オウムはインドのヨーガとチベット仏教(密教)をベースに、ノストラダムスの大予言のようなオカルト陰謀論系の用語や世界観を混じえ、さらにキリスト教など他の宗教のモチーフを部分的に用いたミックス宗教だった。ただし、彼らの自己認識は「仏教」であり、チベット仏教の系譜に位置付けられていた。
ゆえに往年、ダライ・ラマ14世を首班にいただくチベット亡命政府とオウムの関係は浅からぬものがあった。オウムは1989年に東京都から宗教法人認証を受ける際、チベット宗教・文化庁次官名の推薦状と、ダライ・ラマ法王や他の高僧の推薦状を入手していたことが明らかになっている。
麻原は1987年2月から1992年7月までダラムサラ(インドにあるチベット亡命政府の所在地)を5回訪問し、総額およそ165万ドル(現在のレートで約1億8600万円)を寄付したとされる。
一連のオウム事件の発覚後、チベット亡命政府はオウムとの深い関係を否定したが、チベット側が寄付金と引き換えに、教団の正体をよく知らないまま広告塔に用いられることを事実上容認していたのは確かなようだ。
いっぽう、チベット亡命政府側関係者の証言からも、麻原はチベットの現状について一般の日本人よりも詳しい知識を持っていた模様だ。ゆえに、オウムはチベット・中国関係について以下のような認識を持っていた。
”(注.1950年代の国際情勢について)それだけではなくて戦争についても、例えば中国がチベットを追い落とす。つまり宗教国家チベットが中国に負けるとか。”(『日出づる国』58ページ)
”一九九一年夏、麻原尊師とその一行はチベットを訪れた。チベット――正確に言えば中華人民共和国チベット自治区。一九五一年に人民解放軍の進攻に遭って以来、占領状態が続いている。(中略)指導者を失った占領下のチベット人民の哀しみは、いかほどのものだろう。”(『ヴァジラヤーナ・サッチャ』vol.5「麻原彰晃 密儀的世界との対話 その2チベット【前編】」、1994年12月)
チベットを中国と対等な「国家」と書き、中国の統治を「占領」ととらえるなど、チベット側に寄り添う歴史認識だ。そもそも、チベットの悲惨な現代史はちょっと調べただけでも中国の体制が大嫌いになる代物なので、チベット好きの麻原は基本的に、中華人民共和国に批判的な傾向を持っていたと見ていい。
往年、オウムはロシアやブータン・スリランカなどの各国と国家レベルで接触を持ったが、中国側要人との接触は公式には確認できない。
日本の新宗教では、例えば創価学会は中国の上層部とかなり密接な関係を持つことに成功しているが、オウムは中国に対して、少なくとも政治面ではかなり「冷淡」だったようである。