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29代斎院 禧子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
きし よしこ 一品、准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:鳥羽天皇(1103-1156)
母:中宮藤原璋子[待賢門院]
  (1101-1145)
保安3年(1122)6月 長承2年(1133)10月10日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
崇徳(1123~1141,同母兄) 卜定:長承元年(1132)11月25日
   (綾小路北東洞院西
    尾張守顕盛宅)
初斎院:長承2年(1133)4月18日
   (一本御書所)
本院:なし
退下:長承2年(1133)9月2日
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
守子(1111-1156,祖父の従姉妹)
 [伏見斎宮]
 父:輔仁親王
 母:源師忠女
卜定:保安4年(1123)6月9日
   (六角堀川)
初斎院:天治元年(1124)4月23日
野宮:天治元年(1124)9月27日
群行:天治2年(1125)9月14日
退下:永治元年(1141)12月7日
天皇譲位

略歴:
 保安3年(1122)(1歳)6月(27日?)、誕生。


8月2日、内親王宣下。


8月23日、准三宮宣下。
 大治3年(1128)(7歳)4月、一品。
 長承元年(1132)(11歳)11月25日、着裳(?)、同母兄崇徳天皇の斎院に卜定。
 長承2年(1133)(12歳)4月18日、初斎院(一本御書所)に入る。


9月2日、病により退下。


10月10日、薨去。

同母兄弟:崇徳天皇(1119-1164)
     通仁親王(1124-1129)
     君仁親王(1125-1143)
     統子内親王(1126-1189,28代斎院,上西門院)
     後白河天皇(1127-1192)
     本仁親王(覚性入道親王,1129-1169)

鳥羽天皇第一皇女。
 母藤原璋子は、父鳥羽天皇の従姉弟。(璋子の父公実と、鳥羽天皇の母苡子が兄妹)

  ┌─────┐
  |     |
 輔仁親王  白河天皇
  |     |      ┌──────┐
  |     |      |      |
  守子   堀河天皇===藤原苡子   藤原公実
 (斎宮)        |         |
            |         |
           鳥羽天皇=======璋子
                  |  [待賢門院]
  ┌──────┬────┬───┤
  |      |    |   |
 崇徳天皇  後白河天皇 ◆禧子  統子
                 [上西門院]

 同母妹統子内親王と並んで(『長秋記』によればそれ以上の)絶世の美貌の皇女であったといい(『今鏡』ほか)、父鳥羽天皇に大変鍾愛された。
 白河法皇の遺言で、三条西殿(三条大路北、烏丸小路西)を伝領(『中右記』大治4年7月8日条)。のち大治5年(1130)、母待賢門院の三条東殿と交換した(『長秋記』大治5年7月20日条)。
 卜定により初斎院(一本御書所)に入るが、年来寸白(寄生虫の病)を患っており、その悪化のため10ヶ月足らずで退下。藤原盛重邸に移ったものの、まもなく薨去した。

 墓所は上醍醐陵(京都府京都市伏見区醍醐醍醐山。醍醐寺女人堂から登山約50分)。

【斎院と一品内親王】
 禧子内親王以前の歴代斎宮・斎院の中で、后腹内親王の長女が斎王に卜定された例は極めて少なく、斎宮の後朱雀皇女良子内親王ただ一人である。ただし既に一品に叙された内親王が斎宮・斎院となった例は皆無であり、特に禧子は父鳥羽天皇鍾愛の第一皇女でもあったためか、大治2年(1126)の卜定で選ばれたのは同母妹統子内親王(数え2歳、生後9カ月)であった。
 しかし長承元年(1132)に統子が退下した当時、皇族で未婚・未斎王の内親王・女王は禧子と怡子女王(輔仁親王女)の2人しか残っていなかったらしい(※鳥羽皇女で後の斎宮妍子内親王(1142年卜定)は生年不明だが、恐らく生まれる前であろう)。当時の伊勢斎宮・守子女王も輔仁親王女(怡子女王の異母姉妹)であり、怡子女王を卜定してもよかったはずであるが(事実、禧子が退下した後に斎院となっている)、にもかかわらず禧子が卜定され、これが一品内親王の斎院卜定唯一の例となった。

※一品内親王についての詳細は、その他考察を参照のこと。

参考文献:
・角田文衞『待賢門院璋子の生涯─椒庭秘抄』(朝日新聞社, 1985)




鳥羽天皇
史料 年月日 記述
一代要記 保安3年6月27日 【皇女禧子誕生】
十三代要略
一代要記
保安3年8月2日 【皇女禧子、内親王宣下】
御産記
御遊抄
保安3年8月17日 【禧子内親王、御五十日儀】
十三代要略
一代要記
保安3年8月23日 【禧子内親王、准三宮】
十三代要略
一代要記
保安3年9月9日 【中宮(藤原璋子)、阿闍梨寛信に十一面法を修させ、
禧子の平安を祈らせる】
崇徳天皇
史料 年月日 記述
中右記目録 大治3年4月13日 【禧子内親王、一品、准三宮】
中右記
長秋記
大治5年9月19日 【禧子内親王、三条東殿に渡御】
中右記
一代要記
長承元年11月25日 【禧子内親王、賀茂斎院に卜定】
『中右記』
 今日院(鳥羽)第一姫宮(禧子)有斎院卜定事、早旦大殿(藤原忠実)関白殿、令参院御所二条烏丸亭給(中略)
渡御卜定所給、綾小路北東洞院西尾張守顕盛新宅也、(後略)
中右記
一代要記
長承元年11月26日 【父鳥羽天皇の言葉】
「此一品宮(禧子)依幼少時、常置傍憐恋。令立斎院在他所、朝夕恋思也、而時々行向欲見、如何」
中右記
一代要記
長承元年11月26日 【中右記】
 今日斎院卜定由有奉幣賀茂社、上卿治部卿<能俊>、右中弁宗成、行事使宰相中将宗能、先新源中納言雅兼行軒廊御卜、是伊勢事云々、其後奉幣已及乗燭之由、史俊式所来談也(後略)
中右記 長承元年12月8日 【斎院(禧子)、初めて斎院神殿に入御】
中右記 長承2年3月29日 【斎院(禧子)御禊日時定】
中右記
長秋記
長承2年4月3日 【鳥羽上皇、斎院(禧子)御所に御幸】
中右記
長秋記
長承2年4月15日 【斎院(禧子)御禊点地】
中右記 長承2年4月16日 【美作守藤原顕能、斎院(禧子)別当に任命】
中右記
長秋記
長承2年4月18日 【斎院(禧子)御禊、一本御書所に入る】
 今日斎院東河祓入諸司、<一本御書所、>■■御所綾小路洞院、<長實卿家也、>
中右記 長承2年5月29日 【上皇(鳥羽)、斎院(禧子)御所に御幸】
中右記 長承2年8月10日 【上皇(鳥羽)、斎院(禧子)御所に御幸】
中右記
長秋記
長承2年8月28日 【斎院(禧子)御悩】
 斎院日来不例御坐、是年来宿阿也。其上自去此発病未平癒給之間、件本御病更発、御腹ふくれ、御面足手なども腫て、凡飲食不通御坐云々。
中右記
長秋記
長承2年8月29日 【斎院(禧子)の御悩を卜する】
中右記 長承2年9月1日 【鳥羽上皇、斎院(禧子)御所に御幸】
中右記
長秋記
長承2年9月2日 【斎院(禧子)、病により退下。鳥羽上皇と待賢門院、見舞に御幸】
中右記 長承2年9月4日 【鳥羽上皇、藤原盛重邸に御幸。女院・斎院(禧子)と共に三条京極第に還御】
長秋記 長承2年9月9日 【源師時、三条京極第で前斎院(統子)と一品宮(禧子)を見る】
 依女房召、参御簾内、先奉見前斎院、端正美麗非所眼及。次奉見一品宮、日來有御悩、無術御由、有其聞、御腹張、御足腫、身有温気、御目已暗御也、事躰雖其憑少、忽不可有其恐歟、是又容顔勝斎院給、有慮外事誠為世遺恨也
十三代要略
一代要記ほか
長承2年10月10日 【前斎院(禧子)薨去】



史料 記述
一代要記

鳥羽天皇
皇女 禧子内親王 斎宮、保安三年六月二十七日誕生、同八月二日為内親王、
同二十四日蒙准后宣旨、長承元年十一月二十日卜定、年十三、
同二年十月十日薨

崇徳天皇
斎院 禧子内親王 鳥羽院第一皇女、長承元年卜定

賀茂斎院記

禧子内親王
鳥羽院第一之皇女。長承元年卜定。

今鏡
(6・志賀のみそぎ)

 女宮は、一品宮とておはしまししは、禧子の内親王とて、賀茂の斎院に立ち給へりし、御悩みにて、ほどなく出で給ひにき。長承二年十月十一日、御年十二にてかくれさせ給ひにき。斎院のほどなくおりさせ給ふ例(ためし)ありとも、まだ本院にもつかせ給はで、かく出でさせ給ふ事は、いとあさましきこととぞ聞え侍りし。
 二十七日薨奏とて、この由内裏に奏すれば、三日は廃朝とて、御殿の御簾もおろされ、何事も声立てて奏することなど侍らざりけり。帝(崇徳天皇)は、(亡くなった禧子が崇徳の)御妹におはしませば、御服たてまつりなどしけり。文もなき御冠、縄纓など聞えて、年中行事の障子のもとにてぞたてまつりける。帝は、日の数を月なみの代りにせさせ給ふなれば、三日御服とぞ聞えける。



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