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30代斎院 怡子内親王(女王)


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
いし よしこ 不明
両親 生年月日 没年月日
父:輔仁親王(後三条皇子)
  (1073-1119)
母:源行宗女
未詳(1104-1110頃?) 未詳(1170以降?)
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
崇徳(1123~1141,いとこ孫)、
近衛(1141~1155,いとこ孫)、
後白河(1155~1158,いとこ孫)、
二条(1158~1165,いとこ孫の子)
卜定:長承2年(1133)12月21日
   (中御門烏丸土佐守
    [藤原?]顕保宅)
初斎院:長承3年(1134)9月21日
   (大膳職)
本院:長承4年(1135)4月15日
退下:平治元年(1159)閏5月19日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
守子(1111-1156,異母姉妹)
 [伏見斎宮]
 父:輔仁親王
 母:源師忠女
卜定:保安4年(1123)6月9日
   (六角堀川)
初斎院:天治元年(1124)4月23日
野宮:天治元年(1124)9月27日
群行:天治2年(1125)9月14日
退下:永治元年(1141)12月7日
天皇譲位
妍子(1161没,いとこ孫)
 [吉田斎宮]
 父:鳥羽天皇
 母:藤原家政女
卜定:康治元年(1142)2月26日
   (母儀五條堀川第)
初斎院:康治2年(1143)2月22日
   (大膳職)
野宮:康治2年(1143)9月27日
群行:天養元年(1144)9月8日
   (長奉送使:藤原公能)
退下:久安6年(1150)5月10日
疾病
喜子(いとこ姪?)
父:堀河天皇?
卜定:仁平元年(1151)3月2日
   (●小路室町
    左馬頭藤原隆季宅)
 ●=亞+鳥、こちらを参照
初斎院:仁平元年(1151)9月19日
   (一本御書所)
野宮:仁平2年(1152)9月30日
群行:仁平3年(1153)9月21日
   (長奉送使:藤原忠基)
退下:久寿2年(1155)7月23日
天皇崩御
亮子(1147-1216,いとこ孫の子)
 [殷富門院]
 父:後白河天皇
 母:藤原成子
卜定:久寿3年(1156)4月19日
   (三條猪熊
    左馬頭藤原隆季家)
初斎院:保元元年(1156)9月
   (大膳職)
野宮:保元2年(1157)9月15日
群行:なし
退下:保元3年(1158)8月11日
天皇(父)譲位
好子(1148?-1192,いとこ孫の子)
 父:後白河天皇
 母:藤原成子
卜定:保元3年(1158)12月25日
初斎院:不明
野宮:不明
群行:永暦元年(1160)9月8日
   (長奉送使:宣房)
退下:永万元年(1165)6月25日
天皇譲位

略歴:
 長承2年(1133)12月21日、斎院に卜定。
 長承3年(1134)9月21日、初斎院(大膳職)に入る。
 長承4年(1135)4月15日、本院に入る。
 保延6年(1141)12月7日、崇徳天皇譲位、近衛天皇践祚。

12月27日、近衛天皇即位。
 久寿2年(1155)7月23日、近衛天皇崩御。

7月24日、後白河天皇践祚。

10月26日、後白河天皇即位。
 保元3年(1158)8月11日、後白河天皇譲位、二条天皇践祚。

10月20日、二条天皇即位。
 平治元年(1159)閏5月19日、病により退下。

号:北小路斎院

白河天皇猶子。
 母源行宗女は、父輔仁親王の従姉妹。(輔仁の母基子(1049-1134)と行宗(1064-1143)が姉弟)
 異母兄弟に源有仁(花園左大臣,1103-1147)、守子内親王(伊勢斎宮,1111-1156)らがいる。

          ┌──────┐
          │      │
後朱雀天皇===禎子内親王   小一条院
      │          │
      │          │
      │         源基平
      │          │
      │          ├───┐
      │          │   │
    後三条天皇=======源基子 源行宗
      │     │        │
      │     │        │
     白河天皇  輔仁親王=====源行宗女
      │     │    │
      │     │    |
     堀河天皇   守子  ◆怡子
      │    (斎宮)
      ├─────┐
      │     │
     鳥羽天皇   喜子
      │    (斎宮)
      ├──────┬─────┬────┐
      │      │     │    │
     崇徳天皇  後白河天皇  近衛天皇  妍子
             │         (斎宮)
   ┌────┬────┤
   │    │    │
   亮子   好子  二条天皇
  (斎宮)  (斎宮)

 父輔仁親王は後三条天皇第三皇子(母は小一条院孫の女御源基子)。夭折の同母兄実仁親王に次ぐ皇太子候補と目され、優れた資質から世間の期待も高かったという。しかし白河院が実仁親王の没後強引に我が子堀河天皇を即位させたことにより立太子を阻まれ、さらに永久元年(1113)の永久の変(千手丸事件)で閉門、不遇の内に没した。

 怡子の在任期間26年は歴代三位(16代選子内親王(57年)、14代婉子内親王(36年)に次ぐ)。『今鏡』執筆当時60歳を越えている(嘉応2年(1170)頃には存命?)とあり、逆算すると天仁3年(1110)以前の生まれか(祖父源行宗(1064-1143)の年齢から見て、母行宗女は少なくとも1180年以降の生まれと見られ、1110年当時30歳以下と考えると矛盾はない)。
※なお斎院卜定の上限を30歳と仮定すると、怡子の生年は1104年以降ということになり、これも『今鏡』の記述と一致する。

 1133年当時、伊勢斎宮は異母姉妹の守子内親王であり、怡子卜定から1141年の守子退下までの8年間、姉妹揃って斎宮・斎院の任にあった。天皇の娘ではない皇女が姉妹同時に斎宮・斎院となることは極めて珍しく、この斎宮守子・斎院怡子の例のみである(ただし両名共に内親王宣下を受けていたようで、女王の斎宮・斎院ではなかった)。
※姉妹の女王が同時に斎宮・斎院となったケースとしては、斎宮繁子女王・斎院穆子女王が初例だが、元慶8年(884年)3月22日の斎宮繁子卜定の際既に父光孝天皇は即位している。また繁子自身も同年4月9日に内親王宣下を受けたため、姉妹女王の斎宮・斎院であったのはわずか20日ほどであった。
 なおもう一例、後朱雀天皇の斎宮良子・斎院娟子も長元9年(1036)11月28日の卜定時は女王であったが、この時も父後朱雀天皇は既に即位済で、良子・娟子姉妹も同年12月5日には内親王宣下を受けている。

 怡子が卜定された頃、崇徳天皇には皇子女はまだなかった(※その後も生まれたのは皇子2人のみで、皇女はなかった)。また崇徳の姉妹(鳥羽天皇皇女)も、同母の28代統子内親王・29代禧子内親王が既に斎院となっており、それ以外の異母妹達(八条院、高松院等)も生まれる前のことであったため、斎王候補となる「内親王」は存在しなかった。さらに鳥羽天皇の兄弟にも親王宣下を受けた皇子はおらず、よってその娘の女王もいなかったため、崇徳から見て祖父の従姉妹という遠い血縁ながら、白河天皇猶子として内親王宣下された怡子が卜定されたと見られる(あるいは斎院卜定にあたり宣下を受けた可能性もある)。
 なお怡子の異母兄弟・源有仁も白河院の猶子となっており、姉妹の怡子を猶子・内親王としたことも、失脚した弟輔仁親王に対する白河院の配慮の表れと思われる。また同じく輔仁の娘である斎宮守子(1111-1156)についても、『中右記部類』第27・臨時神事第9「斎宮群行下」(天治2年9月14日条)は「守子内親王」と記している(『本朝皇胤紹運録』『帝王編年記』等も同様)。守子は有仁の同母妹であるので、守子もまた共に白河院の猶子とされ宣下を受けていたと思われる。

参考論文:
・所京子「『中右記部類』斎宮守子の群行発遣記録」
 (『斎王の歴史と文学』p163-202, 国書刊行会, 2000)
≪斎院・怡子とその周囲の系図≫

 後三条=====源基子
  │   │
  │   ├───┐
  │   │   │
  白河  実仁  輔仁
  │   (東宮)  │
  │       ├─────┐
  │       │     │
  堀河      怡子    守子
  │      (30代斎院)  (斎宮)
  │
  │
  鳥羽=======藤原璋子
  │    │   [待賢門院]
  │    ├─────┬────┬────┐
  │    │     │    │    │
  近衛   崇徳   後白河   禧子   令子
             │    (29代)  (28代)
             │
             二条

【輔仁親王の娘たちについて】
『天祚禮祀職掌録』によれば、崇徳天皇の即位(保安4年(1123)2月19日)で褰帳(けんちょう/天皇の即位式において、天皇が座る高御座(たかみくら)の御帳を開く役の女王・女官)を務めた「仁子女王」は、輔仁親王女であるとされる。この仁子が当時既に成人していた(=裳着を済ませていた)と仮定し、大体13歳以上とするならば、崇徳帝即位から逆算して少なくとも1111年以前の生まれかと思われる。『今鏡』に仁子についての記述はなく生母も不明だが、名前が「仁子」で父輔仁の片諱(かたいみな/親の名から一字を取った名前)であることから、長女もしくは次女であろうか(記録にはないが、姉妹に「輔子」がいた可能性も考えられる。なお参考までに、後述の顕広王の娘で褰帳を務めた「顕子」女王は恐らく長女で、妹(四女もしくはそれ以下)に「広子」女王もいたことがわかっている)。
 斎王は2歳で卜定の例もあるが、褰帳は平安中期には典侍が任命されることも多く、天皇即位という晴れの舞台において臣下一同の前に初めて即位した天皇の姿を公開するという、非常に重要な役割を担うものであった。よって本来は幼児に務まる役目ではないと想像され、仁子は当時輔仁の娘の中でも年長の方であったかと思われる。
※これより約40年後の六条天皇即位式における褰帳女王について、『顕広王記』永万元年(1165)7月27日条に「抑女子参褰帳<十歳>、頻雖申辞退難遁、仍今暁参入東廊宿所」とある。この時褰帳女王となった顕広王の娘信子女王は当時10歳で、上記記述から顕広王が始め辞退したことがわかる。
 この辞退の理由として、小松馨氏は経費の莫大なことと共に、信子女王自身の年齢が幼かったこともあろうとしている。大役を務めるには年少すぎる信子女王が敢えて任命された理由は不明だが、当時は親王・内親王宣下の減少に伴い王・女王の人数も減少しており、斎宮・斎院卜定と同様に候補者が少なかったことが大きな要因かと思われる(なおこれ以降、褰帳女王は代々白川伯王家の女子が任命されるのが慣例となった)。

参考論文:
・小松馨「即位儀礼と白川伯王家」(『神道体系月報』87, p5-8, 1989)
 ※『神道体系/論説編・伯家神道』(神道大系編纂会, 1989)付録

参考リンク:
・『顕広王記』全文画像(大和文華館本)
 国文学研究資料館・電子資料館提供。
 「所蔵和古書・マイクロ/デジタル目録データベース」目録検索画面で検索。
 (※永万元年(1165)7月27日条は27コマ目にあり)

 なお斎宮守子内親王が卜定されたのも、崇徳天皇即位と同年の保安4年(1123)6月9日であった。仮に怡子が1110年以前の生まれとすれば、守子の異母姉ということになる。既に褰帳を務めた仁子女王は候補外としても、この時怡子が選ばれず正室所生の守子が卜定された理由は不明であるが、可能性としては当時怡子が母方の親族の喪中であった等が考えられる。
『一代要記』では怡子を輔仁の第三女としているが、守子(1111-1156)・仁子との年齢差は不明である。長女「輔子」が存在したと仮定すれば、次女が仁子、三女が怡子で、守子は四女であったかとも考えられるが、輔子は早世して仁子、守子、怡子が長女、次女、三女と見なされていた可能性もある。

 ところで『長秋記』元永2年(1119)11月23日条で病篤くなった輔仁親王の様子を述べる記事には、家領の処分(相続処理)について「家領荘園等可奉介[分]三位中将(源有仁)并姫御前也」とある。このことについて、『長秋記』の筆者源師時(左大臣源俊房の次男)は輔仁から子供たちのことを託されており、特に「就中三位中将姫君事偏所憑汝也、姫君無縁人也、如汝子可思也」との記述がある。
 師時は生母が源基平女で、さらに大納言源師忠の娘を妻としており、輔仁とは従兄弟であると同時に妻同士が姉妹の相婿でもあるという近しい関係だった。輔仁室(1102年結婚)は有仁(1103-1147)と守子(1111-1156)の母でもあるので、師時にとっては有仁・守子兄妹は従兄弟の娘であると同時に妻の甥・姪にあたる(なお師時の妻もまた、師時とは父同士が兄弟の従姉妹である)。さらに怡子の母行宗女も、輔仁や師時の従姉妹であった(ただし源行宗は輔仁の叔父とはいえ、当時は兵衛佐にすぎず、行宗女も輔仁の妻の一人とされるが恐らく側室かと思われる)。
≪輔仁親王・源師時周辺の系図≫

           源基平
            │ 
 ┌──────────┴─────┬──────┐
 │    ┌─────┐     │      │
 │    │     │     │      │
 女===源俊房   源師忠   源基子    源行宗
   │        │  (後三条女御)   │
   │    ┌───┤     │      │
   │    │   │     │      │
  源師時===女  輔仁室===輔仁親王===行宗女
               │      │
          ┌────┤      │
          │    │      |
         源有仁   守子     怡子
              (斎宮)   (斎院)

 輔仁室はこの元永2年の処分において荘園等の目録を託されており、また『長秋記』同年12月5日条には、「宮上(輔仁室)」が輔仁の葬儀にあたり服喪した等の記述がある。一方怡子の母行宗女の消息は輔仁薨去・葬儀の記事にも見られないが、怡子の外祖父源行宗(源兵衛佐、輔仁の母方の叔父)は葬送に供奉しており、「中納言殿(有仁)・姫宮(守子?)・母堂(源基子、輔仁の母)・源兵衛佐(行宗)・美濃権守(源忠宗、輔仁の従兄弟)・八郎大夫・今御前<兵衛佐孫也>・仁和寺禅公(信証、輔仁の子)給参服」とある。
『大日本史料』では「姫君」「姫宮」を「守子女王・怡子女王」の二人を指すものとしているが、文脈から見て複数の姫君たちを意味しているとは思われない。また「姫君」「姫宮」の名が登場する時は大抵「中納言殿(有仁)」または「宮上(輔仁室)」と共であり、処分においても有仁の次に重視されていることから、この姫君は正室腹で有仁の同母妹である守子のことと思われる(「無縁人」とあるのは、外祖父源師忠が永久2年(1114)に死去しており、さらに父輔仁の死によって頼りになる後見を失うことを指したものか)。
 なお上記の葬送に供奉した顔ぶれの中に「今御前」とある人物は、他の面々の殆どが輔仁の肉親か姻戚であることと、「兵衛佐(源行宗)孫也」という注から見て、怡子を指すと思われる(「姫宮」より扱いが軽いのは、正室腹でないことによるものであろう)。

 ところで、輔仁の葬儀に際して「姫宮并上出砌著服、於姫宮者不令著参服、幼少故也」とあり、「姫宮」は幼少のため服喪しなかったことがわかる。平安時代には幼児は両親の死にも服喪しなかったとされるが、この姫宮が当時10歳以下とすれば、4年後に褰帳を務めた仁子である可能性は低く、やはり9歳の守子と思われる。




崇徳天皇
史料 年月日 記述
帝王編年記
十三代要略ほか
長承2年12月21日 【怡子内親王、斎院卜定】
『十三代要略』
 崇徳天皇 諱顕仁
  長承二年
   十二月廿一日。卜定怡子女王為斎院。<輔仁親王女。>
中右記 長承3年9月10日 【斎院諸司卜定】
 今日夕新中納言伊通行斎院諸司卜定事、又有出車定云々、
中右記 長承3年9月21日 【斎院(怡子)御禊、初斎院(大膳職)に入る】
 今日斎院御禊、入給大膳職、日者坐中御門烏丸土佐守顕保宅、前駈新宰相中将重通、
秉燭之後被出河原、甚雨之間次第違亂、上卿新中納言伊通卿、行事右中辨公行、大膳職新造伊賀守光房成功造進也、
行向一條留、
中右記
長秋記
長承4年4月1日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
 御禊前駈定、上卿伊通卿、宰相経忠、
  大納言顕雅、中納言宗能、参議家保、公教、
  四位四人、忠基、通基、公隆、忠頼、五位四人、忠兼、公信、公重、光隆、
 斎院司除目被行、
  右少史大江季遠、    中務少輔平忠盛、兼、
  内舎人大江基景、    藤原奉忠、
  太皇太后宮少進藤原永範、式部録中原宗遠、
  醫博士丹波重成、    右京屬内蔵重貞、
  斎院長官藤原重康、   次官藤原資康、
      高階業雅、   判官中原成清、兼、
      藤原重清、   主典惟宗義基、
      中原為俊、兼、  修理大屬菅野頼経、
    算師菅野成宗、   権大工平群重貞、
    少工藤井依兼、   権少工藤井武國、
    山城介紀教重、   大和守源重時、
    伊勢守平盛國、  阿波権守藤原實重、
中右記 長承4年4月15日 【斎院(怡子)御禊、紫野本院に入る】
 初斎院御禊初入本院給也、午後天陰雨下、入夜渡大路云々、
  前駈源大納言顕雅、中納言宗能、
   参議二人云々、<實衡不参云々、>
   四位四人、五位四人、
   雑色所衆、
   所前駈御覧如常云々、頭辨候御前、
別本台記
中右記
保延2年11月14日 【殿上中宮及び斎院(怡子)淵酔】
中右記
実能記
保延3年4月15日 【斎院(怡子)御禊】
中右記
実能記
保延5年4月25日 【斎院(怡子)、本院に帰還】
近衛天皇
史料 年月日 記述
本朝世紀 永治2年3月1日 【賀茂社に奉幣、斎院(怡子)の不替を奉告】
本朝世紀 永治2年4月7日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
本朝世紀 永治2年4月19日 【斎院(怡子)御禊】
台記
本朝世紀
康治2年4月7日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
本朝世紀 康治2年4月10日 【斎院(怡子)御禊出車定】
本朝世紀 康治2年4月19日 【斎院(怡子)御禊】
少外記重憲記
本朝世紀
天養元年4月7日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
少外記重憲記
本朝世紀
天養元年4月13日 【斎院(怡子)御禊】
本朝世紀 天養2年4月15日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
本朝世紀 天養2年4月19日 【斎院(怡子)御禊】
本朝世紀 久安2年4月19日 【斎院(怡子)御禊】
本朝世紀 久安3年4月13日 【斎院(怡子)御禊】
台記
本朝世紀
久安4年4月3日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
本朝世紀 久安4年4月19日 【斎院(怡子)御禊】
本朝世紀 久安5年4月9日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
本朝世紀 久安5年4月19日 【斎院(怡子)御禊】
本朝世紀 久安5年7月1日 【崇徳上皇、斎院(怡子)御所に御幸】
台記 久安6年4月3日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
本朝世紀 仁平元年4月8日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
本朝世紀 仁平元年4月17日 【斎院(怡子)御禊】
宇槐記抄
本朝世紀
仁平元年4月18日 【斎院御禊前駈左衛門尉藤原実遠、左兵衛尉平時弘、違制の服を着して咎めを受ける】
本朝世紀 仁平元年閏4月6日 【右京進国盛(姓不明)、斎院御禊前駈欠怠により外記局に留められる】
本朝世紀 仁平元年閏4月29日 【右京進国盛(姓不明)免職】
本朝世紀
百練抄
仁平元年8月26日 【少監物藤原仲盛と縫殿大夫行康(姓不明)を、斎宮斎院の召使を凌辱の罪で取り調べる】
兵範記
本朝世紀
仁平2年4月13日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
山槐記
兵範記
本朝世紀
仁平2年4月18日 【斎院(怡子)御禊】
兵範記
本朝世紀
仁平3年4月11日 【斎院(怡子)御禊】
本朝世紀 仁平3年4月15日 【斎院の庭樹倒れる】
本朝世紀 仁平3年5月20日 【斎院の怪異を軒廊に卜する】
台記
兵範記
仁平4年4月20日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
台記
兵範記
仁平4年4月24日 【斎院(怡子)御禊】
台記
兵範記
久寿2年4月11日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
台記
山槐記
兵範記
久寿2年4月18日 【斎院(怡子)御禊】
後白河天皇
史料 年月日 記述
兵範記ほか 久寿3年3月26日 【斎院(怡子)御禊前駈定】
兵範記 保元2年4月11日 【斎院(怡子)御禊】
兵範記 保元3年4月17日 【斎院(怡子)御禊】
二条天皇
史料 年月日 記述
帝王編年記 平治元年閏5月19日 【斎院(怡子)退下】
 二条天皇
 斎院怡子内親王<如元、平治元年閏五月十九日依病退出>



史料 記述
一代要記

崇徳天皇
斎院 怡子女王 輔仁親王第三女、長承二年卜定

賀茂斎院記

怡子内親王
輔仁親王之女也。<輔仁者後三条院之皇子。号三宮。>母大蔵卿行宗之女。
長承二年卜定。怡子之在斎院。暦崇徳。近衛。後白河。二条四朝。<前後二十七年。>
号北小路斎院。

今鏡
(8・月の隠るる山の端)

 三の親王(みこ)[輔仁親王]の御子には、また信証僧正とて、仁和寺におはしき。(中略)
御むすめは、大臣殿(源有仁)の一つ腹(守子女王)に、伊勢の斎宮にて下り給へりき。後は伏見の斎宮と申しし、これにやおはすらむ。
 また(源)行宗の大蔵卿のむすめの腹に、斎院(怡子)もおはするなるべし。このごろ六十(むそぢ)などにや余り給ふらむ。その斎院におはせしころ、大臣殿、本院に有栖川のもとの桜のさかりなりけるにおはして、歌など詠み給ひけるに、女房の歌とて、

  散る花を君ふみわけて来ざりせば庭のおもてもなくやあらまし

とぞ聞えし。



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