小沢一郎 妻からの「離縁状」全文公開 週刊文春6月21日号
「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃 (ジャーナリスト松田賢弥+本誌取材班)
政局が俄かに緊迫してきた---。野田首相が政治生命を懸ける消費増税法案の採決が迫り、小沢グループの動向が最大の焦点となっている。そんな中、小誌は政治姿勢に決定的な疑問符を突きつける文書を入手した。和子夫人が支援者に宛てた悲痛な手紙を公開する!
まだ強い余震がある中、お変わりございませんか。
この度の大震災ではさぞご苦労があったと思います。ご家族・ご親類はご無事でいらっしゃったでしょうか。何のお手伝いもできず申し訳ありません。被害の余りの大きさに胸がつぶれる思いです。長年お世話になった方々のご不幸を知り、何もできない自分を情けなく思っています。
このような未曾有の大災害にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました。お礼の手紙にこのようなことを申し上げるのは大変申し訳なくショックを受けられると思いますが、いずれお話しなければと思っていましたのでこの手紙を差し上げました。お聞き苦しいと思いますが今迄のことを申し上げます。
八年前小沢の隠し子の存在が明らかになりました。●●●●●といい、もう二十才をすぎました。三年つきあった女性との間の子で、その人が別の人と結婚するから引きとれといわれたそうです。それで私との結婚前からつき合っていた●●●●という女性に一生毎月金銭を払う約束で養子にさせたということです。小沢が言うには、この●●●●という人と結婚するつもりだったが水商売の女は選挙に向かないと反対され、誰でもいいから金のある女と結婚することにしたところが、たまたま田中角栄先生が紹介したから私と結婚したというのです。そして「どうせ、お前も地位が欲しかっただけだろう」と言い、謝るどころか「お前に選挙を手つだってもらった覚えはない。何もしていないのにうぬぼれるな」と言われました。あげく「あいつ(●●●●)とは別れられないが、お前となら別れられるからいつでも離婚してやる」とまで言われました。
その言葉で、三十年間皆様に支えられ頑張ってきたという自負心が粉々になり、一時は自殺まで考えました。息子達に支えられ何とか現在やってきましたが、今でも、悔しさと空しさに心が乱れることがあります。
お世話になった方々に申し訳なく、又、説明もできず、もしお会いしてやさしい言葉をかけていたゞいたら、自分が抑えられず涙が止まらなくなるのがわかり岩手に帰れなくなりました。選挙の時には、皆さんがご苦労されているのに、どうしても「小沢をお願いします」とは言えず、申し訳なさに歯をくいしばって耐えていました。
隠し子がわかって以来、別棟を建てて別居しています。SPさんや秘書の手前、料理や洗濯は変わらずやっていました。用事の時は、小沢は私に直接言わず、秘書が出入りしていました。
それでも離婚しなかったのは、小沢が政治家としていざという時には、郷里と日本の為に役立つかもしれないのに、私が水をさすようなことをしていいのかという思いがあり、私自身が我慢すればと、ずっと耐えてきました。
「なんですぐ岩手に帰らないのか!」
ところが三月十一日、大震災の後、小沢の行動を見て岩手、国の為になるどころか害になることがはっきりわかりました。
三月十一日、あの大震災の中で、お世話になった方々の無事もわからず、岩手にいたら何かできることがあったのではと何一つできない自分が情けなく仕方がありませんでした。
そんな中、三月十六日の朝、北上出身の第一秘書の川辺が私の所へ来て、「内々の放射能の情報を得たので、先生の命令で秘書たちを逃がしました。私の家族も既に大阪に逃がしました」と胸をはって言うのです。
あげく、「先生も逃げますので、奥さんも息子さん達もどこか逃げる所を考えてください」と言うのです。
福島ですら原発周辺のみの避難勧告しかでていないのに、政治家が東京から真っ先に逃げるというのです。私は仰天して「国会議員が真っ先に逃げてどうするの!なんですぐ岩手に帰らないのか!内々の情報があるならなぜ国民に知らせないか」と聞きました。
川辺が言うには、岩手に行かないのは知事から来るなと言われてからで、国民に知らせないのは大混乱を起こすからだというのです。
国民の生命を守る筈の国会議員が国民を見捨てて放射能怖さに逃げるというのです。何十年もお世話になっている地元を見捨てて逃げるというのです。
私は激怒して「私は逃げません。政治家が真っ先に逃げ出すとは何事ですか」と怒鳴りました。川辺はあわてて男達は逃げませんと言いつくろい、小沢に報告に行きました。
小沢は「じゃあしょうがない。食糧の備蓄はあるから、塩を買い占めるように」と言って書生に買いに行かせました。その後は家に鍵をかけて閉じこもり全く外に出なくなりました。復興法案の審議にも出ていません。女性秘書達と川辺の家族は一ヶ月余り戻ってきませんでした。二日遅れで届いた岩手日日には三月十五日国会議員六人が県庁に行き、知事と会談したとありました。
彼らに一緒に岩手に行こうと誘われても党員資格停止処分を理由に断っていたこともわかりました。知事に止められたのではなく放射能がこわくて行かなかったのです。
三月二十一日「東京の水道は汚染されているので料理は買った水でやって下さい」と書生が言いに来ました。しかしそのような情報は一切発表されていませんでしたので、私が「他の人と同じ様に水道水を使います」と言いましたら、それなら先生のご飯は僕達で作りますと断ってきました。
それ以来、書生達が料理をし、洗濯まで買った水でやろうとしていました。東京都が乳幼児にはなるべく水道水を避けるようにと指示したのはその二日後です。すぐにそれは解除になりました。
三月二十五日になってついに小沢は耐えられなくなったようで旅行カバンを持ってどこかに逃げだしました。去年、京都の土地を探していたようですのでそこに逃げたのかもしれません。
その直後、テレビやマスコミが小沢はどこに行った?こんな時に何をしているかと騒ぎだし、自宅前にテレビカメラが三、四台置かれ、二十人位のマスコミが押しかけました。それで、あわてて避難先から三月二十八日に岩手県庁に行ったのです。ご存知のように被災地には行ってません。四月に入ってからも家に閉じこもり連日、夜岩手議員を集めて酒を飲みながら菅内閣打倒計画をたて始めました。菅さんが放射能の情報を隠していると思ったらしく相談を始めました。自衛隊幹部や文科省の役人に情報収集をしたようですが、発表以外の事実は得られず、それなら菅内閣を倒し、誰でもいいから首相にすえて情報を入手しようと考えたようです。この結果、不信任決議がだされ政治が停滞したことはご存知と思います。
この大震災の中にあって何ら復興の手助けもせず、放射能の情報だけが欲しいというのです。
本当に情けなく強い憤りを感じておりました。実は小沢は、数年前から京都から出馬したいと言い出しており後援会にまで相談していました。
もう岩手のことは頭になかったのでしょう。
放射能をおそれて魚や野菜を捨てた
こんな人間を後援会の皆さんにお願いしていたのかと思うと申し訳なく恥づかしく思っています。
更に五月には長野の別荘地に土地を買い設計図を書いています。
多くの方々が大切なご家族を失い何もかも流され仮設住宅すら充分でなく不自由な避難生活を送られている時に、何ら痛痒を感じず、自分の為の避難場所の設計をしています。●●●という建設会社の話ではオフィス0という会社名義で土地を買い、秘書の仲里が担当しているということでした。
天皇・皇后両陛下が岩手に入られた日には、千葉に風評被害の視察と称し釣りに出かけました。
千葉の漁協で風評がひどいと陳情を受けると「放射能はどんどんひどくなる」と発言し、釣りを中止し、漁協からもらった魚も捨てさせたそうです。風評で苦しむ産地から届いた野菜も放射能をおそれて鳥の餌にする他は捨てたそうです。
かつてない国難の中で放射能が怖いと逃げたあげく、お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく、自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています。
長い間お世話になった皆さんにご恩返しができないかと考えています。せめて離婚の慰謝料を受け取ったら岩手に義捐金として送るつもりです。今岩手で頑張っている方々がすばらしい岩手を作ってくれることを信じています。
ご一家には、本当に長い間お励ましお支えを頂きましたこと心から感謝しております。ありがとうございました。
七月には別のところに住所を移しました。
ご一家のご多幸を心より祈り上げております。
小澤和子
(注・受取人が特定される記述は一部省略。伏せ字は原文では実名である)
和子夫人の手紙を支援者はどう読んだか 松田賢弥
「この手紙が表に出たら、小沢一郎はもう終わりだ」
この五月、私は「和子の手紙」を求めて、数週間、小沢の地元・水沢(現岩手県奥州市)を歩き続けた。
年初から永田町では、「小沢一郎がすでに離婚したらしい」とか、「奥さんが離婚したと手紙にしたため、後援会幹部らに送ったらしい」などと囁かれていた。だがいずれも真偽不明の断片的な情報だった。私も一月以降、手紙を求めて取材を始めたが、多くの支援者や後援会関係者は、「そんなものはもらっていない」と頑なに否定するばかりで、真相はわからなかった。
そもそも、二人の結婚は、小沢の師・田中角栄が仲介したものだ。角栄の後援会「越山会」の大幹部だった新潟の建設会社「福田組」の社長・福田正(故人)の長女・和子を角栄が秘蔵っ子に娶らせた、いわば政略結婚である。しかも二人の間には三十代の三人の息子がいて、積み重ねた四十年近くの歳月がある。七十歳の小沢と六十七歳の和子が今さら離婚するなど、にわかには信じ難い話だった。
一方で、今年三月に新たな事実も明らかになった。私は本誌三月二十九日号で、「小沢一郎『完全別居』次男と暮らす和子夫人を直撃!」と題した記事を寄稿した。和子は小沢邸から徒歩三分ほどの秘書寮に次男と暮らし、自分宛の宅配便や手紙も、すべて秘書寮に届くように手配していた。その光景は、夫婦間に大きな異変が起きた事を物語っていた。
そしてこの五月、「この人なら手紙を受け取っているのではないか」と思われる長年の支援者らを、再び私は訪ね始めたのだった。
ある三十年来の支援者の家を訪ねたときのことだ。
玄関口で訝しげな顔をする支援者に、私が三月に小沢夫妻の別居を報じたこと、四月末には本誌(五月三日・十日号)で「小沢一郎に隠し子がいた!」と題し、今や二十一歳になる小沢の隠し子について報じたことなどを告げると、こう語りだした。
「あぁ、あの記事は読んだ。間違ったごどは書いてないよな」
そう言い、私を居間に招き入れた。率直に「和子さんからの手紙は来てないですか」と尋ねる私に、その人はこちらの目を見据えながら、間を置いてポツリポツリと語るのだった。
和子に泣きながら電話した
「来たよ。去年の十一月だ。長い手紙でなぁ。小沢が被災地に行かないごとに和子さんが怒ったとか、小沢が放射能を怖れて『東京から逃げろ』『水飲むな』と言ったことが情けないと思った、ど書いであっだ」
さらに、こう続けた。
「私は手紙の内容に仰天して、和子さんに泣きながら電話したんだ。『一郎でない。和子さんがいるがらごそ、(小沢の支援を)やってきたんだ』と伝えだんだ。和子さんは『息子たちは私についているから。息子たちが、別居したら、と言ってくれたの』と話していだ。
和子さんは昔から演説がヘタでなぁ。いつもまわりから怒鳴られでいだ。それでも一生懸命だった。演説の帰りに、『息子たちが楽しみにしているから』と三人分の線香花火を買っていった姿が忘れられねぇ・・・」
やはり手紙は実在したのだ。私は驚愕し、何度も「手紙を見せてほしい」と頼んだ。だがその人は、現物を見せる事を頑なに拒んだ。その理由として、冒頭の台詞を語ったのだった。
別の支援者を夜遅くに訪ねると、その人は門扉の前で言葉少なにこう語った。
「和子さんからの手紙は確かに来ました。小沢が被災地へ行かないことへの不満の他に、『離婚』と書いてあった。手紙を読んで、和子さんと電話で話をしました。『水沢に来たら』声をかけたけど、『ありがとう』としか言わなかった。一郎が和子さんを、これほど苦しめていたとはな・・・。私はもう、一郎からは離れました」
私はさらに別の支援者を何度も訪ねた。何度目の訪問だったか、早朝に訪ねると、その支援者は意を決したのか淡々と語りだした。
「和子さんの手紙は去年の十一月の初め頃に来た。『離婚しました』とあった。原因は、あなたが隠し子の記事で書かれていた通り、小沢の女性問題だ。小沢がそこまで和子さんをないがしろにしたとあっては、もう許せない。小沢は次の選挙に出られない。もし出たとしても落選だろう」
その後も取材を重ね、和子の手紙は去年の十一月頃、十名近くの支援者に送られていたことがわかった。ただ、彼らは取材に応じてくれたとはいえ、手紙の提供は拒み続けた。
協力者を守るために詳細は伏せるが、私は手を尽くして手紙のコピーをようやく二通入手することができた。そのうちの一通が全文公開したものだ。もう一通も筆跡は同じで、冒頭と末尾に、その支援者や家族を気遣う文言などが書かれている以外は、内容もほぼ同一といっていい。念のため元秘書らに筆跡を確認してもらったが、間違いなく和子のものである。
いうまでもなく、これは「小澤和子」が支援者に送った私信である。和子には手紙で再三取材を申し入れたが未だ果たせていない。私信を公開することに逡巡がなかったわけではない。
だがこれは単なる私信ではない。大げさに言えば、後に平成の政治を振り返る上でも、極めて重要な意味を持つ一級の資料である。
私が本格的に小沢を取材し始めたのは、平成元年。この年の八月に小沢は弱冠四十七歳で自民党幹事長となった。以降の平成政治史において、時に政権与党の影の支配者、時に大野党のリーダーとして、今日に至るまで政局の中心に座り続けてきた。それは消費増税をめぐる目下の政局で野田政権を揺さぶり続けていることでも明らかだろう。
その小沢一郎が、未曾有の大震災に際していかなる行動を取ったのか。その実像を、最も近くにいた人物が書き記した、極めて公共性の高い文書だと考え、公開に踏み切った。
また、これだけ多くの人に手紙を出し、隠し子の実名まで記した十一枚の便箋を、何通も書き上げた和子の心情を思った。小沢の真の姿を支援者のみんなに広く知って欲しい。そうした和子の思いが行間から滲み出ているように感じられたことも、公開を後押しした。
隠し子を養子にした愛人
いくつか、手紙の文面だけではわかりにくい箇所を補足したい。一つ目は「隠し子」についてである。
〈八年前小沢の隠し子の存在が明らかになりました。●●●●●といい、もう二十才をすぎました〉とある。
これがまさに私が「健太君」という仮名で四月末に報じた男の子のことだ。
実はもう一通の手紙には、〈九年前〉とあった。これが書かれたのが二〇一一年十一月だとすれば、二〇〇二年から〇三年にかけてのどこかの時点で、和子は隠し子の存在を知ったことになる。
奇しくも私は、前述した別居報道(三月二十九日号)でこう書いていた。
「私には、和子が自身の名義で小沢邸敷地内に別棟を建てた〇二年頃を境に、小沢と和子が後戻りのできないほど、冷え切った関係になったように見える。和子が水沢に姿を一切見せなくなるのもこの頃からだ」
東京地裁は昨年九月、小沢の元秘書三人に政治資金規正法違反で有罪判決を下した。その公判で、安田信託銀行(現・みずほ信託銀行)の元女性嘱託職員が検察側証人として出廷したことがあった。その証言によれば〇二年三月、和子から電話でこう言われたという。
「現金を払い戻しするから、(深沢の)自宅に来て。私と息子の名義の預金を解約し、六千万円を払い戻してもらいたい」
この時、用途について別棟の建設費用だと和子は言っている。手紙を読んだ今思えば、隠し子の存在を知った和子が、小沢のカネに頼るのではなく、自分と息子のカネで自分たちだけの城を作ろうとしたのではなかったか。登記簿によれば、その「城」が完成したのは〇二年十二月のことだ。
また、小沢の隠し子を養子として預かった愛人についても説明しておきたい。この女性は、有名料亭の若女将だった裕子(仮名)で、これまで私は、幾度も彼女について言及してきた。
例えば、九二年九月。金丸信元自民党副総裁の東京佐川急便ヤミ献金事件の処理に関する責任を取って、小沢が経世会会長代行の辞表を出した頃のことだ。東京地検特捜部の捜査の手が、小沢にまで伸びるのではなかと言われていた頃のある出来事を、元側近が私にこう明かした。
「小沢先生に言われて、資料類を段ボール箱四~五箱に詰めて、裕子さんの住むマンションに運びました」
二人の関係は続いている。陸山会事件が起こってから、小沢支持者らが開いている勉強会がある。そこではごく少人数で、陸山会事件について様々な角度から話し合われているのだが、熱心にメモを取る裕子の姿が目撃されている。
和子との結婚前から四十年以上も続く異様な関係は知悉したつもりでいたが、その背後に〈一生毎月金銭を払う約束〉があったとは驚きである。現在二十一歳の健太君を二歳半から裕子は預かっている。この約十九年間で一体どれだけのカネが裕子に渡されたのか。
次に放射能を恐れる小沢の言動にも触れておきたい。
大震災以降、小沢がことあるごとに原発について言及してきたのは周知の事実だ。例えば昨年三月二十八日、達増拓也岩手県知事との会談後に小沢は、「原子炉の制御不能状態が2週間以上放置されるのは世界で例がない。最悪の事態を招けば日本沈没の話になる」などと語っている(「岩手日報」三月二十九日付)。このような言動に違和感を持った人は少なからずいた。当時、ある岩手県議は私にこう不満を露わにしていた。
「小沢さんは被災地が逼迫した状態にあるのに、現地に行こうともせず、なんであんなに原発事故のことばかり語るのか」
昨年五月、私が陸前高田や大船渡などの被災地を訪ねた時の悲惨な光景が蘇ってきた。ある地元民が目に涙を浮かべてこう語ったのだ。
「いまでも、田園の中がら泥だらけの遺体があがってくる。いちばん政治の力が欲しい時に小沢さんは何もしてくれながった。オラたちはよう、見捨てられたのがぁ・・・」
結局、小沢がはじめて岩手の被災地に足を運んだのは、今年一月のことだった。
長野の別荘と小沢側近の会社
なお、手紙に書かれている出来事の時系列はいずれも正確だ。例えば手紙には、昨年三月二十一日に、「東京の水道は汚染されているので料理は買った水でやってください」と書生が言いに来て、その二日後に、東京都が乳幼児にはなるべく水道水を避けるように指示した、と書かれている。
事実、三月二十三日に東京都は、「金町浄水場の水道水から一キロ当たり二百十ベクレルの放射性ヨウ素を検出」と発表している。日記などを付けていたのか、他の諸々の記述も日時などが正確に記されている。
長野の別荘についても補足しよう。
取材班は、長野県蓼科の別荘地を訪れた。地元不動産業者に聞くと、
「去年の震災以降、別荘を新築しようという方は割りと多いんです。東京や名古屋などから。放射能の関係もあるでしょうし、地震の際の避難場所としてですね」
そこで長野県諏訪地方事務所を訪ね、昨年以降提出された建築計画概要書を閲覧すると、建築主がオフィスゼロ(0)という物件がひとつ見つかった。同社を調査すると、実質的には川島智太郎衆院議員の会社であることがわかった。小沢の元秘書で、今も側近の一人として数えられる人物だ。
川島氏に聞いた。
「あれは私の別荘にするんです。小沢さんがあの近辺で土地を探していると聞いたので、私も近くに別荘が建てられたらいいなと思って契約しました。仲里(貴行)秘書はその辺のことは詳しいので、色々アドバイスをもらいました。小沢さんはまだあの界隈で土地を探していると思いますよ」
一方、小沢事務所は、
「(別荘の件は)小沢とは全く無関係です。離婚の事実も慰謝料を払った事実もありません。(川邊嗣治秘書は)大阪での法事の為に家族を帰らせたことがありますが、周囲に避難を勧めたことはなく、京都からの出馬を検討したこともありません」と回答した。
長年小沢に仕え「懐刀」と呼ばれながら、〇三年に小沢と袂を分かった元大物秘書高橋嘉信は和子の手紙を読み、こう語った。
「私がなぜ小沢と決別し、闘うことになったのか。この手紙を読めば岩手の方々にも分かっていただけるのではないでしょうか。小沢には政治家以前に人間として問題があります。政治を志す若い人たちの魂を食い殺すなど、なんとも思っていない人間なんです。ましてや、岩手のことなど小沢の胸中にありません」
小沢は当選三回(七六年)頃から、ほとんど地元に帰らなくなった。高橋は、和子とともに水沢の地盤固めをし、支え合った時代を振り返り、こう述懐した。
「小沢は蕗の薹を生のまま刻んで味噌汁に入れたのが大好物なんです。私と奥さんは北上川の土手まで行って、頭を出したばかりの蕗の薹を摘み、袋に詰めて奥さんは東京へ持って行ったものです。そうやって必死であの人の為に働いてきた。でも、小沢には結局何も通じなかった」
小沢からは高橋のような秘書が離れ、数々の側近と呼ばれた議員が離れ、そして今、地元後援者も、三人の息子と妻さえも離れた。
和子の手紙を読めば、その理由は痛いほどわかる。小沢一郎は政治家としての終わりを迎えたのではないだろうか。(文中敬称略)
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〈来栖の独白2012/6/15 Fri. 〉
一読し、不審な個所は多くある。「せめて離婚の慰謝料を受け取ったら岩手に義捐金として送るつもりです。」などは、大きくリアリティを欠く。信じがたい。が、「小澤和子」との署名(写真)に、考え込まざるをえない。消費税増税修正協議の期限を控え政局のヤマ場のこの時にこのような記事を出すタイミングも、恐ろしい。
強制起訴裁判は企まれたもの、事実無根のものだったが、こんなところに伏兵がいたか。この伏兵は、小沢氏の命を奪うに足る力を持つだろうか。選挙になれば、勝てるだろうか。日本人は未熟幼稚で、スキャンダルに対して寛容になれぬ。いや、小沢氏に対して、殊更厳しい。
因みに、「総理にしたい政治家 第1位」に挙げられたこともある舛添要一氏(自民党・元厚労大臣)であるが、以下のような艶福な経歴。ウィキペディアより。
2度の離婚歴がある。最初の妻は留学時代出会ったフランス人。2度目の妻は官僚時代の片山さつき(当時朝長さつき)であり、衆議院議員だった近藤鉄雄の紹介でお見合いしたのが馴れ初めで1986年に結婚。しかし実質的な結婚生活は長続きせず、3ヶ月後には片山が弁護士に相談する事態に陥ったといい、調停を経て89年に離婚した。1996年6月に現在の妻である元秘書の女性と3度目の結婚をし、2児をもうけている。他に日本人女性2人との間に婚外子が計3人いる
2度の離婚はまだ看過されるとしても、《女性2人との間に婚外子が計3人》は総理としては容認されるか。国民の多くは、如何だろう。検察や時の権力に踊らされているとも知らず、小沢氏に厳しい目を向け続けた多くの国民である。
大して能力があるとも思えない「松田賢弥」というジャーナリスト、胡散臭い男だ。
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◇ 小沢家の悲劇「妻・和子の手紙」の真相 週刊ポスト2012/7/6号(2012年6月25日発売)
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◇ 大震災被害対策「小沢一郎さんの計らい・小沢力」が有効に働いている/仙台空港=小沢側近・弟子が奔走
東日本大震災津波・岩手からの報告
日本一新の会 達増拓也(岩手県知事)
「日本一新メルマガ」への投稿は、大震災津波後、初めてになります。岩手県や県内被災地に対し、全国から、世界から、多くの支援、お見舞い、激励をいただいています。この場を借りて、感謝申し上げます。
また、大震災で犠牲になられた方々、その関係者の方々に、心からの哀悼の意を捧げます。
発災翌日の3月12日、岩手県選出参議院議員である平野達男内閣府副大臣が、23人の事務方と共に岩手入りし、岩手県庁内に政府の現地連絡対策室を立ち上げました。事務方は、内閣府の防災担当参事官の下に各省庁の若手で構成。県庁内には、11日のうちに自衛隊の連絡窓口もでき、その後、北東北3県を管轄する第9師団の司令部が青森市から岩手県庁に移されました。
これにより、発災当初から、被災地が直面する課題について国と地方自治体の職員が共同で解決する体制ができました。同じころ、県は、停電と通信途絶の中で、12の沿岸市町村全てに本庁職員を派遣して、状況を把握し、初動を支援しました。市町村と、県と、国の各省庁がつながって、人命救助、避難、応急復旧、被災者支援を展開しました。避難所のケアは、自衛隊に負うところ大です。
工場で研修をしていた中国人が多数被災したので、外務省の中国語ができる職員にすぐ来てもらいました。被災市町村の行政機能が大きく損なわれており、県や他市町村からの大規模な支援が必要だということで、市町村行政に詳しい総務省職員に来てもらい、支援体制作りを手伝ってもらいました。その他にも、いろいろと、現場の要請で各省庁に動いてもらいました。後に政府が決めた被災地支援策のかなりの部分は、市町村、県、各省庁の事務方の「現場力」で作り上げたといえます。
ガソリンなどの燃料不足が長く続いた件は「現場力」では対応しきれず政府による全国的な調整力と指導力の不足がたたりました。なお、宮城県の政府現地連絡対策室担当の東祥三内閣府副大臣が岩手の被災地入りした時に、仮設ガソリンスタンドの設置を現地で決めてくれ、すぐ実行されたのは助かりました。
「政治主導」を感じたのは、がれきの処理です。樋高剛環境政務官が政府のがれき処理プロジェクトチームの座長となり、関係省庁の事務方を糾合し、平時であれば1年かかるような省庁間調整を2、3日で終わらせました。阪神淡路大震災時を上回る財政措置も決まりました。がれき問題は被災市町村長が抱える最大の悩みの一つであり、大いに助かりました。樋高政務官は、中選挙区時代に小沢一郎秘書として陸前高田市などの今回の被災地を担当しており、かつて一軒一軒歩いた家ががれきとなってしまった、そのがれきの問題は何としても解決しなければならない、と言っていました。
発災直後、私が被災地の市町村長さん達にお願いしたのは、住宅地図で一軒一軒確認するように被害状況を把握すること、名簿をしっかり作って住民の安否状況を把握すること、でした。住宅地図と名簿は、小沢一郎さんに習った選挙手法でもあり、災害対策本部長の仕事は選挙対策本部長の仕事と共通点がある、と思いました。
また、私は津波の被害を受けなかった内陸の市町村長さん達に集まってもらって沿岸支援への協力をお願いし、さらに、県内の諸団体に被災地支援をお願いする文書を作って協力を依頼しました。目的を達成するために、より多くの団体、企業、個人の支援を取り付けていく、というのも選挙の手法に似ています。選挙において有権者の力を結集して為すべきことを実現する手法は、災害においてあらゆる力を結集して被災者を救う手法と共通するのです。
ちなみに、団体対策に強い自民党本部は今回の災害でも動きがよく、経団連と被災県を直接結ぶホットラインは、経団連の機関紙で喧伝されていますが、自民党災害対策本部が仲介してくれたものです。
がれき処理で財務省が前例のない財政措置を認めたのには、小沢一郎さんのはからいがあったと思います。小沢一郎さんが岩手入りした時、私との会談では「県は補正予算でいくら確保したか」とか「国の本予算には○兆円の予備費があるから、まずそれを使えばよい」とか、財政的な話が中心になりました。財務省筋から、かなり情報を得ており、また財務省に対してかなり影響を及ぼしているな、という印象を受けました。がれき処理以外でも、財務省が前例のない財政措置を認めた分野がいくつかあります。
私は、平安時代の中央政府による東北平定の歴史を踏まえ「東祥三さんは宮城駐在の征夷大将軍、平野達男さんは岩手駐在の鎮守府将軍。今回は地方勢力と力を合わせて東北の平安のために働いていますが、小沢先生こそ2人の将軍の上にいる大将軍だと思っていますからね」と言いました。小沢一郎さんは、「はっはっは」と笑うだけでしたが、本人も大将軍的な立場を自覚していろいろ手を打っているのだな、と私は感じました。
それから、仙台空港を在沖縄米軍が片付けたのは、新進党から自由党のころに小沢側近と呼ばれていた元衆議院議員の米津等史さんの働きかけによるものだったようです。米津さんは普天間問題の関係で在沖縄米軍と一緒に仕事をしており、大震災津波後、仙台空港が放置されているのをテレビで見て、在沖縄米軍に片付けられないかと持ちかけたところ、じゃあやろう、ということになった由。ここでも小沢一郎の弟子が奔走していました。
大震災津波そのものによる被害への対策については、「小沢力」がかなり有効に働いていると思います。しかし、今のままでは、「小沢力」が全く生かされないのが、原発対策です。本人も、そこが一番もどかしいと感じているのではないでしょうか。 *強調(太字・着色)は来栖
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◇ 『誰が小沢一郎を殺すのか?』の著者カレル・ヴァン・ウォルフレン氏と小沢一郎氏が対談〈全文書き起こし〉2011-07-30 より抜粋
■お悔みを申し上げるのが政治家の仕事なのか?
上杉: まずは「3.11」の震災について、その震災後のことについてお話を頂ければと思う。今ウォルフレンさんからお話いただいたので、小沢さんの方から。「3.11」の国を揺るがすような大震災以降、どうも既存メディアでは小沢さんの影が見えなかったのでは、何もしていないのではないか、という声もあった。果たして小沢さんはどのような活動をされていたのか。「3.11」の発災以降のことも含めて、お話をいただければと思う。
小沢一郎衆院議員(以下、小沢) : 今度のいまだかつて経験したことのないような大災害、私も被災県の岩手県の出身だけれども、特に福島県の原発の損壊と放射能汚染の問題、それが非常に深刻な事態だと、私は当初から機会ある度に訴えてきた。このような時にあたって、今ウォルフレンさんが指摘されたが、世界でも非常に評価されるような日本人の長所が発揮されていると同時に、日本人の欠点も露呈されているというのが、正直なところではないかと思っている。長所というのは、それは一般的に言われているように、こんな大災害にもかかわらず、みんな一生懸命力を合わせて復興のために頑張っていること。その忍耐と努力と、そして能力というのは、当然日本人として誇っていいことだと思っている。
ただ、放射能汚染といういまだかつて(ない)、ある意味においてはチェルノブイリやスリーマイル以上に、非常に大きな危険性を秘めているこの原発の事故と放射能汚染の拡大――。これほどの大きな深刻なことになると、単なる個人的な力の発揮ということ以上に、本来もっと国家として前面に立って、そして英知を集めて思い切って対策を講じていく仕組みと姿勢が必要だと思う。けれども、どうもその意味において、政治の面だけではなくて、一般の国民の中からもそういった強い要求というか、動きというものがなかなか出てこない。まさに非常に日本的な現象だと思っている。ほかの国ならば、こんなに黙って現状を見過ごしているような国民は多分ないだろうと思う。大きな大きな国民運動にまで広がりかねないと思うが、そういう(大きな運動にならない)ところがちょっと日本の国民性というか不思議なところであって、「まあまあ」という中で個人が一生懸命頑張っている。
上杉さんがマスコミの話をしたけれども、マスコミ自体も、政治が何をすべきか、政治家が何をすべきか と(報じない)。お見舞いに現地を歩くのが政治家の仕事なのか? お悔やみを申し上げるのが政治家の仕事なのか? というふうに私はあえて憎まれ口をきくけれど、やはり政治の役割というのは、そういうことではないと思う。このような深刻な事態をどのようにして克服していくか、そのためには政治の体制はどうあるべきなのか、政治家はどうあるべきなのかと考えるのが、本当に国民のための政治家のあり方だと私は思っている。そういう意味で、今後もいろいろとご批判は頂きながらも、私の信念は変わらないので、その方向で頑張りたいと思う。
■財源があろうがなかろうが、放射能を封じ込めろ
上杉: 引き続いて、お二方に質問を。自由報道協会の面々は発災直後から現地に入り、取材活動をずっと行ってきた。その取材の中で相対的に、結果としていま現在、県単位で見ると岩手県の復興が意外と進んでいるという報告が上がってきている。おべんちゃらではなく。(小沢氏の)お膝元の岩手県の復興が進んだという見方もできるが、一方で岩手県だけがそういう形で支援が進めばいいのかという疑問もある。そこで、これはウォルフレンさんと小沢さんお二方に伺いたい。仮に現在の菅政権ではなく、小沢一郎政権だったらどのような形で国を復興させたのか。また、もし小沢一郎総理だったら、具体的な方法としてどのような形で今回の震災に対応したのか。ご自身のことでお答えにくいかもしれないが、まず小沢さんから。
小沢: 岩手県の震災復興の進捗具合が大変良いとお褒めいただいているが、別にこれは私が岩手県にだけ特別何かしているということではない。ただ、それぞれの国民あるいは県民の努力と同時に、地域社会を預かっている知事はじめ、それぞれの任務にある人たち、トップが先頭に立って、そしてその下で皆があらゆる分野の活動で一生懸命やっている。岩手県が他の県に比べて良いとすれば、そういう体制がきちんとされているので、復興の進捗状況が良いと言われている理由ではないかと思っている。
私の場合は、かてて加えて原子力ということ、放射能汚染ということを強く主張している。これはもちろん東京電力が第一義的に責任を持っていることは間違いのないことだけれども、日本が政府として国家として、原子力発電を推進してきたことも事実だし、原発の設置運転等については許認可を与えている。そういう意味から言っても、また今日の放射能汚染が依然として続いているという非常に深刻な事態を考えると、東京電力が第一義的責任者だといって済む状況ではないのでは。東京電力にやらせておいて、政府はその後押しをしますよ、支援しますよというシステムでは、本当に国民・県民の生活を守っていくことはできないのではないか。
<以下略> *強調(太字・着色)は来栖
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