25代斎院 禎子内親王
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
しんし | よしこ/さだこ/さねこ | 准三宮 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
父:白河天皇(1053-1129)
母:中宮藤原賢子<贈皇太后> (1057-1084) |
永保元年(1081)4月17日 | 久寿3年(1156)1月5日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
堀河(1086~1107,同母兄) | 卜定:康和元年(1099)10月20日 (源清実[越前守?] 大炊御門南京極西宅) 初斎院:康和2年(1100)5月28日 (侍従厨) 本院:康和3年(1101)4月13日 退下:嘉承2年(1107)7月19日 |
病 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
善子(1077-1132,異母姉) [六角斎宮] 父:白河天皇 母:女御藤原道子 |
卜定:寛治元年(1087)2月11日 (加賀守藤原家道 三条烏丸宅) 初斎院:寛治元年(1087)9月21日 (左近衛府) 野宮:寛治2年(1088)9月13日 群行:寛治3年(1089)9月15日 (長奉送使:藤原公実) 退下:嘉承2年(1107)7月19日 |
天皇崩御 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
号:四条宮の姫宮、土御門斎院、枇杷殿斎院 同母兄弟:敦文親王(1074-1077) 媞子内親王(1076-1096,郁芳門院) 令子内親王(1078-1144,24代斎院,二条太皇太后) 堀河天皇(1079-1107) 白河天皇第四皇女。名前の表記は「禎子」の他、「禛子」とする史料もある。 母藤原賢子は源顕房女で、後三条天皇の再従兄妹。関白藤原師実養女となり入内した。 (父方の祖母尊子が、後三条天皇の祖母上東門院彰子・三条天皇中宮妍子の異母妹。なお養父師実と実父顕房は従兄弟) 藤原道長 | ┌───┬─┴────────┬──────────┬───┐ | | | | | 頼宗 彰子===一条天皇 妍子===三条天皇 尊子 頼通 | | | | | | | | | ├───┐ | | | | | | 能長 後朱雀天皇========禎子 源顕房 師実 寛子 | | | [四条宮] | | | | 後三条天皇 | | | | | | | 道子==========白河天皇=========藤原賢子 | | (師実養女) | ┌────┬──┴─┬────┐ | | | | | 善子 堀河天皇 媞子 令子 ◆禎子 (斎宮) [郁芳門院]
誕生後数ヶ月で四条宮寛子(太皇太后、後冷泉天皇皇后)に引き取られ、猶子となり「四条宮の姫宮」と称された(『栄花物語』巻四十「紫野」、『水左記』永保元年8月10日条。なお四条宮寛子は、禎子の養祖父師実の姉にあたる) 。斎院を退下した後も枇杷殿で寛子と共に暮らし、寛子亡き後はその遺産を相続した。禎子の没後、遺産の一部は高陽院や八条院に渡ったとされる。 養母寛子の枇杷殿に住んだことから枇杷殿斎院、また出家後は源雅実の土御門高倉第(左京北辺四坊三町)を御所としたことから、土御門斎院とも号した。なお24代令子内親王は同母姉であるが、上記史料などから同居したことは殆どなかったと見られる。『今鏡』には、斎院退下の後に禎子内親王が仏道に心を入れていたことや、歌合わせを好みゆかしい暮らしぶりであったことが記されている。 また歌人の待賢門院堀河(源顕仲女)は『金葉集』によれば始め「前斎院六条」と称したといい、この「前斎院」は禎子を指すと思われる(同母姉令子の御所にも「二条太皇太后堀河」と呼ばれた女房がいたらしいが、高野瀬恵子氏は「待賢門院堀河」と「二条太皇太后堀河」は別人であろうと考察している)。 【堀河天皇崩御と禎子内親王退下】 嘉承2年(1107)7月19日、同母兄堀河天皇の崩御と同日に禎子内親王は退下したとされる。『中右記』同日条には「斎院日者不例、今日危急、運命殆欲盡、卜筮所告退斎院吉也、仍亥時許、俄奉出長官長兼直盧、即有平愈[癒?]事、誠是神明不受歟。(中略)斎王者興帝(堀河天皇)同母也、同日有此事、誠以希有也」とあり、病による急な退下であったようである。これに従えば、禎子内親王の斎院退下は堀河天皇の崩御によるものではなかったと取れる(堀河天皇崩御は『殿暦』『中右記』によれば巳刻で、禎子の退出は上記『中右記』の通り亥時であるから、禎子の退出の方が遅い)。堀河天皇は在位のまま崩御したが、当時の慣例としてこうした場合も「如在之儀」により、名目上は天皇譲位の後退位・崩御したものと見なされた。このため、本来天皇譲位では斎院退下とはならないはずであったが、禎子の病状悪化により結果として譲位(崩御)と同日に退下となったものと思われる。 ところでこの時の禎子は「今日危急、運命殆欲盡」とまで言われて斎院退下となったが、その後は結局歴代斎院の中で最高齢の76歳という長寿を全うしており、あるいはこの退下時の病というのはあるいは形ばかりの口実で、帝崩御の混乱に乗じての退下であった可能性も考えられる。ただし禎子の退下時の病は日頃からのものであったらしく、またその後もたびたび病臥したとの記録もあり、19代禖子内親王同様に長命ながら病弱なのは事実だったようである。また同日の兄堀河天皇崩御の際は、宮中が大混乱であった様子が『中右記』『讃岐典侍日記』等諸記録にも残されている。病床で兄帝の死を知った禎子が精神的衝撃から危篤状態に陥り、急遽退出となったものであろうか。 なお歴代斎宮・斎院の中で、在任中または退下即日に死去した斎王は斎宮が2人、斎院が3人いるが、天皇崩御と同時期に死去した斎王はいない。ただ約60年後の嘉応3年(1171)3月1日、前斎宮休子内親王(後白河院皇女)と前斎院僐子(二条院皇女)が同日に相次いで死去するという事件が起こった。この直前には火星が双子座に接近する天変が奏上されており、右大臣九条兼実は日記『玉葉』(2月27日条)に「天変不定、豈不恐哉」と述べている。あるいは斎院禎子の場合も、天皇崩御に加えて現任の斎院薨去という凶事が重なることを恐れ、退下を急いだのかもしれない。 関連資料: ・朧谷寿「平安京にみる村上源氏の邸第管見」(『奈良平安時代史の諸相』高科書店,1997) 関連論文: ・高野瀬恵子「令子内親王家の文芸活動-院政前期の内親王とその周辺-」 (『総合研究大学院大学学術情報リポジトリ』(日本文学研究専攻), 2008) ※機関リポジトリ全文あり ・堀裕「天皇の死の歴史的位置 : 「如在之儀」を中心に」 (『史林』81(1), p38-69, 1998) |
白河天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
帥記 | 永保元年4月17日 | 【皇女禎子誕生】 |
水左記 帥記 |
永保元年4月19日 | 【禎子の御湯殿始、御三夜儀】 |
帥記 | 永保元年4月21日 | 【禎子の御五夜儀】 |
帥記 | 永保元年4月23日 | 【禎子の御七夜儀】 |
帥記 | 永保元年6月16日 | 【禎子の御五十日儀】 |
水左記 | 永保元年8月2日 | 【禎子の御百日儀】 |
水左記 為房卿記 |
永保元年8月10日 | 【禎子、内裏から四条宮へ移徒】 |
為房卿記 | 永保元年8月27日 | 【皇女禎子の家司を補す】 |
十三代要略 | 永保2年3月1日 | 【皇女禎子、内親王宣下】 |
為房卿記 | 永保2年3月25日 | 【禎子内親王、初めて入内】 |
為房卿記 | 応徳2年8月25日 | 【禎子内親王に封三百戸】 |
堀河天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
後二条師通記 | 寛治6年12月19日 | 【禎子内親王不例】 |
中右記 | 嘉保元年2月14日 | 【太皇太后(寛子)、禎子内親王不例】 |
本朝世紀 中右記目録 長秋記 兵範記 |
康和元年10月20日 | 【准三宮、斎院卜定】 『本朝世紀』 左大臣已下参入、被定行善子内親王<伊勢斎王>、禎子内親王、准三宮勅書事、左大将(忠実)依重服無内覧事、勅書奏下了、大臣以下進弓場殿、被拝賀准后事、次還著仗座、有斎院卜定事<禎子内親王、今上同胞、太后(寛子)被収養、今夜自枇杷第被渡清実大炊御門南京極西宅>、蔵人頭左中将顕通朝臣為勅使、行事<権中納言言俊実、左少将顕隆、史>勅別当<権大納言家忠、左馬頭師隆朝臣>次行事上卿、被定申奉幣大祓日時<来十[廿]三日可有両事>、又今日被始行事所<神祇官> 『兵範記』(嘉応元年10月3日) 先例康和元年枇杷殿斎院(禎子)卜定之時、四条宮(寛子)御同宿有憚沙汰、太后入御宇治殿由有初見、今度申入其例、此沙汰也 |
本朝世紀 | 康和元年10月23日 | 【賀茂社へ奉幣使を定める】 被立賀茂奉幣使、依斎王卜定事也、参議師頼以下為使、又於八省東廊、有同由大祓事 |
殿暦 | 康和2年2月15日 | 【斎院(禎子)、前関白師実と宇治へ】 |
中右記目録 朝野群載 |
康和2年3月27日 | 【左近衛少将藤原実隆を斎院別当に補す】 |
殿暦 中右記目録 |
康和2年5月28日 | 【斎院御禊、初斎院(侍従厨)に入る】 『殿暦』 今日初斎院御禊、申時許令入諸司給也、件諸[司]侍従厨云々、件厨無屋、而周防守経忠為重任不日作進、御禊公卿前駈宰相中将顕通云々 『中右記目録』 初斎院御禊、<入御諸司、> |
長秋記 | 康和3年4月6日 | 【斎院、物忌により硯蓋・銀器を内裏に返上】 |
中右記目録 | 康和3年4月7日 | 斎院御禊定、 |
殿暦 中右記目録 長秋記ほか |
康和3年4月13日 | 【斎院御禊、紫野本院に入る】 『中右記目録』 初斎院御禊、<入野宮> |
殿暦 | 康和3年7月2日 | 【斎院御悩】 |
中右記目録 長秋記 |
康和3年11月23日 | 斎院相嘗御神楽、 |
殿暦 中右記 |
康和4年4月11日 | 【賀茂祭御禊前駈定】 |
殿暦 中右記 |
康和4年4月22日 | 【斎院(禎子)御禊】 |
殿暦 長秋記 |
康和4年11月11日 | 【斎院御神楽】 |
殿暦 中右記ほか |
康和5年4月6日 | 【斎院(禎子)御禊前駈定】 |
殿暦 本朝世紀ほか |
康和5年4月22日 | 【斎院(禎子)御禊】 |
殿暦 中右記ほか |
康和5年4月25日 | 【賀茂祭、斎院(禎子)御悩】 |
中右記 玉葉 |
長治元年4月7日 | 【斎院の觸穢を軒廊御卜す】 |
中右記 | 長治元年4月10日 | 【賀茂社に奉幣、斎院の觸穢を奉告】 |
中右記 | 長治元年4月25日 | 【斎院に盗賊が入り、女房の衣を盗む】 |
殿暦 | 長治元年8月13日 | 【斎院(禎子)御悩】 |
中右記 | 長治2年4月10日 | 【斎院(禎子)御禊前駈定】 |
中右記 | 長治2年4月15日 | 【斎院(禎子)御禊】 |
中右記 永昌記 |
長治3年4月6日 | 【斎院(禎子)御禊前駈定】 |
永昌記 | 長治3年4月8日 | 【斎院の侍闘争】 |
殿暦 中右記 永昌記ほか |
嘉承元年4月13日 | 【賀茂社焼亡】 |
永昌記 | 嘉承元年4月20日 | 【斎院長官藤原長兼、次官敦遠等を蔵人所に召して推門】 |
中右記 | 嘉承元年4月21日 | 【賀茂別雷社炎上の穢により、斎院(禎子)御禊を延引】 |
永昌記 殿暦 中右記 |
嘉承元年4月22日 | 【斎院(禎子)御禊】 |
殿暦 中右記 永昌記 |
嘉承2年4月2日 | 【斎院(禎子)御禊前駈定】 |
殿暦 中右記 永昌記 |
嘉承2年4月14日 | 【斎院(禎子)御禊】 |
鳥羽天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
中右記 | 嘉承2年7月19日 | 【斎院禎子、病により退出。同日堀河天皇崩御】 斎院日者不例、今日危急、運命殆欲盡、卜筮所告退斎院吉也、仍亥時許、俄奉出長官長兼直盧、即有平愈[癒?]事、誠是神明不受歟。(中略)斎王者興帝(堀河天皇)同母也、同日有此事(天皇崩御と斎院退出)、誠以希有也 |
殿暦 中右記 |
嘉承3年2月2日 | 【太皇太后(寛子)、前斎院(禎子)、宇治へ行啓】 |
殿暦 中右記 |
天仁元年7月10日 | 【太皇太后(寛子)、前斎院(禎子)、五条京極房に還啓】 |
殿暦 | 天仁2年6月24日 | 【太皇太后御所に落雷のため、太皇太后(寛子)、前斎院(禎子)、宇治へ行啓】 |
殿暦 永昌記 |
天永1年6月17日 | 【前斎院(禎子)、唐崎で御禊】 |
中右記 | 保安元年12月8日 | 【前斎院(禎子)、病により右大臣雅実の木我山荘へ移徒】 |
中右記 | 保安元年12月20日 | 【前斎院(禎子)、淀に方違】 |
中右記 | 保安元年12月26日 | 【前斎院(禎子)、淀に方違】 |
中右記 | 保安元年12月28日 | 【前斎院(禎子)、木我山荘より右大臣雅実の土御門第に移徒】 |
崇徳天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
中右記目録 | 天治2年10月17日 | 【前斎院(禎子)出家】 |
中右記 | 天治2年12月25日 | 【前斎院(禎子)、土御門第へ還御】 |
中右記 長秋記ほか |
天治5年11月8日 | 【前斎院(禎子)の土御門高倉第で火災】 |
中右記 長秋記 |
天治5年12月3日 | 【前斎院(禎子)五十講結願】 |
百錬抄 | 大治5年11月8日 | 【前斎院(禎子)御所土御門高倉第焼亡】 前斎院<禎子。>土御門第焼亡。<故入道大相國第也。> |
中右記 | 大治5年11月8日 | 【前斎院(禎子)御所土御門高倉第焼亡】 亥時図許当北有焼亡、下人云、前斎院御所土御門高倉第也、是入道太政大臣宅所如法家也、先年彼相府有大饗、其後被進斎院、数年為御所、今夜焼亡、南至残了、是壊渡枇杷殿被成小堂也、斎院御坐南堂廊云々 |
近衛天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
本朝世紀ほか | 天養元年12月17日 | 【大外記中原師安に、無品禎子内親王年爵申文の事を勘申させる】 |
後白河天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
山槐記 兵範記ほか |
久寿3年1月5日 | 【前斎院(禎子)薨去】 |
史料 | 記述 |
一代要記 |
白河天皇 皇女 愼子内親王 永保二年三月一日為内親王、二歳、 応徳二年八月廿五日給別封三百戸、 承徳元年十一月十四日准三后、 保元元年三月九日薨七十六、于時坐法住寺御所 堀河天皇 斎院 禎子内親王 白河院三女、永保二年三月一日為内親王、二歳、 応徳元年十一月十四日准三宮、 保元元年正月五日薨年七十六、號土御門斎院 |
賀茂斎院記 |
禎子内親王 白河院第九皇女也。母同令子。 康和元年卜定。 号土御門斎院。 |
栄花物語 (39・布引の滝) |
【禎子内親王誕生】 中宮(白河后賢子)には、このたび女宮(禎子)にておはします。四条宮(後冷泉皇后寛子)に、つれづれにおはしますにとて渡したてまつらせたまひつ。 |
栄花物語 (40・紫野) |
【四条宮寛子と禎子内親王の様子】 四条宮(後冷泉皇后寛子)も宇治に御堂(みどう)建てて通ひ住ませたまふ。故中宮(白河后賢子)の姫宮一所(禎子)は、この宮におはします。かしづきたてまつらせたまふさまおろかならず。(中略) 一院(白河院)の姫宮(令子内親王)、殿におはします、斎院にゐさせたまひぬ。いと華やかにめでたき御有様なり。 定まらせたまひなば御対面難(かた)かるべければ、院に渡らせたまふ。四条宮の姫宮(禎子)も渡らせたまふ。若き人々、薄物、綾、かとり(※)の単襲(ひとへがさね)の色々なるに、裳、唐衣などめでたくをかしう、花の色々を織りつくして十人、さらに大人などは織りたる五重なる三重なる、浮線綾など着たるもあり。四条宮の姫宮の御方にも四人ばかりぞさぶらはせさせたまふ。かたち、有様心ことに選らせたまへり。斎宮(媞子内親王)の御方もおろかならんやは。院いづれもおろかならず見たてまつらせたまふ。 ※「かとり」=糸偏に兼。字はこちらを参照(字源)。 |
新古今和歌集 (巻8・哀傷) |
禎子内親王かくれ給ひて後、悰子内親王(27代斎院)かはりゐ侍りぬと聞きてまかりてみれば、何事もかはらぬやうに侍りけるも、いとど昔思ひ出でられて女房に申し侍りける、中院右大臣(源雅定) ありす川おなじ流はかはらねど見しや昔のかげぞ忘れぬ |
今鏡 (7・有栖川) |
また土御門の斎院と申して、禛子内親王と申すおはしき。その斎院は、常に法(のり)の筵(むしろ)などひらかせ給ひて、法文のことなど、僧参りあひて、尊きことども侍りけり。(源)雅兼入道中納言など参りつつ、もてなし聞え給ひけるとかや。 歌なども、人々参りて詠む折も侍りけり。「水の上の花」といふ題を、時の歌詠みども参りて詠みけるに、女房の歌、とりどりにをかしかりければ、木工頭(むくのかみ)俊頼も席(むしろ)につらなりて、 「この歌は、囲碁ならば互先(かたみせん)にてぞよく侍らむ」など、とりどりに誉められけるとぞ。その一人は、堀河の君(待賢門院堀河)とて、(源)顕仲伯の娘のおはせし歌、 雪と散る花の下行く山水のさえぬや春のしるしなるらむ また、 春風に岸の桜の散るままにいとど咲きそふ浪の花かな このほかも聞き侍りしかど、忘れにけり。入道治部卿(雅兼)の「嵐や峰をわたるらむ(花さそふ嵐や峰をわたるらむ桜波よる谷川の水)」と詠み給ふ、そのたびの歌なり。白河院、歌ども召し寄せて、御覧じなどせさせ給ひけり。 一院(いちのいん=白河院)の御娘なればにや、ことのほかにあるべかしくぞ、宮のうち侍りける。女房、中臈になりぬれば、みづから侍に物いひなどはせざりけりとぞ聞え侍りし。 この斎院(禎子)かくれさせ給ひて後、そのあとに、堀河の斎院(27代悰子)つぎて住み給ひけるこそ、昔思し出でて、中院の入道大臣(雅定)詠み給ひける、 有栖川同じ流れと思へども昔のかげの見えばこそあらめ |