城の床板にこっそり、大工が書いた19世紀フランス農村の赤裸々な秘密

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Image caption 「1880年、クロット村のマルタン・J、38歳」と書かれた床板

フランス・アルペン地方の城で、床板の裏に大工が書き綴っていた秘密の日記が見つかった。19世紀後半のフランスで、村の住民がどのように暮らしていたかを知る貴重な資料だという。BBCパリ特派員のヒュー・スコフィールド記者が解説する。

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フランス南部ピコムタル城の新しいオーナーが、上階の部屋の床板を新調することにした。そのおかげで、素晴らしい発見につながった。

はがされるまで誰の目にも触れなかった床板の裏には、鉛筆で長文が書き込まれていた。メッセージは1880~1881年の数カ月間に書かれたもので、「Joachim Martin(ジョアキム・マルタン)」と署名がしてあった。

ジョアキム・マルタンとは、当時の城主の依頼で床板を張った大工だということはすぐに分かった。残された秘密の日記は、いつか人の目に触れることがあったとしても、自分はそのころとっくに死んでしまっているという前提で、書かれたものだ。

A bedroom in Picomtal Castle Image copyright Alamy

72件の記述には、長いものもあれば、事実だけを書いたもの、さらには書き手の強い気持ちで脈打つような内容のものもあった。ジョアキムは日々の仕事をしながら、思い浮かぶ内容を書き留めていたのだ。

ソルボンヌ大学の歴史学者ジャック=オリビエ・ブドン教授は、「これは普通の労働者、一般人の言葉だ。誰かが読むとしてもずっと後のことだと分かっているので、とても個人的なことを書いている」と説明した。

確かにジョアキムの日記は個人的だ。セックスや犯罪、宗教について(時にはこの3つを同時に!)書いている。そのおかげで私たちは、城壁の外にある小さなレ・クロット村の出来事について、実に珍しい舞台裏をちらりと見ることができる。

Picomtal Castle and mountain forest Image copyright Alamy

最も衝撃的な内容は赤ん坊殺しについだ。ジョアキムは明らかに12年間、この事件を忘れられずにいた。

「1868年の真夜中、馬小屋の扉の前を通りかかると、うめき声が聞こえた。旧友の愛人で、出産の真っ最中だった」

日記によると、この女性は6人の子どもを生み、そのうち4人を馬小屋に埋めた。ジョアキムは赤ん坊を殺したのは母親ではなく、父親で自分の旧友のベンジャミンだとはっきり書いている。そのベンジャミンは、今度は自分の妻に言い寄っているのだと。

「この犯罪者は今、私の結婚生活を壊そうとしている。自分が一言口にして馬小屋を指差せばそれで済む。全員が牢屋行きだ。でもそんなことはしない。幼なじみだし、あいつの母親はうちの父親の愛人だ」

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Image caption 床板に書かれたジョアキムの日記。ここでは、「このトロップマンの弟子、ドゥモラールとビタリスの仲間(いずれも当時有名だった殺人犯)は何度か私の結婚を台無しにしようとした。自分が一言口にして馬小屋を指差せばそれで済む。全員が牢屋息だ。でもそんなことはしない。幼なじみだし、あいつの母親はうちの父親の愛人だ」

「ジョアキムの床板」という本を出版したブドン教授によると、この日記によって、通常の歴史資料ではとうてい知ることの出来ない、農村人間関係の実態を垣間見ることができる。

ジョアキムは度重なる赤ん坊殺しにぞっとしつつ、当事者を非難しない。自分とベンジャミンの家族は隣人で、しかも両家には親密な関係があるからだ。赤ん坊殺しはもちろん犯罪だが、避妊具が普及する以前は、珍しいことではなかったのかもしれない。

ジョアキムの日記からは、レ・クロットのような農村地域で赤ん坊殺しがタブーだったことが伺える。誰もが知りながら口をつぐんでいたのだ。

ジョアキムが床板に本音を書き込んだのは、抱えている秘密の重さも一因だったかもしれない。さらには、地元の神父に対する怒りも、日記を書く動機となったようだ。

1880年代は急激な変化の時代だった。フランスでは王党派の最後の挑戦が終わり、第三共和政が足場を固め、全国で教会権限を縮小する改革が導入されていた。

ジョアキムはこうした改革を歓迎していた。それは主に、ラジェール神父への個人的な反感が理由らしかった。ジョアキムは神父が病的な女好きで、告解を悪用して女性との性行為に及んでいたと非難している。

ジョアキムは床板にこう書いた。「まず、我が家の家庭事情に首を突っ込んでくるのだが、そのやり方がすごくおかしい。妻とどのように性交渉しているか聞くなど」(ジョアキムは実際にはもっと下品な言葉を使っている)。

神父は「月に何回しているか知りたがった」とジョアキムは書き、体位について詳しく赤裸々につづった挙句、こう結論する。「この豚は絞首刑がふさわしい」。

この日記では他にもこの神父のことを、「女たらし」と書いている。「そら見ろ、女たちにお辞儀をしている。妻を寝取られたかわいそう夫たちは、じっと黙っているしかないんだ」。

ブドン氏によると、ラジェール神父が告解室で村の女性たちに性生活について質問したのは、仕事を逸脱したわけではないかもしれない。むしろ、当時の司祭はよくこういう質問をしていた。夫婦でも子供の誕生につながらない性行為は慎むよう説得することは、宗教的に必要だとされていたからだ。

それでも、聖職者によるこうした私生活への詮索が、人々の恨みを買い、反教会的な感情の高まりにつながっていたことが、この記述からうかがえる。

興味深いことにブドン教授は、レ・クロットの神父と信者たちの緊張関係を裏付ける別の資料も発掘している。1884年には地元議会の副議長に宛てて、ラジェール神父の交代を求める請願が送られた。請願を補強する書簡もいくつか添えられており今も保管されているそのうちの1通がジョアキムによるものだった。

請願に賛同した人たちはまず、神父が告解を悪用したと非難した(間接的にそれはつまり、司祭の不道徳を意味する)。さらに、神父が医師としてひどく無能だったと責めている。

農村生活の一端を垣間見る上で、実に興味深いくだりだ。当時の村の司祭は多くの場合、治療者の役割も果たしていたのだ。医師はこの慣習に大いに反発していたが、医師の数は少なく、司祭は病人の付き添いに慣れていた。

ジョアキムと仲間の信者たちは、特にこの点については異論はなかったようだ。ただ単に、レジェール神父がやぶ医者だというのが問題だった。

さらに面白いことに、請願者たちは神父の代わりにカトリックではなくプロテスタントの牧師を要求した。レ・クロット村にはプロテスタント信者がほとんどいなかったのだが(ジョアキムの母親が実は、その数少ない1人だった)。

つまり、カトリックとプロテスタントの違いというのは、一般の人にとっては言われているほど厳密ではなかったということだと、ブドン教授は指摘する。当時の村の状況からすると、妻帯している(そしてその分、それほど好色ではないだろうと思われた)牧師というのは、かなり好ましかったのだろう。

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Image caption 「幸せな人間よ。あなたがこれを読むとき、私はもういない。15歳から25歳の自分より、賢く生きてほしい、当時の私は愛と酒に溺れ、何もせずに浪費ばかりしていた。私はバイオリン弾きだった」

ジョアキム・マルタン本人については、あまり分かっていない。1842年に生まれ、1897年に死んだ。若いときには村の祭りでバイオリンを弾いて収入を得ていた、4人の子どもがいた。ジョアキムを写した写真は残っていない。

しかしブドン教授は、ジョアキムは明らかに知性と分別の持ち主だったと考えている。

床板の秘密の日記でジョアキムは、見知らぬ読者がいつか自分の痕跡にたどり着いてくれることを期待して、直接語りかけている。

「幸せな人間よ。あなたがこれを読むとき、私はもういない」

「私の話は短く誠実で率直だ。私の書いたものを読むのは、あなただけだから」

(英語記事 The secrets of a diary written on floorboards

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