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キスカ島撤退と神々の御業

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求める結果が得られなかったからと、上司からも同僚からも部下からも轟々たる非難を受け、孤立無援となる。
しかし自分の果たす役割には6000名の命がかかっている。
もしそんな状況に置かれたら、あなたならどうしますか?
昭和18年7月29日のキスカ島撤退は、まさにそういう状況のもとで行われました。
キスカ島は、日本の北太平洋にあるアリューシャン列島にある島です。
その島に残る日本兵2650名を、島を包囲していた連合軍に全く気づかれずに、無傷で守備隊全員を撤収させる。
そんな奇跡のような作戦が、キスカ島撤退作戦でした。
そしてそこには、名将木村 昌福(きむら まさとみ)中将の強固な意思と忍耐と果敢な決断があったのです。


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木村昌福海軍中将
木村昌福海軍中将


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12月16日(日)~17日(月) 一泊二日 神話を体感する会
11月の倭塾関西の日程が11月11日(日)から、11月9日(金)19時に変更になっていますのでご注意ください。


木村昌福中将は明治24(1891)年に、静岡県静岡市で生まれました。
旧制静岡県立静岡中学(現・静岡高校)を卒業して、海軍兵学校に入校しました。
卒業時の成績は118人中第117位でした。
そんなわけで、兵学校を卒業後の海軍大学進学はあきらめて、水雷屋として軍歴を過ごしました。

大東亜戦争開戦時には、巡洋艦「鈴谷」の艦長などを勤めました。
昭和18(1943)年2月には、第三水雷戦隊司令官に就任しています。
ビスマルク海戦では、護衛部隊指揮官を勤めました。
艦橋で敵攻撃機の機銃掃射を浴びて、左腿と右肩に貫通症、右腹部に盲貫銃創・・・どうみても重症です・・・を負いながら、最後まで指揮を執られました。

撃たれたとき、信号員が咄嗟に、
「指揮官、重傷」
の信号旗を挙げました。
すると木村中将は、
「陸兵さんが心配するではないかっ!」と怒鳴り付けて、すぐに
「只今の信号は誤りなり」
と訂正させています。
どこまでも自分が中心ではなく、周囲を気遣う将でした。

軍病院での治療後、第一水雷戦隊司令官に就任しました。
そしてその年の7月に成功させたのが、キスカ島撤退作戦です。

さらに昭和19(1944)年には、レイテ島挺身輸送作戦を二度も指揮して成功させ、さらにミンドロ島の米上陸地点への突入作戦も成功させています。
おかげで木村中将は、現場畑だけで、いちども大本営勤務を経ないで中将にまで出世しました。
これは海軍の中でも稀有な人事でした。


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さてアッツ島は、米国領で、昭和17年6月に日本が支配下に置きました。
米国にしてみれば、直接領土を奪われたわけです。
ですから、米国は、軍をあげてこの島の奪還に乗り出しました。
領土を奪われるというのは、たとえそれが自国から遠く離れた途方もない遠隔地であったとしても、国家として絶対に許してはいけないことなのです。
戦後の日本は北方領土といい、竹島といい、領土を奪われて平然としていますが、これは政府が国民生活の安全と安心を無視しているということです。
領土は、それほどまでに大切なものなのです。

米国は、昭和18年5月12日、アッツ島に上陸し、攻略作戦を本格化させました。
そしてアッツでは、守備隊2650名が、制海権、制空権を失った北海の孤島で、圧倒的火力を持つ米軍1万2千人を相手に果敢に戦って玉砕しています。
この戦いで、守備隊長の山崎保代(やまさきやすよ)中将のご遺体は、突撃隊の一番前で発見されています。
先頭にいるということは、まっさきに機関銃の餌食になるということです。
ところが山崎中将は、撃たれては倒れ、撃たれては倒れしながら、ついに突撃隊の一番前で絶命されています。

こうしてアッツ島は玉砕しました。
昭和天皇は、アッツ島守備隊の死を悼み、すでに無電を受信する者さえいなくなったアッツに向けて、
「最後までよく戦った」
と電報を打てと命じられました。

一方、同じアリューシャン諸島のキスカ島には、陸海軍あわせて6千名の兵が駐屯していました。
なぜキスカ島の守備隊の人数がアッツより多かったのかというと、キスカ島のほうが米国本土に近いから、米軍が先に攻撃してくるのはキスカであろうと読んだためです。
ところが先にアッツが落とされました。

これによりキスカ島は、米軍が陥落させたアッツ島と、米軍の飛行場のあるアムチトカ島にはさまれ、完全に戦略的に孤立してしまいました。
すでに制海権、制空権も、完全に米軍に握られています。

この時点で、キスカ守備隊は、退くに退けないし、日本本土からの増援部隊や補給の応援も見込めないという状況になりました。
仮に敵が来なかったとしても、6千名の守備隊の食料の備蓄が途絶えれば、餓死してしまいます。
米軍が攻めてくれば、玉砕です。
そんな二者択一しか、キスカ守備隊には残されていないという状況になったのです。

しかし味方兵士を、なにもせずに見殺しにするのは、武士道に悖(もと)る行為です。
大本営は、キスカ島守備隊の撤退作戦を計画します。
これを「ケ号作戦」といいました。

「ケ」というのは、日本が撤退作戦を行うときに必ず用いた作戦名で、「乾坤一擲」の「ケ」です。
撤退作戦は、当初、潜水艦で実行されました。
昭和18(1943)年6月、15隻の潜水艦で2回の輸送作戦が行われました。
この作戦で傷病兵等約800名が後送され、守備隊には、弾薬125トン、糧食100トンが輸送できました。

しかし米軍の哨戒網に発見され、一回目の潜水艦輸送作戦のときに「伊二四潜水艦」を、二回目の輸送作戦のときに、「伊七潜水艦」、「伊九潜水艦」の二隻を失います。
成果の割に、損害が多いのです。
このままでは、全軍の撤退は不可能です。
残った守備隊は、見殺しになってしまう。

「潜水艦ではなく水上部隊で
 大規模な撤退作戦を敢行するなら、
 海上に霧がかかる
 7月中にやるしかない。
 8月になると霧がなくなり、
 撤退作戦は不可能となる」
こうしてキスカは、水上艦艇による第二次撤退作戦が開始されることになりました。

この作戦の成否を決める要素は2つです。
1 視界ゼロに近い濃霧が発生していること
2 日本艦隊にレーダーを装備した艦艇がいること
の2つです。

濃霧が発生していれば、敵の空襲を受けずに済みます。
当時、キスカ島のすぐ東側のアムチトカ島には、米軍の航空基地があり、B-25などの爆撃機がいたのです。
制空権を奪われた中での水上艦艇による撤退作戦は、万一空襲を受ければ、全滅の危機を招きます。

この時代、まだ航空機の飛行は目視飛行です。
濃霧の中で空襲をかけられる航空機は、まだ世界中どこにもありませんでした。
日本は、そこに一縷の望みを賭けたのです。

ただし、濃霧は敵の空襲から味方を守ってくれるけれど、こちらも敵を発見できません。
ですからこの作戦にレーダーが不可欠とされました。

ちなみに日本の艦船へのレーダー配備は、米軍ほど進んでいませんでした。
このため戦後には左翼系の学者や評論家などが、「日本軍がレーダーの配備をしなかったのはアホだったからだ」などと言います。
失礼な話です。
当時のレーダーは、こんにちのレーダーのような高性能なものではありません。
いまなら小型の釣り船が搭載している魚群探知機程度の性能しかありません。
ですから実践では、レーダーより訓練を受けた日本兵の肉眼の方が、はるかに「高性能」だったのです。

実際、広島と長崎に落とした原爆を米国から運んできた重巡洋艦インダナポリスを、後年、日本の伊58潜水艦が沈めていますが、これは当時まだ性能の低かったレーダーに頼る米軍より先に、日本側が、月明かりを頼りに肉眼で敵艦を(先に)捕捉したことによります。
インダナポリスは、伊58にまったく気付かないまま轟沈しました。
当時のレーダーというものが、まだその程度のものだったということと、訓練を積んだ帝国軍人が、いかにものすごい能力を発揮していたかを示す一例だと思います。

こうしてキスカ島第二次水上撤退作戦の司令官には冒頭でご紹介した木村昌福中将(この当時は少将)が就任しました。
実行部隊は第一水雷戦隊です。
木村中将は、まず第一次作戦に参加した潜水艦から数隻を選び、水上撤収部隊に先行させてキスカ島近海に配備して、この地域の気象情報を通報させました。

同時に、大本営に対し、就役したばかりの新鋭高速駆逐艦「島風」の配備を求めました。
「島風」は、二二号電探と三式超短波受信機(逆探)を搭載する、当時の科学技術の粋を集めた最新鋭艦だったのです。
さらに木村中将は、万一肉眼で米軍に発見された場合を想定し、自軍の船が米軍艦船と誤認される艦船の煙突を白く塗りつぶしたり、偽装煙突をつけたりなどの偽装工作を各艦に施しました。
参加兵力は、
 軽巡  2
 駆逐艦 11
 海防艦 1
 補給船 1
計15隻の大高速艦隊です。

かくしてキスカ島守備隊撤退作戦「ケ」号作戦は、昭和18(1943)年6月29日に発動されました。
最初に出撃したのは、気象通報の役割に従事する潜水艦です。
1週間遅れて、7月7日19時30分、全艦が出撃しました。

7月10日、アムチトカ島500海里圏外で集結した撤収部隊は一路キスカ島へ向かいます。
12日がXデーです。
全艦、深い霧の中を、静かにキスカに向けて進みました。

ところが艦隊がキスカ近海に近づくと、霧が晴れてしまったのです。
これでは敵に姿をまともにさらすことになってしまいます。
そこで全艦、いったん突入を断念して、近海の霧に隠れて、決行予定日を13日に変更しました。
ところが残念なことに、13日、14日、15日と霧が晴れてしまうのです。
突入を断念せざるを得ない。

やむなく木村少将は、15日午前8時20分、一旦突入を諦めて帰投命令を発しました。
燃料が底を尽きはじめてしまったのです。
このときの木村少将の言葉が、

「帰れば、また来られるからな」

というものでした。
なんだか座右の銘にしたい名言です。

こうしてキスカ撤収部隊は18日に一旦千島列島の北東部にある幌筵島(ほろむしろとう)の基地に帰投しました。
ところが、手ぶらで根拠地に帰ってきた木村中将に対し、直属の上官である第五艦隊司令部のみならず、連合艦隊司令部、さらには大本営からも、
「何故、突入しなかった!」
「今すぐ作戦を再開し、キスカ湾へ突入せよ!」
等々、帰島した木村少将に轟々たる非難が浴びせられました。
「腰ぬけ!」とまで言われました。

上官や本部が怒るのも、無理もないのです。
あと半月経って8月にはいったら、霧がもう出てくれないのです。
そうなれば最早、撤収作戦の成功は見込めません。
加えてこの地域に備蓄していた重油が底を尽き始めていました。
作戦はあと一回きりしか行えないのです。
焦りが出るのも、当然だったのです。

木村中将は、こうした上官たちからの非難に対して、どのように対処したのでしょうか。
答えは「じっと耐えた」です。
木村中将は、この年の2月に参加したビスマルク海海戦で、敵からの空襲を受けた経験を持っています。
上空援護のない状態での空襲は、水雷戦隊にとって致命傷であることを、木村中将は嫌というほど体験していたのです。
加えて作戦の成功のためには、とにもかくにも、霧を待たなければならない。
言い訳をしたからといって、霧が湧いてくれるものでもありません。

帰投して4日目の7月22日、幌筵島の気象台から、
「7月25日以降、キスカ島周辺に濃霧発生」
との予報がはいりました。

これが最後のチャンスです。
これを逃したら、最早、撤収作戦は不可能です。
それはそのまま6千名の死を意味します。

木村中将は、予報を聞くと同時に、全艦に出撃命令を発しました。
ただし、この出撃には「督戦のため」と称して河瀬四郎第五艦隊司令長官以下、第五艦隊司令部が座乗しました。
要するに木村中将は「疑われた」のです。
木村中将は、そんな仕打ちにも何一つ文句を言いませんでした。

水雷屋というのは、海軍の中でも、とびきり気の荒い連中の集まりです。
いわば素っ裸のフンドシ一本で敵前に身をさらし、魚雷をぶっ放して、敵の大型戦艦でさえも沈めてしまうという船乗りの集まりです。
ですから日頃から水雷屋というのは、暴れだしたら手がつけられない荒くれ者の集まりでした。

「俺達が命がけでキスカの撤退作戦を実行しているのに、机に向かっている連中が何をいいやがる」
そんな気分は、第一水雷戦隊の誰の胸にもあります。

見苦しい!
言い訳は軍人の仕事ではない。
作戦を成功させることが軍人の仕事である。
この作戦は、敵前突破を生業とする水雷屋でなければできない仕事である。
オレが何も言わないんだ。
お前たちがグズグズ言うようなことではない。

全員が木村中将を心底信頼していました。

二度目の出撃は、艦隊をカムチャツカ半島先端の占守島から一挙に南下させ、そこからアッツ島の南方海上まで東に進路を取り、そこで天候を待ってキスカ湾に高速で突入。
守備隊を迅速に収容した後、再びアッツ島南方海域まで全速で後退し、その後、幌筵島に帰投するという計画でした。

ところがここにも試練が待ち受けました。
今度は期待の霧があまりに濃すぎて、出航が各艦、まちまちになってしまったのです。
洋上3日後の7月25日には、「国後」を除いて、残りの艦隊がなんとか集結できたものの、翌26日には濃霧の中を航行中に、行方不明だった「国後」が突如出現して「阿武隈」の左舷中部に衝突してしまいます。
その混乱で「初霜」の艦首が「若葉」右舷に衝突、更に弾みで艦尾が「長波」左舷に接触して、損傷が酷かった「若葉」は艦隊を離脱して単独で帰投することになってしまう。

残った船で、キスカ近郊で待機した7月28日、艦隊の気象班が、
「翌29日、キスカ島周辺、濃霧の可能性大」
と予報を出しました。
気象観測に出ている潜水艦各艦、ならびにキスカ島守備隊からも、濃霧を裏付ける情報が寄せられました。

木村中将が命じました。
「全艦突入せよ」

艦隊は、敵艦隊との遭遇を避けるために、島の西側を迂回して、島影に沿いつつ、ゆっくり進みました。
7月29日正午、艦隊はキスカ湾に入りました。
濃霧の中の突入です。
座礁や衝突の危険は極大です。

ところがこのとき一陣の風が吹いて、
湾内の濃霧がきれいに吹き飛びました。
神々は、人が真剣な努力を尽くしたときに、はじめて降りて来てくださるといいます。
この風は、まさに神々の御業そのものでした。

13時40分、晴天の中で艦隊は投錨しました。
直ちに、待ち構えていたキスカ島守備隊員5200名の収容にはいりました。
持っている小銃は、全部投棄させました。
身軽にして乗船行動を早め、また船速を速めるためです。
その結果、なんとわずか55分という異例のスピードで、全将兵を艦内に収容することができました。

収容に使ったはしけは、回収せずに自沈させました。
そして直ちにキスカ湾を全速で離脱しました。
不思議なことに、その直後にキスカ湾を、ふたたび深い霧が包みこんだそうです。

艦隊は、濃霧の中を、全速で空襲圏外まで離脱しました。
そして・・・
7月31日、幌筵島に全艦無事に帰投するのです。
気象観測に出した潜水艦も、全艦無事帰投しました。
世界の戦史上、最初にして最後の、無傷での撤退作戦が、ここに無事、完結したのです。

それにしても、どんなに非難されても、いかに中傷されても、黙々と自身の役目を果たした木村中将のこの間の胆力は、まさに凄いと言わざるを得ないものと思います。
上官および上層部全部を敵に回しても、撤収すべきときには撤収し、チャンスとみれば果敢にこれを実行する。

一方、米軍の動きはどのようなものであったのでしょうか。
米軍は、霧の晴れる8月を期して、キスカ上陸部隊突入を8月15日と定め、戦艦ミシシッピー、戦艦アイダホを旗艦とする大艦隊で、海上封鎖とキスカ島への砲撃を行っていました。

7月23日、米軍の飛行艇が、アッツ島南西200海里の地点で7隻の船影をレーダーで捕捉しました。
艦隊司令長官トーマス・C・キンケイド中将は、これを日本艦隊とみて直ちに迎撃作戦を実施しました。
7月26日には、濃霧の中で「ミシシッピ」のレーダーが、キスカ島から15海里の地点で船影を捕捉しました。
他の艦からも同様の報告を得たキンケイド中将は、直ちにレーダーによる猛射撃を行っています。
攻撃開始のおよそ40分後、レーダーの日本艦隊の船影反応が消失しました。
日本艦隊全滅とおもいきや、不思議なことに、重巡「サンフランシスコ」のレーダーには、この戦いの最初から最後まで全く反応が出ていませんでした。

このとき米軍のレーダーに映った影は、どちらも濃霧による誤反応であったといわれています。
米軍は、この2回の攻撃で、三六センチ砲弾118発、二十センチ砲弾487発を使用していますが、このときのすべての砲弾は、何もない海域に着弾したわけです。
お魚さんたちには、さぞかし迷惑だったろうと思います。
もちろん、日本艦隊には、なんの被害も出ていません。

この攻撃の際に、米艦隊が砲撃データとして発信していた電文は、全て日本艦隊が傍受していました。
日本側では、米軍の突如の猛発砲に、彼らはもしかすると同士討ちをやっているのではないかと、いぶかっていたそうです。

しかし、何もないところに猛攻撃を加え、レーダーから日本艦隊を消滅させたと見たキンケイド中将は、日本艦隊を撃滅せしめたと思いこみ、弾薬補給のために一時的に艦隊を後退させる決断をしています。
どういうことかというと、木村艦隊がキスカに近づこうとしていた7月28日、キンケイド中将は、キスカ島に張り付けてあった哨戒用の駆逐艦まで率いて、全軍を一時後退させていたということです。

米艦隊が補給を終え、キスカの海上を再度封鎖をしたのが、7月30日でした。
つまり木村艦隊は、ちょうど米艦隊が補給のために一時帰投していた、ちょうど中日にあたる7月29日に、キスカ湾に侵入して、無傷で守備隊全員を、収容し撤退していたのです。

さて、8月15日未明、米艦隊は、艦艇100隻余りを動員し、兵力約3万4000名の上陸部隊をもって、キスカ島に上陸しました。
事前に艦隊による猛烈な艦砲射撃を行ないました。
そして濃霧の中で、上陸用艇が、いっせいに島に上陸しました。

アッツ島の果敢な攻撃を体験した米軍は、このとき、最早存在しない日本軍兵士との戦闘に備えて極度に緊張していたそうです。
そしてふとした弾みから、各所で同士討ちが発生しました。
こうして死者約100名、負傷者数十名を出しています。
キスカ島攻略を完了したとき米軍が発見したのは、遺棄された数少ない日本の軍需品と、数匹の犬だけでした。

米国の戦史家モリソンは、この上陸作戦について、次のように書いています。
「救出艦隊の指揮を執った木村少将の
 戦術指揮には高い評価が与えられている。
 特に一度目の出撃で天候に利が無いと見て、
 各艦長の突入要請を蹴って
 反転帰投を決断したことが焦点となる。
 当時の海軍の状況は切迫しており、
 戦力として貴重な艦艇を
 無駄に動かす結果になること、
 欠乏していた燃料を浪費してしまうこと、
 またそれによる上層部や各所からの批判、
 などは、当然予想された。
 活発化しつつある米軍の動きから、
 反転してしまえば二度と撤退のチャンスが
 なくなる恐れも充分に考えられた。
 それでも作戦成功の可能性が無いと見て
 反転するという一貫性のある
 決断力は評価される。
 実際、このとき突入を強行していれば、
 米軍に捕捉・撃滅されていたであろうことは、
 当時の米軍の展開状況から
 容易に推察できる。
 結果として二度目の出撃で、
 たまたま米軍が島の包囲を
 解いた隙を突くことになる。
 日本に都合のよい偶然が重なったことも事実であるが、
 木村少将の、
 霧に身を隠して一気に救出するという
 一貫した戦術指揮が大きく
 作用したことは確かである。」

実際にこの作戦に参加した将兵や、キスカ島から撤退した将兵は、戦後、キスカ島での撤退作戦について、
「この作戦の成功はアッツ島の英霊の加護があったと思った」
と回想しています。

船は接岸するときが、もっとも操船が難しい。
それが狭いキスカの湾に14隻の艦隊が、いっきに突入するのです。
もっとも船舶事故が起こりやすい湾内侵入の際、もし、一寸先も見えない濃霧が発生していたら、作戦の成功は覚束なかったかもしれません。

また、米軍レーダーが「確かに感知した」日本の大艦隊の船影は、いったい何だったのか。
もしかすると、それもアッツの英霊たちによる亡霊の影だったのかもしれません。

いかに上陸時の緊張があったとはいえ、上陸した米兵同士で、100人を超える死傷者を出しているというのも、もしかすると、発砲した米兵たちは、アッツ島のン本兵の亡霊を相手に戦ったのかもしれませんね。
もしかすると神々は、アッツの英霊の願いを聞き入れ、キスカの将兵を護ってくださったのかもしれません。

※この記事は2010年7月の記事のリニューアルです。

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

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(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

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