自転車に初めて乗れたときの気持ちを、あなたは覚えているだろうか。初めてキスをしたときや、初めて失恋したときはどうだろう。そうした記憶と感情は、わたしたちの心に長い間残り、蓄積され、わたしたち一人ひとりが形成されるもととなる。
一方、深刻なトラウマを経験した場合、恐ろしい記憶は人生を変えてしまうほどの精神疾患の原因ともなりうる。
しかし、もし恐ろしい記憶がそれほど強烈な痛みをもたらさないとしたらどうだろうか。人間の脳の発達に関する理解が深まりつつある今、PTSD(心的外傷後ストレス障害)やうつ病、アルツハイマーといった疾患で、記憶を書き換える治療法が少しずつ実現に近づいている。(参考記事:「アルツハイマー病、治療の道筋を示す研究成果」)
これまでのところ、実験はマウスなどの動物を中心に行われている。科学者らは人間を対象とした試験を視野に入れつつ、一方で、個人の基礎を形作るものの一部を変えることの意味とは何かという倫理的な問題とも向き合っている。
さほど遠くない未来に、わたしたちは人間の記憶を書き換えられるようになるだろう。しかし人間は、本当にそこへ踏み込むべきなのだろうか。(参考記事:「ゲノム編集でヒト受精卵を修復、米初、将来性は?」)
そもそも記憶とは何か
神経科学者は通常、あるひとつの記憶を「記憶痕跡(エングラム)」と呼んでいる。これは、特定の記憶に関係する脳組織の物理的な変化を指す。最近、脳のスキャンによって、記憶痕跡は脳のひとつの領域に孤立しているのではなく、神経組織に広く飛び散るように存在していることがわかった。
「記憶はひとつの場所というよりも、網のようなものだと思われます」と、米ボストン大学の神経科学者でナショナル ジオグラフィックのエクスプローラーでもあるスティーブ・ラミレス氏は言う。なぜかと言えば、記憶には視覚的、聴覚的、触覚的な要素が含まれており、これらすべての領域の脳細胞から情報がもたらされる、総合的なものだからだ。
現在の科学は、まるで雪上の足跡を探偵が追跡するかのように、記憶が脳内をどのように移動しているかを追跡するところまできている。