「可足記」の義経渡海記事(弘前市立弘前図書館蔵岩見文庫)
「津軽一統志」首巻にみえる三厩(弘前市立弘前図書館蔵八木橋文庫)
義経が馬を繋いだという三厩の「厩石」(市毛幹幸撮影)

 ▽義経入夷伝説とは
 文治5年(1189)閏4月30日、源義(よし)経(つね)は藤原秀(ひで)衡(ひら)の舅(しゅうと)基(もと)成(なり)の居館である衣(ころも)川(がわ)館(たて)(奥州市)に滞在中、秀衡の子泰(やす)衡(ひら)の軍勢に襲われ、最期を遂げた。これは鎌倉幕府の史書『吾(あ)妻(づま)鑑(かがみ)』にも記録された、歴史的事実である。しかし一方で、義経は脱出して夷(えぞが)島(しま)(北海道)へ逃れ、蝦夷を征伐したという蝦夷渡りの物語が、今日に至るまで語り継がれている。
 義経入(にゅう)夷(い)伝説は、室町時代から江戸時代初期にかけて創作された御(お)伽(とぎ)草(ぞう)子(し)の一種「御(おん)曹(ぞう)司(し)島(しま)渡(わたり)」に基づいている。「御曹司」(若き日の義経)が夷島に渡って現地の大王の娘と契り、「大日の法」なる兵法書を奪って戻り、源氏の世を築いたというあらすじである。
 義経入夷伝説の原型は、寛文10年(1670)に江戸幕府が編纂した「本(ほん)朝(ちょう)通(つ)鑑(がん)」に初めてあらわれ、元禄~享保期に中央の学者や作家らによって物語が増幅、流布され、民衆に広まっていったという(菊池勇夫『幕藩体制と蝦夷地』)。折しも、寛文9年にシャクシャインら蝦夷地アイヌの騒(そう)擾(じょう)事件(寛文蝦夷蜂起)が起き、北方への関心が高まっていた時期のことである。
 ▽「可足記」と義経入夷伝説
 伝説にちなむ旧跡・地名は数多く生まれたが、津軽地方で最も有名なのは、義経が三厩(外ケ浜町)から夷島に渡海したというエピソードであろう。
 江戸時代の三厩は津軽と夷島の松前を結ぶ幹線ルートに位置し、松前藩主や幕府巡見使も滞在する要港であった。この三厩に最初に注目したのは「可(か)足(そく)権(ごんの)僧(そう)正(じょう)筆(ひつ)記(ぎ)」(「可足記」)をあらわした可足なる人物であったとされる(菊池勇夫「義経蝦夷渡り伝説の地方的展開」)。
 可足は、実は弘前藩3代藩主津軽信(のぶ)義(よし)の子で、4代藩主信(のぶ)政(まさ)の弟にあたる人物であった。元禄~宝永期、彼は弘前藩からの求めに応じ、歴代の先祖に不明確な点が多い津軽家の系譜を正すため「可足記」をあらわした。可足は、津軽家の先祖を藤原秀衡の弟秀(ひで)栄(ひさ)とした上で、衣川脱出後の義経は秀栄の子秀(ひで)元(もと)が支配する津軽十三湊(五所川原市)に逃れ、そこで再起して鎌倉攻めを試
みたが、利を失って外ケ浜に落ち、三厩から夷島に渡海して、蝦夷征伐ののちに大陸に渡ったと、義経の三厩からの蝦夷地渡海説を描いたのである。
 ▽「津軽一統志」と義経入夷伝説
 可足が描いた物語は、享保16年(1731)に成立した弘前藩の官撰史書「津(つ)軽(がる)一(いっ)統(とう)志(し)」にも活かされた。同書では、義経が夷島に渡海し蝦夷を征伐した後に大陸に渡ったとする「可足記」のあらすじに加え、三厩の地名譚(たん)(義経が渡海する際に馬三頭をつないだ厩跡の岩屋があることからその名が付いたという)も記している。こうして義経の三厩渡海伝説は入夷伝説に結びつけられ、弘前藩の保証をも得て広まっていった。
 ▽伝説と歴史学の間で
 「可足記」で津軽家が義経の保護者であった藤原秀衡と血縁関係にあり、三厩が義経の蝦夷征伐の出発点であったと記されたこと、また、「津軽一統志」で弘前藩が自らを異民族に対する「北(ほく)狄(てき)の押へ」と位置づけ、三厩が義経の蝦夷征伐の出発点であると記したことは、多分に意図的な作業だったと言える。すなわち、津軽における義経入夷伝説は、弘前藩にとって、夷島・アイヌに対する自藩の歴史的な位置づけを主張する上での、重要なより所であったことを示しているのである。
 義経入夷伝説の本質は、この伝説が寛文蝦夷蜂起後に流布されたことからも推測できるように、日本人による蝦夷(アイヌ)征伐の物語として語り継がれたところにある。精神文化としての伝説は尊重すべきだが、一方で、歴史的事実との冷静な対比を続ける努力もまた、求められよう。
(青森県史編さんグループ非常勤嘱託員 市毛幹幸)

 

◆ひと口メモ 御伽草子
 室町時代から江戸時代初期に広まった短編物語の総称。公家物・武家物・僧侶物・庶民物・異国物・異類物など多くの分野におよび、「一寸法師」などのように、童話やおとぎ話のもとになっている物語もある。