No.25 明石元二郎 (あかしもとじろう)
-世界をゆさぶったスパイは、博多のダンディズムの中から生まれた-

対談:昭和58年4月

司会・構成:土居 善胤


お話:
地方史家 柳猛直氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島伊三雄氏 九州総合信用株式会社社長 小山 泰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


日露戦勝利の影の立役者

西島

明石元二郎(あかしもとじろう)さんは、福岡出身の陸軍大将ですね。日露戦争のとき、ロシアの革命派の人たちに資金をわたし、国内の攪乱をはかったり、表にたたないところで活躍した人なんですね。

ええ、日露戦争前後に大きな活躍をした人です。 長崎出身の橘周太(たちばなしゅうた)中佐や大分県竹田出身の広瀬武夫(ひろせたけお)中佐が軍神として有名で、軍歌や小学唱歌にもなっていますが、明石元二郎は博多の人にもあまり知られていませんね。

小山

ヨーロッパを舞台にロシアの後方攪乱工作を展開した。当時は、たしか参謀本部の大佐でしたね。諜報活動つまりスパイとして大活躍した人……。その人があまり知られていない。なぜでしょうね。

理由が2つあると思うのです。ひとつは明治維新に立ち遅れて、筑前人は冷や飯をくわされ、目ぼしい将官が出ていない。小倉出身の奥保鞏(おくやすかた)元帥が第2軍の司令官として活躍したのなどは例外で、大山巌(いわお)元帥や東郷平八郎元帥、乃木希典(まれすけ)大将、児玉源太郎大将など、ほとんど長州と薩摩人が活躍したということになっていることですね。
けれども、福岡出身の金子堅太郎(後の伯爵)は、日露講和の斡旋をしたルーズベルト大統領の友人で、アメリカの世論を日本側に有利に導き、日露講和条約成立のお膳立てをして、たいへん功績のあった人ですし、同じ福岡藩士の栗野慎一郎、この人はロシア公使として数々の功績を残し、後に子爵になっています。筑前の人間は歴史の裏面で大きな活躍をしているのですが、檜舞台にはあまり出てこない。福岡の人たちにさえあまり知られていない……残念ですね。
もう1つは、明石がやった謀略活動は、日露戦争で勝利をもたらした大きな要因なんですが、諜報はだいたいが陰の仕事で、あまり表に出せませんよね。だから、世間的に大きく取り上げるわけにはいかなかったのです。陸軍部内での評価は非常に高くて、当時筑前人が冷遇されている中で、ただひとり陸軍大将になっています。

パリ・ロンドンで謀報活動

西島

ひとりだけですね。諜報活動というと、今の若い人たちだと007というイメージですね。

諜報活動といっても、007のように派手な立ちまわりをしたわけではありません。情報収集が大きな役目です。
参謀本部はロシアに近いストックホルムでの収集を命じたのですが、明石は、「ストックホルム情報は、パリ、ベルリン、ロンドンの2番煎じにすぎない」と、参謀本部を説得して、この3都をはじめヨーロッパを飛びまわってホットな情報を収集しました。
もう1つは、ロシアの革命派の人たちに資金をわたして、騒擾(そうじょう)事件をおこすこと。こればかりは、事の性質上、明石が使った金がここでこう動いて、こういう事件になったというような因果関係を示す明白なものは残されておりません。

落花流水

▲少尉任官当時の明石元二郎

ただ明石の事績の中で、私たちが知ることができるのは、明治39年(1906)に参謀本部に出された『明石復命書』という報告書だけです。これはなかなかおもしろい。
原本は、終戦のときに焼いてしまって現存しないという話ですが、複写が残っていて、それに明石自身が『落花流水』と題をつけています。

小山

『落花流水』とは意味深長ですね。

一見、風流な標題ですが、落花流水という標題に明石の心情を見る思いがしますね。明治の人はだいたい、自分の回顧録にそうしたしゃれた題をつける趣味があったようです。

小山

どんな内容なのですか。

その大半は、ロシアの成り立ちから日露戦争に至るまでの歴史を詳しく調べ、ロシア国内の不平党の分析となっていますが、あの年代に日本で書かれたロシア史の中では、最も完璧なものだと言われています。
不平党の重要人物の項には、「倉保」(クロポトキン)「布破」(プレハーノフ)、「瓦本」(ガポン)、「礼仁」(レーニン)などがでています。明石はこういった革命勢力に近づき、煽動し、援助することで、ロシアの弱点を衝(つ)いて背後から脅かしていったわけです。

幼少のころ

柳猛直氏

小山

そういう世界的謀略を企てた大人物の幼年時代はどんなものなんでしょう。

元二郎は、元治元年(1864)8月1日、維新の少し前、福岡市の大名町に、助九郎貞儀(さだのり)の次男として生まれています。貞儀は1300石の大身で、屋敷は今の西鉄グランドホテルの道を隔てた東側で、かなり大きなものでした。

慶応2年(1866)父の貞儀が28歳のときに、理由ははっきりわからないのですが、北九州の芦屋で切腹して亡くなります。兄のが6歳、元二郎は3歳と幼いので、家督が相続できませんから、親戚を養子にするのですが、家を維持することができないで、広大な邸も人手に渡ってしまいます。
母の秀子は吉田という大身の家の出ですが、25歳で未亡人になって、浜の町の吉田家の長屋で針仕事をしながら、2人の子供を育てます。この人はたいへんな賢母で、子供たちの教育には特に熱心だったようです。
子供の頃の元二郎は、鼻水たれのヨダレたれで、アダ名を「ハナたれ」とよばれていましたが、非常に頭がよかったそうです。大名小学校に県令、渡辺清(もと大村藩士)が視察に来たとき、よくできる子をえらんで、書の席上揮毫(きごう)をさせたそうですが、元二郎はそのひとりに選ばれます。
県令の前で「精神」の2字を書いたのですが、「神」の最後の縦棒が勢いあまって紙からはみ出したのです。県令がおみえになるというので、新しい表替えをしたばかりの畳の上に、元二郎はかまわず、ずうっと筆を引っぱっていったそうです(笑)。渡辺県令は、この天衣無縫の元二郎にすっかり感心し、養子にほしいと言ったらしいのです。結局養子にはなりませんが……。

西島

やっぱり小さい頃から、並の秀才じゃなかったんですね。

明治9年(1876)12歳になると、元二郎は上京して、池の端の団尚静(だんなおしず)(団琢磨の養父)の屋敷に寄宿し、経世実学を主張した安井息軒の塾にはいります。
この頃、身なりをかまわない元二郎に、洋行帰りの団琢磨(だんたくま)が洋服の着方を教えてやったりしたそうです。 明治10年に陸軍幼年学校に入学します。幼年学校は、陸軍士官学校にはいる前の士官のたまごを養成する学校で、外国語をよく教えるんです。元二郎の頃はフランス語でした。
この頃、はじめて金子堅太郎に会っています。金子も団と一緒にアメリカから帰ったばかりの頃です。 金子は、「団さんが、幼年学校の制服を着けた美少年を連れてきて、これは福岡の明石元二郎という者だが、成績優秀で前途有望な青年であると紹介された」と語っています。
明治14年1月に陸軍士官学校に入学、明治16年12月に少尉に任官します。明治24年1月に陸軍大学入学。当時の校長は、後に日露戦争の名参謀長となる児玉源太郎でした。明治26年12月陸大を出ると参謀本部付になります。

小山

その頃に、何かおもしろいエピソードはありませんか。

参謀本部付の時代、士官学校の教官をしている友人と校内を歩いていると、向こうから寺内正毅(てらうちまさたけ)校長(後の元帥)がやってくる。「おう、やっとるか」「やってます」と敬礼して、寺内はにこにこして去っていきます。 その間、明石は左側を友人にピタッとくっつけて離れません。友人はえらくくっついてくるなと妙な気がして聞くと、「サーベルがさびとるから……」というのです。
ズボラで、明石の〝さびサーベル″は参謀本部でも有名でした。軍紀にとりわけ厳しい寺内校長に見つかるとうるさいので、とっさの判断で苦心して左側を隠していたのだそうです。

西島

その辺りは、明治の軍隊はまだおおらかですね。

身辺に無頼者

おおらかな時代でしたが、明石が服装に無頓着なのは有名でしたね。参謀本部のころは赤坂の黒田屋敷(筑前藩士がよく寄寓していた)にいましたが、帰ってくると、軍帽を脱いでパァーと放り出します。
すると、まだ温かい帽子にサッと猫がはいって寝るのです。明石もそのままごろっと寝て、朝になると、猫入りの帽子をひっくり返して、毛だらけのままかまわずかぶっていったらしい。そういう点は、全く気にしない人だったようです。

西島

性格は全く博多っ子らしいですね。やっぱり。

明石は、見かけが汚なくて心がきれいで、あれくらい見かけと中味に開きのある奴はいないと言われていたらしいですね。
石井光次郎さんのお話ですが、大正7年、明石大将が台湾総督になって赴任するとき、総督秘書だった石井さんは明石総督のお伴で一緒に汽車にのっていました。 明石はのどに痰がからんだらしく、副官に「ちり紙はないか」と言いましたが、手持ちがなくさがしに席をはずしました。すると明石は、エヘン、ペッと痰を掌に吐いて、ポケットに突っ込み、中で拭ってすましている。
びっくりする石井さんを前に、副官がちり紙を持って来ると、明石は平然と「もう済んだ」と言ったそうです(笑)。

小山

いかにも豪放磊落(ごうほうらいらく)ですねえ。

謀報へ、駐在武官時代

パリ時代2列左から2人目 公使館付武官のころ。

明治27年にはドイツ留学を命じられています。当時の陸軍には、語学の達者な人が多かったのですが、とりわけ明石は堪能で、幼年学校ではフランス語をやっていましたが、ドイツに行くとすぐにドイツ語も達者になったらしい。 勉強の仕方がまた彼一流の独得のやり方で、朝から晩までそれこそ寝食さえ忘れて、1日中1室にとじこもりっきりの集中学習だったそうです。
日露戦争の少し前、ドイツ人の将校とロシアの軍人が聞かれてはまずい話をするのに、横にいた明石にフランス語で「ドイツ語は話せますか」と訊(き)きました。明石は「ドイツ語はわからない」と答え、すまして2人の秘密の話を聞き、後で報告したという話があります。

同年に日清戦争がはじまると、すぐに呼び戻されますから、本当に短い間にドイツ語をマスターしてしまうのですね。ついで、明治34年にフランス公使館付武官(当時は中佐)になって、栗野慎一郎とともにフランスへ行きます。明治35年に栗野はロシア公使になり、また明石といっしょにペテルプルグ(いまのぺトログラード)へ行きます。 日露戦争の前々年のことです。この頃から諜報活動の下準備をはじめています。戦争になることがわかっていたからですね。
第二次大戦後に発刊された、デニス・ウォーナー夫妻の名著、『日露戦争全史』には明石大佐の活躍の項に、「ニコライ皇帝が想像していたよりも、はるかに身近なところで、この戦争と、ロシア宮廷の運命にきわめて大きな影響を与えることになる事件が、今や引きつづいて生起しようとしている」と述べ、明石の駐在武官赴任にふれています。
明石の前任は田中義一(後の大将、総理大臣)で、この人も非常にロシア語が達者で、自らもギイチ・ノブスケビッチ・タナカ(ロシアの名称は中に父親の名をはさむ)と称するほど、ロシアにはまりこんでいたわけです。
海軍の広瀬武夫とこの田中が、すでに革命党員と接触したりして、明石の下工作のようなことをやっていました。 この田中も、後に総理大臣になると、昭和3年3月15日に共産党の大弾圧(3・15事件)をやります。明石も、日韓併合後の韓国の憲兵司令官になって革命家を弾圧しています。この人たちは、革命家と接触したけれども、根底は革命家とは全く無縁の存在だったのですね。

フィンランド人が協力

西島伊三雄氏
小山 泰

西島

諜報活動というと、旅順港の防衛状況とか、バルチック艦隊の進路とかいうことも。

ありますね。明石はロシア国内に、うまくスパイをもぐり込ませて、満州への兵站(へいたん)、輸送の状況などを逐一報告させています。バルチック艦隊がどんな編成で、いつごろ出ていくという報告なども全部あったはずです。
さらに不平分子を煽動してロシア国内を攪乱させるために次々と手をうっています。まずフィンランド独立運動をすすめているフィンランド人の弁護士、コ二・シリヤクスと接触します。これがフィンランドの独立とロシア革命、そして日本の勝利のために大きな働きをするきっかけになるのです。シリヤクスを通じ、スウェーデン参謀本部のアミノフ参謀大尉と接触ができ、彼が秘密の手紙や資金をロシア国内のスパイに送ってくれるようになる。長年ロシアの圧制に苦しんでいたフィンランド人は、日本が勝つことが、フィンランドの独立を促すことになるといって、亡命者たちが協力してくれたのです。
ポーランド人もそうなるのですね。ロシア陸軍に配属されているポーランド人は、「戦前は15パーセントぐらいだったが、今は30パーセントいる、この連中に反軍、独立のサボタージュをおこさせると大きな力になる」と言っています。

諜報費100万円(いまの100億?)

そういう活動の資金として、参謀本部から明石は100万円を預かっていました。当時としては膨大な100万円という大金を与えられて、一大佐の明石が大謀略を展開することになるのです。参謀本部次長の長岡外史(後、中将)は、「風采といい、顔付きといい、あのへんな男に100万円という大金を委ねてもいいのかなあと思ったものだが、実際の手並みを見てびっくりした」と回顧しています。

西島

でもこうやって写真でみると、風采もいいし、きれいにしてあるようですがねえ(笑)。当時の100万円と言ったら今で言うと、いくらぐらいにあたりますか……。

小山

100億円はゆうにこえているでしょうね。

西島

100万円は大金でしょうが、大国ロシアをひっかきまわすには、いくらあってもたりなかったでしょう。そのお金をふやしながら……、商事会社やブローカーを誰かにさせて……、ということはなかったのですか。

面白い考えですね。でも、それまでは手がまわらなかったでしょう。大金ですが、使途もきちんとしていて、戦後、復命書とともに、明細を添え残金27万円をきちんと返却しています。

西島

その大金をどんな風に使ったのですか。

まず、スパイにお金をやります。明石はスパイについて、面白い評価を下しています。金が目当てのスパイがいちばんいい。主義主張でやっているより、ひもじい思いをしているプロのスパイの方がよく働いてくれるというわけです。正義の味方よりも、銭の味方の方がいいと。面白いですね、非常にリアルな考え方で。
それから、革命党に資金を出しています。明治37年10月1日、パリにロシアをはじめ、ポーランドやフィンランドの革命家を集めて、ロシアで大反乱をおこすための工作をやろうと企てます。
レーニンの党はそれに参加していませんから、明石はレーニンに会わなかったという説もありますが、私はスイスのジュネーブで会ったと思いますよ。明石はレーニンを指導者として一目おき、敬意を払っていたようですね。
そう思うのは復命書の中に出てくるレーニンの名に「礼仁」という敬字を当てていることですね。ロシア革命は、それから10年ぐらい経っておこった(1917年)のですが、その頃、政府でレーニンの名を知っている人はいなかったそうです。明石は早くからレーニンを評価していましたから、おそらくそのときに会っていたのだと思いますよ。

西島

面白いエピソードはありませんか。

スパイを使っていたときのエピソードがいくつかあります。
戦争になる前のことですが、あるとき明石の部屋でロシア軍の将校から情報を聞いていると、そこへ突然ロシアの将官が極東に赴任するというので、あいさつに訪ねてきます。あわてて将校を便所に押し込んで、入口の立ち話で帰ってもらったが、あの時はヒヤヒヤしたと語っています。
またあまり実績のよくないスパイがいて、クビにしようとすると「自分にはこれ以外にメシを食う道はないし、一生懸命やっている」という。仕方がない、それならやれということになったという話もあります。

小山

諜報というと、非情の世界なのでしょうが、明石のまわりは妙に人間くさくて、おもしろいですね。

ジョン・グラフトン号事件

台湾総督時代

日露開戦となると、シベリヤ鉄道で、何を、どんなふうに送っているかという輸送の情報を、次に送信しています。一方では民衆の反乱を煽動し、スイスで調達した武器を革命党員に流したりしていて、これが発覚する事件もおきています。
ジョン・グラフトン号という7百トンぐらいの船に、革命用の武器を満載して、ロシアに向けて航海中、フィンランド湾で座礁してしまい、武器は没収されてしまいます。 明治38年9月のことで、日本海海戦は終わって、講和会議が大詰めに近づいていた頃ですから、あまり痛痒は感じなかったでしょうが。

小山

サボタージュもずいぶん煽動したんでしょう。

ええ、明治38年に全ロシアで、2百86万人がストライキに参加しており、これは前年の115倍だそうです。公正な史書として評価の高い谷寿夫の『機密日露戦史』、これは陸軍大学で谷が日露戦史を講義したテキストですが、その中でもこのことは指摘されていますね。 戦争中はフル回転しなきゃならないのにサボタージュをやられると、大いに困るわけです。
明治38年に、ペテルブルグで大きなストライキがあり、その1月9日に象徴的な事件がおきます。ガポンという神父さんが、ペテルブルグの冬宮に、民衆を率いて皇帝に請願をするための大行進をやるのです。これに発砲、死傷2千名の流血の惨事となりました。有名な「血の日曜日事件」です。
このガポンという人はどうもホラ吹きだったらしく、後には革命党員に処刑されてしまいます。明石はガポンとも緊密な連絡をとっていたようです。つぎつぎと行われたストライキに、陰で明石が接触したと言われていますが、どれだけ糸を引いていたのかは、いまではもうわかりませんね。

小山

ロシア革命という、大きな歴史的事件ともかかわっていることになるのですね。

はい。そのころ明石のロンドンのホテルに、彼の仮名「アバズレス殿」という宛名を使って、マダム・ローランという婦人からの手紙がきて、「パリでお会いしたい」と言ってきます。
明石は豪胆な人で役に立つかもしれないと会ってみると、ローラン夫人は「あなたは危険人物として注意されている。徒歩は尾行されるからやめたほうがいい。小旅館より大旅館がよい。 武器購入は露探が大いに注意しているのを忘れるな。日本の暗号は解読されているから注意しろ」というようなことで、その他いちいちうなずくことが多かったそうです。このことも谷中将の戦史に克明にかいてあります。

明石の活動が戦勝の一因

▲ヨーロッパ諜報活動時代。真中。

西島

公使館付武官というのは、どういう立場の人ですか。

枢要な大・公使館についている軍人のことで、正式には駐在武官。今でも自衛官の中から出ています。

西島

武官という職そのものが諜報活動をする職務だったのですね。

表面上は軍事事情視察になっているけれども、どこの国の駐在武官も同じことです。情報収集が、大きな任務だったんでしょうね。つきつめてゆくと国家機密に及ぶということです。

小山

諜報活動のための特殊訓練を受けていたわけじゃないのでしょう。

別にないでしょうね。ただ活動の細かいことは、記録がないからわかっていないんです。多分、出しては具合が悪いこともあったんでしょうね。

小山

明石の評価は、日露戦勝後高まったわけですね。

陸軍部内で高く評価されたのですが、公表はできませんね。象徴的な話があります。陸軍将校が明石に、「閣下が日露戦争中にやられた働きは、大へんなものでございますね」と言うと、明石はニガイ顔をして、「俺の功績が日露戦争の正史のどこに書いてあるか」と言ったそうです。
正史には出てきませんが、谷中将の『機密日露戦史』は、「日露戦役戦勝の一原因もまた明石大佐ならざるか」と述べ、男爵受爵もこの功によると述べています。ただし、これは終戦までは公表されていません。
明治40年に少将、大正元年に中将、大正7年に台湾総督になり、大将になります。内地にいったん戻って来て、また台湾に向かう途中、大正8年に門司で、脳出血で倒れます。福岡で九州大学の教授が診ることになって移されたところが今の西鉄グランドホテルの場所、松本健次郎さんの別邸です。奇(く)しくも生家の真前(まんまえ)で亡くなります。
大正8年10月26日、56歳の若さでした。死の直前に男爵になっています。

「つやこく」は博多っ子のダンディズム

西島

ゆかりの方は福岡に……。

令息が東京におられましたが、軍人ではありません。元二郎をよくご存じの方は、九州交響楽団の専務理事の森部静武(もりべしずたけ)さん。 あの方のおとうさんが陸軍少将で、明石とは義兄弟にあたるそうです。父君の森部少将は、若かりし頃の森部さんに、「小説なんか読んではいかん」と厳しかったそうですが、 明石大将は、「小説は読んでもいいよ。何でも勉強だから」と言われたそうで、とても印象に残っていると話されていました。
明石は書や、達磨の絵をよく描いています。ヨーロッパの教養も充分な人で、明治の人物には儒学と、西欧の教養をミックスさせた、ユニークな持ち味の人が多いんですね。

西島

ちょっと飛躍しますが、「ここはお国を何百里……」の唄を、私は日露戦争の頃のと思っていたのに、これは日清戦争のときの状況を描いてつくった唄で、それが日露戦争の頃はやり出したということを聞きました。
乃木・ステッセルの会見のように、互いに相手の武勇をたたえあう。日露戦争の頃まではジーンとくるものがのこっていたんですね。

武士が洋服を着てたのが明治だったのですね。日露の頃までは、武士の精神が強く残っていたわけです。大山巌も東郷平八郎もそうでしょう。
西洋の教養を身につけながら、魂は侍だった。例えば、ロシア太平洋艦隊の旗艦ヘトロパウロースクが、日本の敷設機雷に触れて爆沈して、マカロフ提督が戦死したとき、アメリカにいた金子堅太郎が、 「我々は、彼の死を喜ばなければならないが、海軍史上に非常に大きな功績を残した提督の死に哀悼の意を表せざるを得ない」と言っています。
一説によれば、これが、ルーズベルト大統領が武士道を学びたいと言い出したきっかけだったという話があります。旗艦三笠の将兵は、帽子をとって哀悼の意を表し、東京と名古屋では多くの日本人が葬儀用の白提灯を捧げて、マカロフを悼んで行進し、それが世界に報道されたそうです。武士道というのは1種のダンディズムだと思いますね。

小山

いい話ですね。つい7、80年前の日本人がそうだった。なんとも……、ダンディズムの極致ですか。

町人のダンディズムは「粋(いき)」ですが、サムライのダンディズムは「武士道」ということになりましょうか。

小山

福岡が生んだ明石元二郎にも博多のダンディズムが感じられますね。

おかしみの人

明石は、有名な「ズンダレ」でしたが、パリの公使館付の頃はいささか身なりに気をつかって、大きな鏡を買ったりしているのです。背広を着て外出しようとして、ふとみるとリュウとした奴が鏡に映っている。あれっと思ってよく見ると自分だった、という話を書いています。ここにも何か仁○加のおかしみがありますね。

小山

聖人タイプじゃあないですな。世界的謀略を、組織もほとんどなく、自分だけで……、日本人としては型破りですね。どうしてこんな型破りの人間が出てきたのでしょう。

やはり、筑前人は、明治政府から疎外されていたから、明石も陸軍で部隊を率いて戦争するはなやかな立場におかれなかったんですね。だから、ひとりで行動せざるを得ないし、またそういう能力を自らつくりあげたんでしょう。
明石が書いた詩の中で自分のことを、「明石将軍容貌愚」なんて言ってますね。あまり人が警戒しない顔だというわけです。それはやっばり身だしなみをかまわないということもあるでしょう。一分の隙もないようにしているのではなく……。

西島

しかし、明石さんのこの写真をみると目がいいんですね。私は人の顔を描いていて、目の優しい人だなーと思うと、すぐ信用してしまうところがあります。 根はやさしくて、何となく人なつっこい顔をしていたんでしょうね。

博多の人は、だいたい人なつっこいところがありますね。

小山

こうやって明石元二郎という型破りの人間のお話を聞いていますと、身なりなんかにはちっともかまわないようで、その実、「金はいらんばい」的な博多のダンディズムを持っていて、行動は実にカッコイイ。
それでいて聖人タイプではなく失敗をとっさにごまかす仁○加の風があり、容貌が何となく人なつっこい。実に面白いですね。今日はまことに興味深いお話をありがとうございました。

柳 猛直氏 略歴

大正6年、福岡市大名町に生まれる。大名小学校から福岡県立中学修猷館卒業。西日本新聞社をへて、昭和21年より平成4年まで、フクニチ新聞で地方史各面に健筆をふるう。平成4年、福岡市文化賞受賞。著書、『はかた巷談(1~4)』『悲運の藩主・黒田長溥(ながひろ)』ほか。