19代斎院 禖子内親王
※「ばい(みわ)」の字は、示偏+某。こちらを参照(字源)。
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
ばいし | みわこ | 不明 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
父:後朱雀天皇(1009-1045)
母:中宮藤原嫄子 (1016-1039,敦康親王女) |
長暦3年(1039)8月19日 | 嘉保3年(1096)9月13日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
後冷泉(1045~1068,異母兄) | 卜定:寛徳3年(1046)3月24日
初斎院:不明 本院:永承3年(1048)4月12日 退下:天喜6年(1058)4月3日 |
病 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
嘉子 父:小一条院 母:藤原頼宗女? |
卜定:永承元年(1046)3月10日 初斎院:不明 野宮:永承2年(1047)9月14日 群行:永承3年(1048)9月8日 (長奉送使:藤原信長) 退下:永承6年(1051)1月8日 |
父薨去 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
敬子女王 父:敦平親王 母:源則理女 |
卜定:永承6年(1051)10月7日 (五条邸) 初斎院:永承7年(1052)4月25日 (大膳職) 野宮:永承7年(1052)9月28日 群行:天喜元年(1053)9月14日 退下:治暦4年(1068)4月19日 |
天皇崩御 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
号:六条斎院 同母姉:祐子内親王(1038-1105,准三宮) 後朱雀天皇第四皇女。 母藤原嫄子(嫄子女王)は敦康親王(一条天皇第一皇子、母は皇后藤原定子)の一人娘で、父後朱雀天皇の姪。 18代娟子内親王、20代正子内親王の異母姉妹。 ┌────────────────────┐ │ │ 円融天皇 冷泉天皇 │ ┌────┐ │ │ │ │ │ 藤原定子===一条天皇=====彰子 妍子=====三条天皇 | │[上東門院] │ │ | │ │ │ │ │ │ │ 敦康親王 │ │ │ │ │ │ ├─────┐ │ │ │ │ │ 藤原嫄子===後朱雀天皇========禎子 小一条院 敦平親王 │ │ │ [陽明門院] │ │ ┌─────┤ │ │ │ │ │ │ │ │ │ │ 祐子 ◆禖子 後冷泉天皇 娟子 嘉子 敬子女王 (斎宮) (斎宮) 誕生からわずか9日後、母中宮嫄子が産褥死。その後は姉祐子内親王と共に、祖父頼通の元で育てられた。 幼い頃から病がちであったが、和歌の才能に優れ、多数の歌合を開催。斎院退下の後は、母方の曽祖父・具平親王ゆかりの六条邸に住んだと見られ、六条斎院と称された。晩年に出家。 禖子内親王家に仕えた女房・六条斎院宣旨(源頼国女)は有名な歌人であり、また『狭衣物語』の作者として有力視されている。 詠歌:神垣にかかるとならば朝顔もゆふかくるまで匂はざらめや(詞花集) ※禖子内親王の祖母敦康親王妃(具平親王次女)は関白頼通の正室・隆姫女王の妹であり、よって母嫄子は隆姫の姪にあたる。この縁から嫄子は娘のない頼通・隆姫夫妻の養女となり、後朱雀天皇に入内・立后した(このことが先達の皇后・禎子内親王(18代娟子内親王母)との関係を悪化させたと言われる)。 しかし皇子誕生を期待されながらも、嫄子は皇女二人を生んだのみで24歳の若さで早世する。後宮制覇に失敗した頼通はその後、後冷泉天皇に入内させた実娘寛子にも皇子が生まれず、最終的に彼と対立する禎子内親王の子・後三条天皇の即位を許すこととなった。 なお禖子の曽祖父・具平親王の千種殿(禖子の六条邸に隣接していた?)は、禖子の姉祐子内親王の所有であったらしい(『水左記』承暦元年12月15日条に、高倉殿(祐子)が大江匡房に売却したとの記録があり、のち江家文庫が営まれた)。 参考書籍: ・所京子『斎王和歌文学の史的研究』(国書刊行会, 1989) ・岩佐美代子『内親王ものがたり』(岩波書店, 2003) 参考論文: ・朧谷寿「藤原頼通の高倉殿」(『平安貴族と邸第』p56-80, 吉川弘文館, 2000) 参考リンク: ・『六条斎院歌合』 永承三年五月or四年五月、 永承四年十二月二日、 永承五年二月三日、 永承五年五月五日、 永承六年正月八日、 天喜三年五月三日(物語合)、 天喜四年閏三月、 天喜四年五月、 天喜四年七月、 天喜五年五月、 天喜五年八月、 天喜五年九月十三日、 (天喜五年)七月 (国際日本文化研究センターデータベース) |
後朱雀天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
扶桑略記 | 長暦3年8月19日 | 【皇女(禖子)誕生】 中宮嫄子誕生女王 |
扶桑略記 | 長暦3年8月28日 | 【中宮(嫄子)崩御】 |
春記 | 長暦3年12月5日 | 【皇女(禖子)、内親王宣下】 |
春記 | 長久元年12月22日 | 【権大納言源師房、禖子内親王家司となる】 |
後冷泉天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
一代要記 | 寛徳3年3月24日 | 【禖子内親王、賀茂斎院卜定】 寛徳三年三月二十四日甲辰為賀茂斎 |
春記ほか | 永承3年4月12日 | 【斎院(禖子)紫野本院入り】 『春記』 今日斎王始入御紫野宮御禊日也、予依奉假文不参、又不奉出車也、少将資宗可勤御前也、■■事欲相訪、依此假文不到訪也、去夜乍立向彼宅、訪雑事、義通朝臣云、雑事皆具、但関白殿御馬御随身事未承一定、前日督殿眼前所被申也者、今日消息云、関白殿給御馬、不給御随身者、予答■■■案也、此由早可令申督殿也、督殿被申内府御随身公文以彼為龓云々、義通不許云々、然又何為哉云々、経宗朝臣来、遣資宗許了、早可出立之由、今朝■也、督殿不御坐也、申終許経宗同乗密々見物、小童等同乗也、日没之間斎王渡給了、女房装束如花過差無極而已、見了即退私、今日前駈大納言一人<長家>、用装■■杏葉不付銀面雲珠、又無泥障、是例也、以馬副令取馬口、無雑色、只二人許在後、若取沓者歟、主人着沓、不付魚袋云々、中納言一人、<隆國、>大略如大納言、但有随身、着蠻繪、帯平胡簶、無雑色、宰相二人<俊家、経任、>■■■■近衛府生二人令取馬口、<関白随身右府生播磨貞保、内府随身右府生下毛野公安、>経任以馬副令取之、有随身四人火長四人、無雑色也、四位四人、左中将(源)俊房以関白御随身二人、<右府生公武右番長武兼、>随身四人、小舎人童二人、<無雑色、>左少将基家以関白御随身■■■■■■随身并小舎人童二人<無雑色、>右中辨経家以右府御随身令取口、<左府生秦近利、>右少将顕家以関白随身令取口、<近衛秦近重、>五位四人、右少将公基、<右府生助武取口、>随身二人、小舎人童一人、<無雑色、>右衛門権佐長季、<無口取歟、>右(左?)少将資宗<内府随身下毛野公文取口、>随身二人無童并雑色、右兵衛佐師家以関白御随身<近衛定國、>令取口也、随身二人童一人也、随身以上皆着蠻繪、或帯平胡簶、或以鞭挿腰也、有■車等、中将俊房車以衆華餝之彫融也、資宗車少々有風流、又一兩車如之、関白不給御随身也、例事也、師家等給之、已以(似?)有偏頗、不可為愁耳、 |
永承5年5月5日 | 【斎院(禖子)歌合:題「菖蒲」】 |
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春記 | 永承7年4月15日 | 【斎院(禖子)御禊】 |
春記 | 永承7年4月15日 | 【斎院(禖子)、腫を患う】 |
夫木和歌抄 | 天喜元年5月21日 | 【斎院(禖子)御所で庚申歌合】 |
天喜3年5月3日 | 【斎院(禖子)御所で物語歌合】 |
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扶桑略記 | 天喜5年4月15日 | 【賀茂祭、斎院(禖子)は病のため奉仕せず】 賀茂斎禖子内親王、依病不供奉祭 |
扶桑略記ほか | 天喜6年4月3日 | 【斎院(禖子)退下】 『扶桑略記』 賀茂斎王依病退出矣、 |
禖子内親王歌合 | 【禖子内親王御所にて女房歌合】 |
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後三条天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
禖子内親王歌合 | 治暦4年4月5日 | 【禖子内親王御所にて歌合】 |
堀河天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
中右記ほか | 永長元年9月13日 | 【禖子内親王薨去】 『中右記』 夜前斎院薨、諱禖子、後朱雀院第四女、母故中宮嫄子也、長暦三年降誕、後冷泉院始為賀茂斎院、天喜六年依病退斎院、従爾以来被責狂病、不知前後経数十年、今夜俄以薨逝云々、御年五十八、<依為出家人無薨奏歟> |
史料 | 記述 |
一代要記 |
後朱雀天皇 皇女 禖子内親王 四女、長暦二年八月誕生、 寛徳三年三月二十四日甲辰為賀茂斎、天喜二年四月三日夜病退 後冷泉天皇 斎院 禖子内親王 後朱雀院四女、寛徳三年三月二十四日為斎院、 天喜六年四月三日依病退之 |
賀茂斎院記 |
禖子内親王 後朱雀院第五皇女也。母中宮嫄子。敦康親王之女也。 寛徳三年三月卜定。 号六条斎院。 |
栄花物語 (34・暮まつほし) |
【禖子内親王誕生、母中宮嫄子崩御】 九月に、中宮(嫄子)このたびも女宮(禖子)生みたてまつらせたまひて、九日といふに、うせさせたまひぬれば、(後朱雀天皇は)あはれにいみじきことを思しめし嘆かせたまふ。姫宮を殿の上(頼通室隆姫)御形見と撫でかしづきたてまつらせたまふ。 |
栄花物語 (36・根あはせ) |
【禖子内親王の斎院卜定】 斎院に殿(頼通)の二の宮(禖子)のゐさせたまひぬ。おほかたには四の宮におはします。されど三の宮(祐子内親王)をも高倉殿の一の宮とのみ人は聞えさす。このほどに、一品宮(章子内親王)は后に立たせたまふべけれど、まづ斎宮、斎院の御事定まりてと思しめす。 |
栄花物語 (37・けぶりの後) |
【斎院禖子内親王の有様、斎院退下】 先帝(せんだい)をば後朱雀院とぞ申すめる。その院の高倉殿の女四の宮(禖子内親王)をこそは斎院とは申すめれ。幼くおはしませど、歌をめでたく詠ませたまふ。さぶらふ人々も、題を出(いだ)し歌合をし、朝夕に心をやりて過ぐさせたまふ。物語合とて、今新しく作りて、左右方わきて、二十人合などせさせたまひて、いとをかしかりけり。明暮(あけくれ)御心地を悩ませたまひて、果(はて)は御心もたがはせたまひて、いと恐ろしきことを思し嘆かせたまふ。 (中略) かくあさましきことのみ多かれば、御心のうちに殿(頼通)もあさましく思しめして、斎院(禖子)おろしたてまつらせたまひて、麗景殿の姫宮(正子内親王、禖子の異母妹)ゐさせたまひぬ。おりさせたまひても、御心地治らせたまふことなし。 |
今鏡 (4・雲のかへし) |
そのさきに、式部卿の親王(敦康)の女君を子にしたてまつりて、後朱雀院の御時たてまつらせ給へりしは、弘徽殿の中宮嫄子と申しき。(中略) また禖子の内親王と申すこそは、この中宮生み置き給へる宮におはしませ。 寛徳三年三月、賀茂の斎院(いつき)と申しき。天喜六年御なやみによりて出で給ふ。 美作の御が、「ありし昔の同じ声かと」と詠めるは、この宮の斎院のころ侍りて、思ひ出だして侍りけるになむ。この宮、斎院と聞えけるころ、本院の朝顔を見給ひて、 (禖子内親王) 神垣にかかるとならば朝顔のゆふかくるまで匂はざらめや と侍るも、いとやさしく。 |