恋愛中のカップルが結婚する確率は、あることに強く依存するという研究報告があります。それは金や立場や情熱などではなく、距離なのです。統計では距離が遠いほど、別れる確率が確実に高くなります。
ネットが発達し、東京に居てもいつでもニューヨークの恋人と顔を見ながら話せる時代ですが、この原理は変わっていないようです。
習慣、文化、宗教、行動パターンなど、どれを見ても人間は距離によってグループ分けしています。理由は単に近いところの人間同士は影響しあい、段々染まりあい、最終的に親近感を抱くからです。
このことは遠いところにいる人と接触しないと分かりません。いつまでも親戚や隣人や同僚としか付き合わない日本人はアフリカや南米で出会った韓国人や中国人への親しみは湧かないでしょう。
世界になぜこんなにも多くの国と言語があるのでしょうか。キリスト教では人間への罰としてお互いが言語を分からないようにしたとか。しかし本当の理由は距離です。近くの人と親近感を持ち、共通の生活習慣と文化を作っているうちに自然と独自の言葉ができてしまうのです。
日本の学校でも近年「多様性が重要」という認識が広がり、先生たちはしきりに「多様性」を強調しますが、その先生たち自身に多様性がない上、生徒たちにも多様性がありません。結局言葉遊びに終始し、誤解を増やすだけなのです。
米国でもダイバーシティやインクルージョンを強調し始めたのはつい最近のことです。60代以上の米国人は有色人種と白人が同じバスに乗れない生活を経験したはずです。様々な移民を共存させ、国家として成り立たせるために人種間の違いを乗り越えるための理論武装としてダイバーシティを強調し始めたのです。いわゆる移民国家のイデオロギーなのです。
一方、アジア、特に東アジアの国々では、大昔から似た民族同士が同じ場所で居住しています。多様性がないとは言いませんが、その相違の程度は米国のような海を越えた移民同士間の相違とまるで違うのです。原住民国家は階級間の差別が問題になることが多いのです。
留学生が多い米国の寄宿学校の食堂に行けば、人種が人の行動にどのように影響を与えるかが分かります。同じ人種の生徒が集まってランチを取る風景はむしろ自然なのです。娘の学校ではこの自然現象を阻止するためにランダムに座席の位置を作り、強制的に生徒たちを座らせるのです。
似たものに親近感と安心感を覚えるのは動物の本能です。赤ちゃんが最初に見る顔はお母さんの顔です。それからお父さんの顔です。これと似たような顔をする人たちに安心感を覚えるのは当然です。生まれた時からこの感覚が脳に仕込まれている可能性もあります。
人間は似たもの同士が集まり、生活と仕事をし、時間を楽しむ傾向は生物の生存本能です。これによって連帯感を持ち、他の人種と競争したり、争ったりするのです。異なる人種の身体や行動や文化に違和感を覚えるのも仕方がないことです。その行き過ぎは偏見と差別になってしまうのですが、これも仕方がないと言いたいところですが、放置すると自分自身の平和が壊れるので克服する知恵が必要になってくるわけです。
ダイバーシティ。多様性を受け入れ、人種差別をなくすというこの理念は、近代の急速な植民地の広がりと移民化によってもたらされた問題を克服するためのイデオロギーなのです。偏見と差別は距離によって生じる普通のことだと分かれば、もう少し余裕をもってこの問題に対処することができると思います。差別した時も差別を受けた時も、です。
自分と違う、自分の知識に合わない、人(モノ)を
知ろうとしない、受け入れようとしないのは
自分を高める努力を否定している事にも気が付かない
昨今のネットの発達で色んな情報、知識を知ることが出来るけど
「心地よい情報」だけを見続けるので
結局は自分の狭い殻を固めてるだけの事
ちっちゃい人間はちっちゃい所が心地よいんでしょうね
鋭い指摘だと思います。
数年前にかなり支持されたこういう主張がありました↓
https://youtu.be/8mAPA3YKC_A
かなりとんでもない主張です。自分たちは特別だという結論ありきの主観的で幼稚な"寛容で素晴らしい日本論"です。
松山氏が主張するように「クリスマスや初詣」が共存する日本人のあり方が、果たして本当に世界に誇れるような「寛容」な宗教観なのでしょうか。クリスマスや初詣は宗教や信仰と関係ないからこそ、季節の行事として、各種産業が利益を追求するためのイベントとして、そして家族やカップルが楽しむ機会として、若い人たちにも受け入れられているのだと思います。日本人にとって受け入れてもよいもの、あるいは受け入れるメリットがあるものだから受け入れているのが事実ではないでしょうか。
松山氏は宗教の寛容を説いていますが、そこで言う「寛容」が「受け入れても構わないものを受け入れる」ことであれば、宗教的寛容さとは全く関係ないのであり、それが世界の宗教問題解決に対して何の役に立つのでしょうか?
カレーライスを例に挙げていますが、炒飯、餃子、ピザ、パスタ、キムチなどもおいしいから食べるのであり、外国の人たちが日本食を食べるのも同じことで、寛容とは関係ありません。
それならなぜ日本は難民の受入数が先進国の中で極端に少ないのでしょうか。自分に好ましいものや自分に都合のよいことを受け入れるのは誰でもしていることであり、何ら誇れることではないと思います。
寛容 Tolerance とその反語 Intolerance は、受け容れ難い対象との対峙を問う厳しさを内包している言葉であり、世界の歴史において、奴隷解放運動、植民地からの独立・建国運動、思想信条の自由獲得、公民権運動、人種差別・性差別撤廃、少数民族問題、難民問題など闘争と対立の中で使われてきました。松山氏はその意味を侮辱的に歪めています。
寛容の精神とは、受け入れ難いものに対して発揮できるものでなければ意味を持ちません。受け入れても構わないものを受け入れるだけであれば、日本に限らず世界中のどの国でも誰でも行なっています。そして、それによって宗教対立や戦争が世界から無くなっているわけではありません。 戦争や衝突に揺れる他国を他人ごとのように見ながら、「日本の寛容な宗教観に世界が期待している」などと上から目線で言うことは何の解決にもならないと思います。
今日のご意見も『いつまでも親戚や隣人や同僚としか付き合わない日本人は(中略)韓国人や中国人への親しみは湧かないでしょう』と、日本人の“島国根性”を揶揄されており、『一方、アジア、特に東アジアの国々では、大昔から似た民族同士が同じ場所で居住しています。多様性がないとは言いませんが、その相違の程度は米国のような海を越えた移民同士間の相違とまるで違うのです。原住民国家は階級間の差別が問題になることが多いのです』と断言されておられます。
日本人の“島国根性”はある程度は肯定せざるを得ない面もありますが、東アジアの超大国である習近平中国共産党政権のチベット民族やウィグル民族はじめ55の少数民族に対する差別・弾圧の実態からすれば、宋さんが仰られていることは虚実であることは明白です。
宋さんが仰る『ダイバーシティ。多様性を受け入れ、人種差別をなくすというこの理念は、近代の急速な植民地の広がりと移民化によってもたらされた問題を克服するためのイデオロギーなのです。偏見と差別は距離によって生じる普通のことだと分かれば、もう少し余裕をもってこの問題に対処することができると思います。差別した時も差別を受けた時も、です』を、是非とも習近平中国共産党政府に具申していただいきたいと思います。
なかなか分かり易い捉え方だと思います。しかし宗さんの出自とは関係ない話なのにそこに拘るのは多様性の欠如ですね
いつも楽しんで拝読しているのですが、他の方のコメントにもあったように、何故か辛辣なご意見が多くなられたような気がしますね。
私達は決して日本礼賛を宋さんから期待しているわけではありません。宋さんが書かれているのであれば耳の痛い話も聞きたいと思うのですが、以前のような大局観がありながらも、どこか飄々とした余裕があまり感じられないのはなぜかな。
宋さんも人の子、私達が望むような仙人ではないのは重々承知ですが、海外でのご生活も結構大変なのかな、と案じております。
記事をいつも楽しみにしています。
また、「日本人はアフリカや南米で出会った韓国人や中国人への親しみは湧かないでしょう。」のは、実は中国人や韓国人は、他人への心遣い等で最も日本人と違っている人たちです。(個人差は有りますが)他の国の白人・黒人・黄色人種の人たちの方が日本人に近い感情を持っていると思います。やなり同じような考えや行動をする人に親近感を覚えますから。これは、宋さんの娘さんの学食と同じです。50年近く前にアメリカへ出張し、その会社の食堂で食事をした時に、やはり同じ皮膚の色の人たち同士が同じテーブルで食事をしていました。現在も余り変わりは無いようですね。
個人ではないですが、中国は自国の利益は絶対に譲歩しないし、他国の利益は隙さえあれば奪い取るのが国是ですから、次第に多くの国から嫌われるのは仕方の無い事ですね。中国国内では、漢民族と他の民族の関係がこれですね。
日本が難民を多く受け入れていないのは、国土が狭い上に山地が多く、人の住める面積は極端に狭いからいたしかたないですね。私が小学校の頃には、日本は人口8000万人で毎年100万人づつ人口が増加し、それでも食料が足らず大変な国家経営でしたし、国民は生きていくだけでも大変な時代でした。もう少し前には、毎年冬には餓死者が出ていたようですね。今の日本からは想像できませんが、少し国や社会が変化すればこの様な状態になるでしょう。油断大敵です。
いつも、視座と省察の機会をいただき、ありがとうございます。
人間関係は距離と近接さが概ねの枠組みを決めてしまうという視座は、普段の同調性に順応する中で欠落しやすい視座であり、人脈に対してより一層意識することの大切さをご教示いただきました。実際、以前は近しかった大切な方々で距離感のある人材に対する意識は希薄化しています。反省する気づきを頂戴しました。ありがとうございます。
意見交換は自由闊達で良いとは思いますが、他者の視座に対する考察は、本人の内省にとって大切なフローですが、他者の視点を共有して俯瞰する中に視座の複層化が導かれることが重要なはずです。発信者への批評は読んでいても不快であり、意味がないと思います。
まぁ、ある意味で日本人特有の宋さんへのエールとも受け取れます。
発信すれば、肯定否定が生じるのは必然ですので宗さんは気にされないと思いますが、今後も遠慮なく日本人の思考と行動そして社会風土を撫で斬りしていただければと思います。それを受けとめて咀嚼できるかが日本人の多様性に求められています。
この国は、望む望まないに関係なく、大きな変化を今後必ず経験することになります。宋さんの視座はその事実を迎える際に大きく役立つものです。ありがとうございます。
東京に滞在される際に、ぜひお会いしたく考えております。機会がありましたら嬉しく思います。
そもそも多様性が良いものかどうかは全く重要ではないです。大切なのは「あなたは誰ですか?」という目の前の人をバイアスを掛けずに直視すること、そして、物理的距離の離れた人のことを考える際にもその感覚を忘れないことだと思います。そうすれば、どの国にも良い人達がいること、そして、目の前の人の良さにも確実に気付きます。
勿論、言葉が通じないと意思の疎通に困ることも多いでしょうが、それはお互いが理解し合おうとすることで何とかなるものです。2002年にサッカーのワールドカップが日本でありました。その際に日本の田舎で合宿を組む外国の代表チームを地元の人達が受け入れるために相手の言葉であったり、外国の人達の食べられないものであったりを事前に学んで、彼等が心地良く滞在できるように準備してあげて、それに感激した代表チームが滞在予定を延長したという話がありました。田舎に住んでいたのはその頃も今と大差無く、高齢者が圧倒的に多かったです。多様性への意識が低い日本といった論評は的外れの部分もあります。
宋さんは金持ちなので、あちらでLOSER(敗者)の乗り物である公共バスに乗る機会は無いと思いますので、個人的に感じたことが無いのかもしれません。私はシリコンバレー滞在中にバスに乗って移動していて、アメリカ人のホストに「気でも狂ったか?車を貸してやる。そういうことは止めろ!」と怒られてしまいました。私個人のことを心配して、親切に気に掛けてくれたことには感謝しつつも、とても違和感を持ちました。人種間の差別は単純に経済格差の中にスライドしているだけの気がしました。それはアメリカの保守の発想とも親和性があると思います。頑張って働いて稼いだ奴は良い生活をする権利があるし、そうやって稼いで支払った税金も頑張った人の生活を快適にするために使われるべきで、稼いでない奴のために使うなんてのは狂気の沙汰だと考えるのがアメリカの保守だと思います。私の目にはアメリカが人種間の壁を乗り越えた国に映りませんでした。
ダイバーシティなんてことを偉そうに講釈するのはアメリカのリベラリスト位ではないでしょうか。他の多くの国ではアメリカ程に凄惨な歴史を持ち合わせてません。アメリカと同じく、大量にアフリカから奴隷を運び入れたブラジルにしても、アメリカのような酷い差別と虐待の歴史ではないです。アメリカとブラジル、どちらの国の方が人種差別が少ないかと言われると、間違いなくブラジルだと思います。アメリカでは今でも白人警官が黒人を銃殺する事件があります。ブラジルでは差別無く、銃殺しています。ブラジルにはアメリカ程の凄惨な歴史はありません。
日本人や中国人の住む東アジアはアメリカと比べると差別に関する問題は相対的に少ないです。飼い猫の喧嘩と殺し合いといった違いがあります。殺し合いのところで差別を論じていて、その評価基準を異国である日本に持ち込まれても、それは的外れになると思います。
グローバル企業で円滑に業務が行える様にする為の一つのイデオロギーや仕組みがダイバーシティみたいなものです。
しかし社会におけるそれは会社におけるそれとは比較にならないです。
これは確かにそこに住んでみないとわかりませんし、わかりあえたつもりになっても、実際には壁がある、そんなものです。
数ヶ月ですが海外在住する中ですら体感したものです。
この問題は人が人である以上ずっと付いて回るし、とてもセンシティブなので、今回の記事はそれに配慮してるなと思いました。
実際に人種差別などを体験したり見たりすると、そんなに簡単にこれが答えです、などと言える訳が無いんです。
ストレートでキレのある議論をこの問題に簡単に出す様な人は信用できません。
何故なら人類がこの先も抱える非常に大きな問題だからです。
個人的な解決策というか出来る事は結局、何かされてもめげずにコミュニケーションする、相手や相手の文化を理解する努力をする、ぐらいですね。
異なった者同士の方が、新しいものが生まれそうな気がするじゃないですか? 理性を自覚させる教育…教育改革って 必要な気がします。
自分自身を、考えてる事を文字化しながら、見る、探る。
子供同士の研究発表会、討論、質疑応答の時間も。
そして、留学♪ 自分の国を別の角度から見れるようになるし、気づく事が多いでしょう。 海に囲まれたこの国には、留学予算があって欲しいです。
トランプさんではないけれど、そろそろ地球から出て宇宙へ。 直、宇宙ホテルの時代が来るでしょう♪ (…ついでに…軍産さんも、こちら 宇宙ビジネスの方に移ってくれないかな♪)