書評
『言語の夢想者―17世紀普遍言語から現代SFまで』(工作舎)
夢想言語博物館
はじめはアダムの言語という一つの言語しかなかった。しかしおごりたかぶった人間が天までとどくバベルの塔を建てようとしたので、神は世界中に諸言語をバラまいた。諸言語が通じあわないために、バベルの塔は崩壊してしまう。創世記にあるバベルの言語のエピソードである。世界をバベル的混乱からもう一度一つの世界へと救済するには、どんな言語が要請されるだろうか。ひとつは、言語のバベル的状況を、にもかかわらず塔建設という人工的作業によって天まで持ち上げること。つまりユートピア建設とそのためのユートピア言語の発明。エスペラントをはじめとする人工言語がこの方向をめざす。一方ではしかし、原初のアダムの言語という楽園に回帰しようとする動きがきざす。こちらはインド=ヨーロッパ祖語研究といった学問的レベルにもあらわれるが、分節言語以前にじかに立ち戻ろうとする、異言や外国語がかり(知らないはずの外国語を突然しゃべりだす)のような病理学的退行現象を引き起こしもする。
私たちの自然言語は、この二つの方向からたえず危機にさらされているわけだ。人工性が極端になれば、オーウェルの「一九八四年」におけるような、統制言語による悪夢が生じる。げんに本書にも、スターリン独裁と結びついたマール言語学の恐怖の面が紹介されている。一方、ペンテコステ派のような宗教的異言や霊媒の外国語がかりでは自然言語は解体され、土着的小共同体のなかでしか通じなくなる。二つとも自然言語の外部にたまった、秘密結社的もしくは極端に個人的な言語だ。言語は社会的存在だから、どちらも反社会的もしくは非社会的存在として、おぞましいものを見るような目でながめられてきた。
それをSFや言語狂や霊媒の世界から精力的に博捜しているので、本書自体に夢想言語博物館としてのユーモラスな面白さがあるのはいうまでもない。しかし著者の意図はむしろ、奇妙な人工言語や異言の構成する言語の迷宮をさまよったあげく、ふたたび自然言語という出口を見出す道程にあるだろう。相反する二つの方向に引き裂かれた自然言語が、にもかかわらず相反力の戯れの場として均衡状態を内在させているという終章で、言語学者にして三児の母でもあるヤグェーロは言語迷宮の出口にたどりつく。迷宮を脱出する手立てがアリアドネーの糸なら、この言語迷宮をつらぬく一本の糸は「愛」である。
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