石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

知人の本。

記事や本を書く仕事を20年も続けていると
私のような社交性ゼロの人間でも
「知人」と(一方的にかもしれないが(畏れ多いような気もするが))思える方が何人か
念頭に浮かぶようになる。
会ったことのある方の書いた本
というのは、
頭の中に、半ばその人の肉声が再生される形で読めるので
楽しい。


もとい、肉声、というほど近いものでなくとも
私の本を読んできてくださった皆様には
「ああ、あの本の、あの人か」
と思って頂ける方が幾人もあると思う。
このところ手元にそういう方々の本が数冊重なったので、
ご紹介したい。


#
『いつか、晴れる日。』『後ろ歩きにすすむ旅』でお世話になった写真家、
野寺治孝さんの写真本『トラベル・フォトレシピブック』
前作もご紹介したが、大好評で第二弾の出版となったそうだ。
前よりサイズがひとまわり大きくなっている。

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この本の特徴は、単なる写真集ではなく、
「撮り方」が書かれているのだが
その「撮り方」のポイントが面白い。
凝ったカメラなど持たず、スマホでインスタにあげたいだけ、
という人にもすごく役に立つようにできている。
というのも、
被写体をどう捉えるか、
どういうことを念頭に置けば「風景」が「写真作品」になるのか、
ということのヒントを軸に綴られているからだ。
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機材や設定などのことも勿論触れられているのだが、
どんなに技術が優れていても、
まずは「被写体を見る目」がなければ、
良い写真は撮れないんだろうと思う。
そのことが単に「センス」で片付けられず、
タイトル通り「料理のレシピ」のように、
きりっとシャープに解説されている。
眺めているだけでも楽しい。


#
『選んだ理由。』にご登場頂いた阪大の仲野先生の新刊
『こわいもの知らずの病理学講義』
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誰でも病気になるけれど
「じゃあ、病気とはなんだろう?」
と考えると、よくわからない。
症状とか、薬や療法の効果ということには興味を持っても
病気というものそれ自体
については、
あまり考えたことがないような気がする。
この本は、まさにそれについて書かれている。


病気とは何か
という問いに、まず導入として、こうある。

ごくおおざっぱにいうと、病気になるということは細胞が傷むということです。
(中略)もちろん、中には、精神疾患のように、現時点では細胞レベルの異常が正確には確定されておらず、
「機能的疾患」と呼ばれる病気もあります。それらの病気であっても、異常の原因は細胞にあると考えるのが妥当です。
ウィルヒョウが「細胞病理学」と宣言したように、ほとんどの病気は細胞の異常によるものなのです。

心の「へえーボタン」を5回くらい押した。
そうか。
昔理科の授業で見たあの細胞でこのからだはできていて、
病気というのは、あの細胞たちが調子悪くなる、ということなのか。
考えてみれば、たしかにそうだよな、、
と思った。


わかってもわからなくても、病気は怖いし、ツライ。
でも、わからないものよりもせめて、
どういうことなのか、ということをわかっているほうが、
怖ろしさの度合いは、少しだけ減る。
この本は面白く読める、ということもさることながら
病気への恐怖心をあたたかく冷ましてくれるようだ。


ちなみに星占い屋として心の付箋を入れたのは
ガンの語源のことである。
漢字での「癌」は岩の異字体にやまいだれ、
かたいしこりができるからそうなったらしい。
英語ではキャンサーだ。

星占いでのかに座もcancerであることからわかるように、語源はカニです。
どうしてカニが語源なのかは、カニのような形で広がっていく、カニのように体にへばりつく、とか、
カニの甲羅のように固い、とか、諸説あって、はっきりしないようです。
言葉としては、医聖・ヒポクラテスの著書にまで遡ることができるので、
ギリシャ時代には、すでにカニにたとえられていたということになります。

昔の西欧世界では、星占いと医学は切っても切れない関係だったので
昔の医術の話になると、ちらほら、星占い脳が刺激される。



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こちらも『選んだ理由。』でお世話になった、
劇作家・阿藤智恵さんのエッセイが掲載されている
『テアトロ8月号』
私の名前がちらっと出てくるというのでお知らせを頂いたのだが
ほんとにちらっと出てきてニヤニヤした(謎
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「戦争と演劇」
という特集テーマで、流し読みしてみたのだが
基本的には
「演劇を通して戦争をどう表現するか・記憶するか」
といったことが観点になっているように思われた。


でも、私がこの特集テーマを見て最初に想起したのは、
「戦争のなかで演劇がどういう意味を持つか」
ということだった。


ボスニア紛争のさなか、
批評家スーザン・ソンタグは現状を見るためにサラエヴォに入り、
現地でなにかできることを探した。
彼女は、病院の仕事がしたいと思っていた。
自分はタイプが打てるし、英語も教えられるから、
看護師の助手のような仕事があるのでは、と考えた。
しかし、現地で「なにかやることはないか」と聞いてみると、
現地の人々からは、なんと
「劇を演出してくれないか」
と言われたのだった。

ともかく、私としては「芝居?」と、当惑してしまいました。
「何のために芝居をやりたいのか。もっと役に立つことをやらせてもらえないか」と言うと、
あなたは何もわかっていない、という目で見返されてしまいました。
そう、何もわかっていなかったのです。
「そうじゃない。我々はたんなる動物ではない。
水の配給やパンを求めて長い列に並び、銃撃され、殺され……それだけじゃないんだ。
ここにも何らかの芸術活動があるべきだ、それが自分たちの尊厳を支えてくれる。
たとえ朝十一時という異常な上演時間でも、芝居見物がしたいんだ」
と言われました。

『良心の領界』スーザン・ソンタグ著(NTT出版)より。



演劇が、芸術活動が、人間の尊厳を支える。
そのリアリティを、今の私は持っているだろうか。
これを書き写していても
指先がわずかに震える思いがする。


この号掲載の阿藤さんのエッセイは、
直接的に「戦争と演劇」という特集の中にあるものではない。
ただ、
彼女のエッセイ「『関係-未来/愛について』について」の中に、
こんなくだりがある。

生き物にとって、一番大切なのは「生きる」ことだと思っていて、
端的に言えばそれは食べること。
(中略)
げきは集団で作るものだ。げきを作る場もまた、
「生活」の場でありたい。
だから「ごはん」である。
今回も、みんなの分のごはんを、
せいぜい軽食程度だけれど、毎回作って運んだ。


過去の物語として、あるいは未来の恐怖のヴィジョンとして描かれる「戦争」では、
主に「死」にスポットライトが当たるように思われる。
死と生とが、白と黒のようなコントラストの中に浮かび上がる。
でも、現実として生きられる戦争のすがたは、
必ずしもそうではない。
そこにも「生活」があり、「人間の尊厳」を支えるような芸術がある。
阿藤さんが教えてくれた
『運命ではなく』ケルテース・イムレ著
にも、その光景が描かれていた。


この世界は人生は断じて「物語」などではない、という思いと、
日々「物語」を、心底必要とする思いと。
「物語」には、毎日食べるご飯や毎日の洗顔、入浴、排泄などは出てこない。
しかし、日々のなかで入浴や食事自体をじっと見つめても、
私たちの人生の聖なる何かは、なかなか見つからない。
物語を通して、私たちは時々、自分自身の人生や、生きる世界を見つける。
私たちは息をすっては吐くように、
反対側にある思いをつねにぐるぐるとぶつけながら
運命の輪を回して生きているようにも思える。