「愛国ソングだ」として批判を浴びたRADWIMPSの「HINOMARU」。
当サイトでも近現代史研究者の辻田真佐憲、ポピュラー音楽研究者の増田聡が、それぞれ以下の記事を発表している。
この曲は多くの反響を巻き起こした。しかし、そもそも、この「HINOMARU」の何が問題だったのだろうか?
ゆったりとしたリズムに、穏やかで雄大なメロディを持つこの曲。歌詞では、自らが生まれた国に対する愛着の思いが歌われる。攻撃性や高揚感を駆り立てる曲調ではない。むしろ懐かしさや美しさを醸し出すタイプの曲だ。
この曲自体が誰かを傷つけるような「危うさ」を持った曲とは思えない。
では、そもそもJ-POPやJ-ROCKのアーティストが「愛国ソング」を歌うこと自体が躊躇すべきことなのか? もしくは、その表現に至らないところがあったとするならば、何がどう足りなかったのか?
この曲を取り上げた多くの記事は「物議をかもした」という出発点から始まり、曲の作られた背景やRADWIMPSの音楽性を掘り下げることなく、「愛国ソング」の是非を問う議論に終始している。
その一方で、これまでバンドが登場してきた音楽雑誌や音楽メディアの側からこの曲が巻き起こした騒動を紐解くような論考はほとんど見られない。
そこには大きな分断がある。
そこで、この記事では、これまでたびたび彼らを取材しバンドの歩みを追ってきた音楽ジャーナリストの立場から、RADWIMPSの「HINOMARU」が本当はどういうことを目指して書かれた曲なのかを真摯に読み解こうと思う。
そこから、J-POPやJ-ROCKのアーティストの楽曲がW杯やオリンピックの放送テーマソングを手掛けるのが当たり前となった今、あらたな愛国歌のスタンダードはどうあるべきかを考えてみたい。