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【芸能・社会】

「浅利教」といわれるカリスマ 役者以上の存在感を放つ

2018年7月19日 紙面から

中日劇場で上演した当時を振り返る浅利慶太さん=2017年12月7日、東京都港区で

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 良くも悪くも「浅利教」と称されるほどカリスマ性を持った人だった。母音をはっきりと発音して美しい日本語を発する独特のセリフ術を徹底させた。演出も細部にこだわり、ダメだしを聞く出演者たちは、直立不動で耳を傾けた。

 浅利さんは学生時代の仲間ら10人と劇団四季を立ち上げた。が、経済的には苦境に立たされ、1983年に上演したミュージカル「キャッツ」が空前の大ヒットとなって息を吹き返した。超ロングランになったほか、全国各地に専用劇場を建てて上演するシステムを取り入れるまでに拡大。今ではいくつものカンパニーが毎日、日本のどこかで劇団四季の作品を上演しているという状況を作り上げた。

 また、早くから韓国や中国からオーディションで出演者を募るなど、人材交流にも力を尽くした。特に、韓国人キャストの歌唱力を高く評価していた。その背景には、太平洋戦争で侵した日本の罪を少しでも償い、近隣諸国と友情を築きたいとの思いがあった。海外作品だけでなく、反戦思想を反映したオリジナルの傑作ミュージカル「李香蘭」などの三部作に結実させた。

 「金にならない」と言われた演劇を、いい意味で一大娯楽産業に成長させた浅利さん。晩年は、劇団四季を離れたが、最後まで演出の最前線に立ち続けた。 (本庄雅之)

 浅利さんは大型公演のたびに名古屋入りし、会見でその存在感をアピール。広い人脈と経営、政治手腕で全国の主要都市に演劇文化を広げた。

 2011~12年に名古屋で上演したミュージカル「ウィキッド」の時も、どっしりした物腰とカリスマ性で存在感をアピールした。

 豪腕でもあった。米国ブロードウェーで人気のミュージカル「美女と野獣」は1995年から四季も上演。上演に先立ちブロードウェーでは、日本の別の会社が先に交渉しており、上演の権利をほぼ固めていた。そこに乗り込んだのが石原慎太郎さんと浅利さん。別の会社担当者は「99%決まっていたのに、四季にひっくり返された」と唇をかんだ。

 テレビ、映画に出ずっぱりでパリへ逃避していた20代前半の加賀まりこ(74)を呼び戻したのも浅利さん。1965年ごろ、加賀に国際電話をかけ、「オンディーヌ」の客演で主役に。東京・日生劇場、名古屋・中日劇場の舞台を踏み、女優としての誇りを取り戻すきっかけをつくった。

 ブロードウェー担当者も浅利さんの威厳には一目置いていたようで、強烈な引率力は「独断」と評されることもあった。引退後、別の担当者との交渉はリラックスした雰囲気になったという。地方の通し稽古でも前触れなく客席に現れ、仕上がりが悪いと開幕前日に配役を変更することもしょっちゅう。看板女優だった濱田めぐみ(45)は「浅利先生が劇場(の客席)に入ってくると、舞台にいてもすぐにわかるんですね」。役者以上の存在感を放つ演劇人だった。 (持田則子)

 

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