今日のJR東日本上野駅構内での”信号確認”による列車遅延と、運転保安装置故障時に代用手信号で列車を運転させたらしきことに関する考察
まず、運転保安について、動労総連合や中核派は全く興味を持っていないので、本内容は、動労総連合や中核派に向けてではなく、鉄道従事者や鉄道の安全に興味を持つ者に対する訴えとしたい。
本日、私は16時頃に、上野駅での”信号確認”の影響により、上野東京ラインが運休していることを知った。
そして上野駅に向かい、16時20分頃か、東京方に係員がいるのを発見した。
ただこの時点で、上野東京ラインは全て運休と放送されていたし、代用手信号が運用されているとは思わず、単に警備係員かと思っていた。
その後御徒町に移動してみると、御徒町駅の上野方に、上野駅上り線から上り本線へ合流するポイントのあたりに大勢の人が見えた。
それで、御徒町で降り、上野方に行こうとしたら、185系の列車が来た。
私は最初、運行再開に向けての試運転列車かなと思ったが、これは修学旅行臨だった。
それで、その後この人々は、私も遠くからだが無線で「抑止がどうこう」という放送があった後で、16時30分過ぎ頃、線路に入っているように見えた。
(鉄道従事者ならばわかるだろうが、線路に立ち入り作業をするためには、抑止というよりも線路閉鎖手続きをしないといけない。私の聞き間違えとも思えるが、念のために記載する)
その後ポイントのあたりをガンガンしているように見えたし聞こえた。
状況から判断するに、どうも暑さからなのか、このポイントで短絡でも発生してそれが軌道回路の落下に繋がり、軌道回路が落下したから通常の列車の運転はすべて取りやめたが、既に上野駅近辺まで来ていた修学旅行臨を迂回させることもできず、これを代用手信号により出発させたものと想像される。
それが、上野駅の東京方に係員がいたのを私が見た理由と判断する。
私は、世間も中核派も、大事故が起これば糾弾するが、ヒヤリハットなどのインシデントでは何とも思わない、こういう考え方の体質を改善したい。
ヒヤリハットを繰り返していればいつかは事故に繋がるのであって、ちょっとの事象であっても、どういうことが起こっているんのか、掘り下げて考えて、それを職場での議論のネタにする・・・・、
本当の”労働運動”とはそういうものではないのか?
中核派は、とりわけ動労東京は、委員長である吉野元久のアタマが弱いという理由もあるけれども、”労働運動”を、”賃上げ闘争”なり”ストライキ”なりで十把一絡げにしてしまっている。
というかそもそも吉野元久は保線屋なのにもかかわらず、私が聞いても保線のことも大して知らない作業員である。
私より23歳年上の、よりによって誕生日が同じ7月25日生まれだから、今月が定年延長の定年なのではないか?
そんなヤツの定年のはなむけに、ぐうの音も出ないほどの鉄道の理屈について説明してやる。
・・・とにかく、”賃上げ闘争”なり”ストライキ”なりではなくて、もっと自由闊達に議論ができて然るべきではないのか?
今回の件も、3つほど問題と思う点を挙げる。
① まず、ポイント故障なんてそんなに滅多やたらに起きていないようなものが、どうして上野駅構内で発生するのか? という点である。
当たり前の点検で守られるべきものでさえ、守られないようになっているのではないか?
JR東日本も、TBM手法からCBM手法への転換を主張しているけれども
メンテナンス大転換時代の到来 -スマートメンテナンス構想-
東日本旅客鉄道株式会社 JR東日本研究開発センター テクニカルセンター所長 横山淳
https://www.jreast.co.jp/development/tech/pdf_39/Tech-39-05-06.pdf
CBM手法にしたことにより、人間がデータベース化できないようなごく稀にしか起こらないような経験知を、ごっそりと捨ててしまっているのではないか?
私はそう主張したい。
② 次に、代用保安方式に関する考え方の整理である。
私も鉄道会社で運転取り扱いに携わったわけではないので、あくまで概念ベースのお話になってしまうが、代用保安方式というのは、事前にわかっている工事などで、やむなく信号現示ができないとき、範囲を限定して実施するものではないのか?
例 (動画)
【単線運転】赤信号で発車する南武線205系
https://www.youtube.com/watch?v=sPR6bsGvp0A
これを、今日のように、装置故障でいろいろと現場が混乱している中で実施していては、本来担保されているはずの安全がない中で、どのような要因で事故になるかわからない。
過去のあらゆる大事故は、一つ要因では起こるはずがないものであるが、複合的な要因が運悪く全部重なって起こったのである。
「安全の担保はないけれど、運転士が目視確認をすれば大丈夫」などというのはもう、「大和魂」とか「竹槍作戦」とかいうのと同じことだというのをよくよく考えて欲しい。
人間は誰しもミスをするからこそ保安方式が確立されたのに、その保安方式が使えないときに、人間がミスをしないという担保はどこにもないのである。
③ 最後に、そもそも、近年になるほど障害が隠蔽されている点である。
以前であれば、JR東日本は”信号機故障”と言った。
それでさえ、私も日立製作所に勤めていた当時に、信号機メーカーから
「様々な事象が起こって、最終的に全部安全側で止めるのは信号装置なのに、なんでもかんでも”信号機故障”と言われてどうなのか」
と、学会かなにかの発表で苦言が呈されたことがある。
それが今は”信号確認”である。
然るに”信号確認”なんて、運転士が1回見たらいいだけで、1回だとミスするかもわからないから指差称呼すればいいだけであって、あとはどこに問題があるかを示せばいいのである。
それをどうして、運転士がどう判断したかさえわからないような”信号確認”などという言い方にするのか。
コレは、世間のニュース報道が、明らかにどう見ても死亡している者であっても、”搬送先の病院で死亡が確認された”としているのと同じではないのか。
本来ニュース報道とは、資本主義が上手く行っている場合を想像すると、我先にと報道するものであるから、搬送先の病院がどう判断しようが、記者が自分の目で見て死亡しているのであれば、「医師の判断に依らねばならないが、記者が判断したところ死亡している」というような報道があって然るべきではないのか?
どうしてその判断を記者ができないのか?
それがもはや”忖度”であり、報道統制に相当迎合しているのではないのか?
私はそう考える。
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