [887/11/17皇太夫人] |
不明 | 不明 |
-- | -- |
忠子 |
光孝天皇 | 班子女王 [887/11/17皇太夫人] |
不明 | 不明 |
不明 | 不明 |
簡子 |
光孝天皇 | 班子女王 [887/11/17皇太夫人] |
不明 | 不明 |
-- | 無品 |
綏子 |
光孝天皇 | 班子女王 [887/11/17皇太夫人] |
不明 | 不明 |
不明 | 三品? |
為子 |
光孝天皇 | 班子女王 [887/11/17皇太夫人] |
不明 | 不明 |
897/7/25 (入内) | 三品 |
均子内親王 |
宇多天皇 | 女御 藤原温子 [皇太夫人] |
903/10/19 | 14 |
-- | 不明 |
皇太子 敦仁親王 [醍醐] |
宇多天皇 | ▲女御 藤原胤子 [897/7/19贈皇太后] |
897/7/3 | 13 |
-- | -- |
敦慶親王 |
宇多天皇 | ▲贈皇太后 藤原胤子 |
不明 | 不明 |
不明 | 不明 |
敦固親王 |
△宇多天皇 | ▲贈皇太后 藤原胤子 |
902/2/3 | 不明 |
902/2/3 | ●三品 |
敦実親王 |
△宇多天皇 | ▲贈皇太后 藤原胤子 |
907/11/22 | 15 |
907/11/22 | ●三品 |
柔子内親王 |
宇多天皇 | ▲贈皇太后 藤原胤子 |
不明 | 不明 |
不明 | 不明 |
皇太子 保明親王 (923/3/21没) |
醍醐天皇 | 女御 藤原穏子 [923/4/26皇后] |
916/10/22 | 14 |
-- | -- |
康子内親王 |
▲醍醐天皇 | 皇后 藤原穏子 |
933/8/27 | 14? |
933/8/27 | ●三品 |
朱雀天皇 |
▲醍醐天皇 | 皇后 藤原穏子 |
937/1/4 | 15 |
-- | -- |
成明親王 [村上] |
▲醍醐天皇 | 皇后 藤原穏子 |
940/2/15 | 15 |
940/2/15 | 三品 |
承子内親王 (951/7/25没) |
村上天皇 | 女御 藤原安子 [958/10/27中宮] |
-- | -- |
-- | -- |
皇太子 憲平親王[冷泉] |
村上天皇 | 中宮 藤原安子 |
963/2/28 | 14 |
-- | -- |
為平親王 |
村上天皇 | 中宮 藤原安子 |
965/8/27 | 14 |
965/8/27 | ●三品 |
輔子内親王 |
村上天皇 | 中宮 藤原安子 |
965/8/27 | 13 |
不明 | 不明 |
資子内親王 |
▲村上天皇 | ▲中宮 藤原安子 |
968/12/28 | 14 |
969/1/5 | ●三品 |
円融天皇 |
▲村上天皇 | ▲中宮 藤原安子 |
972/1/3 | 14 |
-- | -- |
選子内親王 |
▲村上天皇 | ▲中宮 藤原安子 |
974/11/11 | 11 |
974/11/13 | ●三品 |
皇太子 師貞親王 [花山] |
冷泉天皇 | 女御 藤原懐子 [985/12/17贈皇太后] |
982/2/19 | 15 |
-- | -- |
宗子内親王 |
冷泉天皇 | 女御 藤原懐子 [985/12/17贈皇太后] |
不明 | 不明 |
968/8/4 | 四品 |
尊子内親王 (985/5/7没) |
△冷泉天皇 | 女御 藤原懐子 [985/12/17贈皇太后] |
不明 | 不明 |
978/5/9 | 四品 |
光子内親王 (975/6/26没) |
冷泉天皇 | 女御 藤原超子 [1011/12/27贈皇太后] |
-- | -- |
-- | -- |
皇太子 居貞親王 [三条] |
△冷泉天皇 | ▲女御 藤原超子 [1011/12/27贈皇太后] |
986/7/16 | 11 |
-- | -- |
為尊親王 (1002/6/13没) |
冷泉天皇 | ▲女御 藤原超子 [1011/12/27贈皇太后] |
989/11/21 | 13 |
989/12/2 | 四品 |
敦道親王 (1007/10/2没) |
冷泉天皇 | ▲女御 藤原超子 [1011/12/27贈皇太后] |
993/2/22 | 13 |
993/2/23 | 四品 |
脩子内親王 |
一条天皇 | ▲皇后 藤原定子 |
1005/3/27 | 10 |
1005/3/27 | ●三品 |
敦明王 |
皇太子 居貞親王 [三条] | 皇太子妃 藤原娍子 [1012/4/27皇后] |
1006/11/5 | 13 |
1011/10/5 (親王宣下) | 三品 |
敦康親王 |
一条天皇 | ▲皇后 藤原定子 |
1010/7/17 | 12 |
1010/7/17 | ●三品 |
媄子内親王 |
一条天皇 | ▲皇后 藤原定子 |
-- | -- |
-- | -- |
敦儀親王 |
三条天皇 | 皇后 藤原娍子 |
1013/3/23 | 17 |
1013/3/23 | ●三品 |
敦平親王 |
三条天皇 | 皇后 藤原娍子 |
1013/3/23 | 15 |
1013/3/23 | ●三品 |
当子内親王 |
三条天皇 | 皇后 藤原娍子 |
-- | -- |
-- | -- |
禔子内親王 |
三条天皇 | 皇后 藤原娍子 |
1019/2/29 | 17 |
1019/3/4 | ●三品 |
師明親王 |
三条天皇 | 皇后 藤原娍子 |
-- | -- |
1083/2/20 | 二品 |
後一条天皇 |
一条天皇 | 皇太后 藤原彰子 [一条中宮] |
1018/1/3 | 11 |
-- | -- |
皇太子 敦良親王 [後朱雀] |
一条天皇 | 皇太后 藤原彰子 [一条中宮] |
1019/8/28 | 11 |
-- | -- |
禎子内親王 [陽明門院] |
三条天皇 | 皇太后 藤原妍子 [三条中宮] |
1023/4/1 | 11 |
1023/4/1 | 一品 |
親仁親王 [後冷泉] |
後朱雀天皇 | ▲皇太子妃 藤原嬉子 [1045/8/11贈皇太后] |
1037/7/2 | 13 |
1037/7/2 | 三品 |
章子内親王 [二条院] |
後一条天皇 | 中宮 藤原威子 |
1037/12/13 | 12 |
1030/11/20 (着袴/5歳) | 一品 |
良子内親王 |
後朱雀天皇 | 皇后 禎子内親王 |
1042/6/24 | 13 |
1036/11/27? | 二品? |
娟子内親王 |
後朱雀天皇 | 皇后 禎子内親王 |
不明 | 不明 |
不明 | 不明 |
馨子内親王 |
後一条天皇 | 中宮 藤原威子 |
不明 | 不明 |
1031/10/29 (着袴/3歳) | 二品 |
皇太子 尊仁親王 [後三条] |
後朱雀天皇 | 皇后 禎子内親王 |
1046/12/19 | 14 |
-- | -- |
祐子内親王 |
後朱雀天皇 | ▲中宮 藤原嫄子 |
不明 | 不明 |
-- | 無品 |
禖子内親王 |
後朱雀天皇 | ▲中宮 藤原嫄子 |
不明 | 不明 |
不明 | 不明 |
聡子内親王 |
後三条天皇 | 皇太子妃 藤原茂子 [1073/5/6贈皇太后] |
不明 | 不明 |
1069/6/19? | 一品? |
貞仁王 [白河] |
皇太子 尊仁親王 [後三条] | 皇太子妃 藤原茂子 [1073/5/6贈皇太后] |
1065/12/9 | 13 |
-- | -- |
俊子内親王 |
後三条天皇 | 皇太子妃 藤原茂子 [1073/5/6贈皇太后] |
不明 | 不明 |
不明 | 二品? |
佳子内親王 |
後三条天皇 | 皇太子妃 藤原茂子 [1073/5/6贈皇太后] |
不明 | 不明 |
1069/6/19? | 三品? |
篤子内親王 |
後三条天皇 | 皇太子妃 藤原茂子 [1073/5/6贈皇太后] |
不明 | 不明 |
1069/6/19? | 三品? |
敦文親王 (1077/9/3没) |
白河天皇 | 中宮 藤原賢子 |
-- | -- |
-- | -- |
媞子内親王 [郁芳門院] |
白河天皇 | 中宮 藤原賢子 |
不明 | 不明 |
不明 | 不明 |
令子内親王 |
白河天皇 | 中宮 藤原賢子 |
不明 | 不明 |
不明 | 不明 |
堀河天皇 |
白河天皇 | ▲中宮 藤原賢子 |
1089/1/5 | 11 |
-- | -- |
禛子内親王 |
白河天皇 | 中宮 藤原賢子 |
不明 | 不明 |
不明 | 不明 |
鳥羽天皇 |
堀河天皇 | ▲贈皇太后 藤原苡子 |
1113/1/1 | 11 |
-- | -- |
崇徳天皇 |
鳥羽天皇 | 中宮 藤原璋子 |
1129/1/1 | 11 |
-- | -- |
禧子内親王 |
鳥羽天皇 | 中宮 藤原璋子 |
不明 | 不明 |
1128/4/13 (7歳) | 一品 |
通仁親王 |
鳥羽天皇 | 中宮 藤原璋子 |
-- | -- |
-- | 無品 |
君仁親王 |
鳥羽天皇 | 中宮 藤原璋子 |
-- | -- |
-- | 不明 |
統子内親王 [上西門院] |
鳥羽天皇 | 中宮 藤原璋子 |
不明 | 不明 |
不明 | 不明 |
雅仁親王 [後白河] |
△鳥羽天皇 | 中宮 藤原璋子 |
1139/12/27 | 13 |
1139/12/27 | ●三品 |
叡子内親王 (1148/12/8没) |
△鳥羽天皇 | 藤原得子 [1141/12/27皇后] |
-- | -- |
-- | 不明 |
暲子内親王 [八条院] |
△鳥羽天皇 | 藤原得子 [1141/12/27皇后] |
不明 | 不明 |
不明 | 不明 |
近衛天皇 |
△鳥羽天皇 | 皇后 藤原得子 |
1150/1/4 | 12 |
-- | -- |
姝子内親王 [高松院] |
△鳥羽天皇 | 皇后 藤原得子 |
1156/3/5 | 16 |
不明 | 不明 |
皇太子 守仁親王 [二条天皇] |
後白河天皇 | 藤原懿子 [1158/12/29贈皇太后] |
1155/12/9 | 13 |
-- | -- |
高倉天皇 | △後白河天皇 |
皇太后 平滋子 [建春門院] |
1171/1/3 | 12 |
-- | -- |
安徳天皇 |
高倉天皇 | 建礼門院 平徳子 [高倉中宮] |
-- | -- |
-- | -- |
※▲は元服・着裳当時故人。△は天皇譲位後。
母の位階は元服・着裳当時(成人年月日が不明で叙品年月日がわかる場合は叙品時)による。
後に立后または追贈の場合、また皇太后・女院の夫帝在位時の后位は[]内に付記。
また成人前に死亡の場合は、死亡時のものとした。
品位の■は天皇同母筆頭親王、●は后腹親王成人三品直叙(またはその可能性が高い例)。
(三条皇子敦明親王は、父天皇即位前に元服のため、親王宣下と同時の三品直叙か)
- 女御源和子とその子女
ここで韶子内親王の母・源和子について、本人及び所生の子女の動向を穏子所生の子女と比較しつつ再確認してみる。
和子は既に述べたように光孝皇女で、宇多天皇や為子内親王の異母妹である。生年及び生母は不明だが、第1子の慶子内親王が延喜3年(903)生まれ、末子の斉子内親王が延喜21年(921)生まれなので、斉子出産の頃40歳以下と想定すれば、880年以降の生まれであることはほぼ間違いないであろう。また佐藤早樹子氏が指摘するように、和子は仁和元年(885)4月14日、光孝天皇の皇女で唯一人源姓を賜り臣籍降下している。このことから和子は光孝即位後に誕生した皇女であり、よって和子の生年は884~885年頃と推測される(注32)。
宇多は始め同母姉妹の為子を息子醍醐天皇の妃とし、藤原氏を外戚としない皇子の誕生を期待したと言われるが、為子は不幸にも勧子内親王出産の際に早世してしまった。その後藤原基経の娘穏子の入内を許すことになったものの、島田とよ子氏は宇多が異母妹の和子に再度皇子誕生の期待をかけ、為子の没後に入内させたのではないかとしている(注33)。
和子の入内は少なくとも第一子慶子内親王誕生の延喜3年(903)以前なのは確かであり、その後19年間で三男三女に恵まれた。醍醐後宮で最も多くの子女をもうけたのは更衣源周子(三男四女)で、和子はそれに次いで多い。一方で、当時同じく女御であった穏子(延喜23年(923)立后)は、慶子内親王誕生と同年の延喜3年に第二皇子保明親王(※初名は崇象。延喜11年(911)に改名)を出産、保明は翌年立太子したが、その後は康子内親王誕生(延喜20年(920)頃か)まで第二子出産はなかったようである。
なお源周子所生の三男四女の内、皇子2人と皇女1人(高明、盛明、兼子)が源氏に臣籍降下したのに対し、和子所生の皇子3人は全員が四品または三品に叙され、皇女3人もすべて内親王宣下を受けている。周子は更衣ながら醍醐天皇の寵愛篤い妃であったが、やはり和子の子女は女御腹の親王として、父天皇の待遇も更衣所生の皇子女たちより格上であったらしい。
しかし延喜21年(921)2月25日の斎院卜定では、何故か更衣源周子・更衣藤原鮮子所生の内親王5人(勤子、都子、敏子、雅子、婉子)はいずれも選ばれず、前年末の韶子の内親王宣下を待っていたかのように卜定となった(※『貞信公記抄』延喜20年(920)6月27日条に「大輔更衣労中頓滅」とあり、これは更衣満子女王のことと思われるので、満子所生の修子・普子は母の服喪のため候補外であったと見られる)。この卜定は12代斎院宣子死去による退下から8ヶ月後のことであり、姉妹の服喪期間として宣子の死後3ヶ月の間新斎院を卜定できなかったとしても、斎院交替としては異例に間が長い。しかもこの時は(皇太子保明の同母妹康子はともかくとして)他に更衣所生の皇女が5人もいたにもかかわらず、何故敢えて女御所生でしかも年少の韶子が選ばれたのか、疑問の多い選定である。
なお韶子の同母姉慶子内親王はこの頃19歳で、既に叔父敦固親王室となっていた可能性が高い。また同母妹の斉子内親王は、韶子卜定と同年の921年生まれで、卜定以前に誕生していたとしても数え1歳では候補外と思われるので、和子所生の皇女3人の中で候補に該当したのは韶子のみであったと思われる(後に斉子は承平6年(936)16歳で斎宮に卜定されたが、この時他に未婚で服喪もなかったのは康子内親王(18歳?)と英子内親王(16歳、母は更衣藤原淑姫)の2人であった)。
そして韶子卜定から約9ヵ月後の同年11月9日、皇太子保明親王に第一王子慶頼王が誕生した。逆算すると、韶子の卜定が内定したと思われる同20年(920)12月17日の内親王宣下から翌年2月25日の卜定にかけての頃、慶頼王の母である皇太子妃藤原仁善子がいまだ懐妊していなかった(または懐妊が判明していなかった)のは確実である。
当時は保明が女御穏子所生の唯一の皇子であり、延喜4年(904)に2歳で早くも立太子して以降、醍醐の後継者としてゆるぎない地位を確立していた。しかし仮に即位後も保明に男子が生まれなかった場合、次の皇太子候補として最も有力なのは当然、穏子と同じく女御であった和子所生の第五皇子常明親王・第六皇子式明親王・第七皇子有明親王の3人であったと思われる。穏子と和子以外の女御たちに皇子女はなく、更衣所生の第一皇子克明親王・第三皇子代明親王・第四皇子重明親王は有力な外戚もなかったことから、和子の皇子たちより年上とはいえ即位の可能性はなかったであろう。
しかし皇太子保明に待望の男子慶頼王が誕生し、その半月後の同年11月24日、常明(16歳)・式明(15歳)・有明(12歳)の三皇子は異母兄重明(16歳)と共に元服した。保明の元服(14歳)に比べて、常明と式明はやや遅いものの有明は逆に保明よりも早い。これは三兄弟揃っての元服とするために年長の常明・式明が遅れたものかと思われるが、皇太子妃の出産を待って挙行されたような時期である点は注目される。皇太子の第一王子、それも外祖父は贈太政大臣藤原時平(延喜9年(909)没)であり、もう一人の皇太子妃藤原貴子(右大臣藤原忠平女)に王子が生まれる可能性はあったものの、この時点で皇統は保明とその子孫にほぼ確定したと思われただろう。
ところが2年後の延長元年(923)に保明が急死、さらに同3年(925)には保明の後を継いで皇太子となった慶頼王までも夭逝してしまった。保明には他に王子はなく、相次ぐ皇太子の死が菅原道真の怨霊の仕業と騒がれたのは有名だが、この時このまま穏子腹の皇子及びその子孫が絶えていれば、和子腹の皇子の即位が本当に実現していたかもしれない。
そもそも和子入内が先述のように宇多上皇の肝いりで行われたのだとしたら、当時いまだ立后前の女御穏子や、その兄の藤原仲平・忠平兄弟にとって、穏子以外で唯一子をもうけた女御、それも源氏とはいえ皇女で宇多の妹でもある和子が産んだ皇子たちは、最も警戒すべき存在であっただろう(注34)。そのためにも、皇太子保明の男子誕生が待ち望まれていたと思われる。
さらに穏子の娘である康子内親王が、延喜21年(921)に韶子と同時に内親王宣下されていたことを考えると、宣下直後の韶子の斎院卜定という形で康子と韶子、引いては穏子の子と和子の子への待遇の差を明確にしたのではないだろうか。そしてそのことにより、和子腹の皇子の即位がありえないことを示そうとした可能性も考えられる(だとすれば、韶子の着裳または着袴における三品直叙という殊遇もなおさらありえないと思われる)。
その後保明が若くして急死し、一時は和子の皇子に帝位が巡ってくるかに見えたが、保明の死からわずか一月後に穏子が立后、それに続き慶頼王が父の後を継いで皇太子となった。淳和天皇后正子内親王以後実に96年ぶりとなったこの穏子立后について、瀧浪貞子氏はその目的を「穏子が「先皇太子(保明)の母」である(あった)ことをテコに、いわば“(未来の)天皇”(保明)の母=皇太夫人とみなすことにより穏子を中宮に立てることではなかったか。そして中宮(穏子)の子は天皇(保明親王)で、その天皇の子(中宮にとって孫=慶頼王)は皇太子という理屈で慶頼王の立太子に筋道を与えたのである」としている(注35)。瀧浪氏が指摘するようにこれは「強引な牽強付会」であり「拡大解釈以外の何ものでもない」が、保明を天皇になるはずであった存在として、それ故その子慶頼王を立太子させる根拠にしようとしたものとすれば、その強引さも頷ける。
こうして穏子立后・慶頼王立太子を果たしたにもかかわらず、その後慶頼王もわずか5歳で夭折し、結局保明の男系子孫は断絶する。しかし慶頼王の立太子後に穏子は寛明親王(朱雀天皇)・成明親王(村上天皇)の二皇子を出産、最終的にこの二人が皇后所生の皇子として相次いで即位し、醍醐皇統を継承することとなった。
一方、女御和子はその足跡を殆ど史料の上に残すことなく、天暦元年(947)に正三位で薨去した。皇統の流れを汲む女御として入内し、三人の皇子を産んだ和子だったが、結局は皇后穏子の前に圧倒され、また宇多上皇の影響力の低下により、醍醐後宮でその存在を誇示することはなかったものと思われる。その娘たちも早世した慶子・斉子の二人は、薨伝以外の記録はごくわずかである。韶子内親王のみは斎院卜定から退下までの動向を知ることができるが、退下後の消息は天元3年(980)1月18日に薨去した他はまったく不明で、降嫁のことも『日本紀略』には見られない。異母妹の「后腹内親王」康子が師輔との結婚で村上天皇を困惑させたのとは対照的に、前斎院韶子はあくまでも女御腹の一内親王として、世間に注目されることもなくひっそりと生涯を全うしたのであろう。
【表4.醍醐皇子女一覧】
皇子 |
名前 |
生年 | 没年 |
宣下 | 元服 |
品位 | 母 |
克明 |
903 | 927/9/24 |
904/11/17 | 916/11/27 |
三品 | 更衣 源封子 |
保明 |
903/11/30 | 923/3/21 |
904/2/10 | 916/10/22 |
-- | ※女御 藤原穏子 |
代明 |
904 | 937/3/29 |
不明 | 919/2/26 |
四品中務卿 | 更衣 藤原鮮子 |
重明 |
906 | 954/9/14 |
908/5/7 | 921/11/24 |
三品式部卿 | 更衣 源昇女 |
常明 |
906 | 944/11/9 |
908/4/5 | 921/11/24 |
三品 | 女御 源和子 |
式明 |
907 | 967/1/30 |
911/11/28 | 921/11/24 |
三品中務卿 | 女御 源和子 |
有明 |
910 | 961/閏3/27 |
911/11/28 | 921/11/24 |
三品兵部卿 | 女御 源和子 |
時明 |
912 | 927/9/20 |
914/11/25 | 925/2/24 |
不明 | 更衣 源周子 |
長明 |
912 | 953/閏1/17 |
914/11/25 | 925/2/24 |
四品 | 更衣 藤原淑姫 |
寛明(朱雀) |
923/7/24 | 952/8/15 |
923/11/17 | 937/1/4 |
-- | 皇后 藤原穏子 |
章明 |
924 | 990/9/22 |
930/9/29 | 939/8/14 |
二品弾正尹 | 更衣 藤原桑子 |
成明(村上) |
926/6/2 | 967/5/25 |
926/11/28 | 940/2/15 |
三品大宰帥 | 皇后 藤原穏子 |
源高明 |
914 | 982/閏12/16 |
920/12/28 降下 | 929/2/16 |
-- | 更衣 源周子 |
(源)兼明 |
914 | 987/9/26 |
920/12/28 降下 | 929/2/16 |
一品中務卿 | 更衣 藤原淑姫 |
源自明 |
917 | 958/4/27 |
920/12/28 降下 | 不明 |
-- | 更衣 藤原淑姫 |
源允明 |
918 | 942/7/5 |
920/12/28 降下 | 934/12/27 |
-- | 源敏相女 |
源為明 |
不明 | 961/6/21 |
923降下 | 941/8/24 |
-- | 更衣 藤原伊衡女 |
(源)盛明 |
不明 | 986/5/8 |
923降下 | 942/11/23 |
四品上野太守 | 更衣 源周子 |
皇女 |
名前 |
生年 | 没年 |
宣下 | 裳着 |
品位 | 母 |
勧子 |
898-899頃 | 930以前? |
899/12/14 | 914/11/19 |
四品 | 妃 為子内親王 |
宣子 |
902 | 920/閏6/9 |
903/2/17 | 不明 |
不明 | 更衣 源封子 |
恭子 |
902 | 915/11/8 |
903/2/17 | 不明 |
不明 | 更衣 藤原鮮子 |
慶子 |
903 | 923/2/10 |
904/11/17 | 916/11/27 |
無品 | 女御 源和子 |
勤子 |
904 | 938/11/5 |
908/4/5 | 918? |
四品 | 更衣 源周子 |
都子 |
905 | 981/10/21 |
908/4/5 | 919/8/29? |
無品 | 更衣 源周子 |
婉子 |
904? | 969/9/11 |
908/4/5 | 919/8/29? |
三品 | 更衣 藤原鮮子 |
修子 |
不明 | 933/2/5 |
不明 | 不明 |
無品 | 更衣 満子女王 |
敏子 |
不明 | 不明 |
911/11/28 | 不明 |
無品 | 更衣 藤原鮮子 |
雅子 |
910 | 954/8/29 |
911/11/28 | 不明 |
不明 | 更衣 源周子 |
普子 |
910 | 947/7/11 |
911/11/28 | 925/2/24 |
無品 | 更衣 満子女王 |
(源)靖子 |
915 | 950/10/13 |
930/9/29 | 不明 |
不明 | 更衣 源封子 |
韶子 |
918 | 980/1/18 |
920/12/17 | 不明 |
三品? | 女御 源和子 |
康子 |
920? | 957/6/6 |
920/12/17 | 933/8/27 |
一品 | 皇后 藤原穏子 |
斉子 |
921 | 936/5/11 |
923/11/18 | 不明 |
不明 | 女御 源和子 |
英子 |
921 | 946/9/16 |
930/9/29 | 938/8/27 |
不明 | 更衣 藤原淑姫 |
源兼子 |
914 | 972/9 |
920/12/28 降下 | 不明 |
-- | 更衣 源周子 |
源厳子 |
915 | 930以前? |
-- | 不明 | -- |
更衣 満子女王 |
※保明誕生時、藤原穏子は立后前で女御であった。
- 『日本紀略』の着裳記事
これまで本稿では、『西宮記』の記事について検討してきた。しかしこの『西宮記』の記述は、『日本紀略』にある朱雀天皇皇女昌子内親王着裳の記事と非常によく似ている点が注目される。
「是日也、朱雀院第一皇女昌子内親王、於承香殿初笄、天皇神筆給三品位記、又侍臣奏絃管」(『紀略』応和元年(961)12月17日条)
服籐氏は『西宮記』の記述「宸筆叙品、<三品>雖不后腹、依先朝恩云々」について、韶子の母源和子が光孝天皇皇女であったためかとしている(注36)。また高田信敬氏の指摘によれば、「先朝」の語には故人のイメージが強いということである(注37)。よってこの「先朝」を醍醐天皇の祖父光孝天皇と見なし、その皇女源和子の所生である故をもって韶子を優遇したものと理解できなくはない。
しかし韶子の同母姉慶子内親王は敦固親王室となりながらも、生涯無品であった(『紀略』延長元年2月10日条)。また第2節でも触れたように、服籐氏は「雖不后腹」について「本来は后腹の内親王が三品に直叙されるものだったことが知られる」と指摘しているが(注38)、当時そうした前例が存在した可能性は低い。もっとも内親王の前例がないとはいえ、醍醐の同母弟2人については確かに三品直叙であったから、その例を引いて「雖不后腹」とした可能性もないとはいえないかもしれない。
しかし韶子は女御和子の所生とはいえ、年長の同母きょうだいが4人もいたのである(ただし姉の慶子は延喜23年に死去しており、延長2年当時存命のきょうだいは兄3人であった)。その中で韶子1人のみが3人の兄たちをも越えて、それも7歳という幼少の時点でこれほどの特別待遇を受けていたのだとしたら、それは韶子個人によほどの理由があっての叙品としか考えられず、単に「生母が(皇后でも贈皇太后でもない)光孝皇女である」というだけでは説明がつかないのではないか。
なお醍醐天皇の皇女の中でただ一人皇后穏子所生である康子内親王は、韶子と共に延喜20年(920)12月17日に同時に内親王宣下を受けており、その後承平3年(933)に15歳前後で裳着と同時に三品に直叙される(のち一品へ昇叙)など、唯一の后腹内親王かつ朱雀天皇の同母姉として、他の醍醐皇女に比べ格段に優遇されている。一方韶子の母和子は、光孝皇女とはいえ臣籍に下った源氏の女御にすぎず、韶子自身も更衣源周子所生の勤子内親王(四品)のように父醍醐が特に寵愛したという逸話などは見られない。しかも韶子の同母姉慶子内親王は叔父敦固親王室となったが、韶子は斎院退下後源清遠に降嫁している(『一代要記』『賀茂斎院記』)。父帝の没後、さらに相手の清遠が陽成天皇皇子とはいえ、后腹同様に重んじられる内親王を臣下に降嫁させるのが好ましくなかったであろうことは、後年の康子内親王と藤原師輔との結婚を巡る逸話(『大鏡』)からも伺える。
また韶子以外で斎院となった醍醐皇女三人のうち、11代恭子内親王(享年14)と12代宣子内親王(享年19)の品位は記録がなく、両名とも20歳未満の若さで死去したためもあってか、恐らく無品であったと思われる。14代婉子内親王は斎院卜定後に三品とされているが、卜定当時婉子は既に30近い年齢であり、斎院に卜定されたとはいえ、それだけで特別待遇となったわけでもないらしい(なお婉子はそれまでで最長(歴代でも2位)の36年間という任期を勤め上げ、それ故16代斎院選子内親王以前で最初に「大斎院」と称された人物なので、その功績を賞して叙品された可能性が考えられる)。こうした例と比較すると、わずか7歳で母も光孝源氏とはいえ一女御にすぎず、また醍醐天皇の数多い皇女の中でも年少の韶子一人だけに、後の昌子内親王にも匹敵するほどの(着袴だとすれば昌子以上の)特別待遇があったとは考えにくい。
仮に韶子が初斎院で着袴(着裳?)・叙品されたのが事実とすれば、単に「不后腹」というだけでなく、姉妹の中で唯一の后腹内親王であり、しかも同時に内親王宣下を受けた康子を差し置いての、極めて破格の厚遇であったことになる。第2節で触れたように、「后腹」という概念はちょうどこの頃(10世紀初頭)表れたとされているが(注39)、これは岡村氏の指摘にもあるように、淳和天皇以来約100年ぶりに皇后が立ったことも無関係ではないと思われる。仮に韶子が后腹内親王である康子をも凌ぐほどに、父醍醐天皇鍾愛の皇女であったとしても、それならばそもそも他に大勢年長の内親王がいる状況で、無理に敢えてわずか4歳の韶子を斎院にする必然性はなかったのではないか(なお参考までに述べれば、醍醐の寵愛篤かったと言われる源周子所生の皇女で斎王となったのは、父帝の没後に卜定された雅子内親王のみである)。言い換えるなら、斎院に卜定されたというその事実自体が、韶子の立場が当時既に「后腹内親王」となっていた康子に勝るようなものではなかったことの証明であると考えられる。
一方、村上天皇が兄朱雀天皇の遺児である昌子内親王を大切に庇護し、皇太子憲平親王(のちの冷泉天皇)の正妃に娶わせたことはよく知られている。『日本紀略』にはない「雖不后腹、依先朝恩云々」という記述もこうした背景と一致しており、既に安田政彦氏がこの点を指摘している(注40)。
さらに昌子は朱雀天皇の一人娘であるだけでなく、昌子の生母である女御煕子女王もまた醍醐天皇の皇太子保明親王の娘にして、皇太子慶頼王のただ一人の姉妹でもあった。山本一也氏が指摘するように、村上天皇の二人の同母兄の血を引く昌子は当時の皇統において、醍醐嫡流のもっとも正統な流れを受け継ぐ唯一の皇女であり、名目上は女御腹でも実質的には后腹同様の、あるいはそれ以上の重みを持つ別格の内親王として、決しておろそかにはできない存在であったと思われる(注41)。
また山本氏は元服・着裳を行った親王・内親王の記録から、宮中で成人儀礼を行うのは通常今上天皇の皇子女に限られており、「非今上天皇親王・非今上天皇内親王については、基本的に「私第」で元服・着裳を行っていると言えるだろう」と述べている(注42)。さらに着袴についても、通常は母方の殿舎で行われるはずとされるが、その前提として着袴を行うのは当然当代天皇の皇妃を母に持つ皇子女である。従って、着袴であれ元服・着裳であれ、当代天皇の皇子女以外の親王・内親王が宮中において通過儀礼を行うことは、原則としてありえなかったことになる。
しかし天暦6年(952)11月28日に、朱雀上皇皇女昌子内親王は、宮中弘徽殿で着袴を挙行している(『吏部王記』)。しかもこの時は叔父村上天皇が自ら腰結いをし(これは同年8月15日に朱雀上皇が崩御していたためでもあろう(注43))、祖母穏子中宮も禄を賜る等、先帝の皇女としては異例の手厚い待遇であったことが伺える。とりわけ穏子は、長男保明とその子慶頼王・熙子女王ばかりか、次男朱雀天皇までも若くして失った末に、ただ一人遺された孫娘昌子への鍾愛はひとしおであったろう。こうした特殊な立場にあった昌子内親王であればこそ、「不后腹」であっても着裳もまた宮中承香殿で執り行った上に三品直叙とされたのも当然であり、それを記録に残す理由も充分にあったと思われる。
なお当時の貴重な一次史料である『貞信公記抄』は、各親王の元服・着裳について比較的よく記録が残っている。延長2年部分も現存するが、8月23日に寛明親王の御魚味始があるのみで、韶子やそれ以外の皇女の着袴または着裳に関する記述は見られない。加えて『日本紀略』記載の内親王の薨伝は品位を記述したものがしばしばあるが、韶子の薨伝(天元3年(980)1月18日条)にはその品位についての記述はなく、『一代要記』を除き系図等にも記載はない。これらの点から見ても、安田氏の指摘の通り『西宮記』の記述は韶子ではなく、昌子の着裳記事を年月日を誤って記載した可能性が高いと思われる。
- 終わりに
『西宮記』の延長2年「昌子内親王」着裳記事は、これまで言われてきたような醍醐皇女韶子内親王の着裳または着袴ではなく、応和元年(961)に行われた朱雀皇女昌子内親王の着裳の年月日を誤って記述したものではないかと結論づけた。しかし、そもそも本来『西宮記』が記録しようとしていた延長2年の記事はどのような内容のものであったのかは不明だが、最後にひとつ推測を述べておきたい。
『貞信公記抄』延長3年(925)2月24日条に「従内有召、依八九親王(時明、長明)又公主等(普子内親王か)加元服事也」が見られる。昌子内親王の着裳記事「延長2年3月25日」と比べると、「延長2年3月」と「延長3年2月」は年と月が逆であるがよく似ており、日付も「25日」「24日」で一日違いである。
この記述から推測して、恐らく「延長3年2月24日」に親王・内親王の元服・着裳が行われたという記録が当時の『貞信公記』または他の史料にあり、『西宮記』の著者または写本の筆者はそれを記載しようとして、誤って次に記述するつもりだった昌子内親王着裳の記事を写したのではないか。「韶子」を「昌子」と書き間違える可能性は字体から言っても考えにくいが、「延長三年二月」が「延長二年三月」に写し間違えられた可能性は考えられる。
※『神道大系 朝儀祭祀編二 西宮記』(神道大系編纂会, 1993)では、「親王元服」に「延長二年二月廿五日、昌子親王於承香殿西廂着裳(後略)」の頭注があるとする。また『皇室制度史料 儀制 成年式三』では、前田家巻子本の「延長二、二、二十五」を引いた上で「西宮記壬生本の同項では同年三月二十五日のものとされているが、二月と三月のいずれを是とすべきかは未詳である」としている。
また、延長2年記事の次に記載されている天慶3年4月19日の記事は、成明親王(村上天皇)と藤原安子の婚姻に関する内容であり、成明の元服(同年2月15日)の2ヶ月後ではあるが、「内親王着裳」と直接の関係はない。さらにその後の記事も、延長3年(925)8月29日の寛明親王の着袴、康保3年8月27日の具平親王の着袴、天暦4年10月4日の承子内親王の着袴と、着裳ではなく着袴記事が続いている(「親王元服」の項にはこうした記述はない)。この点からも、この前後の記載に写し間違いまたは欠落があった可能性は高いと思われる。
※参考・引用の各史料は、以下によった。
- 『西宮記』『北山抄』~「神道大系」(神道大系編纂会, 1992-1993)
- 『日本三代実録』『類聚国史』『日本紀略』『百練抄』~「国史大系」(吉川弘文館, 1999-2000)
- 『本朝皇胤紹運録』『賀茂斎院記』~「群書類従」(続群書類従完成会, 1959-1960)
- 『帝王系図』~「続群書類従」(続群書類従完成会, 1957-1972)
- 『一代要記』~「改定史籍集覧」(臨川書店, 1983)
- 『醍醐天皇実録』~「天皇皇族実録」(ゆまに書房, 2007)
- 『大日本史料』『貞信公記抄』『九暦』『小右記』『左経記』『中右記』『中右記目録』~東京大学史料編纂所データベース(http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html)
- 『吏部王記』~「史料纂集/古記録編」(続群書類従完成会, 1974)
- 『玉葉』~「図書寮叢刊」(宮内庁書陵部, 1994-)
- 『山槐記』~「増補史料大成」(臨川書店, 1965)
- 『栄花物語』『更級日記』『大鏡』『今昔物語集』~「新編日本古典文学全集」(小学館, 1994-1998)
なお本文中の割注は、山括弧で括って示した。
【管理人関連ブログ】
【参考リンク】
【注】
- ▲中村義雄氏は「だいたい十二歳から十四歳頃が普通だった」(『王朝の風俗と文学』p140, 塙書房, 1962)とする。また服籐早苗氏は9世紀から11世紀にかけての成女式の記録一覧に基づき、平均年齢は十三.八歳として、中村氏の説を「おおよそ首肯し得よう」としつつもこれが「必ずしも一定していない」ことに加え、十世紀以後では「着裳の年齢が次第に若年化する傾向がある」(「平安王朝社会の成女式」『平安王朝の子どもたち:王権と家、童』吉川弘文館, p262-301, 2004)と指摘している。
なお中村氏は同著p144(「第二章・成年期/二・元服」)において、延長2年着裳記事の「昌子内親王」に(朱雀皇女)と付記しているが、年紀の矛盾については触れていない。
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の着袴」p259(注6)(『平安王朝の子どもたち:王権と家、童』p225-261, 吉川弘文館, 2004)。
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の着袴」p237(前掲),
同「平安王朝社会の成女式」p286(『平安王朝の子どもたち:王権と家、童』p262-301, 吉川弘文館, 2004)。
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の着袴」p233(前掲),
「平安王朝社会の成女式」p276(前掲)
なお山本一也氏は「通過儀礼から見た親王・内親王の居住」(p307-318)において、服藤氏の挙げた着袴の例が「すべて皇后ないしは女御の所生子によるもの」であることを指摘、更衣所生子の着袴は母の里邸で行われたものと推察している(『平安京の住まい』p299-334, 京都大学学術出版会, 2007)。
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の成女式」p276(前掲),
山本一也「日本古代の叙品と成人儀礼」p35(『敦賀論叢』(18), p23-54, 2003),
栗本賀世子「宇津保・源氏の承香殿」p108,129(『平安朝物語の後宮空間―宇津保物語から源氏物語へ』p105-136, 武蔵野書院, 2014)
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の着袴」p259[注6](前掲)。
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の成女式」p(前掲)
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の着袴」p230(前掲)
- ▲秋澤亙「袴着―「蛭の子が齢」の比喩をめぐって」p56(『源氏物語と儀礼』p47-63, 武蔵野書院, 2012)
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の着袴」p231(前掲),
同『平安朝の父と子』(中央公論新社[中公新書], 2010)
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の着袴」p228-229(前掲)
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の着袴」p225(前掲)
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の着袴」p227(前掲)
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の着袴」p254(前掲)
- ▲中村義雄(『王朝の風俗と文学』p111, 塙書房, 1962)
無論『今昔』は後世の作品であるため鵜呑みにはできないが、『拾遺和歌集』にはこの逸話に登場する和歌の詞書に「斎院の屏風、山道行く人あるところ」とある。「延喜ノ天皇御子ノ…」の「御子」が斎院だとすれば、韶子を含む醍醐皇女の斎院4人のいずれかということになり、『今昔』では着袴が天皇の主催で(=宮中で)行われるかのような描写であることと考え合わせると、4人の中で唯一女御所生である韶子の可能性が高い。
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の成女式」p283(前掲)
- ▲並木和子「平安時代の妻后について」(『史潮』(37), p31-44, 1995),
岡村幸子「皇后制の変質:皇嗣決定と関連して」(『古代文化』48(9), p519-532, 1996),
山本一也「日本古代の皇后とキサキの序列:皇位継承に関連して」(『日本史研究』(470), p24-57, 2001),
浅尾広良「后腹内親王藤壼の入内:皇統の血の高貴性と「妃の宮」」(『大阪大谷国文』(37), p75-92, 2007/※Cinii提供、PDF版全文あり)
- ▲山本一也「日本古代の叙品と成人儀礼」p26(前掲)
- ▲山本一也「日本古代の叙品と成人儀礼」p34-35(前掲)
- ▲彦由三枝子「九世紀の賀茂斎院と皇位継承問題(II)」p14(『政治経済史学』(131), p11-19, 1977)
- ▲今江広道「律令時代における親王・内親王の叙品について」p10-11(『書陵部紀要』(33), p1-19, 1981),
山本一也「日本古代の叙品と成人儀礼」p27(前掲)
- ▲竹島寛氏は『王朝時代皇室史の研究』(右文書院, 1936)中「皇族制度史概要 前編 明治維新以前の御制度(三)皇親と叙品叙位」において、「嵯峨天皇の皇子秀良親王、御年十六歳で天長九年三品直叙<四品越階>ありしより直叙の例が始まり(中略)皇后御所生の親王及び皇長子たる第一親王は、直ちに三品に初叙せらるることとなったのである」としている(※本稿では「后腹」のみを扱うため「第一親王」については触れないが、「后腹筆頭(第一)親王」を考える上で注目すべき点と思われる)。
また今江広道氏は、秀良以前でも神野親王(嵯峨天皇)が「后腹」故の叙品である可能性を指摘している(ただし神野の場合は元服と同時ではない)。さらに貞保親王・是忠親王・敦固親王・敦実親王の三品直叙例に触れ、女御腹で天皇の同母弟であることを指摘しているが、是忠の同母弟是貞親王が四品初叙であった点については、皇族復帰前の位階に対応したものかと推察するに留め、醍醐天皇のきょうだい以外の贈皇太后所生の皇子女には触れていない。
ところで神野親王と同時に叙品された大伴親王(淳和天皇)は皇后所生ではなく、今江氏は大伴の生母藤原旅子が桓武即位に功績のあった百川の娘である故かと推測している。また岡村幸子氏、山本一也氏は旅子がこの頃「妃」を追贈されており(のち淳和即位で皇太后追贈)、大伴の殊遇は当時前例のない「妃所生親王」であったためかと推測しており、他の追贈例と考え合わせても妥当な見解かと思われる。
※今江広道「律令時代における親王・内親王の叙品について」p10-11(前掲),
岡村幸子「皇后制の変質:皇嗣決定と関連して」p523(前掲),
山本一也「日本古代の叙品と成人儀礼」p25(前掲)
- ▲河内祥輔「宇多「院政」論」p259(『古代政治史における天皇制の論理(増訂版)』, 吉川弘文館, p255-298, 2015/1986初出)
- ▲浅尾広良「后腹内親王藤壼の入内:皇統の血の高貴性と「妃の宮」」p78-79(前掲)
- ▲今江広道「律令時代における親王・内親王の叙品について」p13-14(前掲)
- ▲橋本義彦「中宮の意義と沿革」p139(『平安貴族社会の研究』吉川弘文館, p117-150, 1976/初出1970),
山本一也「藤原高子」p355(『古代の人物(4)平安の新京』清文堂出版, p347-367, 2015)
文徳天皇は母藤原順子(仁明女御)を皇太后とするにあたり、詔で「即位時には太皇太后も皇太后も塞がっていたので皇太夫人としたが、太皇太后橘嘉智子が亡くなって数年を経た今、皇太后正子内親王を太皇太后として、生母順子を皇太后とする」と述べている(服藤早苗『平安王朝社会のジェンダー』p211, 校倉書房, 2005/2003初出)。即ち、文徳朝の頃既に「后位の定員が塞がっていて、新たな后を作ることができない」状況が生じていたわけで、山本氏は皇統の交替や両統迭立の時代にはこうした事態が起きやすいことを指摘する。
ただし貞観6年(864)~同13年(871)の間は、淳和皇后昌子内親王と仁明女御藤原順子の2名が太皇太后として並立したとされる。これについて山本氏は、太皇太后職が付属していたのが確認できるのは順子のみであり、正子は名前だけの太皇太后であったかと推察する。いずれにせよ、本来の「后」は皇后・皇太后・太皇太后の三后のみであり、実情に合うかどうかにはかかわりなく、既に后位が塞がっていれば新たな后を増やすことは不可能だったと見てよいと思われる。
なお作家の杉本苑子氏は、小説『山河寂寥』(岩波書店, 1999)において「宇多天皇が譲位に当たり、女御藤原温子に皇太后位を渡すために、高子から皇太后位を奪った」としている。史実では高子の廃后後に皇太后となったのは皇太夫人(小説では別名の「中宮」とする)班子女王であり、温子は「中宮」と呼ばれたものの皇太后に冊立されたという事実はないが、高子廃后の目的が后位を空けるためであったとしたのは卓見であろう。
- ▲岡村幸子「皇后制の変質:皇嗣決定と関連して」p532[注52](前掲)
- ▲今江広道「律令時代における親王・内親王の叙品について」p18(前掲),
山本一也「日本古代の叙品と成人儀礼」p28(前掲)
- ▲安田政彦「親王・内親王」p429(『王朝文学と官職・位階(平安文学と隣接諸学4)』竹林舎, p411-430, 2008)
『西宮記』「正月中女叙位」には天[延?]長6年(928)1月10日「使蔵人所源国興、遣斎内親王位記」とあり、延長年間であれば斎内親王は斎宮柔子である(斎院は11歳の韶子内親王で、年齢からみて叙品の可能性は低い)。この年柔子は伊勢群行から30年目という節目を迎えており、その功を賞して叙品された可能性もある。
なお天長年間は嵯峨天皇皇子の一世源氏が登場したばかりの頃であり、「国興」という二字名が存在した可能性は低い。また天慶6年(943)もしくは天暦6年(952)であれば、斎内親王は斎院婉子内親王(斎宮は悦子女王)であり、安田氏は婉子であれば三品は一致すると指摘する。
ところで安田氏は「源国興」の名は確認できないとするが、『九暦』には天慶7年(944)5月3日に「左馬允小野国興」(古記録フルテキストデータベース『九暦』p52)、『日本紀略』天徳2年4月26日条にも「右衛門少尉小野国興」の名がある。この「小野国興」が「使蔵人所源国興」と同一人物とすれば、天慶・天暦年間の斎院婉子である可能性が高いと言えるだろう。
- ▲岡村幸子「皇后制の変質:皇嗣決定と関連して」p529(前掲)
なお浅尾広良氏も「后腹内親王藤壼の入内:皇統の血の高貴性と「妃の宮」」(前掲)において、「〈后腹〉を聖別する価値観は、醍醐朝ごろから出来上がったものと考えられる」と述べている。
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の成女式」p283(前掲)
- ▲佐藤早樹子「陽成・光孝・宇多をめぐる皇位継承問題」p12(『日本歴史』(806), p1-18, 2015)
- ▲島田とよ子「班子女王の穏子入内停止をめぐって」p22-24(『園田学園女子大学論文集』(32), p15-26, 1997) ※Cinii提供、PDF版全文あり
なお島田氏は、同じ頃に入内したと見られる更衣源封子は父源旧鑒が光孝皇子で、また藤原鮮子も光孝皇女源礼子を母とする皇孫であり、和子入内と同様に宇多や皇太夫人班子女王の意向があった可能性を指摘している。しかし鮮子所生の第三皇子代明親王はともかく、封子所生の克明親王でさえ第一皇子でありながら穏子所生の第二皇子保明に立太子で呆気なく敗れており、山本一也氏が指摘するようにやはり更衣では所生の皇子の即位は不可能だったのであろう。
また鷲森弘幸氏は「仁明天皇の三人の女御と皇位継承」(『帝塚山大学人文学部紀要』(35), p15-24, 2014)において仁明の女御(藤原順子、藤原沢子、藤原貞子)たちの当時の背景を検証し、順子が始めから優位であったわけではないことを立証して山本氏の「女御所生の最年長子が皇嗣となる」とする見解に異を唱えている。しかし結果として女御所生で第一皇子の道康親王(文徳)が皇太子となり、次の文徳即位時に誕生していた4人の皇子の中で最年少(満8か月)の惟仁親王(清和)が立太子したことからも、女御所生子が皇太子候補と見なされていたことは確かと思われる。さらに清和の第一皇子は女御藤原高子所生の貞明親王(陽成)であり、生後二ヶ月で立太子された(第二皇子貞固親王の生年は不明だが、更衣橘休蔭女所生では、摂政藤原良房を後見とする高子所生の貞明とは勝負にならなかったであろう)。こうして文徳・清和・陽成と三代続けて「女御所生の最年長子」が皇位継承に至った実績が積み重ねられ、さらに文徳と陽成が第一皇子であったことも皇太子選定における有力な条件となり、皇統が光孝系へ移った後も醍醐天皇が女御所生の第一皇子から即位した実績が加わって、生母の身分にかかわりなく第一親王を重んじる気風が自然と生まれていたのではないだろうか。
ところで克明は立太子こそ叶わなかったものの、更衣所生子としては例外的に重んじられていたことが記録に散見される。そもそも克明が三品直叙されたのは、祖父宇多上皇の特別な配慮によるものであり(『醍醐天皇御記』)、その理由として第一親王であることが挙げられているが、克明の場合は母が更衣とはいえ光孝源氏二世という醍醐との血縁の近さも無視できない要素だったのではないか。為子内親王の入内や醍醐の同母弟たちへの叙品で、過剰なまでに「醍醐の周囲を身内で固め」ようとし、穏子入内にも否定的であった宇多ならば、その捨てきれない執念がこうした形で示されたであろうことも違和感はない。
- ▲島田とよ子「班子女王の穏子入内停止をめぐって」p24(前掲)
- ▲瀧浪貞子「女御・中宮・女院――後宮の再編成――」p25(『論集平安文学3・平安文学の視覚―女性―』p3-36, 勉誠社, 1995)
また山本一也氏も、「日本古代の皇后とキサキの序列:皇位継承に関連して」(p47,前掲)において「慶頼王を皇嗣と定めるための施策である」と述べ、慶頼王が「女御(源和子)所生子よりも上位、すなわち皇后所生の系統に位置づけられなければならなかったのである」としている。
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の成女式」p276(前掲)
- ▲栗本賀世子「宇津保・源氏の承香殿」p129(『平安朝物語の後宮空間―宇津保物語から源氏物語へ』p105-136, 武蔵野書院, 2014)
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の成女式」p283(前掲)
- ▲岡村幸子「皇后制の変質:皇嗣決定と関連して」p529(前掲)
- ▲安田政彦「親王・内親王」p423(前掲)
- ▲山本一也「日本古代の皇后とキサキの序列:皇位継承に関連して」p50-51(前掲)
- ▲山本一也「通過儀礼から見た親王・内親王の居住」p323(前掲)
- ▲服籐早苗「平安王朝社会の着袴」p233(前掲)
最終更新日:2016/05/15
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