早稲田大学文学学術院の大学院生が、指導教授である批評家・渡部直己氏に性的なハラスメントを受けたという苦情申立書を大学に提出していたという報道があった。教授に〈おれの女になれ〉と言われた、というのだ。院生はその後大学院を去ってしまったという。教授は一報ののち、大学に退職願を提出している。
教授を糾弾することも弁護することも、この記事の目的ではない。文学(や広くアート一般)の教育現場で強圧的な言動が起こる仕組について考えてみたい。
一般化して書くと、本稿の柱は、アクの強い教師・上司のハラスメント行為など強圧的態度の背後に、じつは「恐れ」という感情がある、ということだ。
かつて教授の前任校・近畿大学大学院の修士課程で学び、教授の授業を受けたこともある小説家・批評家の倉数茂さん(東海大学文化社会学部文芸創作学科准教授)の回想によれば、渡部教授の授業は〈自分と異なる学生の価値観を一旦叩き壊すというスタイルだった〉(「渡部直己教授について」)。
〈学部の一年生の授業で〔…〕この中で村上春樹が好きな人いる? と尋ねる。〔…〕手をあげた学生を指差して、渡部は「ふうん、あんな田舎っぺの読み物読んで、何がおもしろいの」(大意)と言ってのけるのだ。そして作品の細部を次々に取り上げて、いかに春樹がダサいかを華麗に説明してみせる〉
村上春樹がダサいかどうかはともかく、教授は初対面の相手の趣味を全否定して、出会い頭にショック療法を施しているようだが、要はハッタリ的なマウンティングをカマしているようにしか思えない。
〈渡部直己のスタイルは、まず学生の価値観を崩壊させ、そこに自分の考え(春樹はダメ!)を叩き込むというものだ。あまりにマッチョで、高飛車で、上から目線だ〉(倉数氏)
これを読んで思い出したのが、詩人・文月悠光(ゆみ)さんのいくつかの経験だ。
文月さんは、詩のイヴェントで初対面の男性から
〈あなたの朗読にはエロスが感じられないね。最近セックスしてる?〉
〈子宮のことを詩に書いているけど、産んで育てるという自分の中の女性性を意識し始めたのは何歳くらいから? 生理がきっかけなの?〉
と訊かれたことがある(「セックスすれば詩が書けるのか問題」)。
〈現代の日本社会において詩人であること〉という切り口で〈都内某大学〉で40人ほどの学生を前に話をすることになったときには、文月さんを呼んだ教授に、
〈詩人と娼婦は似た部分があると思うんだ。
もしかしたら、ふづきさんも詩を書いていなかったら、風俗嬢になっていたんじゃないか。ふづきさんは娼婦についてどう思う?〉
と言われたことすらある(「私は詩人じゃなかったら「娼婦」になっていたのか?」。これらの文章はのちに『洗礼ダイアリー』(ポプラ社)『臆病な詩人、街へ出る。』(立東舎)に収録)。
文学やアートの世界にはこういう、出会い頭に相手にショックを与えて虚仮威(こけおど)しなマウンティングをかましてくる人が一定数存在し、しかも当人はショック療法的に教育してやろう的な構えだったりするのだ。