青年部年間拝読御書「立正安国論」を学ぶ連載の第7回は、第9段の第1・2章を解説する。日蓮大聖人は、社会の安穏なくして個人の幸福はないと述べられている。他者の不幸の上に自己の幸福を築くことがあってはならない。一人一人が社会建設の主体者なのだ。ここでは、日蓮仏法の平和哲学を学んでいきたい。
客はそこで席を避け(座っている敷物から下り)、襟を正して言った。
現在の仏の教えは、このようにまちまちで、その説きたい趣旨は窮めがたく、不審は多岐にわたって理と非は明らかではない。
ただし、法然聖人の『選択集』は現に在って、そのなかで諸仏、諸経、諸菩薩、諸天等を全て捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと載せていることは文に明白である。これが原因となって聖人は国を去り、善神は所を捨ててしまい、天下は飢饉に苦しみ、世間に疫病が流行していると、今、主人は広く経文を引いて道理を明らかに示された。ゆえに、私の妄執はもはや翻り、正邪を聞き分ける耳、善悪を見分ける目もほぼ明らかになった。
所詮、国土泰平・天下安穏は上一人から万民に至るまで、あらゆる人が好むところであり、願うところである。一日も早く一闡提に対する布施を止め、永く正法を護持する僧や尼を供養して、仏の海の白浪(=盗賊)を収め、法の山の緑林(=盗賊)を切るなら、世の中は中国古代の理想社会を築いた伏羲、神農の時代のような平和な世となり、国は同じく善政を行った唐堯、虞舜の時代のような安穏な国となるであろう。
その後、仏法の浅深勝劣を斟酌して、仏の家の棟梁(仏法の根本の教え)を崇め重んじようと思う。
第9段では、法然の念仏の教えこそ、三災七難の原因であることを理解した客が、積極的に謗法の悪僧への布施を止め、正しい僧を重んじていくとの決意を表明する。
主人はその申し出を喜んだうえで、自界叛逆難、他国侵逼難の二難が起こらないように、速やかにその決意を実行するよう訴える。
客は、まず座っている敷物から下り、襟を正すという動作で、主人への敬意を表明する。
そのうえで、経文を引き、道理を尽くし、現証を示した主人の理路整然たる主張を完全に理解したことを示す。
仏教の正邪を完全に分別できたわけではないが、法然が『選択集』に諸仏・諸経・諸菩薩・諸天等を全て捨てよ、閉じよ、閣け、抛てとの文を載せていることは厳然たる事実であり、この「捨閉閣抛」の邪義が原因となって、聖人は国を去り、善神は所を捨てて、社会は飢饉に苦しみ、世間に疫病が流行している――と。
客は「妄執既に翻えり耳目数朗かなり」(御書31ページ)と、念仏への誤った執着を捨て、正しく法の正邪を見極めていく態度を明確にする。そして、万人が願う国土の安泰と社会の安定を実現するために、まずは主人の言う通り、念仏など謗法の者に対する布施を止め、対治しようと誓う。さらに、その目下の課題(国土の安泰と社会の安定)が実現した後に、仏法の浅深勝劣を比較研究して、仏法の最高の教えに帰依し、正法の根本の師を尊崇したい、と述べる。
主人は喜んで言った。
故事に、鳩が変化して鷹となり、雀が変じて蛤になるとあるが、そのようにあなたは考え方を大きく改められた。喜ばしいことに、あなたは香り高い蘭室の友に交わって感化を受け、蓬のように曲がっていた邪信が、麻畑の中で正されたように、真っすぐに正法を求めることができた。
まことに近年の災難を顧みて、もっぱら私の述べたことを信じるならば、風は和らぎ、浪は静かになって、日も経たずに豊年となるであろう。
ただし、人の心は時に随って移り、人物の性分は環境によって改まるものである。譬えば、水面に映った月が波の動きによって動き、戦いに臨んだ軍隊が剣の動きになびくようなものである。
あなたもこの座では正法を信ずると決意しているけれども、後になって、必ずそれをすっかり忘れてしまうであろう。もし、まず国土を安んじて現当二世(現世と来世)のことを祈ろうと思うならば、速やかに考えを巡らし、急いで謗法に対治を加えなさい。
どうして急ぐべきかといえば、薬師経の中に説かれている七難のうち、五難はたちまちに起き、二難がなお残っている。いわゆる「他国侵逼の難」と「自界叛逆の難」である。
大集経に説かれている三災のうち、「穀貴」「疫病」の二災は早く現れ、一災がまだ起こっていない。いわゆる「兵革の災」である。
また金光明経の中に説かれている種々の災禍も、次々と起きたが、他方の敵や賊が国内を侵略するという災難がまだ現れておらず、この難はまだやって来ていない。
さらに、仁王経にある七難のうち六難までは、今、盛んに起きているけれども、一難はまだ現れていない。いわゆる四方の賊がやって来て国を侵略する難である。
それのみならず、仁王経には「国土が乱れようとする時にはまず鬼神が乱れる。鬼神が乱れる故に万民が乱れる」と説かれている。今、この文に基づいて詳しく事態の本質を考えてみると、百鬼は早くから乱れ、万民は多く亡くなっている。「先難」はこのように明らかである。「後災」が起こることをどうして疑うことができようか(疑いようがない)。もし、残る難が、悪法を用いる罪科によって、並び起こり、競い来るなら、その時はどうすればよいのだろうか。
帝王は、国家を基盤として天下を治め、臣下は田園を領有して世の中を安穏に保つものである。それを、他方の賊が来て国を侵略し、内乱・反逆が起こって、その土地を掠奪・占領するならば、どうして脅威を感じないでいられようか。どうして騒然としないことがあるだろうか。国を失い家が滅びてしまったならば、いったい、どこに騒乱の世を逃れていけるであろうか。
あなたは、一身の安堵を願うならば、まず四表の静謐(周囲の平穏、世界の平和)を祈ることが必要ではないのか。
主人は、謗法の対治を誓った客の大きな変化を喜ぶ。
「蘭室の友に交りて」(御書31ページ)とは、これまでの対話によって、客が主人の徳に感化されたことを、香りの高い蘭がある部屋にいると、その香りが自然に身体に染みてくることに譬えている。
また「麻畝の性と成る」とは、客の心の変化を譬えたもので、曲がって育つ蓬が、麻畑では麻に支えられて真っすぐに育つように、仏法に対する曲がった客の心が、真っすぐになったということである。
そして、近年の災難の由来をよく考え、主人の言葉を信じて謗法への布施を止めるならば、日ならずして世の中は豊年となり、平和な社会が現出するであろうと述べる。
しかし、縁に紛動され、移ろいやすいのが人の心の常である。今、決意を燃やしている客も、すぐにその決意も揺らぎ、忘れてしまうだろう。決意が本物であれば、直ちに謗法の対治を実行せよと、「決意即行動」の実践を促すのである。
続いて主人は、謗法の対治を急がなければならない理由を述べていく。
まず、薬師経、金光明経、大集経、仁王経の四経の文に照らして、まだ起こっていない災難があることを挙げる。
四経の災難で残っているのは、いずれも「戦乱」である。
次に、謗法を対治しなければ、残る災難が必ず起こるという道理を、仁王経の「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」との経文を引いて示されていく。
この経文は、思想・宗教の乱れが万民の乱れを引き起こし、さらには国土の乱れを招くとの原理を示している。この経文と当時の現実を照らし合わせてみると、すでに社会においては鬼神が乱れて災害が起こり、万民が苦しんでいる。つまり「百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ」という「先難」が起こっていることは明らかである。「先難」が、このように厳しい現実となって現れている以上、このままでは、「後災」である国土の乱れが起こることは、経文に照らして疑いない。
その「後災」「国土の乱れ」の具体的な内容が、薬師経に即していえば、「自界叛逆難」「他国侵逼難」の二難である。戦乱は国を滅ぼし、国土を荒廃させるゆえに「国土の乱れ」に当たるのである。
次に、主人は〝この後災が悪法の科によって起こったらどうすればよいのだろうか〟と警告する。
北条時頼をはじめとする為政者に対し、他国侵逼難や自界叛逆難が起これば、統治の基盤である国家そのものが滅び、臣下の地位・生活の基盤である所領そのものが侵略される。その時に驚いても、もはや逃れるところもない、と諄々と諭されるのである。
しかし幕府は、この日蓮大聖人の警告を受け入れなかった。その後、「自界叛逆難」は12年後の文永9年2月の二月騒動(北条時輔の乱)となって、また「他国侵逼難」は蒙古襲来(14年後の文永の役、21年後の弘安の役)となって現れたのである。「三世を知るを聖人という」(同287ページ)との原理に照らした時、「立正安国論の予言」の的中は、大聖人が「聖人」、すなわち「仏」であることを証明したものであるといえる。大聖人御自身、「種種御振舞御書」で、安国論の予言の符合は「仏の未来記にもをとらず」(同909ページ)と仰せられ、御本仏の御境涯を示唆されている。
しかし、もとより大聖人が、予言の的中を求めていたわけではないことは論をまたない。
自らに迫害が及ぶことを承知の上で「立正安国論」を提出し、国主諫暁された御真意は、民衆を救済するために、「何としても未然に戦乱を回避しなければならない」との「慈悲」の発露であられた。そして、安国論の中の予言は、法に基づく「智慧」の発露なのである。
さて、本章の予言と警告の結論として、大聖人は「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」(同31ページ)と仰せである。
すなわち「一身の安堵」――自分個人の生活の安泰、一家の幸福を願うならば、「四表の静謐」――世界の平和と、それに基づく国の安定を祈るべきであると示されている。この一節は、為政者に対する諫暁であると同時に、私たちの永遠の実践の指標となっている。
池田名誉会長は、本年の「SGIの日」記念提言で、この御文の意義を次のように綴っている。
「〝自分だけの幸福や安全もなければ、他人だけの不幸や危険もない〟との生命感覚に基づいた世界観の確立を訴えている」と。
自己のエゴイズムに束縛された「小我」を超克し、他者の心に同苦し、他者との関係性の中に自己の存在を見出していく「大我」の生き方を、大聖人が封建制度の鎌倉時代に提示された意義は、どれほど大きいか計り知れまい。
とはいえ、世界の問題をすぐに自身の問題として捉えられないのも現実である。だからこそ、「自分こそ世界平和を築く主体者なのだ」との意識をもつことができる、確固たる思想・哲学が人類には不可欠なのではないだろうか。世界の一級の識者が創価の哲学に賛同を寄せる理由もここにあろう。
今日のグローバル化の潮流の中で、世界各国の関係性や相互依存性はますます強まっている。温暖化や自然災害をはじめとした地球的問題群は、各国が自国の利害のみを追求していては、いつまでも解決の糸口は見出せない。
しかし、国も国際機関も、それを動かしているのは人間である。まさに、一人一人が「自身に関係している」と捉えられる範囲をどれだけ広げられるかが問われている。
ともすれば、宗教の意義を、慰めや癒やしなど内面の一時的な精神的安心にのみ限定し、社会生活から隔絶されたものと捉えてしまう人は多い。しかし、大聖人は、己心の一念が宇宙の万法に遍満し、一切の環境を変えていけると説かれている。
世界の平和を祈りながら、現実に打ち勝ち、関わる人々に生き抜く力を与えていく。その一人の人間の力が、ひいては一国そして世界の幸福と繁栄につながっていく――この日蓮仏法の根本原理のなかに、真の宗教の価値が示されているのである。
(創価新報2012年10月3日号)