(さいとう・たまき)
1961年、岩手県北上市生まれ。筑波大学医学専門学群を卒業し、1986年より筑波大学大学院で稲村博研究室に。1987年から爽風会佐々木病院勤務。同病院診療部長などを務めた。現在は、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、病跡学、精神分析、精神療法。「ひきこもり」についてメディアに発信し続けているほか、近年は「オープン・ダイアローグ」の啓蒙活動に精力的に取り組んでいる。マンガ・映画などのサブカルチャー愛好家としても知られる。おもな著書に『社会的ひきこもり――終わらない思春期』(PHP新書1998)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版2000)『オープンダイアローグとは何か』(医学書院2015)など多数。
インタビュー日時:2018年3月20日
聞き手:山下耕平、貴戸理恵
場 所:筑波大学総合研究棟D
写真撮影:山下耕平
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〈テキスト本文〉
山下 まずは、ご自身の子ども時代のことからうかがいたいと思います。斎藤さんご自身は、学校との関係はどんな感じだったのでしょう。
斎藤 私は1961年に岩手県北上市和賀町で生まれたんですが、かなりの僻地で、小学校は1学年1クラス22名の小さい学校でした。家庭環境がちょっと特殊だったのは、両親がふたりとも教師で、もっと言えば、親戚中、教師だったんです。農村部ではめずらしいインテリ家庭で、私自身、勉強もできたし、特別扱いを受けていたところはありました。
学校は楽しかったですね。少人数で友だちとの距離は近いし、みんな親しくて、とくに疎外感があるとか、いじめを受けるということもなく、過ごしていました。ですから、学校に反発するとか、不適応を感じることはなくて、むしろ学校は好きでした。
山下 親戚中が教員ということで、プレッシャーなどはなかったんでしょうか。
斎藤 むしろ、教師の裏の顔を知っているので、教師に変な幻想を持たなかったと思います。日教組の組合員で、お盆や正月に親戚が集まると教育談義に花が咲くんですが、日教組運動の裏を見ていると、ある意味ではエゴのぶつかり合いで、自分たちの生活のためにやっている部分がある。教師も人間だとわかって、それはよかったと思います。将来の仕事として教師はまったく視野に入っていませんでしたが、親から「医者になれ」というプレッシャーはありました。精神科医を選択したのは、そうしたプレッシャーへの反発があったかもしれません。たぶん、がっかりしたでしょうから(笑)。
それと、私は哲学や思想といった人文的な関心が強くて、周囲の医学生とは距離感があったんです。当時は精神科医になる人は、人文志向が強い人が多かったので、それで精神科医しかないと。
●稲村研究室に
山下 稲村博さん(精神科医/1935―1996)に師事された経緯を教えていただけますでしょうか。
斎藤 当時、臨床系には小泉準三という教授がいて、この人はいまどき患者供覧(授業に患者を連れてきて学生に見せる)を平然とやってのけたり、「患者の言うことは偏ってるからカルテに書くな、家族から得た客観情報だけ書け」と指導するような人で、ここだけには行くまいと思っていました。ほかには、社会医学系に小田晋教授と稲村博助教授の研究室がありました。稲村さんの研究室は自分で選んだわけではなくて、実習中に強力に勧誘されたんですね。上野の名曲喫茶で。それまで、稲村さんの業績については、ぜんぜん知りませんでした。
山下 稲村研究室には学部生から入っていたんですか。
斎藤 いえ、院からです。院に入ったのは1986年で、ここは大事なところなのですが、稲村研究室は85年まで不登校の入院治療をやっていて、私は、ギリギリそれに関わらずに済んだんです。1985年に堂本暁子さんがTBSの報道特集で「格子のなかの悲鳴」という番組を流して、稲村さんの入院治療はマスコミに叩かれて、院長がくだんの「思春期病棟」を閉鎖したんです。
山下 その入院治療をしていた病院というのは、浦和神経サナトリウムですよね。
斎藤 そうです。稲村さんは、無理やり一般病棟の一部を「思春期病棟」ということにして、非常に劣悪な環境で、たくさんの不登校の子どもたちを閉鎖病棟で収容治療していました。当然ですが、子どもたちはイヤがって、「こんなところにはいたくない」と再登校を始める。それをもって「入院治療は有効だ」と言っていたわけです。非常に情けないとしか言いようのないことをやっていたわけです。
当時、この治療に荷担させられた山登敬之さん(精神科医)は、「自分は本来、子どもの側に立つ人間なのに、何も知らない新人時代にこんな治療に関わらせられた」と、稲村さんのことをとても恨んでいて、稲村さんが亡くなるまで許していませんでしたね。病棟から逃げた子どもを迎えに行かされたり、力ずくでつれてこさせるようなことも、やらされていたそうです。
山下 児童青年精神医学会で稲村さんの治療についての調査を担当した高岡健さんは、斎藤さんも浦和神経サナトリウムでの治療に関わっていたと話されていますが(本プロジェクト#35参照)、それは事実誤認ということでしょうか。
斎藤 浦和神経サナトリウムには非常勤で半年だけいて、入院治療にも関わっていました。ただし、ほとんどは成人の統合失調症の患者で、くだんの「思春期病棟」には関わっていません。すでに存在していなかったですからね。
●遷延化・無気力は
山下 斎藤さん自身は、稲村さんの考えについては、どう思われていたのでしょう。
斎藤 弁護するわけではありませんが、稲村先生は、臨床家としてはそこそこ誠実な人ではあったと思います。晩年まで、いのちの電話でまわされてきた難しいケースを富坂診療所で無償で診ていたりしていました。
私は、直接、入院治療に手を染めなかったこともあって、そこまでの恨みはないですし、尊敬できる部分もありました。たとえば自殺予防学会やいのちの電話の創設にかかわった点は自殺予防活動のさきがけという点でも歴史的意義があったと思います。自殺予防の試みから創案された『心の絆療法』(誠信書房1981)は、彼が書いたもののなかで一番残るもので、イギリスのビフレンディング(*1)を紹介していました。これは、オープンダイアローグ(*2)にも通ずるところのある発想で、常識の延長上で治療するという考えです。そういう功績面を、スキャンダルをもとに、まったく否定してしまうのは、弟子としては残念な思いもあります。その部分では、私も薫陶を受けた面はありますが、学問的な面での指導はないに等しいです。
山下 浦和神経サナトリウムでの入院治療の問題については、あきらかに人権侵害の状況があって、誰が見ても問題だったと言えると思います。
斎藤 もちろんです。
山下 しかし、稲村さんが言っていた、不登校を放置すると「遷延化」するとか「無気力症」になる、そこになんらかの治療論が必要だという点については、斎藤さんは引き継がれているのではないでしょうか。
斎藤 そこは否定しません。最初の本である『社会的ひきこもり』(PHP新書1998)は博士論文をベースにしているんですが、このときに取ったデータでは、私の診たひきこもり事例の8割に不登校経験がありました。最近の文科省の調査(「不登校に関する実態調査」~平成18年度不登校生徒に関する追跡調査報告書/2014)でも、中学校3年生時に不登校だった人の5年後時点で、非就学・非就業の人は2割弱です。見方を替えれば、8割以上はなんとかなっているわけですが、母集団が約13万人で、その2割がすべてひきこもりではないにしても、一定数の人たちがひきこもっていく可能性を考えると、稲村先生の指摘は、まったくまちがえていたわけではないと思います。
ただ、警鐘の鳴らし方はまずかったと言わざるを得ないですし、「無気力症」という言葉は、あきらかにまちがいです。私の博士論文のテーマは「思春期・青年期に発症し遷延化した無気力状態に関する研究」で、このときは、まだ稲村先生の「無気力」という言葉を引きずっています。その後、無気力ではないということは明確にしておきたいと思って、「ひきこもり」という言葉にシフトしていったという経緯があります。
山下 治療論についてはどうでしょう?
斎藤 不登校の議論から学んだのは、不登校は状態像であって、病気でも価値判断の対象でもないということです。そのうえで言えば、逆に無関係であるからこそ、不登校のなかには、問題のない不登校もいれば、なんらかの治療的支援を必要とする不登校、別の言い方をすれば、病気の不登校もいる。これも事実だと思うんです。
医者としては、病気の不登校を持ったお子さんのニーズに対して応えられるスキルは持っていたほうがいい。これが私の立場です。それを強制したり、押し売りするのには反対ですが、医者のもとにニーズをもってやってきたとき、「不登校は医療の問題じゃないから来なくていいです」と追い返すことは、私はしたくない。
不登校を取り巻いている偏見というのは、精神医療だけではなく、クラスジャパンプロジェクト(*3)問題があぶりだしたように、不登校が増えると日本経済がやばいというような偏見もありますね。いわばスティグマです。精神医療の使命のひとつに、アンチスティグマがあります。偏見を減らすという意味からも、医者は関わりを断ちきるのではなく、どういう関わり方が望ましいかを対話を通じて見いだしていきたいというのが、いまの私の考え方です。
山下 それは、ひきこもりでも同じでしょうか。
斎藤 そうです。
●孤立状況を脱する非常口を
山下 不登校もひきこもりも状態像であって、それ自体が病気ということではない。しかし、一部には治療的対応を必要とする人がいる。そのとき、その症状の部分だけをDSM(*4)のように、それぞれの症状に分解する見方もあるわけですね。しかし、斎藤さんは、不登校とかひきこもりとか、あくまで状態像のところで治療に関わってこられた。そのあたりは、どういうことでしょう。
斎藤 不登校もひきこもりも、孤立に陥りやすい状態ですね。長期の孤立状態が多くの人びとの心身に悪影響を及ぼすことは、カシオポ(*5)らの研究を始めとして、おびただしい研究報告があります。イギリスでは孤独問題担当大臣を新設したそうですが、不登校やひきこもりを孤立状況と捉えなおすと、なんらかの支援のインフラはあったほうがいい。本人が孤立したくないときに、抜け出せる非常口を用意できるかどうか。
山下 医療は、その非常口のひとつであるということですか。
斎藤 そうあってほしいと思っています。オープンダイアローグを実践しているフィンランドのケロプダス病院では、福祉の相談も受けていました。せっかく病院に来たのだから、できる範囲で応えよう、患者のニーズに合わせようという発想がある。私も、医療というのは、そういうことでいいんじゃないかと思いました。
不登校は病気じゃないけれども、医療にできることはあるかもしれないから、その範囲内でサポートしていこうと。不登校もひきこもりも、医療、福祉、教育がクロスオーバーする領域です。ほんとうは、そこでネットワークが組めればいいんですが、実際は縦割りの状況がありますね。
山下 斎藤さんは、治療論として精神療法に可能性を見ている部分もあるかと思うのですが。
斎藤 オープンダイアローグを不登校への支援で試験的に用いていますし、良い感触を得ています。オープンダイアローグというのは、ケアの手法のひとつでもあり、治療らしくない治療です。薬は使わないですし、やっていることは対話だけですから。治療チームのネットワークで、クライアントのネットワークを修復するという発想です。患者個人の内面や脳に問題を還元するような発想とは縁遠い。
山下 精神医療の大きな流れとしては、投薬治療一辺倒になってしまっていますね。それは、治療論がきちんと議論されてこなかったがゆえでしょうか。その一方で、戸塚ヨットスクールなどに始まるマッチョな手法も連綿と続いていますね。
斎藤 それはあります。80年代前半に戸塚ヨットスクールが出てきたあたりから、ああいう団体がスキマ産業として力を持ってしまった。それは、日本において児童青年期精神医学が実質的に機能してこなかったことが大きいと思います。学会はありますが、大学では、青年期精神医学の講座にはないに等しい。看板を掲げている人はいても、それは、たまたま児童青年期を診る機会の多かった医者がやっているにすぎない(私も含めて)。これは貧しいと言うほかない状況です。児童青年精神医学会の学会専門医の資格を持つ医師も200人ほどしかいない。この人数ですべてのニーズに対応できるはずもない。そういう日本の医療インフラの貧困につけこむかたちで、戸塚ヨットスクールを始め、不動塾、風の子学園、コロンブスアカデミー、長田塾などが出てきたわけですね。親もそっちのほうが効き目がありそうに思って、つい行かせてしまう。そういう構図がずっと続いてますよね。
ですから、日本の精神医療も、せめて病院に来たら、追い返さないでいっしょにやっていこうと言えるレベルにはなってほしいと思っています。どこに行っても助けてくれないから、じゃあ戸塚ヨットみたいなところにというのでは困るわけです。
山下 しかし、オープンダイアローグというのは、私の感覚からすると、これは医者でなくともできるのではないかと思ったのですが。
斎藤 その通りです。不登校、ひきこもり支援の重要なポイントは、まさにそこなんです。数年の研修を受けた半専門家でよくて、ほんとうは医者はいらない。携わるのは、たとえばスクールソーシャルワーカーでもいいし、スクールカウンセラーでもいい。スクールカウンセラーは山ほどいるわけですから、ぜひ参加してほしいんですけど、心理士は個人精神療法の訓練を受けてきているので、チームでやりたがらないんですね。これがネックになっています。オープンダイアローグは、研修を2年くらい受けたら、誰でもできるレベルの技術です。精神医療のほとんどは、その程度のトレーニングとケアで十分だと思っています。精神科医の存在意義は、全体のごく一部を占める精神疾患や発達障害の鑑別と治療的対応、あとは治療や支援の結果に責任を負う立場というくらいでしょうか。
●クラスジャパンは最悪
山下 しかし、そこで専門性が必要だというのは、一定の枠組みがないと、個人の価値観やカリスマが横行してしまうという危惧があるということでしょうか。
斎藤 そうです。クラスジャパンなんて、ひどいですよね。「原田メソッド」とか言ってますが、あれはワタミでも使われている方法論だそうで、いわばブラック企業の社員教育の方法論を不登校にあてはめようという、おそろしいたくらみです。
逆に、こちらからうかがいたいのですが、教育機会確保法について、どのようにお考えなんですか。
山下 私はずっと批判してきたんですね。民営化の危険性や、子どもと親のニーズがちがうことなどを最初から指摘していたのですが、懸念した通りの状況になっていると思っています。
斎藤 私も最初はかなりましな法律かと思っていましたが、多様な学びの場を増やすという趣旨が、結局はクラスジャパンのようなビジネスを登場させる結果になっていて、本末転倒ですね。最悪ですよ、日本中をクラスにするという発想は。しかし、不登校の歴史を知っていないと、何が悪いのかわからないという人も多いでしょうね。
それと、敷居が下がったことで、親が選択肢を子どもに押しつけやすくなってますね。親の不安につけこんだ法律だと言われても仕方ないと思います。いずれ大幅な見直しが必要ですね。
●入寮施設は
山下 話がもどりますが、浦和神経サナトリウムでの入院治療が問題になったあと、斎藤さんは別の入寮施設に関わっておられますね。
斎藤 青葉台ハウスのことですね。院生時代に2年ほど、入寮者全員の医療面接に通っていました。青葉台ハウスは、ふつうの一軒家を借りて、そこで共同生活をする一種のグループホームです。入寮者は多いときでも10人はいなかったと思います。不登校の子どもはいなくて、20代でひきこもっている人がほとんどでした。稲村さんはひきこもりの改善には同世代の人との共同生活が大切だと考えていて、そういう人のための施設をつくろうと考えたのが出発点だったと思います。
山下 病院での入院治療ができなくなったので、代わりにつくったということでしょうか。
斎藤 はっきり、そう言っていいと思います。
山下 斎藤さんにとって、この施設での経験は、どういうものだったのでしょう。
斎藤 貴重な体験だったと思っています。個室もなく雑魚寝でしたし、快適な環境とは言えなかったかもしれませんが、そのぶん人との距離が近くて、ハウスからバイトに通ったり、そこを踏み台にして社会参加していった人がたくさんいました。閉鎖病棟とちがって、外出は自由でしたし、強制はいっさいなく、すべて同意にもとづいてやっていました。ただ、月の寮費が食費など込みで25万円ほどでしたので、当事者の側からしたら高いと思われてたかもしれません。
山下 ひきこもり新聞(創刊号/2016年11月1日)のインタビューでは、「宿泊更生施設をどう思いますか」ときかれて、「効果がないです」とおっしゃっていました。しかし、この当時は効果があると思われていたということでしょうか。
斎藤 そのインタビューで宿泊更生施設としてイメージしていたのは、ワンステップスクール伊藤学校のような施設です。入寮と就労支援をいっしょにやるような施設に、強制的に入れても意味がない。ハウスの場合は、「更生」よりも共同生活に意味があったと思います。統合失調症に対して薬を使わず共同生活で支援するゾテリア・ハウスという治療施設が世界中にありますが、趣旨はかなり共通しています。本人が自発的に入って共同生活を行うグループホームには意味があると、いまでも思っています。
●偏見を強化するのはまずい
貴戸 先ほど、稲村先生の考えは引き継いでいる部分もあるけれども、警鐘の鳴らし方がまずかったとおっしゃっていましたが、どこがまずかったのでしょう。
斎藤 はっきりしているのは、人びとの偏見を強化する方向で広めてはまずいということです。稲村さんは、「登校拒否は早期に治療しないと無気力症になって30代まで尾を引く」と、偏見を強化する方向だったわけです。たしかに不登校の一部が、長期間ひきこもってしまうという現実はあるわけですが、彼の発言には統計的な根拠は示されていないし、全員がそうなってしまうような警鐘の鳴らし方でしたので、かなり危険だったと思います。
貴戸 斎藤さん自身は、かなり戦略的な言葉づかいをされているように感じます。ご著書でも、開かれた両義性が重要だとおっしゃっていて、文脈によって語り口を変えている。そういう態度は、どこから来ているのでしょうか。
斎藤 反面教師をいっぱい見てきたからですね。それは小田晋さんであり、稲村博さんであり、かつて病院の同僚であった町沢静夫さんらです。彼らは90年代の心理学・精神医学ブームの立役者です。町沢さんは、ときにテレビ局のスタッフと連携して、自分の患者をテレビ局に紹介していました。彼らのメディアとのつきあい方には少なからず問題があった。精神科医とメディアとのつきあい方を、三者三様の「失敗」から学んだと思います。
貴戸 斎藤さんの言葉の宛先は、どこにあるのでしょう。
斎藤 当事者と言いたいところですが、いまのところは親になってしまっているかもしれないですね。その向こうに当事者を見ていると、ほんとうは言いたいのですが。
貴戸 斎藤さんは、言葉のパフォーマティブな効果と言いますか、結果として何をもたらすかを、かなり自覚的に書かれているように思います。
斎藤 それはかなり意図してやっています。正面からぶつかっても、相手は説得されませんよね。だから、ナナメに入り込んで、相手の主張に影響を及ぼすことを試みていて、それぞれのメディアのトーンやコンテクストに応じて、発言しています。それと党派性に取り込まれないことですかね、注意しているのは。
貴戸 そういう語り口というのは、不登校の運動でもあったと思います。たとえば、「登校拒否は病気じゃない」というのも、そうだったかもしれない。不登校やひきこもりを肯定するというのも、事実を語るというよりも、それを投げかけることを通じて世間の偏見を変えようという面もあったのではないでしょうか。
斎藤 同感です。80年代に戸塚ヨットスクールが出てきたあと、東京シューレが出てきて、いわばタカ派対ハト派みたいな構図ができて、最終的にはハト派が勝った。それはパフォーマンスの勝利でもあったと思います。ただ、私が一部反発したり違和感を持ったのも、そのパフォーマンスの部分だったと思います。不登校そのものがすばらしいことのように言われると、ちょっとそれはと思いますし、「ひきこもれ」と吉本隆明(思想家/1924―2012)に言われてしまうと、それはちがうと言いたくなってしまう。
不登校をめぐって起きたことは、ひきこもりにおいて期間を短縮して反復されたように思います。ひきこもりを問題視する稲村・斎藤一派(のようにみえる勢力)に対して、芹沢俊介(評論家)、高岡健、吉本隆明らがひきこもりを肯定する。そして、そんな対立も含めて、うやむやなかたちで忘れられていく。それが5年ぐらいのスパンで起きたんじゃないでしょうか。
ひきこもりは、いわば透明な存在なので、ほかの問題とちがって、ときどきあえて注意喚起していかないと忘れられてしまうところがあると、私は思っているんです。だから、私は意図的にメディアに露出するようにしています。発言の影響力を確保するためです。あるいは、オープンダイアローグの手法を導入するとか、高齢化の問題についてはライフプランの視点から提案するとか、ニーズの掘り起こしを意図的にやっている。不登校については、文科省が調査しているので忘れられることはないと思いますが、そもそも日本には青少年を専門に取り扱う省庁がないんですよね。それも大きな問題だと思います。
●根強い指導文化
貴戸 斎藤さんご自身の語り口も、だんだん変わってきたところがあるように思います。オープンダイアローグでは、当事者の前で専門家どうしが話し合いますね(リフレクティング)。そういうなかで、専門家の言葉が変わっていくことはありますでしょうか。
斎藤 それは必然的に変わりました。本人や親のいないところで話すと、かなり無遠慮な批判になりがちです。リフレクティングでは、本人も親もいる前で話すので、苦言を呈する割合を減らしたり、がんばっている部分を評価したりといった配慮が必然的に増えます。当事者の耳にも入りやすい言いまわしに変えるようになる。
貴戸 オープンダイアローグでは、リフレクティング以外の場で専門家が会議したりはするんでしょうか。
斎藤 それはやってはいけないというのが、オープンダイアローグのルールのひとつです。不登校に応用が効くと思うのは、その点もあります。すべて、本人の前で議論しながら決めていく。ですから、子どもにとっても、透明性があって、信頼してもらいやすい。
ただ、難しいのは、学校現場は指導文化が根強いことです。何かというと指導で、指導というのは上から目線ですよね。指導や説得というのは対話ではないですし、こちらがぜんぶ知っていて、相手は知らないという前提です。ですから、オープンダイアローグを導入するのに、一番苦労するのは学校じゃないかと思っています。
●ニコイチの危険を解除
貴戸 対象になっているクライアントから、専門家個人に対するアクセスはありますか。「ぜひ、あなたに診ていただきたい」というような。
斎藤 2年ほどやっていて、1回も経験ないです。これはオープンダイアローグをやっていて、非常におもしろい現象です。個人精神療法の難しさは、いかにすぐれた治療者であっても、むしろすぐれているがゆえに、個人崇拝になって、いわゆる転移・逆転移関係になってしまうんです。転移性治癒といって、その治療者に頼っているあいだは治っているけど、離れていくとぶり返してしまうことになりやすい。ところが、オープンダイアローグのチーム治療は、そうした転移的な関係性から、治療者を解放してくれるんです。なぜかはまだ謎なんですが、チームで治療しているかぎりは、個人の治療者への転移がほとんど生じないんです。だから、逆に、こちらが感情を表出したり、個人情報を多少開示しても、問題が起きない。それは、私が治療者としてオープンダイアローグを始めて、一番びっくりしたことです。
山下 依存症の当事者のあいだでは、「ニコイチ」(*6)が危険と言いますよね。
斎藤 ニコイチになるのはどういう状況かと考えると、二者関係の密室があって、そこに階層差がある場合です。教師と生徒、専門家と患者とかですね。そのニコイチの危険性を解放してくれるのが、オープンダイアローグなんです。
貴戸 それは、場の力なのでしょうか。言葉がポリフォニック(多声)になることの力というか。対話が一対一ではなく、いろんな言葉が混ざることで、ひとつひとつの言葉の重みが場のなかに解けていく。
斎藤 おっしゃるとおりだと思います。ポリフォニックな空間は、言葉の所属があいまいになってくる。すごくいい言葉だけど誰が言ったかわからないというのが理想です。相手の言葉をしょっちゅう引用しながら話していく。いわば入れ子関係みたいな感じですね。それが醍醐味です。
山下 鶴見俊輔(哲学者/1922―2015)が、「なぜサークルを研究するのか」(『共同研究集団:サークルの戦後思想史』思想の科学研究会編/平凡社1976)という文章で、まったく同じようなことを書いています。そうした対話の場というのは昔からあって、たとえば不登校の親の会や居場所にも、そういう面があるように思います。あるいは、べてるの家であったり、当事者研究であったり、かたちを変えて、いろいろなところで生成してきたように思います。
斎藤さんは、オープンダイアローグを治療論として確立することで、保険点数にもなる医療行為として、精神医療に位置づけようとされているのでしょうか。
斎藤 過渡期としては、ですね。本音を言えば私は、最終的には精神医療のシステムを解体したいんです。精神科医の存在よりも、短期の研修を受けた半専門家の集団でケースに対応していくことで、メンタルヘルスのほとんどの問題は解決すると考えているからです。実際、フィンランドのケロプダス病院の医療区では、それを実践しています。私自身の手応えから言っても、日本でもそれは実現できるはずだと思っています。
しかし、精神科医が既得権益を簡単に手放すとは思えないですし、日本では民間病院が90%以上なので、精神病院関係者の頑強な抵抗もあるでしょうね。ほかの国では、民間病院が90%以上なんてあり得ないことで、これは日本だけの特殊事情です。
日本では、困った問題が起きると、その人を隔離し収容しようという発想になりやすい。それは知的障害者の場合でも高齢者でもそうですね。不登校も、その対象になりかかったわけです。
●介入なしには立ち直れない
山下 先ほど、孤立状況が長引くのはよくないとおっしゃっていましたが、そこで斎藤さんは、専門家の介入が必要だとおっしゃってこられたわけですよね。
斎藤 専門家の介入が必要だと強いトーンで言ったのは最初の本(『社会的ひきこもり』)だけで、いろいろ批判も受けて反省して、現在は、介入を求められたら、できる用意はしておいたほうがいい、というトーンにしています。
山下 そこは自己批判もあるのですね。ただ、最初の本では、「専門家による治療なしでは立ち直ることができません」と言いきっておられました。
斎藤 いまは「専門家」とは言ってませんが、第三者が介入せずに勝手に回復することはほとんど期待できないと思います。2000年代前半、ひきこもりを擁護する人たちは、病気ではないのだから放っておけばなんとかなるというようなことを言っていたわけですが、実際、どうにもならなくて、「8050問題(*7)」のように、高齢化がどんどん進んでいる面もあるわけですね。高齢化の原因の半分は、ひきこもりに「自然な回復」がきわめて起きにくいからだと思っています。
山下 しかし、その介入の仕方には問題も起きがちですね。議論を呼ぶところかと思います。
斎藤 そう思います。不登校もひきこもりも、当事者を無条件に全肯定することから始めなければ支援はできません。あるひきこもりの当事者は、親から責められて苦労していたけれども、近所の友だちが毎日会ってくれて、「自分をひきこもりとして扱わないで、困難な状況にあるまともな人として扱ってくれたので救われた」と言っていました。これこそが、私の理想とする介入のあり方です。
山下 つまり、本人を問題視して介入するのではないということですか。
斎藤 そうです。介入するときは、あくまで病気という視点を外して介入してほしい。
山下 それはわかります。不登校でも、学校の先生が、なんとか学校に戻そうという姿勢で家庭に来られて、うまくいくことはないですからね。
●信頼関係は肯定から
斎藤 どんな支援をするにしても、信頼関係がなければ支援になるわけがありません。批判から入って、信頼関係ができるわけがない。まずは、その人の存在を肯定するところからしか始まらない。それは不登校やひきこもりを肯定するという以前に、その人の存在を肯定するということです。
再登校や就労よりも、まずは家庭のなかで元気を回復してもらうことを目標設定にすることで、いろんなことがまともになってくる。そして、人は対話なしに元気にはなれないということです。
山下 それは家族以外の第三者との対話ということですか?
斎藤 家族との対話も含みます。家族に抑圧されて苦しんでいる不登校の子は、家族とも対話がなくなりますよね。まずは家族と対話できるような環境にもどらないと、家のなかで元気になれない。家族との対話から始めて元気になってくれば、あとの意志決定は、当事者にまかせていいと思います。
ただ、対話のできる関係ができたあとは、私は登校刺激もあっていいと思っています。それで、うまくいっているケースも一部あります。登校刺激がよくないのは、信頼関係がない段階で押しつけるからで、不作法ですよね。
山下 いま、おっしゃったことは、親の会などで言われてきたことと、それほど変わらないように思います。ただ、そこで登校刺激があってもよいとおっしゃるのは、あまり不登校の肯定に固着してしまうと、イデオロギー的になってしまうから、ということでしょうか?
斎藤 そうですね。学校が善か悪かのようになってしまうのは避けたいんですよ。そこは人それぞれの解しかない。学校を悪玉みたいにして、もどすことが罪のような文脈ができてしまうと、別の意味で抑圧になってしまう可能性もある。ですから、そこはニュートラルにやっていきたい。とはいえ、学校が悪い場合のほうが圧倒的に多いと思いますが。
貴戸 不登校でも、ひきこもりでも、学校はどうでもいいとか、働かなくてもいいと思っている人はほとんどいなくて、多くの場合は、社会とつながりたい、つながらないといけないと思っている。しかし、そう思っていても、できない。登校拒否はすくみ反応で、いわゆる怠学とはちがうものとして問題化されてきたわけですね。「学校に行かねばならない」という規範が内面化されていて、ある面では、すごく社会性を持っていると言えるのに、それゆえに社会参加できなくなっている。
斎藤 そういうスパイラルはありますね。肯定というと、「あなたはそのままでいい」「学校に行かなくていい」といった言葉に一元化されやすいですが、それにイラッとする子もいます。私が考えている肯定の言葉というのは、「あなたのことをもっと知りたい」です。それだと教えてもらう立場ですし、上から目線にはならない。
●暴力は拒否すべき
山下 肯定と受容はちがうともおっしゃってますね。
斎藤 80年代に全受容ブームがあって、カウンセリング業界を席巻したことがありました。これの何が問題かというと、退行を促進させてしまうことと、家庭内暴力をこじらせてしまうことです。カール・ロジャーズ(*8)の「クライアントの語る言葉は、すべて批判なしに受けとめる」という方法論が、暴力でも受容すべきと誤解されたのでしょう。家庭内暴力が起きてカウンセラーに相談しても、子どもを受けいれ、子どもの気持ちを理解するようにと言われて、親は必死に耐えるものの、暴力はおさまるどころかエスカレートしていって、最後は子殺しにいたったケースもありました。4件の事件が裁判記録に残っています。私は、これらは専門家が受容の限界設定をしていれば起こらなかった事件だと思っています。受容の限界設定は必要です。限界設定をしっかりやっておかなければ、受容にもなりません。
山下 限界設定とは具体的にはどういうことでしょう。
斎藤 子どもの暴力は受けとめてはいけない、いや、子どもにかぎらず、いかなる暴力も拒否してよいのだ、ということです。禁止ではなく拒否、「ダメ」ではなく「イヤ」です。誰であれ、どんな状況であれ、個人が暴力に忍従を強いられるいわれはないという常識をきちんとおさえておかないと、対話も成り立たない。暴力は徹底的に拒否する、しかし、話はいくらでも聴きますというスタンスが必要です。90年代にカナダやアメリカからDVの概念が輸入されてきて、ようやくそういう当たり前のことが、正面から言えるようになりました。
山下 それはその通りだと思いますが、具体的に誰が暴力も含めて全受容すべきだと言っていたんでしょう。
斎藤 たとえば、岩月謙司という、もともとは動物学者の人が、退行促進の技法で「育て直し」を唱えていました。クライアントの女性を自宅に呼んで、いっしょに風呂に入ったりセクハラ行為をして、刑事告訴されましたが、この人が一番極端な人ですね。クライアントを赤ちゃんにもどして、「育て直し」をしようという発想です。「育て直し」という技法には適応例もあるんですが、安易にやってはいけない。ところが、万能感をもって、なんでも子どもに返せばうまくいくと思っていた人もいました。
山下 それは極端ですね。親の会などでは、子どもの気持ちを受けとめようという言われ方はしても、退行促進のようなことは、私は聞いたことがないです。
斎藤 育て直しや退行促進ではないにせよ、一部だと思いますが、いまだに暴力も受けとめるべきとしている親の会もあると聞きます。私の聞きちがいであってほしいと願っていますが。たとえば奥地圭子さんの書かれたものでも、「暴力が出たことは、ある意味でいいのです。逃げないで、発散を受けとめてあげてほしい」と書かれています。限界がある場合もあるとも書かれていますが、明確に暴力は拒否すべきとは書かれていません(『登校拒否なんでも相談室』草土文化社1992、114p)。現在の視点から当時の発言を批判するのはフェアではないので、あくまで当時の全受容的な雰囲気を理解するための引用に過ぎませんが、いずれにせよ「全受容」的な発想は過去のものという点は強調しておきたいです。
山下 奥地圭子さんは、暴力でも受容すべきとは言っていないと思いますが、おっしゃっているのは、暴力を拒否しながら対話する姿勢を保ち続けることは可能で、むしろ対話のためには限界設定も必要ということですね。その点はわかります。
斎藤 暴力拒否の手法を勧めるのは、別の意味もあります。ひきこもりの家庭内暴力は、一見、統合失調症の精神興奮状態に見えてしまうので、経験のないドクターの手にかかると、措置入院させられてしまうことがあります。その前に、きちんと暴力拒否の手順を踏んでもらえば済む話なんですが。それで暴力がおさまったら、統合失調症ではないから入院させなくていい。不要な入院をさせないためにも、適切な対応で関わってほしいと思っています。
しかし、どうも難しいみたいで、ついつい警察を呼んで入院させました、みたいなケースになりやすいですね。また、病院も患者が減っているから、入院させてしまう。
山下 それは、やはり民間病院が多いからですかね。
斎藤 そうですね。民間病院は入院患者が8割を切ったらつぶれてしまいますから。
山下 統合失調症の患者が減ってきていることも影響してますでしょうか。
斎藤 そうです。統合失調症は、近年、減少傾向が著しいです。うつ病も軽症化して入院しなくなりましたし、新規に入院する患者は薬物依存症とか認知症しかいない。それで、ベッドの空いたところを、家庭内暴力か依存症で埋めようとしている。これはやばい傾向です。少なくとも家庭内暴力事例の大半にとっては、入院は有害無益ですから。
●介入における暴力性は
山下 介入のあり方について、もう少しうかがいたいと思います。月刊『子ども論』(2001年9月号)の座談会で、斎藤さんは「なまはげみたいな、突然やってくる訪問治療はものすごく害がある。ひきこもった後、最初に出会う他者が強圧的だと、とりあえず相手の言うことを聞くかもしれない。でも、何かがそこでつぶされるんです」とおっしゃっていました。しかし一方で、オープンダイアローグについては、インフォームドコンセントのようにやってもうまくいかないから、事後承諾にして始めてしまったほうがいい、とおっしゃっています(『現代思想』2016年9月号)。そのあたりは矛盾もあるように思いますが。
斎藤 大前提として、当たり前のことですが、オープンダイアローグでは患者さんの拒否権は常に尊重されますし、強制性もありません。この点は暴力的支援との大きなちがいです。オープンダイアローグは訪問でなされることもありますが、拒否された場合はもちろん開始できません。ただ、統合失調症の急性期、精神運動興奮の状態では、対話が成立しにくく同意の確認も難しいのですが、意外に断られることも少ない。この時期はいろんな意味で「開いて」いるので、対話の導入を断られることはまずないんですね。事後承諾という言い方をしたのは、「どんな場合でもまず事前に口頭なり文書で同意をとりかわすべき」と強く主張される方向けの説明です(そうした契約にも暴力性はあると思いますが)。それが難しい場合は事後承諾になるけれど、初回の面接で治療契約は結べることが多いので、それほど倫理上の問題はないと考えています。形式的なインフォームド・コンセントは合意→契約→治療と進みますが、オープンダイアローグでは治療過程と合意や治療契約が一体化しているのです。ただ、それでも、急性期にチームで押しかけて対話を始めてしまうのは暴力だ、という主張を頭ごなしに退けたいわけではありません。ただ現実には、今の日本において急性期の患者と対話できなければ、医療保護入院で保護室で身体拘束、という別の激しい暴力が控えているという現実もあります。あなたが精神運動興奮状態になったとして、対話と隔離とどちらを選びますかという話になる。私はもちろん対話がいいし、この点は多くの人にも同意していただけると思います。
山下 なるほど。しかし、なまはげ的介入の場合でも、結果オーライであればいいと思っているわけですよね。
斎藤 ワンステップスクールや戸塚ヨットスクール、アイメンタルスクールのように、本人の意志を無視して、拉致監禁して、寮に入れて強制労働させるようなことでは、本人にとって結果オーライにはなりにくいです。ごく一握りの成功事例の陰に、悲惨な失敗例が数多く存在します。拉致事例の救出活動に関わった際に、そのことは痛感しました。
オープンダイアローグ的な介入には、身体的暴力はもちろんですが、ほぼ強制はともないません(一部の重症事例に対する非同意入院などは皆無ではありませんが、通常の医療行為よりはそうなる可能性は低いです)。その意味での暴力性は、さまざまな支援手段や医療手段のなかでも、もっとも低いと考えてよいと思います。ここでの議論の前提は、あらゆる介入、あらゆる支援、あるいは「支援・介入しないこと」にすら暴力性がひそむという発想であって、その意味ではフリースクールやオープンダイアローグですら暴力とは無縁であるとは言いきれない、というほどの意味です。「誰かを助けたい」と考えることのなかにすら、おせっかい的な暴力の萌芽を見て取ることは不可能ではないということですね。
山下 そういう意味では、暴力性に無自覚であるほうが問題かもしれませんね。
斎藤 そうですね。もちろん本人や家族の要請を受けて訪問するわけですが、それが当事者の要請とはかぎらないですからね。たとえば妻の要請で夫のケアに行くこともあるわけです。さきほどお断りしたように、本人が拒んでいるときには対話は開始されません。ただ、本人抜きで家族とは対話をするかもしれません。対話を始めてしまえば、ほぼ、いい結果になるんだけど、そうならなかった場合は、本人にとって暴力でしかなかったということもあるかもしれません。もし対話がうまくいかなければ、チームが帰ったあとに妻に暴力をふるってしまうかもしれないので、そのリスクは常にあると言わざるを得ないですね。
山下 実際問題、現場では難しいところもあるでしょうね。方法論として広めていこうとすると、善意の暴走を招く可能性はないでしょうか。
斎藤 一点お断りしておくと、現在の我々の体制では、訪問支援はほとんど実施できません。ごく限られたケースに細々と行っているのが現状で、大半は外来です。ちょうど「オープンダイアローグ対話実践のガイドライン」(『精神看護』2018年3月号/医学書院)をつくったところですが、オープンダイアローグでは対話を続けること自体が目的になっていて、毎回、この対話を続けていいか確認して、そこで安全性を保障しています。加えてクライアントのためのチェックリストがあって、クライアントがチームを評価するようになっています。まっとうな対話がなされていたか、チェックリストを活用することで、懸念されるような善意の暴走は最小限にできると考えています。
●成熟はない?
貴戸 『社会的ひきこもり』のサブタイトルは「終わらない思春期」で、成熟の問題として論じていますね。しかし、いまや社会が成熟のモデルを示すこと自体が難しくなっていて、成熟しないことを問題だとすると、みんなが問題ということにもなるように思います。最近では、斎藤さんもそういう見方になってきているように思いますが。
斎藤 私は、社会の成熟度と個人の成熟度は反比例すると考えています。個人の成熟が遅れることは、社会の成熟の証だと思うので、それはそれで、けっこうなことではないでしょうか。たとえば、内閣府の若者の定義はどんどん拡がっていますよね。いまは39歳までが若者になっていて、まもなく44歳まで延ばすという話もある。「若者の高年齢化」です。就労支援においては、成熟度に合わせた就労モデルを組まないといけないので、若者の定義を延ばさないと、どんどん、支援からこぼれる人が出てくる。
ところが一方で、法務省は成人年齢を18歳に引き下げることにしました。それで自立心が芽生えて成熟度が高まるという幻想を持っているのでしょうけど、私は、これはほとんど意味をなさないと思っています。むしろ「若者の弱者化」やホームレス化を促進しかねないと危惧しています。
『社会的ひきこもり』を書いたころ、念頭にあったのは、コフート(*9)の成熟論です。たとえば、30代のひきこもり当事者と話していて、メンタリティが中学生のまま温存されていると感じたことがしばしばあった。ここから本のサブタイトル「終わらない思春期」が着想されました。それはコフートの言う、他者と出会わなければ自己愛が成熟していかないということではないかと。コフートは、自己愛を育てるのは親密な他者(≒自己対象)との関係であると言っています。彼らがひきこもることで成熟が起きにくくなっているとすれば、コフートの自己愛理論がそのままあてはまると思ったんです。
一方で、対社会的な成熟を問題にして、社会との接点がなければ成熟が起こりにくくなるという指摘もしていて、当時は成熟論の残滓を引きずっていましたが、その後、成熟は遅れて当然だという視点が出てきたり、いまの社会において成熟に意味があるのかという議論もあって、私の見方も変わってきました。ニューエコノミー以降の産業構造においては、むしろ未成熟さのほうが売りではないかとさえ言えます。そう考えると、もはや成熟という視点は、あまり重要ではなくなったとも言えます。
ただ、ひきこもっている人のなかには、一定の割合で一発逆転幻想が捨てられない人がいますね。いまからでも偏差値の高い大学に入って見返してやるとか、漫画家になって見返したいとか。こうした執着は未成熟さとも言えるでしょうし、社会性の乏しさとも言えるかもしれません。それが実現困難だから、というよりも、「それしか解決策はない」という方向に視野が狭まってしまうという意味で。でも、そこにこだわっているかぎりは自己肯定感はなかなか調達しにくいので、それを調達できるのはむしろ身近な仲間関係かもしれませんよと提案しています。
それと、いまは、むしろ健康という視点を使っています。健康生成論(salutogenesis)は、いま、いろんな医学の領域で使われています。そこでは、健康度が高いという表現をよく使います。
貴戸 健康度が高いというのは?
斎藤 不登校でもひきこもりでも、当事者と話していて、病的な印象や不健康さを感じる場面はあまりなくて、むしろ当事者の「まっとうさ」のほうが印象的です。この言い方は語弊があるかもですが、正直「もったいない」という感じがする。私が診ている範囲では、もともと健康なのに、学校空間や家庭空間のなかで相互の誤解がこじれて、もともとありもしない病理がふくらんでいく印象があるんですね。本来のまっとうさが本人にも不本意な方向に歪められていくのは、やはり「もったいない」と感じてしまう。 欧米の精神科医の常識からすれば、何年も家から出られないというのは、統合失調症にちがいないと思うわけです。統合失調症のような重篤な疾患がないのに、なぜ家から出られないのかが理解できない。しかし、実際、多くのひきこもり当事者の健康度は高いんですね。ですから、社会の側にも彼らの健康さやまっとうさに気づいてほしいと思いますし、何よりも彼ら自身にも気づいてほしいと思っています。
●仲間からの動機獲得
貴戸 日本で若者に関する施策が出てきたのは、2000年代以降ですね。日本では、子どもから大人になるのは自然になされる過程で、学校と会社にまかせておけばいいと思われてきたように思います。
斎藤 それと、家庭ですね。弱者支援は家庭にまかせておけばいいという発想が明治以降ずっとあって、障害者も座敷牢に隔離されてきたりしてきた。
貴戸 若者支援のインフラがなくて、若者を大人にするコストを非常に安くすませてきたツケを、家族と当事者が背負っていると言えるように思います。つまり、コストを本人と家族が背負っている。
斎藤 インフラを整備しないで、成人年齢を下げれば勝手に成熟するだろうみたいな、いいかげんさが日本の政府にはありますね。しかし、インフラを整備しないで成人年齢を下げたら、弱者化する若者が増えるだけだと思います。
貴戸 そう思います。若者年齢の定義が上がってきたのは、団塊ジュニア世代に合わせてですね。社会が個人を成熟させるのが難しくなっていることで、いい面もあるかもしれませんが、誰もが漏れ落ちる時代になっているとも言えます。
一方で、若者と社会とのつながりの問題には、「本人が社会参加すべき・したいと思っているにも関わらず/それゆえに社会参加できない」という複雑さがあり、私はこれを豊かさだと思っています。登校拒否のすくみ反応にも通じるものですが、それは、現在もひきこもり問題の核にあると思われますでしょうか。
斎藤 そう言っていいと思います。彼らは診察場面では、いちように「働きたい」と言います。私が「それは働かねばが何%で、働きたいが何%ですか」ときくと、たいがいは「働かねばが100%」と言うんですね。そういう場合は、「義務感じゃ動けないから、もう少し待ったほうがいいかもね」と言っています。義務感はあせりの状態なので、行動に対して抑止的に作用する。仮に動けたとしも、もたない。もう少しゆとりのある状態、好奇心からとか、何かほしいから働こうとか、義務感以外の要素がないともたないです。
その葛藤をどう解きほぐして、余裕を回復してもらえるかが、私のやっている仕事の半分くらいかもしれないですね。
義務感の状態を解除するのに、一番有効なのは仲間の獲得です。親や治療者による動機づけはあんまりうまくいきません。私の治療場面で言えば、一対一との診察から、「デイケアに参加しますか」ときいて、実際に行き始めると、そこで何年かぶりに、親密な仲間関係を経験できる。そうすると、仲間関係のなかで動機の伝達が起きるんです。自分ひとりで空回りしていた義務感から、ちょっと働いてみようかなという動機が外から入ってくる。そういうところで動き出すと続く感じがあります。このあたりは統計的検証に耐えるような話ではなくて、私の印象論にとどまるのですが、孤立した義務感の世界から、開かれた動機の獲得に、いかにつなげるかが大事だと思っています。
●学校機能の分散化を
山下 日本のひきこもりは世界的に見て特殊だと言われてきましたね。不登校もそういうところがあります。なぜ、日本では不登校がこれほど大きな問題になってきたと思いますか。
斎藤 半世紀経っても、学校現場でまともな対応ができていないからでしょう。いまだに、指導すれば何とかなるという信仰が強いんだと思います。
もうひとつ言えるのは、日本では、小・中・高と、子どもの生活世界は学校しかないですよね。これは日本の特殊事情です。その証拠に、日本のサブカルチャーは学園ものばっかりですよね。それは、思春期の思い出が学校しかないからです。もっとオルタナティブに、学校機能をモジュール化して分散させればいいのに、ぜんぶ一括して学校に集約している。
山下 それはオルタナティブな学校というよりも、学校以外の子どもの生活の場が必要ということですね。
斎藤 そうです。やっと部活を少し外注するようになってきていますが、しつけ、教育、スポーツ、成熟から社会性まで、ぜんぶ学校でというのは無理です。先生の負担も大きいし、誰も幸せになれない。しかし、制度的な義務教育と自生的な同調圧力という両面からの抑圧のもとで、その状態がずっと維持されてきた。
●ヤンキーとひきこもりの中間を
山下 社会性ということで言えば、日本における社会性というのは、学校文化的、あるいは体育会的な要素が強いですよね。
斎藤 それは、すごくありますね。内藤朝雄さん(社会学者)が言うところの中間集団全体主義で、所属する中間集団に忠誠を尽くす。これは学校ですりこまれるカルチャーだと思います。
山下 しかし、そこに不適応だと、孤立してしまうわけですね。
斎藤 そうですね。森口朗さんが『いじめの構造』(新潮新書2007)で示しているデータでは、スクールカーストは上位10%、中位60%、下位30%で、それは私の実感とも一致します。つまり、学校のシステムは7割はそこそこハッピーになっても、3割はめちゃくちゃ不幸になる。大人になっても、なかなか中学校時代のコンプレックスが抜けない人もいますね。
山下 しかし、その7割にも対話がないですよね。
斎藤 対話はなくて、あるのはノリだけです。
山下 対話のなさ、ノリに染まることが社会性になっている。それが生み出してきた問題があるように思いますが。
斎藤 学校空間のなかでのコミュ力というのは、端的に言えば、お笑い芸人みたいなコミュニケーションですよね。笑いがとれて、人がいじれて、空気が読めること。それがあれば、共感力がなくてもコミュケーション強者、カースト上位になれる。
山下 そうすると、そもそも日本において社会的成熟はあったのかとも言いたくなるのですが。
斎藤 成熟の条件としては、情緒的コミュニケーションの能力と欲求不満耐性、このふたつがあれば十分だと思っています。ヤンキーは、情緒的コミュ力は高いけど、こらえ性がない。ひきこもりは逆で、コミュ力はないけど、ガマン強い。ですから、成熟というのは、ヤンキーとひきこもりの中間になることだと言っています。
山下 なるほど(笑)。しかし、オープンダイアローグのように対話を重視するのであれば、対話の文化が必要のように思いますが。
斎藤 これだけコミュ力重視の社会になっているのだから、ちゃんとコミュニケーションを学ぶ学科を設ければいいのにと思います。そういう機会がないまま来てしまったので、コミュ力偏重は学校のウラ文化になっていますね。スクールカーストもそうですが。
貴戸 日本のコミュニケーション文化になじんでいる人が、文化を異にする人と出会ったときに、どんなコミュニケーションができるのかというと、たとえば外国に行ったら話せなくなるとかいうことがありますね。
斎藤 いわゆるヤンキーは外国人が苦手で、「空気」が通じない空間では機能不全になりがちです。一方、オタクは外国では空気を読まなくていいという解放感があって、ふだんより饒舌になったりする。ひきこもっている人も、海外に行くと元気になる人が多いです。
山下 世間のまなざしから解放されるわけですね。
斎藤 そうなんです。震災でひきこもりが外に出てきたという話もありましたが、それは、そこで世間の空気が1回リセットされるからだと思います。しかし、すぐに避難所ができて、1週間もすれば世間ができてしまう。震災の「効果」は一時的なんですね。
●発達障害バブル
斎藤 もうひとつ大きな問題は、発達障害バブルです。DSMでも消えたアスペルガーという言葉が流行っているのは日本だけです。消えた理由は少ないからなんですが、日本だけ突出して多い。しかし、器質性疾患が国によってそんなにちがうわけがないんです。日本で多いとしたら、文化的背景の問題があるんでしょう。ノリのコミュニケーションに入れないと障害者扱いされてしまう、偏ったカルチャーは問題です。
山下 特別支援学級もパンク状態になるほど、診断される子が急増していますよね。
斎藤 学校現場がいちばんひどくて、就学前に特別支援学級に入れるかどうかの判断を急ぐあまり、過剰診断に傾く傾向がありますね。しかし、それにしても増えすぎです。学校になじめない子はぜんぶ発達障害にしてしまっているという印象すらあります。協調性重視の空間で、そこになじめない子に診断をくだすというのは罪深い。誤診率が非常に高いと言わざるを得ません。
それと、もうひとつ問題なのは、児童青年期専門医が不登校に関心がなくなっていることです。最近は論文もほとんど書かれなくなった。主たる関心がほとんど発達障害に向いてしまっている。私は論争に巻き込まれたといっても、当時の議論はまだかなりセンシティブなものだったと思いますが、そういう繊細さが失われてしまって、いまは極端に言えば、不登校は発達障害が原因だから療育せよ薬を飲め、という雑な議論がまかり通る。それは非常に危惧するところで、そんなことなら精神医療のなかで、もっと不登校の議論があっていいと思っています。この点では、たとえば斎藤万比古さん(精神科医)らが進めているような、不登校やひきこもりの医療化には疑問なしとしません。
山下 不登校やひきこもりの医療化というのは、発達障害として医療化されているということですね。
斎藤 そうです。そこをスルーしてはいけないと思います。
●還元主義は問題
山下 そして、精神医療も、薬物以外の治療論がとぼしい現状があるわけですね。
斎藤 内科モデルでは、正しい診断がつけば正しい薬や治療方針がおのずから決まることになる。精神医療は内科モデルを理想としているので、同じ方向を目指しています。しかしこのモデルも行き過ぎると、治療関係をていねいにつくるという発想が抜け落ちてしまいます。よく指摘されることですが、最近の内科医は、どんどん患者の身体に触れなくなっています。血圧も計らないし、聴診もしないし、打診もしない。データだけを見て診断する遠隔操作の方向に向かっています。
しかし、精神科は治療関係が命ですから、そこをつくらずに診断主義に走ってしまうと、遠隔操作で診断をして、薬だけを出すみたいなことになってしまうわけです。しかし、これは問題をこじらせる方向にしかならないと思っています。
その典型はうつ病で、80年代からSSRIが導入されて何が起こったかというと、90年代を通じて、うつ病患者が倍増した。それは、ちゃんと治らないからです。改善はしても寛解しない人が溜まり続けて、増えていった。うつ病の増加は人為的なものだと思っています。
貴戸 専門家が、対話から撤退していると。
斎藤 医学の理想は、関係とかめんどくさいことを抜きにして、薬を飲んだらパッと治ることです。抗生物質みたいに、確実に細菌を叩けて治せるような。あの境地を目指している。しかし、そんなものは精神医療ではあり得ないわけです。
貴戸 こまごまとした複雑な問題系が、正常と異常のあいだには、たくさんあるわけですからね。
斎藤 不登校とかひきこもりというのは境界線上の問題だと思っていて、正常と見れば正常だし、病気として見ようと思えば、いくらでも異常性を見いだしていくことができる。困るのは、身体科の人が不登校をターゲットにすることがあって、「睡眠相後退症候群」とか「起立性調節障害」とか、最近では「機能性消化管障害」とか、ああいう医療化も問題です。そういう診断がつくこともあるでしょうが、「実はこれが不登校の原因だった!」みたいに喧伝する人がいて、そういうのは悪しき還元主義として批判されるべきでしょう。
●就労はゴールではないが
山下 バブル的に流布した言葉のひとつに「ニート」もありましたね。それによって、ひきこもり問題が就労問題にシフトした感がありますが、そのあたりはどう思われてきましたでしょう。
斎藤 私は、ひきこもりのゴールが必ずしも就労だとは思っていませんが、多くの人にとって、現実問題として、就労がゴールにならざるを得ないところはありますね。そのとき、ブランクの長い人が、いきなりハローワークや面接に行ってうまくいくかと言えば、難しい。一定のトレーニング期間が必要で、ビジネスマナーや面接の受け方を学べる場面はあったほうがいい。就労のニーズに対して、きちんと応えられる窓口があったほうがいいと思っています。
山下 一方で、就労=社会参加になってしまっているがゆえに、就労に失敗すると、とたんに孤立してしまうという問題もあるわけですね。そういう意味では、就労以外のオルタナティブな社会参加も必要だと思います。それは就労の否定ではなくて、複層化していけばよいと思うのですが。
斎藤 本来、それが理想です。私の当初のゴールは就労ではなくて、信頼できる何人かの仲間を持とうということでした。しかし、30歳半ばを超えてしまうと、すぐにでも就労をという話になってしまうんですね。ひきこもりの平均年齢が上がることで、就労へのニーズがかつてないほど高まっている面はあります。
最近は、就労移行支援を利用して一般就労できる人も増えてきました。就労がゴールではないとはいえ、年齢が上がってくると、それしかないという人も増えてくる。就労移行支援のように、年齢制限のないサービスを活用して社会参加を果たすコースがあるのはいいことだと思います。もちろん、それが唯一とは言いたくないですが、
貴戸 先ほど、仲間関係から社会とつながる動機をもらえることが大事という話がありましたが、セクシュアルな関係については、どうでしょう。
斎藤 私は一時期、デイケア内では「すぐ『彼女をつくれ』と勧める斎藤」として有名だったんです。異性による承認にはブースター的な効果があって、カップルができると、一気に社会参加、就労まで進む人が多かった。そういうところを見ていると、やはり彼らは健康なんだなと思います(笑)。誤解のないように言い添えておくと、もちろん本当に「つくれ」なんて言いませんし紹介もしませんが、せいぜい「彼女とかはどうなの?」と聴く頻度は多かったかもしれません。進めるというよりは「反対しない」「場合によっては応援する」というスタンスですね。
貴戸 ただ、恋愛関係の負の面として、ニコイチに陥りやすくもありますよね。
斎藤 もちろん。ただ、事例数だけから見れば、うまく社会参加につながっている数のほうが多い印象はあります。なかには、こじれてストーカー化してしまった事例もありますが、比率としては、すごく少ないと思います。
貴戸 いまは、あまりそういうことは言わなくなったんですか?
斎藤 あまり言っても、ヘテロセクシズムを強化してもよくないかと思ったり、あと高年齢化の問題もありますからね。20代だったらよくても、30代を過ぎてくると、シャレにならない場合もあります。
●女性のひきこもりは
貴戸 女性のひきこもりについては、どう見ておられますか。
斎藤 女性のひきこもりは事例化しにくいですよね。それまで「家事手伝い」で済んでいたのに、アラフォーになって急にひきこもり扱いされるとか、専業主婦でひきこもっているとか。そういう意味では、これから事例化が進む問題ではないでしょうか。
いま、林恭子さんらが主催している「ひきこもりUX女子会」が有名ですよね。女子会の試みは、2000年代初頭にもあったんですが、みんな消えてしまった。私の知るかぎりでは、その一部はグルーピングが理由です。仲良し集団ができて排他的になって、ばらばらになってしまう。しかし、UX女子会は規模が大きくて、一度に50人とかが集まるんですね。そうなると、グルーピングが問題にならない。これは画期的だと思っています。
女子会が注目されて、女性のひきこもりがたくさんいたことが顕在化した。私がかつて推定していた男性が7割というのは、自分のところに来た事例しか見ていなかったんだと思います。ニートの統計では男女ほぼ半々ですし、ひきこもりも実際は半々に近いのだと思います。
ただ、女性のひきこもりのほうが動きやすい気はしています。たとえば、異性関係でひきこもりから抜け出す人が、男性よりは多いですね。どうしても男性はスペックが重視されるので、働いてないだけで異性愛の対象になりにくい。しかし、女性は働いていなくても、接近してくる男性はいる。ときには支援者と結びついたりすることもある。そういうかたちで抜け出す人が男性よりは多い印象があります。
貴戸 しかし、その一方で、専業主婦になって、問題が見えなくなって続いていることもあるわけですよね。
斎藤 そのほうが、きついかもしれないと思いますね。なまじ、表面的には適応しているように見えるだけに。
●当事者研究とのちがいは
山下 いま、いろんな分野で当事者研究が流行っていますが、これについては、どう見ていますか。
斎藤 オープンダイアローグと直結した話なので、すごくシンパシーを持っています。ただ、たとえば、べてるの家では、ありのままを肯定する方向に向かうので、あえて治療成果は誇らないですよね。実際には治っていても、ある種の逆説をこめて「治りませんように」とか言ってしまう。でも、やっぱり家族はベタに「治る」と言ってほしいところがあります。オープンダイアローグではアウトカム(成果)を積極的にアピールするので、そこはちがいますね。
山下 そのアウトカムというのは、就労率になるんですかね。
斎藤 成果を定量するとしたら、就労率が何割とか、どうしてもそういうことになりますね。ただ、対話をしているときは、そういうことは忘れましょうと言っています。
貴戸 たとえば、居場所のなかでも、意図の間接化は行なわれてきたように思います。「ありのままのあなたでいい」と言いながら、そう言うことで状態を好転させる意図がある。でも、その意図は直接は言わない。
斎藤 先ほど、支援するときは肯定から入るといったのも、同じです。批判から入ったら変化は止まってしまう。つまり、変えようとしたら、かえって変わらなくなってしまうというパラドックスがある。変えようとしない、肯定するというスタンスから、変化が生まれてくる。
居場所がどういう目的を共有しているかというと、来る人に、なにがしかの変化を促すという暗黙の了解はあるわけですよね。オープンダイアローグも同じで、「治療を目的としない」と言いながら、実際は目的なんですよ。だけど、その意図や目的は場にゆだねる。わざわざ口にする必要がない。
山下 これは私の経験上の実感ですが、相手を変えようとか、助けたいみたいな下心を持っていると、絶対に見抜かれます。むしろ、そういうものを捨てないと信頼関係はできないという実感があります。間接化というのも、わからなくはないですが、むしろ結果論というか、こちらの意図をどれだけ捨てて、相対することができるかが問われているように思います。
斎藤 でも、その場の目的は変化ですよね。当事者のニーズも変化じゃないですか。
山下 逆説的ですが、目的を捨てることが結果につながるような気がしています。オープンダイアローグなどでも、専門家が関わるとしても、その専門性が通用しなくなる局面が大事なところじゃないでしょうか。支援者―被支援者という関係では、旧来の治療や支援のモデルと同じになってしまうように思います。
斎藤 行き詰まったところから可能性が開けてくるのは同感で、一般化可能な支援モデルや治療モデル通りの回復を目指すことには意味がないとされています。「不確実性の耐性」という考えですね。支援する側とされる側を分けない試みは、フランスのラボルド病院などに先例がありますが、これはこれで独特の難しさがあるように思います。たとえ自助グループをつくっても、スタッフ的ポジションを担う/担わされる人が要請されたりする。折衷案というわけでもないのですが、支援者と被支援者という区別は残しつつ、両者の関係をフラットに近づけていくのが現実的ではないでしょうか。すでにケロプダス病院が進めているように、ピアスタッフ(経験専門家)を導入することも有意義でしょう。オープンダイアローグでは、あえて専門家と患者の区分は残したうえで、専門家はそこで「専門性を脱ぎ捨てる」と言っています。しかし、これも逆説的ですが、専門家だからこそ専門性を脱ぎ捨てられるわけですね。そこで専門性が活かされると思っています。こういう態度の「オン/オフ」は、比喩的にはフッサールの言う超越論的還元(エポケー)に近いと考えています。
●使命感のある人は危ない
山下 支援者が陥りやすいのは、支援者であることにアイデンティティを持ったり、必要とされていることにアイデンティティを持ってしまったりすることで、それが一番危ないですね。それを回避するには、複数であることや一定の枠組みが必要だということはあると思います。
斎藤 それと羞恥心ですね。人助けという恥ずかしいことをしている自分にごめんなさいという。使命感とか、いいことをしていると思い込んじゃう人は危ないです。内省的視点がない人は暴走しやすい。あるいは、クラスジャパンの「原田メソッド」みたいに、支援の効率重視になってしまったりするわけです。
貴戸 斎藤さんがそういう感覚を持たれたのは、反面教師を見てきたからですか。
斎藤 揉まれましたからね。稲村さんは悪い人ではないがそういう点には鈍感な人でした。彼はクリスチャンだったので、たぶん宣教師的使命感だったんじゃないでしょうか。放って置いたら不幸になってしまう人を善導するという、まさにパターナリズムですね。自殺予防はそれでよかったんですが、不登校問題には、そういう善意は通用しなかった。はたから見ていた私は、同じ轍は踏むまいと思ったわけです。
歴史的に見ると、不登校もひきこもりも、最初は怠けだとか、ぜいたく病だとか、価値判断で叩かれてきましたね。その次が医療化、精神医学化なんですよ。それは精神医学で何度もくり返されてきたことです。そして、その次の段階が福祉化です。診断ではなく、弱者支援の文脈で考えましょうと。フリースクール運動のおかげもあって、不登校はかなり早くからこの段階を達成できたように思います。私はそこから多くを学びましたが、まずかったのは福祉化を焦りすぎた。だから一部の医師や厚労省の反発を買って医療化のバックラッシュにつながってしまったところもあります。そこには反省点もあって、手順的にはもう少し医療化の議論をていねいにしておくべきだったかもしれません。依存症に対して松本俊彦さんらがやったようにです。結局、ひきこもりは、医療化と福祉化のあいだで、いまだに行ったり来たりしています。
貴戸 逸脱から医療化、福祉化へというプロセスはよくわかりますし、弱者支援の視点は必要だと思います。一方で、不登校やひきこもりにある、個人と社会の接触面にある豊かな矛盾というか、そういうところに私は魅力を感じてしまうんですね。私は、その議論を延命させたいと思っているんです。
斎藤 まったく同感で、その延命がないと、素朴な一元化した議論になって、不登校はぜんぶ発達障害で、さっさと診断して薬を出しましょうというところに、すぐ回収されてしまう。
ただ、私には、これからさまざまな現場で、従来とはちがった新しい人間主義が来るという予感があるんです。そのひとつがオープンダイアローグですが、ほかにも、依存症ではハームリダクション、ホームレス支援ではハウジングファースト、認知症ではユマニチュードが出てきています(*10)。これらすべてに共通しているのは、パターナリズムの全面撤退と成果についてのエビデンスです。教え導くのではなく、いかに本人を自由にさせるのかというスキルを考える。そこには複雑な議論がありますが、これは新しいヒューマニズムの方向に行くのではないかと思っています。臨床現場を中心に、その有効性が実証されていくと、いろんな方向に波及していくように思っています。
●ヤンキー文化はハームリダクション?
山下 話がもどりますが、暴力の問題について、もう少しうかがっておきたいと思います。結果として通用してしまうということは、たとえば戸塚ヨットスクールなどでもあるわけですよね。しかし、そういうものを乗り越えて強くなったと思っている人は、長田百合子さんのように方法論にして暴力を再生産してしまう。
斎藤 まず、暴力概念があいまいなことが問題です。個的領域を侵犯する行為はすべて暴力だという共通認識が必要です。この定義のもとでは携帯を黙って見るのも、暴言も、暴力です。フィジカルな暴力だけが暴力ではない。暴力の認識があいまいだと、よい暴力はあり得るとなってしまうわけです。言うことをきかない子どもは殴ってもいい、未成熟な人間は殴ってでも成熟させるべきという認識は根強いですね。
ただ、率直に言うと、ひょっとしたらヤンキー文化はハームリダクションになっているかもと思っているんです。たとえばアメリカ社会では、公共の場から徹底的に暴力が消し去られた一方で、銃乱射事件が頻発していますね。因果関係があるかどうかはわからないですが、日本で殺人事件が減少して、重犯罪が少ないのは、軽い体罰のような暴力が容認されてきたからかもしれない。その可能性を考えておかないと、表面をとりつくろうだけでは、かえって有害なものをもたらす可能性もあると思っていることは告白しておきます。
役に立たないカルチャーが、こんなに生きのびるわけはないですからね。ブラック企業のような精神というのも、ある一時期までは生産性を上げてきたからこそ、残ってきたのでしょう。資源のとぼしい、人しか資源にならない国で、気合いを資源にしてきた。それで、それなりの成功を得て、その成功体験を捨てられないでいる。
山下 しかし、ヤンキー文化やブラック企業的な社会では、対話は成熟していかないでしょうね。
斎藤 日本社会においても、個人主義をもっと考えないといけないと思っています。すべての基盤としての個人主義が欠けている。
貴戸 しかし、個人であることが強調される社会になってきて、苦しい面もありますね。30年ほど前だったら、決まったレールに乗っていればよかったのが、すべてにおいて、自分で選びとって、自分で吟味して、自分で自分のことを語ることが迫られるようになってます。だけど、みんながそんな自己を持っているわけがない。私たちも、当事者研究などをしているのですが、関係のなかから自己を生み出すような場が、より重要になってくるように思います。
斎藤 そうだと思います。対話というのは意味を生成する場でもありますね。あらかじめ意味があるわけではなくて、そこに複数の主体がつどって、対話を交換するなかで、あらたに意味が生成されてくる。それをさらに主体化していくなかで回復が起こる。
●境界域の問題だからこそ
貴戸 斎藤さんは、ひきこもりの問題をずっと考えてこられて、付随するものに関心を拡げていかれてますね。思春期のほかの問題に関心が移るのではなく、なぜ、ずっとひきこもりという現象に関心をもってこられたんでしょうか。
斎藤 現象として見ると、症状もとぼしいし、病理は浅いし、精神医学的にすごくおもしろい対象というわけではないんですが、ひきこもりをめぐって、いろいろ考えたり活動したりすることが、境界域の思考につながっていくんですね。そのセンサーを鍛えるうえでは、すごくクリティカルなテーマで、そういう興味はずっと続いています。
たとえば、大学で社会精神医学の倫理に関する授業をもっていますが、ひきこもりという、放っておいてもすぐ死ぬわけでもない問題に対して、精神医学はどういうスタンスを持つべきかと考える。学生に考えてもらう素材としても有益だと思っています。
貴戸 斎藤さんは、若者を「ひきこもり系」と「じぶん探し系」に分けて論じていましたが、ご自身は、ひきこもり系にシンパシーがあるように見受けます。これは個人史からのものでしょうか。
斎藤 私は、不登校経験も、ひきこもった経験もないんですが、一歩まちがえば自分もひきこもっていた可能性があるとは思っていて、親と本人がいる場面では、圧倒的に本人のほうに感情移入してしまう傾向があります。個人的に親に対する恨みつらみはもちろんないのですが、もしひきこもっていたら親を恨んでいた可能性もあったと思います。まだ、私も思春期がくすぶっているのかもしれません、56歳ですけど(笑)。
山下 先ほどの話にもあったように、成熟した大人は、どこにもいなくなってますしね。しかし、そういう意味では仲間をつくりやすくなった面はありますね。
斎藤 そう思います。ただ、ネットがそこで飛躍させてくれるかと思ったのですが、意外と使えなくて、結局は、オーソドックスな生身での出会いしかないかなと思っています。ネット上の出会いは希少性がなくて、そのぶん価値も低い。生身の出会いは希少性があって、定着しやすい。
貴戸 コミュニケーションのコストを下げすぎると、あまりいい出会いにはならないですよね。
ところで最近は、ひきこもりの当事者が発信することが増えていて、それはいいことだと思いますが、たとえば実名で本を書いて、それゆえに「ひきこもり=自分自身」という等式から逃れられなくなってしまう場合もありますね。そのあたりは、どうお考えでしょう。
斎藤 ここにもパラドックスがあって、本で有名になってしまうと、もう、ひきこもりではなくなってしまうということがありますね。
山下 勝山実(*11)さんなんかも、そうでしょうかね。
斎藤 勝山さんは、絶妙なラインにいると思いますよ。あの人は、ひきこもりカルチャーが生んだトリックスターだと思います。身体をはってやってますし、ああいう人は貴重です。しかし、リスクを背負ってしまうこともありますよね。アイデンティティを固定させてしまって、抜けられなくなることもある。諸刃の剣のような危険性はあると思います。
●質的な変化は
貴戸 不登校もひきこもりも、斎藤さんもおっしゃるように、これだけ議論されてきた領域なのに、すぐ忘れられてしまうというところがありますね。ですから、議論の歴史を知っている世代が、よい面も悪い面も見て残していくことは大事だと思います。このプロジェクトもそのひとつだと思いますが。
斎藤 そうですね。アーカイブ化は大事ですし、ぜひ詳細な年表をつくっていただきたいです。
貴戸 それと、これまでの取り組みが制度や政策に活かされるかたちで表現されていくことも大事だと思っています。たとえば、「意図の間接化」と言うことで、居場所にも効果があるとなって、就労支援の枠組みに含まれていくのであれば、そういう表現も必要ではないかと。
斎藤 一時期、サポステがそうなりかけたんですが、効率重視の成果主義の方針がそれを許さなかったですね。しかし、サポステは社会のインフラとして必要なもので、本来は成果を求めてはいけないと思います。
貴戸 ひきこもりを長期間、見てこられて、ひきこもり現象に質的な変化はあると思いますか?
斎藤 20年くらい前までは、いったん就職した人がひきこもることはなかったんですが、最近は、就職経験者が仕事に失敗して、ひきこもることは増えてますね。割合では不登校経験のひきこもりを凌駕しています。これも平均年齢を押し上げている要因のひとつです。あと、症状は軽くなったかもしれません。すごい妄想を抱いてしまうとか、極端な強迫症状とかは、減ったような気がします。
貴戸 仕事に失敗してひきこもった場合と、不登校からの連続でひきこもっている場合で、質的なちがいは感じますか。
斎藤 理屈のうえでは、就職後のひきこもりのほうが、社会経験があるぶん社会復帰しやすいと言いたいところですが、正直、そんなに変わらないように感じています。実際のところ、いまの社会経験は、そんなに大きな意味を持たないのかもしれないですね。仕事環境がひどすぎて、経験値が溜まらないのかもしれません。
●ホームレス化への懸念
斎藤 いま、危惧しているのは、成人年齢引き下げと、青少年健全育成基本法の改正です。弱者化した若者を支えるという法律の方針をガラリと変えようとしているので、これによって、ヤングホームレスが増えるかもしれないという危惧を持っています。
家族はいままで、何がなんでも子どものめんどうをみないといけないという思いだけでがんばってきたわけです。しかし、若いホームレスが増え始めると、成人したらもうめんどうをみなくてもいいと思う家族は確実に増える。そうなると、いままで、ひきこもりで済んでいた人たちも、ホームレスにシフトしていく可能性がある。一方では、ホームレスは目に見えやすいので、イギリスのように、支援策を打ちやすい面はあります。しかし、社会の不安定化、治安が悪化する可能性は否定できないですね。
山下 すでに、一部ではそういう現実も始まっているようにも思います。
斎藤 そうですね。ただ、統計的には、野宿者は1万人以下ということで、まだまだ日本は、野宿者よりもひきこもり大国ですが、早晩、シフトしていく可能性がある。家族は、もうもたないですし、福祉は財源的に無理がある。いまのように自己責任的な見方をしているうちは難しいですね。
●環境さえマッチすれば
貴戸 ひきこもっている人のなかには、被害経験のある場合もあると思いますが、いじめPTSDほど、徹底した人間不信をみたことがないとおっしゃってましたね。
斎藤 そうですね。いじめPTSDの場合は、かなり徹底した人間不信が残りがちですね。PTSDが自然回復する確率は50%程度だと言われていますが、それは、ひどい人間関係を新たな良質な人間関係で上書きできた場合の話です。しかし、ひきこもっていると、それができず、ずっと生傷がひらいたような状態で、つい昨日の経験のような記憶が残り続け、当事者は苦しみ続けます。そういう激しい痛みが続くと、自己愛がぼろぼろになってしまうので、死に近づきやすくなってしまう。
ひきこもっていて、「自分は生きていても仕方ないから死にたい」と口にする人は多いですが、実際には死なないことがほとんどです。私の知るかぎり、典型的なひきこもり事例で自殺事例は経験がありません。わずかな例外がPTSDのケースです。
ですから、彼らの自己愛が健康なことは救いだと思います。環境さえマッチすれば、いろんな可能性が拓ける。問題は、社会の側がそのサービスを充分に提供できていないということだと思います。
山下 インフラの整備が必要ということですね。どういう制度であれば望ましいのか、まだまだ議論が成熟していないと思いますので、議論を重ねていくことが大事だと思います。今日は長時間、ありがとうございました。
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註
*1 ビフレンディング:Be+friend+ingからできた造語。友だちになる、寄り添うことが支援になるとの考えで自殺予防活動などを行なっている。
*2 オープンダイアローグ:統合失調症などに対する治療的介入の手法で、フィンランドのケロプダス病院を中心に実践されている。患者やその家族から依頼を受けた医療スタッフが、24時間以内に治療チームを招集して患者の自宅を訪問し、症状が治まるまで毎日対話するというシンプルな方法で、入院治療・薬物治療は可能なかぎり行なわない、患者を批判しないでとにかく対話する、などのルールがある。
*3 クラスジャパンプロジェクト:「学校・企業・地域が一丸となって不登校の小中学生の学校復帰を支援する」と謳って、角川ドワンゴ学園の役員などが中心となって立ち上げたプロジェクト。批判を受けて「学校復帰」の文言は消えた。会長は原田隆史さん(元中学校教員)で、ネットクラスを通じて「原田メソッド」にもとづいて「自立教育」を体得させるとしている。
*4 Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:アメリカ精神医学会が発行する、精神障害の診断・統計マニュアル。現在第5版まで出ている。
*5 ジョン・カシオポ(John T Cacioppo):シカゴ大学心理学部教授。専門は「社会的孤立」と「つながり」、感情・影響・態度などの評価プロセス。寂しさが人々の健康や行動にどう影響するかを調査し、寂しさの克服法を具体的に提案している。
*6 ニコイチ:ダルク女性ハウスでは、相手と自分がぴったり重なって一個の関係を望むことをニコイチと呼んで、ニコイチはDVと表裏一体で危険な状態だと言っている。
*7 8050問題:80代の親と収入のない50代の子の世帯の生活困難問題。大阪府豊中市社会福祉協議会コミュニティソーシャルワーカーの勝部麗子さんが新たな地域課題として問題提起し、朝日新聞(2017年12月30日)の記事をきっかけに、大きく注目されるようになった。
*8 カール・ロジャーズ(Carl Ransom Rogers/1902―1987):アメリカの臨床心理学者。来談者中心療法の創始者。
*9 ハインツ・コフート(Heinz Kohut/1913―1981):精神科医。自己愛の適応性、共感の必要性に着目して自己心理学を提唱した。
*10 ハームリダクション(harm reduction)は、ある行動が原因となっている健康被害を行動変容などにより予防または軽減させる考え方。ハウジングファーストは、ホームレス状態にある人に、まずは安心できる住まいを得られるようにしようという考え方。ユマニチュード(フランス語で「人間らしさ」の意)は、フランスから入ってきた認知症介護の技術で、技術の基本は「見る」「話す」「触れる」「立つ」。
*11 勝山実:ひきこもり名人を自称して、執筆活動などをしている。『ひきこもりカレンダー』(文春ネスコ 2001)、『安心ひきこもりライフ』(太田出版2011)などの著書がある。
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