もっとも、麻原は中国のすべてを嫌っていたわけではない。若い時代の麻原はヨーガにハマる以前、四柱推命などの東洋系の占いに凝っていた。
教団設立後も機関誌上に「尊師の四柱推命占い」の広告を出しているほか、同誌には中国故事成語の連載コーナーもあった。現代中国は嫌いだが伝統的な中国の神秘主義や武術・健康ノウハウはOK……という、ありがちなパターンだ。
ただ、そのなかで異彩を放つのが、麻原が過去生(転生前の人生)において明朝の建国者・朱元璋(洪武帝)の生まれ変わりだったと述べていた点だろう。麻原は1994年2月22日から数日間、「前世を探る旅」として訪中し、この洪武帝ゆかりの地を巡っている。
確認できる限り、オウム教祖としての麻原の中国訪問は1991年と、この1994年の2回だけだ。91年はチベット行きがメインなので、中国主要部への訪問はこれが実質的に最初で最後と思われる。
旅には村井秀夫・新実智光・井上嘉浩・早川紀代秀・遠藤誠一・中川智正・青山吉伸らの教団の最高クラスの幹部をはじめ、オウムの「科学班」メンバーが多くを占めた信者80人が同行した。なお、上記幹部のうち村井は1995年4月に死亡し、青山は逮捕・服役後に教団を離脱、他の5人は麻原と同日の今年7月6日に死刑となっている。
この中国訪問が、オウムの犯罪史上では非常に重要な意味を持つことになった。以下、2004年に東京地裁が麻原に下した死刑判決文を直接引用しておこう(太字は筆者)。
説法会の会場は上海のホテルだった。麻原はこの中国旅行の途中ではじめて、教団の最高幹部や「科学班」メンバーたちに向けて殺人教義「タントラ・ヴァジラヤーナ」の明確な実践内容を説き、日本国家を武力で打倒してオウム国家を建設する構想を明らかにしたのだ。
さらに麻原は帰国直後の1994年2月27日ごろ、先の中国旅行に同行した信者に対して、ホテルオークラで以下のように述べた。
「このままでは真理の根が途絶えてしまう。サリンを東京に70トンぶちまくしかない」
前年、オウムはすでにサリン生成に成功しており、創価学会名誉会長の池田大作氏らの暗殺を計画していた(結局、未遂に)が、不特定多数の一般人を狙う無差別テロの方向性はまだ示されていなかった。
だが、上海説法会で「救済」のためには手段を選ばないという方針が示され、さらに帰国直後に中国旅行メンバーにサリンを「ぶちまく」行為が明確に指示されたことで、その4ヵ月後の松本サリン事件や、翌1995年3月の地下鉄サリン事件が発生していくことになった。
麻原と現代中国の縁はもともと深くなかったが、最初で最後の中国旅行を通じて、オウム最大の犯罪の原型が固まってしまったことは特筆に値する。