プロフィール紹介
- 氏 名 :
- 穴見 陽一
- 生年月日 :
- 昭和44年7月24日
- 身 長 :
- 186cm
- 血液型 :
- A型
- 現住所 :
- 大分県大分市中島
- 出身地 :
- 大分県佐伯市
- 現 職 :
- 財団法人大分がん研究振興財団 理事
大分市商工会議所 会員 / 大分経済同友会 会員
大分青年会議所 会員 / 衆議院議員(大分1区)
穴見陽一の略歴
- 昭和44年
- 大分県佐伯市に生まれる
- 昭和51年
- 佐伯市立佐伯小学校 入学
- 昭和52年
- 大分市立宗方小学校 転入
- 昭和55年
- 大分市立中島小学校 転入
- 昭和57年
- 大分市立中島小学校 卒業
- 昭和60年
- 大分市立碩田中学校 卒業
- 昭和63年
- 大分県立大分上野丘高等学校 卒業
- 平成元年
- 法政大学経済学部経済学科 入学
- 平成6年
- 法政大学経済学部経済学科 中退
- 平成6年
- 株式会社ジョイフル 入社
ジョイフル萩原店副店長 - 平成7年
- 開発部係長
- 平成9年
- 株式会社ジョイフル 退社
株式会社中国ジョイフル設立
代表取締役社長就任 - 平成14年
- 株式会社ジョイフル再入社
副社長就任 - 平成15年
- 株式会社ジョイフル
代表取締役社長就任 - 平成20年
- 株式会社ジョイフル
代表取締役会長就任 - 平成21年
- 株式会社ジョイフル 顧問就任
- 平成23年
- 株式会社ジョイフル
代表取締役社長就任 - 平成24年
- 株式会社ジョイフル
代表取締役相談役就任
穴見陽一の経歴―幼少期・青年期篇―
― 幼少期 ―
私は昭和44年7月24日に佐伯市内の病院で産み落とされました。生まれた時から巨大児で、4700g!1歳下の弟をいつも心配してかわいがる優しい子供だったそうです。
私は昭和44年7月24日に佐伯市内の病院で産み落とされました。生まれた時から巨大児で、4700g!1歳下の弟をいつも心配してかわいがる優しい子供だったそうです。
両親が深夜営業の焼き肉店を営んでいたので、幼いころから保育園に預けられていましたが、「大きい人は弱い人を守らなくちゃいけない」と思い込んでいた私は、同級生をいじめる上級生にかかっていって、ボコボコにやられることもありました。また学校が休みに入ると、佐伯市直川村の母の実家に預けられ、小川や野山でいつまでも遊んでいました。
― 柔道との出会い ―
小学3年生の頃、佐伯からやっていた水泳を練習するために通っていた大分スポーツセンターで、体の大きさを見込まれて柔道にスカウトされました。
小学3年生の頃、佐伯からやっていた水泳を練習するために通っていた大分スポーツセンターで、体の大きさを見込まれて柔道にスカウトされました。
遊天館道場に入塾した私は、「練習の穴見」と言われました。不器用な私は、ただひたすら練習するしか知りませんでしたが、その甲斐あって大分県代表として、4年生の時に先鋒、6年生の時大将で、全国大会に出場させてもらいました。
― 走り続けた12年間 ―
小学校に入学すると、父から毎朝走らされました。雨の日は走らなくてすんだので、いつも「雨が降らないかなぁ」と願っていました。結局小学校の6年間毎朝何キロか走ってから学校に通いました。6年生の頃
には毎朝5キロ走っていました。中学生になると新聞配達を始め、毎朝1時間、高校受験の当日も走り続けました。高校に入ると柔道部に入部して、自主トレで毎日9キロ走っていました。とうとう12年間近く毎日走り続けることで、足腰を鍛えただけでなく、忍耐強さを鍛えてくれたと思います。
小学校に入学すると、父から毎朝走らされました。雨の日は走らなくてすんだので、いつも「雨が降らないかなぁ」と願っていました。結局小学校の6年間毎朝何キロか走ってから学校に通いました。6年生の頃には毎朝5キロ走っていました。中学生になると新聞配達を始め、毎朝1時間、高校受験の当日も走り続けました。高校に入ると柔道部に入部して、自主トレで毎日9キロ走っていました。とうとう12年間近く毎日走り続けることで、足腰を鍛えただけでなく、忍耐強さを鍛えてくれたと思います。
― 教育とは何か ―
教育を受ける立場でいろんな矛盾や理不尽を子供心に感じました。いま思えば、小さなことばかりですが、それがきっかけでずっと、「教育とは何か」を自問自答し、独学をつづけました。
特になぜ学校では、宗教や哲学や倫理、道徳など人間性や世界観に関する教育が行われないのかが、小学校の頃から不思議でした。私は父方の祖父が真言宗の修行僧でしたが、父も母も無宗教でしたので、家庭環境からくる疑問ではありませんでしたが、とても大事なものが学校教育の中から欠落しているのでは、と思い、誰に相談するわけでもなく、百科事典や、仏教、キリスト教、ギリシャ哲学、インド哲学、宇宙物理学、世界史などを、独り勉強するようになりました。そして、人間とは何か、世界とは何か、自分はどう生きるべきかを考え続けました。
― 大学中退 ―
大学でも、政治や哲学の勉強がやりたいと願っていましたが、商売人の両親の意向は、ちゃんと御飯が食べられる勉強をせよということでした。
私は東京で1年間の浪人生活を送りましたが、どうしても都会の生活に落ち着かず、東京の外れの田舎にある大学に行くことにしました。山あり、谷川あり、湖ありと、とても気持ちのいい環境でした。しかし当時、ソ連崩壊前夜で、まだマルクス経済学を教えていた大学に違和感を覚え、論文や試験も教授の思想批判めいたことを書いてしまう
大学でも、政治や哲学の勉強がやりたいと願っていましたが、商売人の両親の意向は、ちゃんと御飯が食べられる勉強をせよということでした。
私は東京で1年間の浪人生活を送りましたが、どうしても都会の生活に落ち着かず、東京の外れの田舎にある大学に行くことにしました。山あり、谷川あり、湖ありと、とても気持ちのいい環境でした。しかし当時、ソ連崩壊前夜で、まだマルクス経済学を教えていた大学に違和感を覚え、論文や試験も教授の思想批判めいたことを書いてしまうような不器用な有様で、独学と人助けばかりに明け暮れて単位が取れませんでした。
大学を偏差値だけで判断する愚を、身をもって感じました。それと、大学は一回社会に出てから入った方がいいとも思いました。世の中を知らない身では、大学の高度な学問は、実感を伴わない思考ゲームにしかならないように感じました。私は実感のわかないものを、わかったつもりにはなれませんでした。
ような不器用な有様で、独学と人助けばかりに明け暮れて単位が取れませんでした。
大学を偏差値だけで判断する愚を、身をもって感じました。それと、大学は一回社会に出てから入った方がいいとも思いました。世の中を知らない身では、大学の高度な学問は、実感を伴わない思考ゲームにしかならないように感じました。私は実感のわかないものを、わかったつもりにはなれませんでした。
穴見陽一の経歴―社会人・現在篇―
― ジョイフル入社 ―
24歳。私にも野心はありましたが、世話になった両親に親孝行をせずにはいられない思いから、野心をすべて捨てて父の会社であるジョイフルに入社しました。向いているとは思いませんでしたが、とにかく
一生懸命やっている姿を両親に見てもらえればいいと思い、何にでも一生懸命取り組みました。もちろん最初は皿洗いからです。ウエイターをやり、コックをやり、やっと店長になれるという時に、アメリカに行かされました。
24歳。私にも野心はありましたが、世話になった両親に親孝行をせずにはいられない思いから、野心をすべて捨てて父の会社であるジョイフルに入社しました。向いているとは思いませんでしたが、とにかく一生懸命やっている姿を両親に見てもらえればいいと思い、何にでも一生懸命取り組みました。もちろん最初は皿洗いからです。ウエイターをやり、コックをやり、やっと店長になれるという時に、アメリカに行かされました。
― アメリカ研修 ―
コロラド州のデンバーの大学でしばらく語学研修をした後、カンザス州の牛肉工場や、カリフォルニア州の商社で研修しました。しかし、いちばん刺激を受けたのは、アメリカという国そのものでした。人種差別、
銃社会(住んでいたアパートで殺人事件がありました)、チャレンジ精神、自己責任社会、厳しい自然、合理社会、広大な国土、都会に行ったこともない農地に生きる人々、おおらかさ、宗教心など、すべてが新しい良い刺激でした。たくさんの友人ができ、多くを学びました。
コロラド州のデンバーの大学でしばらく語学研修をした後、カンザス州の牛肉工場や、カリフォルニア州の商社で研修しました。しかし、いちばん刺激を受けたのは、アメリカという国そのものでした。人種差別、銃社会(住んでいたアパートで殺人事件がありました)、チャレンジ精神、自己責任社会、厳しい自然、合理社会、広大な国土、都会に行ったこともない農地に生きる人々、おおらかさ、宗教心など、すべてが新しい良い刺激でした。たくさんの友人ができ、多くを学びました。
― 27歳 ―
私の27歳は人生の大きな転機でした。結婚をし、縁もゆかりもない岡山県に移住し、独立して会社を興し、初めての子供が出来ました。とにかく何もかもが大変でした。会社に人が集まらない。娘の夜泣きをあやす。深夜の急患に走る。女房と大喧嘩する。1号店の開店間際に倒れる。すべてが新しく経験することばかりで、どうしていいのかも考える余裕もなく、ただがむしゃらに駆け抜けました。
― 中国ジョイフルの成功と父とのバトンタッチ ―
33歳になっていました。娘とともに生まれた中国ジョイフル(岡山県倉敷市)という会社も何とか順調に成長を続け、年商40億に達しようとしていました。株式上場準備をすすめるうちにメニュー政策によって大幅な売上増となり、それを契機にグループ本社の父と経営を交代することになりました。父は反対しました。
いや、ずっと「息子に後は継がさない」と公言し続けていました。父としては、自分の苦しんで生きてきた道を息子に味あわせたくないという優しい親心でした。しかし私は、父の事業をこれからもずっと残していける事業に育てていきたかったのです。
― 新しい時代を生き抜ける会社への変革 ―
一軒の小さな深夜営業の焼肉屋から次第に大企業となったジョイフルは、時代の移り変わりや規模拡大によって、社会から期待されるものが大きく変わってきており、また、より競争は厳しくなっていました。これからの時代を生き抜くために、競争力とコンプライアンスの強化を図らなければならないという強い使命感を持って改革を断行しました。様々に反対する方々も出ました。改革は、結果を出さなければただの大混乱でしかありません。
「10年の遅れを3年で取り戻す!」をスローガンにしました。しかし大きな骨組は仕上がったものの、まだ十分な成果を出せていません。いま、大手の外食も次々に倒れたり、吸収されたりしています。歴史に
一軒の小さな深夜営業の焼肉屋から次第に大企業となったジョイフルは、時代の移り変わりや規模拡大によって、社会から期待されるものが大きく変わってきており、また、より競争は厳しくなっていました。これからの時代を生き抜くために、競争力とコンプライアンスの強化を図らなければならないという強い使命感を持って改革を断行しました。様々に反対する方々も出ました。
改革は、結果を出さなければただの大混乱でしかありません。
「10年の遅れを3年で取り戻す!」をスローガンにしました。しかし大きな骨組は仕上がったものの、まだ十分な成果を出せていません。いま、大手の外食も次々に倒れたり、吸収されたりしています。歴史に「もしも」はありません。もし、あの時改革をしていなかったらどうなっていたかは誰に示すこともできません。「生き残り続ける」という事実の歴史を積み重ねるしか、改革の正当性を証明する手だてはないと思います。
「もしも」はありません。もし、あの時改革をしていなかったらどうなっていたかは誰に示すこともできません。「生き残り続ける」という事実の歴史を積み重ねるしか、改革の正当性を証明する手だてはないと思います。
― 同族会社からの脱皮 ―
息子には絶対に継がさない」という言葉を公言し続けていた父の思いは、同族経営からの脱却を意図していたと私は考えてきました。だから私は、同族経営をやめて、広く世間から、そして社内の人材から経営者を求め、育てることを目指しました。私は実はジョイフルの新卒1期生と同期です。だから社内人材の先頭集団でも30代後半です。これではまだ経営を任せられる人材はすぐには生まれてきません。彼らを育て、それまでの間、会社を支えてゆける人材が必要でした。その人材の目途が立った時、私の役割が終わりに近づいていることを感じました。私がそうであったように、立場が人を育てると思いました。人材を待たせず、早く経験をしてもらいたいと考えました。
― 家族への感謝 ―
私には、妻と3人の子供がいます。彼らは私にこの世で一番素晴らしいものを教えてもらいました。それは愛です。私は家族のことを考えると喜びと感謝でいっぱいになります。いつも家族の写真を財布に忍ばせています。妻には本当に言い尽くせない苦労をかけ、それに耐え抜いてもらいました。申し訳なさで、ただはらはらと涙が止まらないことが何度もありました。それでもいつも私を愛し続けてくれている。ありがとう、ありがとう。子どもたちも、こんな出来の悪い父親をいつも思いやってくれて、いつも助けてくれて、ありがとう、ありがとう。父さん、私を鍛えてくれ、私にあらゆるチャンスを与えてくれた。母さん、私を守り、私のあらゆる失敗を許してくれた。
ありがとうございます、ありがとうございます。家族と共に居ることは、この上ない幸せです。
家族は宝であり、誇りです。家族と共に居ると、神様が愛してくださっていることを思い出します。
私は、この幸せをすべての人に味わって欲しい。すべての人に幸せになって欲しい。