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「0~3歳児の赤ちゃんにパパとママ、どっちが好きか聞けば、どう考えたってママがいいに決まっている。」
2カ月ほど前、ある政党の幹事長代行を務める国会議員がこのような発言をして、男女双方から異論が噴出する騒ぎとなりました。
この方が実際に赤ちゃんに聞いてみたのか、どう「考えた」のか、は不明ですが、今の時代に公の場で発言するには、なかなかの勇気が必要だったろうと想像します(もちろん、「肉」に「皮」を被せた見方です)。
とはいえ、誰もが容易に陥りがちな考え方(バイアス)にも思えるので、少し深掘りしてみることにしました。
慣習や事実を「結果」と捉えた結果
結構な筆圧で過去記事『行儀よく「イクメン」なんてクソ喰らえと思った』を書いた身としては、まったく同意できない考え方です。
経験上、パパとママが同じように子育てに関われば、子どもはパパとママを同じだけ好きになります。もう、断言してしまいます。もちろん、子育てには、性別に関係なく得意不得意がありますので、たとえばママの方が子育て上手なら、その分だけパパよりもママを好きになる可能性はあるでしょうが、いずれにしろ、「ママがいいに決まってる」ことなどありません。
もっと言えば、母親でも父親でもなく、血縁関係のない保育者・養育者であっても、「自分のことを受け止めてくれる存在」としては、子どもにとって本来同じです。
そもそも、母親が子育てに専念すべきとする「3歳児神話」なんて、20 年前の厚生白書ですでに否定されています。
それなのに何故、「ママがいいに決まってる」という発言が出てくるのか考えてみると、おそらく、かつて母親が育児を担ってきたという慣習・事実を「結果」と捉えてしまっているためでしょう。
つまり、「子は母になつくもの(原因)→ だから、母が子育てしてきた(結果)」という考え方が頭にこびり付いているためと考えられます。
イクメンはそう考えない
世の中のすべてのイクメンにインタビューしたわけではないので 100% 言い切れるものではありませんが、多くの(自主的)イクメンの頭の中に、「ママがいいに決まってる」という考え方は基本的にないでしょう。
「子は母になつくもの」という固定観念が最初からないか、あるいは、そのような固定観念を自ら払拭しようとするところに子育ての意義や喜びを感じます。
慣習や事実を「原因」と捉える
つまり、イクメンの思考回路は、「母が主に子育てする(原因)→ だから、子は母になつきやすい(結果)」というように、原因と結果が逆転しています。
これが科学的に正しいのかどうかは分かりません(経験上は正しいと思います)が、かつて母親が育児を担ってきたという慣習・事実を「原因」と捉えているわけです。
このように慣習・事実を「原因」と捉えることにより、「原因」が変われば「結果」も必然的に変わるわけですから、「結果」を自らの意思でコントロールできるようになります。つまり、父親が子育てに関わる(「原因」を変える)ことで、子育ての「結果」に自らの意思を反映させる醍醐味を味わえることになります。
慣習・事実を「結果」と捉えるか「原因」と捉えるかで、自らの関わり方は大きく変わるはずです。もちろん、子育てに関わって自らの意思を反映させるには、それなりの時間と体力が必要ですから、そのような労働環境・社会環境が前提であることは言うに及びません。
慣習や事実を「結果」と捉えて陥る無限ループ
「ママがいいに決まってる」というように慣習・事実を「結果」と捉えていると、「子は母になつくもの」という固定観念に囚われるため、父親が自ら子育てに関わろうとする意思は薄弱になり、その結果、育児に関わる時間が必然的に短くなって、ますます子は母になつきます。
そうなると、「ママがいいに決まってる」という偏った考え方がますます強くなって、子育てに関わろうとする意思もますます薄弱になり、・・・という無限ループに陥ります。
人間に何らかの「バイアス(思い込み)」が掛かった場合の典型ですね。
ちなみに、夫婦の家事・育児時間を国際的に比較すると、こんな感じです。
仕事も同じようなもの
以上のように、慣習・事実を単に「結果」として受け止めるだけでは、そこで話が終わってしまい、「結果」を自らの意思でコントロールできません。
同じことが、仕事にも当てはまります。
たとえば最近、大手企業などでの製造データや品質データの「改ざん」をニュースでよく見掛けます。具体的な原因や対策は、それぞれの組織やシステムに応じて異なるのでしょうが、個々人の意識レベルとしては、「改ざん」という慣習・事実を「結果」「原因」のいずれで捉えるか、が根本にあるように感じます。
「結果」として捉えている場合のマインドセットは、「他社もやっている(原因)→ だから、自社もそうしてきた(結果)」あるいは「先輩もやっている(原因)→ だから、自分もそうしてきた(結果)」という考え方です。
これでは、「原因」を他者に委ねてしまっているため、「結果」を自らの意思でコントロールするのはかなり難しいはずです。「他者もやっているから」という偏った考え方が強くなると、自浄作用は薄弱になり、自浄作用が弱くなると、「他者もやっているから」という固定観念がますます強くなり・・・という無限ループに陥ります。
一方、慣習・事実を「原因」と捉えるなら、「自社(自分)がやっている(原因)→ だから、他者(後輩)もそうする(結果)」という考え方に変化します。
これであれば、「原因」を変えることにより、「結果」を自らの意思でコントロールできる可能性があります。さすがに「他社」に影響を及ぼすのは難しいでしょうが、自社内での自浄作用に貢献することは可能です。
まずは自社内の自浄に成功したなら、それが強みとなって、他社にも影響が及んでいく可能性は十分にあると思います。
そして、このように慣習・事実を「結果」と捉えてしまう「バイアス(思い込み)」は、「データ改ざん」に限らず、仕事のあらゆる場面に存在しており、日々の仕事は、このような「バイアス」との闘いとも言えます。
さいごに - 育児や仕事の景色を変えるには
以上のように、慣習や事実を単に「結果」として捉えるということは、「ママがいいに決まってる」「他者もやっている」という一見正しそうで、実は根拠のない「固定観念(思い込み)」に囚われることと同じです。
慣習や事実が「結果」になってしまっては、それ以上前に進めません。
ある時代にはそれで良くても、時代や状況が変わったなら、慣習や事実を「原因」として捉え直すことにより、育児や仕事の景色が変わってくるはずです。
だから、慣習や事実は、常に(半分ぐらいは)疑ってかかるのが丁度良いのだと思います。