「饅頭石」(筆者撮影)
 
「饅頭石」の採集(筆者撮影)
 
平尾魯仙『合浦奇談』(右)と木内石亭『雲根志』(左)に記された「饅頭石」(筆者提供)

 ▽球状で中には「餡」も
 旧浪岡町を含む青森市南西部一帯に、「饅頭石(まんじゅういし)」(団子石=だんごいし)と呼ばれる石が産出する。大きさや形はさまざまだが、多くは直径2~4センチ程度の球状で、外観は黄土色。割れば、中には饅頭さながらの真っ黒な「餡(あん)」まで入っている。
 伝説によれば、その昔、この近辺で茶店を開く老婆が旅人に毒饅頭を食べさせ金品を奪っていたが、その饅頭が石になったのだ、という。他にも、新城(青森市)の城主が藤崎の城番に格下げとなった恨みを晴らすため、敵に食べさせようとこしらえた毒饅頭だとか、石川城主の南部高信(たかのぶ)が戦で不意打ちされ、慌てて重箱から落とした饅頭だとか、木曾義仲の娘が父の仇(かたき)を討つため茶店を営み、鎌倉方の者に喰(く)わせた毒饅頭だとか、さまざまな話が伝えられている。果ては、源義経が蝦夷落ちの時に食べ残した饅頭だ、というものまである。いずれも、それらが「化石」となって出土するのだとしている
 ▽江戸時代から知られた奇石
 「饅頭石」の存在は、早くから知られていた。天明5年(1785)、菅江真澄は大豆坂(まめさか)(青森市入内)を通る際、同所に産出する「饅頭石」について触れ「烏余糧(うよりょう)」の一種だろう、と記している。また、寛政7年には高陣場(青森市浪岡)の「土饅頭」について、「かて石」(=糧石)のようなもの、と記している。
 幕末の弘前で活躍した画家平尾魯仙(ひらおろせん)も、青森街道の「比目魚(ひらめ)沢」に産出する「饅頭石」について取り上げており、砕けば中に黒土があり、蒸し上げて薄皮をむいた「おぼろ饅頭」によく似ていると、記している。
 ▽全国で産出
 珍しいようでも、「饅頭石」はこの地域だけの特産ではなく、野辺地町の通称「まんじゅう流れ」や田子町の「団子坂」など県内をはじめ、東北・関東から山陰・九州まで、全国のさまざまな場所で産出する。本
草学者貝原益軒(かいばらえきけん)は、長州の「饅頭石」を取り上げており、奇石収集家と
して有名な木内石亭(きうちせきてい)は「饅頭石」の産地として、甲斐・安房(あわ)・常陸・筑前・伯耆(ほうき)・長門とともに「奥州津軽」を挙げている。
 岩手・山梨・鳥取には、弘法大師や乞食(こじき)僧が諸国を巡り歩いた際、茶店の老婆に饅頭を所望(しょもう)したが、汚い身なりを見て売り惜しんだところすべて石になり、それが「饅頭石」となった、という由来譚がある。遠く離れた土地に同じような話があるのが面白い。
 ▽なりたちは未解明
 「饅頭石」は、どのようにしてできたのだろうか。昭和41年(1966)、県立青森西高校科学部地学班の生徒らが青森市南西部産の「饅頭石」について研究を行い、日本学生科学賞(入選2等)を受賞した。この研究では、「饅頭石」の構造を内核・外核・内皮・外皮の4つに分けて分析している。その上で、八甲田の噴火に伴う火山灰層中の火山礫(れき)が核となり、そこに水の働きが加わって、核に鉄分が、皮に珪酸(けいさん)分が濃集したものである、と結論づけた。
 のちに、この研究を指導した澤田庄一郎氏によって正確な分析結果が示され、外核には皮の約25倍もの酸化マンガンが含まれているというデータや、核から皮に向かうに従い、白色の粘土鉱物の量比が増加する傾向にあることが示された(『「だんご石」の組成と成因)黒い餡と明るめの色の皮とのコントラストは、こうして生じていると考えられる。
 県外の「饅頭石」の報告を見ても、火山の噴出物に含まれるマンガンや鉄の濃集に水の働きが関わっていることは、概(おおむ)ね共通しているようである。ただし、産地ごとに組成に多少の違いがあり、「饅頭石」のなりたちについてはまだ、未解明の部分も多い。
(青森県立郷土館研究員 増田公寧)

 

◆一口メモ 烏余糧(うよりょう)
 禹余糧・兎余粮とも。成分的には褐鉄鉱の一種で、中医学では薬として用いる。似たものに卵石黄(らんせきおう)があり、本草学者の小野蘭山はこちらを「饅頭石」として、津軽を含む国内9か所を産地に挙げている。