26代斎院 官子内親王
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | ||||||||||||||||||||
かんし | きみこ(または「たかこ」か) | 不明 | ||||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | ||||||||||||||||||||
父:白河天皇(1053-1129)
母:掌侍源頼子(盛子?) (1132以降没) |
未詳(1100以前?) | 未詳(1170以降?) | ||||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | ||||||||||||||||||||
鳥羽(1107~1123,甥)、 崇徳(1123~1141,甥孫) |
卜定:天仁元年(1108)11月8日 (土左守[高階?]盛業 二條京極宅) 初斎院:天仁2年(1109)4月20日 本院:天仁3年(1110)4月12日 退下:保安4年(1123)1月28日以降? |
不明 | ||||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | ||||||||||||||||||||
恂子(1093-1132,異母姉妹) [樋口斎宮] 父:白河天皇 母:藤原季実女 |
卜定:天仁元年(1108)10月28日 (遠江守藤原國資之宅 綾小路油小路) 初斎院:天仁2年(1109)4月14日 (諸司) 野宮:天仁2年(1109)9月15日 群行:天永元年(1110)9月8日 退下:保安4年(1123)1月28日 |
天皇譲位 | ||||||||||||||||||||
号:清和院斎院、勢賀院斎院 名は宮子とも表記する。 『一代要記』は法皇(白河院)五女とする。 生母源頼子は、多田源氏の祖源頼綱(1025-1097,頼光の孫)の娘。 『今鏡』によると、70歳過ぎまで長生した(嘉応2年(1170)頃には生存?)とあることから、康和2年(1100)以前の生まれか。 なお、従兄弟の一人に以仁王の挙兵で敗死した源頼政(1104-1180)がいる。 源頼子=====白河天皇=====藤原季実女 | | | | | | ◆官子 堀河天皇 恂子 | (斎宮) | 鳥羽天皇 | | 崇徳天皇
【官子内親王の退下時期】
官子の斎院退下については、年月日の記録は残っておらず不明だが、27代悰子が卜定された保安4年(1123)8月28日以前であることはほぼ確実である。また当時官子の両親(父鳥羽天皇・母源頼子)は存命であり、官子自身もその後の生存が確認されていることから、父母の喪及び本人の死去による退下はありえない。これにより、『平安時代史事典』では「当帝(鳥羽天皇)の譲位」による退下と見なしている。 しかし天皇譲位で斎院が退下したと見られる例は2代時子のみで(18代娟子は父上皇崩御による可能性が高い)、加えて退下から新斎院卜定まで7ヶ月もかかっているのは異例の長さである(天皇崩御を除き、斎院退下から新斎院卜定までに要する期間は3ヶ月~5ヶ月が殆どである)。また崇徳天皇の斎宮となった守子女王(輔仁親王女)の卜定は保安4年(1123)6月9日だが、27代斎院悰子の卜定は8月28日であり、斎宮卜定に比べて斎院卜定は3ヶ月近くも遅れている。通常、新帝即位に伴う斎宮・斎院の卜定は同日または数日以内に行われており、これほど時期が離れている例は他にない点も不審である(現に官子の斎院卜定と同時期に斎宮となった恂子内親王は、官子より10日早い天仁元年(1108)10月28日に卜定された)。 さらに『中右記』(大治2年4月6日条)には、28代統子(※当時の名は恂子)の斎院卜定についての記事で「斎院次第」に歴代斎院の名と奉仕した時期の天皇の名の一覧があり、この中で24代令子から28代統子までの5人の斎院について以下のように記載されている。(下線は引用者) <堀川院> <同> <新院、今上> 令子、<本院三女> 禎子、<同第四女> 宮子、<同女> <今上、皇后宮、母后儀、新院初為皇后> <同> 悰子、<堀川院女> 恂子<新院第二女、母女院、當時> ここでの「本院」は白河院、「新院」は鳥羽院、「今上」は崇徳天皇を指す。即ち、斎院宮子(=官子)は新院(鳥羽天皇)と今上(崇徳天皇)の二代にわたる斎院であったとされており、鳥羽天皇の譲位では退下していなかったことになる。よって官子は崇徳天皇の即位後(さらには斎宮守子の卜定後?)に、恐らくは自身の病により退下、その後斎宮卜定に遅れて新斎院も卜定されたものと考えられる。 源頼子===白河天皇===藤原賢子 | | | ├────┬───┐ | | | | 官子 堀河天皇 令子 禛子 (26代) | (24代) (25代) ┌────┤ | | 悰子 鳥羽天皇=====藤原璋子 (27代) | [待賢門院] ┌─────┬────┬───┤ | | | | 崇徳天皇 後白河天皇 禧子 統子 (29代) (28代) ※堀口悟氏は「斎院交替制と平安朝後期文芸作品」で、『中右記』所収の「斎院次第」は「他の史料と比較したときいずれも誤りを含む」として採用していない。確かに9~10世紀の歴代斎院についてはそのまま信頼できない面もあるが、保安4年(1123)と思われる官子の斎院退下は「斎院次第」が記された大治2年(1127)からわずか4年前の出来事であり、著者藤原宗忠にとっても記憶に新しい出来事であったろう。また当時は『中右記』の保安4年部分も当然存在していたと思われ、よって斎院官子についての記述の信憑性は高いものと考える。 官子の号「清和院(勢賀院)斎院」について、角田文衛氏は清和院を里第としたためであろうとする。 関連論文: ・堀口悟「斎院交替制と平安朝後期文芸作品」(『古代文化』31巻10号, 1979) ・角田文衛「源経光の死」「源頼綱の娘たち」(『王朝の映像』東京堂出版, 1970) |
鳥羽天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
殿暦 中右記 |
天仁元年11月8日 | 【官子女王、内親王宣下。斎院に卜定】 『中右記』 今日斎院卜定也、依有催酉時参仗座、(中略) 頭為房仰下云、官子女王准一日斎宮例、先可為内親王哉否事、人々可量申<件女王上皇(白河)御女、故頼綱朝臣外孫也、年来世不知之人也>、民部卿(源俊明)以下一同申云、斎宮卜定之時、一日已定申了、准彼例被為内親王可宜歟、是只同事也者、以頭奏聞件旨、仰云、官子女王可為内親王者 (中略) 今夜勅使此四位少将宗能也、<猶可遣五位歟、>斎院御所、土左守盛業二條京極宅也、今夜斎院被渡云々、 (後略) |
中右記 | 天仁元年11月9日 | 【斎院卜定を賀茂社に奉告】 依斎院卜定、有奉幣賀茂云々、上卿治部卿、使左大弁云々 |
中右記 | 天仁元年11月17日 | 有政、治部卿左大弁著行云々、是斎院内親王官府請印者 |
殿暦 | 天仁2年3月30日 | 【斎院(官子)御禊定】 |
殿暦 | 天仁2年4月20日 | 【斎院(官子)御禊】 今日斎院御禊也、午剋許為房來云、申剋許主上御く志和かせ給也、予可参仕由有院仰、仍参入、予着衣参内、(後略) |
殿暦 | 天仁3年4月2日 | 【斎院除目、斎院(官子)御禊前駈定】 |
殿暦 | 天仁3年4月12日 | 【斎院(官子)御禊】 |
殿暦 中右記 |
天仁3年4月13日 | 【斎院、紫野に入御】 |
殿暦 中右記 |
天永2年4月6日 | 【斎院(官子)御禊前駈定】 |
殿暦 中右記 |
天永2年4月11日 | 【斎院(官子)御禊点地】 |
殿暦 中右記 |
天永2年4月14日 | 【斎院(官子)御禊】 |
中右記 | 天永2年5月25日 | 【斎院中死虵(蛇)の事を、軒廊御卜する】 |
殿暦 中右記 |
天永2年12月15日 | 【斎院相嘗祭】 |
殿暦 中右記 |
天永3年4月3日 | 【斎院(官子)御禊前駈定】 |
殿暦 中右記 |
天永3年4月20日 | 【斎院(官子)御禊】 |
殿暦 中右記 |
天永3年11月1日 | 【穢れにより、斎院相嘗祭延引】 |
殿暦 中右記 |
天永4年4月20日 | 【斎院(官子)御禊】 |
中右記 | 永久2年4月3日 | 【斎院(官子)御禊前駈定】 |
殿暦 中右記 |
永久2年4月13日 | 【斎院(官子)御禊】 |
殿暦 | 永久4年4月9日 | 【斎院(官子)御禊前駈定】 |
殿暦 | 永久5年4月15日 | 【斎院(官子)御禊】 |
殿暦 | 永久5年4月16日 | 【斎院、紫野に入る】 |
中右記 | 元永元年4月3日 | 【斎院(官子)御禊前駈定】 |
中右記 | 元永元年4月18日 | 【斎院(官子)御禊】 |
中右記 | 元永2年3月25日 | 【法皇、関白家の上野荘園寄進を禁ずる】 |
中右記 | 元永2年4月6日 | 【斎院(官子)御禊前駈定】 |
中右記 長秋記 |
元永2年4月19日 | 【斎院(官子)御禊】 |
中右記 | 元永3年4月3日 | 【斎院(官子)御禊前駈定】 |
中右記 | 保安元年4月12日 | 【斎院(官子)御禊】 |
崇徳天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
中右記 | 長承元年3月6日 | 【前斎院(官子)の母、清和院内に太子堂を建立】 今日、前斎院母屋[堂]<号早参河人也>。世加院院中建立子[太子?]堂供養。公伊法印、為導師。衆十人、云々。 |
中右記 | 大治4年10月5日 | 【前斎院(官子)、東洞院姉小路第に渡御】 |
近衛天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
台記 百錬抄 |
久安2年3月8日 | 【前斎院(官子)の東洞院第に落雷】 『台記』 今夜大雷、京都師三所落、云々。 此中、前斎院<白川法皇女、頼綱朝臣孫>東洞院第為雷火被焼。故下野前司明国子男、在其第内被震殺。希代事也。 『百錬抄』 雷落前斎院家。忽焼亡。故下野守明国子震死。 |
史料 | 記述 |
一代要記 |
白河天皇 皇女 官子内親王 賀茂斎院、號清和院斎院、母三河守源頼綱女 鳥羽天皇 斎院 宮子内親王 法皇五女、天仁元年十一月八日卜定、清和院斎院 |
賀茂斎院記 |
官子内親王 白河院之皇女也。母頼経女。 天仁元年卜定。 号清和院斎院。 |
今鏡 (8・腹々の御子) |
(白河天皇の)后の宮、女御、更衣にはおはせねど、御子生みたてまつり給へる所々、近き御代にあまた聞こえ給ふ。(中略) 勢賀院の斎院(官子)と申ししも、同じころ立ち給ふと聞えき。それは頼綱と聞こえし源氏の、三河守なりしが娘の腹におはすと聞えき。七十にあまり給ひて、まだおはすと聞え給ふ。唐崎の禊ぎ、上西門院せさせ給ひしころ、その続きに、院の御沙汰にて、殿上人などたてまつらせ給ひけり。主殿頭何大夫とか名ありし人、御後見にて、御車の尻に、綾の指貫、院のおろして著て渡るなど聞えき。 |