東清鉄道ホテルとして始まり、ロシア総領事館にもなった哈爾浜ヤマトホテル、南満州鉄道の本拠地の大連でヤマトホテルの旗艦店大連ヤマトホテルと満鉄が戦前に経営していたホテルを泊まり歩いているので、瀋陽での宿泊先はもちろん奉天ヤマトホテルこと遼寧賓館にしようと決めていました。
瀋陽は朝鮮半島から北に伸びる安奉線の終着駅であり、北京へ伸びる京奉線の始発駅でもある中国東北部の重要な交差点に位置しています。日露戦争で東清鉄道とその付属地の権利を手にした日本はその地の利に目を付け、荒地だった瀋陽駅周辺を開発していきました。
奉天駅の設計者は大連ヤマトホテルと同じく満州鉄道技師の太田穀。赤煉瓦の上に白色の付け柱を配して高いコントラストを見せる東京駅と同じ辰野式の建物です。昔の奉天駅(瀋陽駅)と現在の姿を比較すると、茶色のドーム型の屋根の部分こそ違いが見られるものの、かなり原型を保っているように見受けられます。奉天ヤマトホテルは1910年の駅の開業時に2階部分に入居するかたちで営業開始しました。
駅から北東に伸びる浪速通り(現・中山路)には百貨店、電話交換所、郵便局やオフィスの並ぶ横幅27メートルの当時のメインストリートで、大広場(現・中山広場)と駅を現在でも結んでいます。奉天駅内にあったヤマトホテルは手狭になったこともあり、1929年に大広場に移転して、現在も残る建物で新たに営業を開始しました。
鉄製のキャノピーの向こうには戦前には奉天大広場と呼ばれた大きなロータリーが広がっています。
入口はこれまで宿泊した他のヤマトホテル同様に重厚さを感じさせられる回転ドアでした。こういうクラシックホテルは昔の空気を密閉しているかのようで、入口の扉をくぐる時が1番興奮させられます。
大連の大連賓館(大連ヤマトホテル)、長春の春宜賓館(長春ヤマトホテル)、ハルピンの龍門貴賓楼(哈爾濱ヤマトホテル)とここ遼寧賓館(奉天ヤマトホテル)の4ホテルで結成した百年歴史酒店連盟と、ここが大和旅館であったと書かれたプレートが入口付近に掲げられていました。
回転ドアを通る前にアーチ状の通路を見ると、何故かアルプス山脈越えをする場面のナポレオン。作画者のジャック・ルイダビッドがナポレオンに黙って6枚目を描いており、じつはこの壁画が...だったら話しは面白いのですが、そんな事があろう筈もありません。
回転ドアを通ると、ロビーが見える内ドアのある空間に出ました。古さを感じるさせられる木製のドア横には、翡翠を思わさせられるような深緑のタイルが組み合わされています。ドアといい、タイルといい当時のものがそのまま使用されているようで、見ているだけで嬉しくなってしまいます。
ロビーの雰囲気です。シャンデリアの釣り下がる高い天井にもビッシリと装飾が施され往時の様子が偲ばれます。中央にはスタインウェイのピアノ。1899年製で米国ニューヨーク工場での製造品と書かれていました。現在では保護されるべき文物として使用されていない様です。
フロント脇には有名な宿泊者リストがあり、過去の宿泊者の名前が偉い順が並んでいます。日本人の最高位は天皇陛下の名代として満州を訪れた高松宮親王。中国人では毛沢東が最高位で、下の方にはダライ・ラマ、パンチェン・ラマの名前も。満州帝国の皇帝・愛新覚羅溥儀は偽満州国軍政要人の1番上にその名前が見られました。
通路の左右には連続アーチが連なり右手にはエレベーター、左手には階段があり、正面の階段を昇った通路突き当たりには「餐庁」と金色の額が掲げられたバンケットホール。ヤマトホテル時代の写真と比較すると調度品こそ違えど同じ建物だとよく分かります。玄関でも見た深緑色のタイルがアーチ内側にも貼られており良いアクセントになっていました。
その「餐庁」の入口が開いていたので少し覗いて見ました。右手は山河を描いた仕切が隣室との間を閉じており、左手は何やらパーティの準備のためか、従業員が急いで働いている姿が見えました。このホテルには旧奉天市で産まれた李香蘭が初めて立った舞台が残っていると聞いていたので、是非とも見たいと思ってきたも、どうやら此処ではないようです。
エレベーターホールに戻ってきました。この階段は満州一美しいと称された螺旋階段が往時のままの姿を留めていました。下から見上げると絶妙なカーブがかかっており惚れ惚れしてしまう造り。どうしてか、皇居近くのペニンシュラ東京の螺旋階段が思い浮かびました。
黒皮の滑り止めが置かれた階段を上って行くと、各階の途中に大きなステンドグラスが嵌め込まれた窓が有ります。上の2枚の写真で分かるかと思うのですが、本当は1枚の大きな窓の真ん中を螺旋階段がふたつに分けているようになっています。
その螺旋階段を最上部から見下ろしてみました。目で追い掛けていくと、グルグルと永遠と回っているかのような感覚に陥ってしまいます。
中山広場が見える部屋にして欲しいと予約時に電話でお願いしていたものの、本当に要望を通して貰えるか一抹の不安を持ちつつドアを解錠。部屋の窓には中山広場に立つ毛沢東主席が目に入りホッと一息です。
遼寧賓館の部屋はヤマトホテル時代のままとは勿論いかず、何度も改装を経ているようで一昔前に多く見られた中国の典型的なホテル部屋でした。
部屋の窓からは希望通りに中山広場が一望できました。奉天大広場(現・中山広場)には陸軍大将・山縣有朋による揮毫の高さ18メートルを誇る日露戦役ノ記念碑が立っていたのですが、 現在は1969年に建てられた毛沢東と紅衛兵達の像がその場所に立っています。1966年から10年続いた文化大革命中に建てられた像なので、毛主席語録を掲げた人々が「造反有理(権力側に逆らうのは意味がある)と叫ぶ姿をしています。
写真左に写る朝鮮銀行奉天支店は華夏銀行へ、旧東洋拓殖銀行は盛京銀行を経て瀋陽市総工会へと代わっていますが中山広場に建つ多くの建物は戦前からのモノのまま。1909年に大広場で1番最初に建設された満州鉄道奉天医院は瀋陽鉄路公安局にとなり、右手前に写る茶色の建物は南満医学堂を前身とする中国医科大学付属病院が部屋から見えました。
左から、かつての横浜正金銀行奉天支店は中国商工銀行奉天支店に、奉天警察署は瀋陽市公安局と満州時代と同じ職業が建物に入居しているところに興味を惹かれてしまいます。1番右手に残るが大広場で最も新しい1937年に建てられた奉天三井ビルで、関東軍司令部が置かれた場所です。
暗くなりライトアップを受けた遼寧賓館。せっかくのクラシックホテルですが、ホテル前面に取り付けられている電光掲示板が興を削いでしまっています。この旧ヤマトホテルは大連やハルピンのものと違い、手入れがキチンとなされているので営業を続けていけると感じられます。次の大きな手入れ時には往時を彷彿させられる雰囲気を外装と部屋になることを願うばかりです。
部屋から眺めた夜景と夜明けの中山広場です。手のを突き出すような毛沢東の像は、文化大革命時代に最もよく造られたポーズです。わたしの妻が昔、この右手の5本の指を広げるスタイルの毛沢東像を見て「造反有理 週休五日(会社のことなんか知ったことか、週休5日が当たり前)」と言っていたのが脳裏に焼き付いていて、毛沢東像を見ると週休5日しか浮かばなくなってしまいました。
朝食を頂く為に一階に降りてきました。廊下には奉天ヤマトホテル/遼寧賓館時代の栄華を写す白黒写真と、レストラン個室は愛新覚羅溥儀等の著名人が使用した等が書かれた黒地に金のプレートが飾られていました。
この螺鈿細工がほど施された鏡は、エレベーターホール奥にある「餐庁」の入口前に置かれていたものです。奉天の迎賓館たる存在だったヤマトホテル時代の調度品は皆この様な豪華なものだったのでしょう。
朝食会場に入りました。他の旧ヤマトホテルのバンケットホールと比較すると小振りな印象を受けましたが、アール・デコ調の内装を主とした旧ヤマトホテル時代をこのホテル内で最も引き継いでいる空間です。
前日には山河が描かれた仕切で全く見えませんでしたが、満映の大スター・李香蘭(山口淑子)が初めて舞台を踏んだ場所がバンケットホール奥にありました!
ほの暗い舞台は、当時の雰囲気をそのまま写したかのようです。女学生だった山口淑子は自身の歌の先生(イタリア人オペラ歌手)の前座として、荒城の月やシューベルトのセレナーデをこの舞台で歌ったのでした。
その舞台に立ち、観客席側を見てみました。奉天放送局関係者の目に留まった振り袖姿で歌う山口淑子が、中国人スター李香蘭として歌手、女優として華々しい世界へと羽ばたくことになった舞台からの眺めです。夜来香、蘇州夜曲、何日君再来等の数々の名曲が静かに聞こえ、李香蘭が「売糖歌」を歌う飴売の娘として出演した大ヒット映画「萬世流芳」のタイトルと同じく、萬世(永遠に)流芳(香り続ける)かのように思える場所でした。