シブチャリのチャシ跡に建つシャクシャイン像(筆者提供)
 
「津軽一統志」の「松前蝦夷蜂起」記事(弘前市立弘前図書館蔵八木橋文庫)
 
「アイヌ蜂起物語」のひとつ「蝦夷征伐記」(弘前市立弘前図書館蔵一般郷土資料)

 ▽寛文蝦夷蜂起
 寛文9年(1669)6月、松前藩に対するさまざまな不満や和人の蝦夷地(えぞち)進出、災害による社会不安などを原因として、シブチャリ(北海道新ひだか町)のアイヌ首長シャクシャインを中心とするアイヌ集団が蜂起し、多くの和人が襲撃された。世に言う「寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)」である。
 蜂起は蝦夷地東部のシラヌカ(北海道白糠町)、西部のマシケ(北海道石狩市浜益)にまで拡大した。事件の報告を受けた幕府は旗本の松前泰広(まつまえやすひろ)(当時の松前藩主の大叔父)を鎮圧の指揮官として派遣し、奥羽諸大名には、松前藩への加勢を準備させた。蜂起は、江戸時代最大規模の民族衝突に発展したのである。結局、シャクシャインらは強大な軍事力を誇る幕藩権力によって鎮圧され、アイヌ社会の日本社会への編成が、一歩推し進められることになった。
 ▽アイヌ蜂起と弘前藩の役割
 松前藩からアイヌ蜂起の情報を受けた弘前藩は、直ちに幕府へ報告した。また、藩主津軽信政(つがるのぶまさ)の意向で、幕府から規定された負担を超える規模の加勢隊が送られることになった。さらに、現地の詳しい情勢や隣接する諸藩の動向を探るため藩士を各所に派遣するなど、盛んな情報活動を展開した。特に、松前城下には藩士を連続して滞在させ、複数のルートから情報を取り入れることで、より客観的な情勢を把握しようとした。
 蜂起自体は、シャクシャインらが松前泰広の軍勢に謀殺され、シブチャリのチャシ(砦(とりで))も陥落したことで、同年10月にはほぼ鎮圧された。しかし、以後も不穏な情勢が続いたため、弘前藩は翌年も松前や蝦夷地に探索船を派遣し、蝦夷地各地のアイヌとじかに接触するなどして情報収集につとめた。これらの情報も、幕府に報告された。
 寛文蝦夷蜂起における弘前藩の活動は、享保16年(1731)成立の「津軽一統志(つがるいっとうし)」に詳く記録された。藩の事績として記録された理由としては、信政が「威風(いふう)を夷狄(いてき)(異民族アイヌ)に振るう」人物であるとされていることから、松前への派兵を信政の「威風」とし、自領内にもアイヌを抱える弘前藩が、当時の日本において「北狄(ほくてき)(北方の異民族)の押へ(おさえ)」であるとの認識をはっきりと示したものであった、と指摘されている(長谷川成一『弘前藩』)。
 ▽アイヌ蜂起の物語化
 「津軽一統志」には、シャクシャインらが蜂起するに至るアイヌ社会内部の問題や、和人との確執についても記録されている。しかしこれらの情報は、弘前藩が情報活動をはじめた寛文9年の段階で、松前城下では、すでによく知られていたものであったと考えられる。同内容の情報は翌寛文10年、「寛文拾年(かんぶんじゅうねん)犾蜂起集書(えぞほうきしゅうしょ)」(弘前市立弘前図書館蔵八木橋文庫)というかたちで弘前へ伝えられ、幕府へも提出された。また、宝永(ほうえい)7年(1710)に巡見使(じゅんけんし)の随員として松前を訪れた松宮観山(まつみやかんざん)が蜂起鎮圧隊に加わった通詞(つうじ)(アイヌ語通訳)の勘右衛門(かんえもん)から聞き書きした「蝦夷談筆記(えぞだんひっき)」(海保嶺夫『北方史史料集成』所収)にも、同じような内容が記録されている。
 後々、アイヌ蜂起とその鎮圧の過程はさまざまにデフォルメされ、お伽草子(とぎぞうし)の「御曹子島渡(おんぞうししまわたり)」などに見られる義経(よしつね)入夷伝承(にゅういでんしょう)などを取り込んで、荒唐無稽ともいえる「アイヌ蜂起物語」が創作されるようになる。アイヌ蜂起の事実はこうした軍記物語により、脚色されたかたちで民間社会に流布し、江戸時代における庶民のアイヌ観や蝦夷地観に影響したと推測される。史実が物語として脚色され、庶民の認識によって新たな「歴史的事実」となっていくのはよくあることだが、その典型のひとつがここに見られる。
(札幌大谷中学校・高等学校 市毛幹幸)

 

◆一口メモ チャシ
 アイヌの柵囲(さくがこ)いや砦の遺跡。主として16~18世紀に多く築造され、北海道の日高地方から道東にかけて広く分布する。堀をめぐらし、防御や戦闘の砦の機能を供えていたが、本来は祭りや談合の場として用いられ、聖域の意味を持っていた。