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16代斎院 選子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
せんし のぶこ 一品
両親 生年月日 没年月日
父:村上天皇(926-967)
母:中宮藤原安子<贈皇太后>
  (927-964,師輔女)
応和4年(964)4月24日 長元8年(1035)6月22日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
円融(969~984,同母兄)、
花山(984~986,甥)、
一条(986~1011,甥)、
三条(1011~1016,甥)、
後一条(1016~1036,甥孫)
卜定:天延3年(975)6月25日
   (陸奥守平貞盛
    二條万里小路宅)
初斎院:貞元元年(976)9月22日
   (大膳職)
本院:貞元2年(977)4月16日
退下:長元4年(1031)9月22日
老病
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
規子(949-986,異母姉)
 父:村上天皇
 母:女御徽子女王
卜定:天延3年(975)2月27日
初斎院:貞元元年(976)2月26日
   (侍従厨家)
野宮:貞元元年(976)9月21日
群行:貞元2年(977)9月16日
   (長奉送使:藤原顕光)
退下:永観2年(984)8月27日
天皇譲位
済子女王(従姉妹)
 父:章明親王
 母:藤原敦敏女?
卜定:永観2年(984)11月4日
   (中河家)
初斎院:寛和元年(985)9月2日
   (左近衛府)
野宮:寛和元年(985)9月26日
群行:なし
退下:寛和2年(986)6月22日
密通
恭子女王(984-?,姪)
 父:為平親王
 母:源高明女
卜定:寛和2年(986)8月8日
初斎院:不明(宮内省)
野宮:永延元年(987)9月13日
群行:永延2年(988)9月20日
   (長奉送使:藤原道兼)
退下:寛弘7年(1010)11月7日
父薨去
当子(1001-1023,甥孫)
 父:三条天皇
 母:皇后藤原娍子
卜定:長和元年(1012)12月4日
   (大和守藤原輔尹
    六角町尻宅)
初斎院:長和2年(1013)8月3日
   (宮内省)
野宮:長和2年(1013)9月27日
群行:長和3年(1014)9月20日
   (長奉送使:藤原通任)
退下:長和5年(1016)1月29日
天皇譲位
嫥子(1005-1081,姪)
 父:具平親王
 母:為平親王女
卜定:長和5年(1016)2月19日
   (染殿)
初斎院:長和5年(1016)9月15日
   (宮内省)
野宮:寛仁元年(1017)9月21日
群行:寛仁2年(1018)9月8日
   (長奉送使:藤原能信)
退下:長元9年(1036)4月17日
天皇崩御

略歴:
 応和4年(964)(1歳)4月24日、誕生。


4月29日、母中宮安子崩御。


8月21日、内親王宣下。
 康保3年(966)(3歳)8月25日、著袴。
 康保4年(967)(4歳)5月25日、父村上天皇崩御。
 安和2年(969)(6歳)8月13日、兄冷泉天皇譲位、兄円融天皇践祚。


9月23日、円融天皇即位。
 天延2年(974)(11歳)11月11日、清涼殿にて初笄。
 天延3年(975)(12歳)6月25日、斎院に卜定。
 貞元元年(976)(13歳)9月22日、初斎院(大膳職)に入る。
 貞元2年(977)(14歳)4月16日、紫野院に入る。
 永観2年(984)(21歳)8月27日、兄円融天皇譲位、甥花山天皇践祚。


10月10日、花山天皇即位。
 寛和2年(986)(23歳)6月23日、花山天皇譲位、甥一条天皇践祚。


7月22日、一条天皇即位。
 寛弘8年(1011)(48歳)6月13日、一条天皇譲位、甥三条天皇践祚。


10月16日、三条天皇即位。
 長和5年(1016)(53歳)1月29日、三条天皇譲位、後一条天皇践祚。


2月7日、後一条天皇即位。
 万寿元年(1024)(61歳)1月13日、一品。
 長元4年(1031)(68歳)9月22日、老病により退下。


9月28日、出家。
 長元8年(1035)(72歳)6月22日、薨去。

号:大斎院
同母兄弟:承子内親王(948-951)
     冷泉天皇(950-1011)
     為平親王(952-1010,一品式部卿)
     輔子内親王(953-992,斎宮,二品)
     資子内親王(955-1015,一品)
     円融天皇(959-991)

村上天皇第十皇女。
 母藤原安子は、父村上天皇の従兄弟・右大臣師輔の娘(村上生母穏子と、師輔の父忠平が兄弟)。

          ┌─────┐
          |     |
醍醐天皇=====藤原穏子  藤原忠平
 |    |         |
 |    |         |
 章明   |         師輔
 |    |         |
 |    |         ├────────────┐
 |    |         |            |
 済子  村上天皇=======安子           兼家
 (斎宮)   |     |                |
 ┌────┤   ┌─┴┬────┬────┐     ├───┬───┐
 |    |   |  |    |    |     |   |   |
 |   規子   為平 ◆選子 冷泉天皇 円融天皇===詮子  道長  超子
 |   (斎宮)   |       |        |     |   (三条母)
 |     ┌──┤    ┌──┴─┐      |     |
 |     |  |    |    |      |     |
 具平===為平女 恭子  花山天皇 三条天皇   一条天皇===彰子
    |     (斎宮)        |          | [上東門院]
    |               |          |
    嫥子              当子       後一条天皇
    (斎宮)              (斎宮)

 母安子は選子誕生後5日で産褥死、次いで父村上天皇が5年後の967年に崩御。外祖父師輔も既に960年他界しており、両親の没後は伯父藤原兼通の室・昭子女王(有明親王女、醍醐皇孫で選子の従姉妹)に養育された。11歳で宮中・清涼殿にて初笄の際も、裳の腰結役は昭子女王が務めている(なおこれにより、昭子女王は正二位に叙爵された)。

 12歳で卜定、歴代初のいわゆる后腹内親王の斎院となる(※この後19代禖子内親王まで、4代連続で后腹内親王が斎院となり、歴代8人中の半数がこの時期に集中している)。以後68歳まで在任期間5代57年にわたり、歴代最長の斎院であることから「大斎院(おおさいいん、だいさいいん)」と呼ばれ世間の尊崇を集めた。選子のサロンは当時文芸豊かな社交場としても知られ、村上天皇女御徽子女王(斎宮女御)、一条天皇皇后定子、同中宮彰子(上東門院)らと交流のあったことが『斎宮女御集』『枕草子』『紫式部日記』等の記録に残る。

 なお選子の卜定(天延3年(975)6月25日)から初斎院入り(貞元元年(976)9月22日)までは1年3ヶ月かかっており、これは初斎院入りの年月日が判明している歴代斎院の中で最も遅い異例の初斎院入りであるが、この2年間は事件と混乱の相次いだ時期であった。
 選子卜定からわずか5日後の7月1日、日本史上初と言われる皆既日食が起こり、大々的な恩赦が行われた。また翌天延4年(976)5月11日には内裏が焼亡、選子の兄円融天皇始め中宮、東宮も避難した。さらに追い討ちをかけるように、6月から7月にかけて大規模な地震が頻発して八省院・豊楽院等が倒壊、とうとう7月13日に改元が行われた。このような中で選子より一足先に卜定された斎宮規子は、天延4年(976)2月26日に侍従厨へ初斎院入りしており、内裏焼亡と大地震の後も9月の野宮入りまで引き続き留まっていたようだが、円融天皇は内裏造営にあたり7月26日に堀川第へ行幸している。こうした世相の混乱が、結果として選子の初斎院入りの遅れにも繋がったのであろう。

詠歌:光出づるあふひのかげを見てしかば年へにけるもうれしかりけり(後拾遺集)
   春知らでおぼつかなきにうぐひすの今日めづらしき声をきかばや(新後拾遺集/巻7雑春)
   思へども忌むとて言はぬことなればそなたに向きてねをのみぞ泣く(詞花集)


【選子の斎院在任が長期に渡った理由について】
 選子内親王は卜定当時既に両親が他界しており、従って退下理由のひとつである「父母の喪」は始めからなかった。また斎院は斎宮と異なり、天皇の代が変わっても交替しないことが多かったという不文律や、斎王交替の際に服喪中の皇女・女王は卜定されないこと(天皇崩御による退下の際は大抵、一年以上置いてから次の斎王が卜定されるが、母の喪で退下した斎王の場合は次の斎王卜定まで間がないことが多く、よって先代の同母姉妹が新斎王となることはない)、何より選子自身の長年の在任による存在の重さもあったろうが、当時内親王の人数自体が減少していたことも考えられる(※以下、年号は簡略化のため西暦のみとする)。

・卜定時(975年)
 選子が斎院に選ばれた当時、候補となるのは朱雀天皇(在位930~946)・村上天皇(946~967)の皇女たちである。
 朱雀天皇の一人娘昌子内親王(950生,26歳)は、この時既に冷泉天皇(当時は上皇)に入内していた。また村上天皇の皇女たちで、選子以外に30歳未満かつ未婚で斎王未経験であったのは、保子内親王(949生,27歳)と同母姉の資子内親王(955生,21歳)の二人であったと見られる(盛子内親王(951生,25歳)は既婚の可能性が高い)。
 しかし資子内親王はこれより前の972年に一品に叙され、姉妹の中で最も優遇されていた。一品内親王が斎院に卜定された例は後の29代禧子内親王のみで、この場合資子は始めから候補としては除外されていたと見られる(なお後世の斎宮・斎院卜定についても、同母姉妹の内親王は長女が優遇され卜定されない例が多い)。また年長の保子は既に卜定年齢の上限に近く(平安中期から後期を見ても、年齢の確かな人物で30歳を過ぎて斎王に卜定された例はない)、後に藤原兼家に降嫁した(986以降?)。

天皇皇女年齢(975)履歴
朱雀昌子(950-999)26三品(961),冷泉中宮(963入内)
村上 承子(948-951)--
理子(948-960)--
保子(949-987)27藤原兼家室(986?)
規子(949-986)27斎宮(975~84)
盛子(951-998)25藤原顕光室(977以前)
楽子(952-998)24斎宮(955~67)
輔子(953-992)23斎宮(968~69),二品
緝子(?-970)--無品
資子(955-1015)21一品(972)
選子(964-1035)1216代斎院(975~1031),一品(1024)


・円融・花山・一条朝前半(975年~996年)
 村上天皇の皇女たちが候補から外れたのち、新たな斎王候補となったのは選子の同母兄・冷泉天皇(967~969)の皇女たちである。
 冷泉天皇には、選子の前の15代斎院である次女尊子内親王(966生)の他、長女宗子内親王(964生)と三女光子内親王(973生)の二人の娘がいた。特に選子と同年の宗子は前斎院尊子の同母姉であり、975年の卜定では恐らく服喪中(同年4月に生母懐子が死去、このため妹尊子は斎院を退いた)のため選ばれなかったが、のちに選子との交替もありえたかもしれない(当時斎宮は代々女王が多く続いたが、対して斎院は内親王を優先することから、次代の斎院候補に想定されていた可能性は高い)。
 しかし975年、選子卜定の翌日に光子が夭折、宗子も986年に23歳で死去し、二人の内親王は相次いで候補から消える。さらに次の円融天皇(969~984)・花山天皇(984~986)にはいずれも皇女がなく(厳密には花山天皇に女子が二人いたが、出家後にもうけた娘で生母の身分も低く内親王宣下を受けていない)、このため986年から996年まで、次代の斎宮・斎院候補となる「内親王」は全く存在しなかった。

天皇皇女年齢(975)履歴
冷泉 宗子(964-986)12二品
尊子(966-985)1015代斎院(968~75),
円融妃(980入内),二品(981)
光子(973-975)3--
円融なし----
花山皇女二人--宣下なし
(一人は上東門院彰子女房)


・一条朝後半・三条朝(996~1011)
 一条天皇(986~1011)の代になり、ようやく中宮定子(のち皇后)に脩子内親王(996生)・媄子内親王(1000生)が相次いで生まれる。40歳に差し掛かった選子にとっても、久々に後継者となるだろう斎王候補の誕生だった。定子が崩御した1000年末から1001年にかけては服喪のため支障があったが、それ以外の時期、特に1002~1007年の間に選子が強く望めばあるいは斎院交替もあったかもしれない。
 しかし長女脩子は1007年に12歳で一品となり、この時点で事実上斎王候補から除外されたと見られる(のち1024年に29歳で出家)。残る次女媄子は有力な斎院候補であったかもしれないが、不幸にも1009年に10歳で夭折してしまった。

 一方この頃、東宮居貞親王(のちの三条天皇、1011~1016)にも二人の娘が相次いで生まれていた。
 このうち長女当子内親王(1001生)は、1012年に三条天皇の即位で斎宮となる(当時12歳)。先代の斎宮恭子女王(在任986-1010年、一条朝のほぼ全期間の24年)の後継として、久々の内親王斎宮であった。
 しかし次女禔子内親王(1003生,当子の同母妹)は、この時唯一の斎院候補内親王であったにもかかわらず、何故か父の譲位・姉の退下後も斎王となることはなかった。『栄花物語』では、三条天皇が在位中に禔子を道長の息子頼通に娶せようとしていたといい、禔子が卜定されなかったのはこのためとも考えられる(しかしこの縁談は結局成立せず、その後禔子は1026年に24歳で頼通の弟教通と結婚した)。
 また即位後に生まれた三女禎子内親王(1013生、母は道長の娘妍子)は1023年に11歳で一品となり、1027年に15歳で東宮敦良親王(のちの後朱雀天皇)の妃となった。この結婚については東宮妃嬉子(道長の娘、禎子の叔母)の急死がなければ実現しなかった可能性が高いが、禎子内親王は道長鍾愛の孫娘でもあり、恐らく一品に叙された時点で斎王候補となる可能性も完全になくなっただろう。

 この結果、実に天皇4代50年に渡り皇女が斎院に立つことなく終わるという、異例の事態となったのである。なお禎子内親王が結婚した1027年、選子は過去最高齢の斎院であった14代婉子内親王(64歳で退下)と同年に達していた。元々選子はかねて仏道に心を寄せており、後世のためにもさすがにこれ以上在任を続けるのは不本意であったらしい(このことは上東門院彰子の出家に際して贈答した和歌からもうかがえる)。

天皇皇女履歴
一条 脩子(996-1049)一品(1007)
媄子(1000-1009)--
三条 当子(1001-1023)斎宮(1012~1016)
禔子(1003-1048)藤原教通室(1026)
禎子(1013-1094)一品(1023),後朱雀皇后(1027結婚)


 ついに後一条天皇(1016~1036)の代に至り、1031年選子内親王は68歳で老病を理由に自ら退下、その後を継いだのは後一条の次女馨子内親王(1029生,3歳)だった。なお馨子内親王には同母姉章子内親王(1026生,6歳)がいたが、父後一条に鍾愛された章子は1030年に5歳で早くも一品となっており、当時既に斎王候補から除外されていたと見られる。その後章子内親王は1037年に従兄弟の親仁親王(後朱雀天皇第一皇子、のちの後冷泉天皇)と結婚、斎院は章子の従姉妹にあたる後朱雀の娘たちが担い、さらに後三条の娘たちへと受け継がれた(以後11人の皇女のうち、斎王に選ばれなかったのは既に一品内親王だった2人だけである)。

天皇皇女履歴
後一条 章子(1026-1105)一品(1030),後冷泉中宮(1037結婚)
馨子(1029-1093)17代斎院(1032~36),
二品准三宮(1032),後三条中宮(1051結婚)
後朱雀 良子(1030-1077)斎宮(1036~45),一品(1042)
娟子(1032-1103)18代斎院(1036~45),一品(1042)
祐子(1038-1105)准三宮(1040)
禖子(1039-1096)19代斎院(1046~58)
正子(1045-1114)20代斎院(1058~69)
後冷泉なし--
後三条 聡子(1050-1131)一品准三宮(1069)
俊子(1056-1132)二品(1069),斎宮(1070~73)
佳子(1057-1130)三品(1069),21代斎院(1069~72)
篤子(1060-1114)三品(1069),
22代斎院(1073),堀河中宮(1091入内)


【補足】
 選子内親王の時代に内親王が少なかったことは既に述べたが、同様に親王全体の人数も醍醐天皇・村上天皇等の時代に比べると大きく減少しており、これに比例して各親王の子女も少なかった。

天皇皇子皇孫(女王)
朱雀なし--
村上広平なし
憲平(冷泉)--
致平なし
為平婉子(972-998,花山女御:984入内)
具平親王妃(995以前に結婚)
恭子(984-?,斎宮:在任986~1011)
昭平藤原公任室(990結婚。母・高光女,道兼養女)
昌平なし
守平(円融)--
具平隆姫(995-1087,藤原頼通室)
敦康親王妃(1013結婚)
嫥子(1005-?,斎宮:在任1016~36,藤原教通室)
永平なし
冷泉師貞(花山)--
居貞(三条)--
為尊なし
敦道なし
円融懐仁(一条)--
花山明登なし
清仁信子女王(藤原能長室,1057以前に結婚?)
一条敦康嫄子(1016-1039,後朱雀中宮:藤原頼通養女,1037入内)
敦成(後一条)--
敦良(後朱雀)--
三条敦明(小一条院)栄子内親王(1015-?)
儇子内親王(1018-1097,藤原信家室,1037?結婚)
嘉子内親王(斎宮:在任1046~51)
斉子(23代斎院)
敦儀なし?
敦平敬子(斎宮:在任1051~68)
師明(性信)なし
(小一条院)敦貞なし
敦昌なし
敦賢淳子(斎宮:在任1073~77)
後朱雀親仁(後冷泉)--
(後三条)--
後冷泉なし--
後三条貞仁(白河)--
実仁なし
輔仁守子(1101-1156,斎宮:在任1123~42)
怡子(30代斎院:在任1134~59)


 以上の通り、女王については記録に残らなかっただけとも考えられるが、冷泉天皇以降は総じて少ない。また村上天皇皇孫で斎宮となった恭子女王(為平親王女)、嫥子女王(具平親王女)はいずれも三姉妹の末娘であり、姉たちは早い時期に結婚しているところから見て、女王もまたこの頃斎王候補不足に陥っていた可能性が高いと考えられる。




村上天皇
史料 年月日 記述
日本紀略 康保元年4月24日 【選子誕生】
 中宮(安子)産皇女選子
日本紀略 康保元年4月29日 【母后安子崩御】
 中宮藤原安子崩于主殿寮<年三十八、皇太子母也>、産生之後有此事
日本紀略 康保元年8月21日 【皇女選子、内親王宣下】
 定内親王、選子皇女
日本紀略 康保3年8月25日 【選子着袴】
 今日選子内親王著袴
円融天皇
史料 年月日 記述
親信卿記
日本紀略
天延2年11月11日 【選子初笄】
『親信卿記』
 着裳腰結昭子女王<太政大臣妻>、理髪典侍(大江)皎子朝臣、
事おはりて送物を賜はしむ
『日本紀略』
 選子内親王<先帝第十皇女>清涼殿において初笄
小右記
日本紀略
天延3年6月25日 【選子内親王、斎院卜定】
『小右記』(長元四年九月廿八日)
 中納言(資平)云、(中略)大外記(小野)文義進賀茂斎内親王卜定例并次々雑事日記、天延三年例也、以可行斎院事之上御、依彼時例可被行也、彼例尤吉、被撰上御、可被令行卜定事等者也、彼時済時為中納言、件日記残頭辨、関白帰洛之後可奉行之由、同示遺了
『日本紀略』
 六月廿五日、卜定賀茂斎王、先朝第十選子内親王也、以陸奥守(平)貞盛二條万里小路宅、為潔斎所
年中行事秘抄 天延4年4月22日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 貞元元年4月25日 【賀茂祭、斎院(選子)供奉せず】
 賀茂祭、斎王未入本院、仍無供奉
日本紀略 貞元元年9月22日 【斎院(選子)、初斎院に入る】
 賀茂斎院(選子)入御大膳職
日本紀略 貞元2年4月16日 【斎院(選子)御禊、紫野本院に入る】
 賀茂斎院選子内親王、従大膳職禊東河、入紫野院、
今日凶會日也、中納言為光為前駈
日本紀略 貞元3年4月16日 【斎院(選子)御禊】
年中行事秘抄 天元2年4月22日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 天元3年4月22日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 天元4年4月15日 【斎院(選子)御禊】
小右記
日本紀略
天元5年4月21日 【斎院(選子)御禊】
花山天皇
史料 年月日 記述
日本紀略 永観2年9月5日 【斎院(選子)交替なしを賀茂社に奉告】
小右記
日本紀略
永観3年4月20日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略
本朝世紀
寛和2年4月20日 【斎院(選子)御禊】
一条天皇
史料 年月日 記述
日本紀略
百練抄
永延2年4月20日 【斎院(選子)御禊】
小右記
日本紀略
永延3年4月20日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 正暦2年4月5日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
日本紀略 正暦2年4月13日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 正暦3年4月19日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 正暦3年11月4日 【斎院に強盗入る】
日本紀略 正暦3年11月9日 【斎院に強盗が入ったため、御卜を行う】
日本紀略 正暦3年11月26日 【斎院に強盗が入ったため、賀茂社に奉幣】
小右記 正暦4年4月12日 【斎院(選子)御禊】
 御禊云々、斎王(選子)申時許向河原云々、行事左衛門督顕光・公任
本朝世紀 正暦5年4月5日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
日本紀略 正暦5年4月13日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 長徳元年4月18日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 長徳2年4月12日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 長徳3年4月13日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 長徳4年4月18日 【斎院(選子)御禊】
小右記 長保元年11月11日 【斎院相嘗祭料を下行させる】
権記
日本紀略
長保2年4月11日 【斎院(選子)御禊】
権記
日本紀略
長保3年4月17日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 長保4年4月17日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 長保5年4月11日 【斎院(選子)御禊】
権記
日本紀略
長保6年4月17日 【斎院(選子)御禊】
御堂関白記
日本紀略
寛弘元年4月17日 【斎院(選子)御禊】
小右記 寛弘2年4月5日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
小右記
権記
日本紀略
寛弘2年4月17日 【斎院(選子)御禊】
法成寺摂政記 寛弘2年5月5日 【中宮(定子)、斎院(選子)に薬玉を贈る】
小右記 寛弘2年11月29日 【斎院(選子)御禊】
権記
法成寺摂政記
寛弘3年4月2日 【斎院(選子)御禊】
権記 寛弘4年4月5日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
日本紀略 寛弘4年4月16日 【斎院(選子)御禊を延引】
 斎院禊延引。
権記
法成寺摂政記
日本紀略
寛弘4年4月17日 【斎院(選子)御禊】
小右記
法成寺摂政記
日本紀略
寛弘5年4月9日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
日本紀略
法成寺摂政記
寛弘5年4月16日 【斎院(選子)御禊】
権記
日本紀略
寛弘6年4月21日 【斎院(選子)御禊】
小右記 寛弘8年3月26日 【斎院近辺に闘争】
権記
日本紀略
寛弘8年4月15日 【斎院(選子)御禊】
三条天皇
史料 年月日 記述
小右記 寛弘9年4月3日 【斎院(選子)御禊雑事を定める】
小右記
日本紀略
寛弘9年4月7日 【斎院(選子)の奏状を奏する】
小右記
日本紀略
寛弘9年4月8日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
小右記 寛弘9年4月14日 【斎院(選子)御禊により、絹米等を弁備】
小右記 寛弘9年4月16日 【斎院(選子)御禊祭行事等を奏する】
小右記
日本紀略
寛弘9年4月19日 【斎院(選子)交替なし。賀茂社に御禊を祈る】
小右記 寛弘9年4月20日 【斎院(選子)御禊祭日時を奏する】
小右記
日本紀略
寛弘9年4月21日 【斎院(選子)御禊】
小右記 寛弘9年4月24日 【斎院(選子)交替なしを賀茂社に奉告】
小右記目録 寛弘9年10月10日 【斎院(選子)御悩】
日本紀略
法成寺摂政記
長和2年4月7日 【斎院(選子)御禊日時、前駈を定める】
法成寺摂政記
小右記
長和2年4月21日 【斎院(選子)御禊】
小右記 長和3年3月29日 【斎院(選子)御禊雑事を定める】
小右記
日本紀略
長和3年4月7日 【斎院(選子)御禊祭行事を定める】
小右記
日本紀略
百錬抄
長和3年4月9日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
小右記
日本紀略
長和3年4月15日 【斎院(選子)御禊】
小右記 長和4年4月9日 【斎院(選子)禊祭料未進勘文を進めさせ、出車出馬等を定める】
小右記 長和4年4月10日 【斎院(選子)月料米未進により、宣旨を播磨に下す】
小右記 長和4年4月14日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
小右記 長和4年4月17日 【斎院(選子)御禊を点地】
小右記 長和4年4月18日 【斎院(選子)の嘗屋鳥居等を修造】
小右記 長和4年4月19日 【斎院(選子)御禊の点地勘文を奏する】
小右記
日本紀略
長和4年4月20日 【斎院(選子)御禊により、松明宣旨を山城に下す】
小右記
日本紀略
長和4年4月21日 【斎院(選子)御禊】
後一条天皇
史料 年月日 記述
小右記 長和5年3月16日 【斎院修造の宣旨を下す】
小右記 長和5年3月28日 【斎院長官源為理、次官を申請】
小右記 長和5年4月5日 【斎院(選子)前駈を定める】
小右記
日本紀略
長和5年4月15日 【斎院司除目、斎院(選子)の出車出馬を定める】
小右記
日本紀略
長和5年4月17日 【斎院(選子)御禊前駈定】
小右記
日本紀略
長和5年4月21日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 長和6年4月14日 【斎院(選子)御禊】
左経記 寛仁元年6月 【斎院長官源為理卒去】
左経記 寛仁元年7月1日 【群盗、斎院に入る】
小右記
左経記
日本紀略
寛仁元年9月21日 【斎院(選子)御禊、野宮に入る】
小右記 寛仁元年10月11日 【斎院奏状、並びに国々の召物のことを命じる】
小右記 寛仁元年11月6日 【斎院賀茂禊祭料等宣旨を催すことを申す】
小右記
左経記
日本紀略
寛仁元年11月22日 【斎院辺小屋で火災】
小右記
左経記
日本紀略
寛仁2年4月7日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
小右記
日本紀略
寛仁2年4月19日 【斎院(選子)御禊】
小右記
日本紀略
寛仁3年4月10日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
小右記
日本紀略
寛仁3年4月19日 【斎院(選子)御禊】
小右記目録
日本紀略
百練抄
寛仁4年4月13日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 治安元年4月13日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 治安2年4月19日 【斎院(選子)御禊】
小右記
日本紀略
治安3年4月3日 【斎院(選子)御禊前駈定】
小右記 治安3年4月13日 【斎院(選子)御禊】
小右記
日本紀略
治安3年9月28日 【斎院庁町倉代に盗賊入る】
小右記
日本紀略
治安4年4月13日 【斎院(選子)御禊】
左経記 万寿2年4月16日 【斎院長官以下、鴨河に御禊地を点定】
左経記 万寿2年4月19日 【斎院(選子)御禊】
左経記 万寿3年4月3日 【斎院御禊前駈を定める】
左経記 万寿3年4月12日 【斎院(選子)御禊】
左経記 万寿3年4月15日 【斎院(選子)帰院】
小右記
日本紀略
万寿4年4月5日 【斎院御禊前駈を定める】
小右記 万寿4年4月12日 【斎院(選子)御禊】
左経記 長元元年2月21日 【斎院臨時爵申文を奏す】
左経記 長元元年3月22日 【右大臣実資、斎院の御車料の牛を献ず】
左経記
小右記目録
日本紀略
長元元年4月5日 【斎院(選子)御禊を定める】
左経記
日本紀略
長元元年4月17日 【斎院(選子)御禊】
小右記 長元元年10月13日 【栄爵を募り、斎院を造進】
日本紀略 長元2年4月5日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
日本紀略 長元2年4月18日 【斎院(選子)御禊】
日本紀略 長元3年4月3日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
左経記
日本紀略
長元4年4月5日 【斎院(選子)御禊前駈を定める】
左経記 長元4年4月17日 【斎院(選子)御禊】
左経記 長元4年6月13日 【石清水等諸社奉幣に先立ち、宮主某が相撲人と称して左近衛府に拘留】
小右記
左経記
日本紀略他
長元4年9月22日 【斎院選子内親王退下】
『日本紀略』
 夜。賀茂斎院選子内親王依有老病。私以退出。天長八年有此例之由。外記勘申之。
『小右記』(9月21日条)
 或云、斎院内親王、今月廿五日可被出院云々、関白聞其告云、不可拘留久、
『小右記』(9月22日条)
 従中納言傳関白御消息云、廿五日斎院親王可被辞遁之由、先日有云々、(中略)
今夜俄可被出於院、驚寄[奇]無極、至今可任彼御情有遂者、今日宜日也、明日・明々日有重・復井御衰日等忌、内々以大外記文義可令勘申前例並可准據之例等宜、但出給自院之後、被問案内、一定之後、以頭弁可被仰下官、随則可仰外記者(後略)
小右記
左経記
日本紀略
長元4年9月28日 【選子出家】
『日本紀略』
 今日。選子内親王落飾為尼。
左経記
日本紀略
長元4年10月11日 【斎院(選子)退下により、賀茂社に奉幣】
左経記 長元4年閏10月2日 【前斎院(選子)受戒】
左経記 長元4年12月5日 【前斎院(選子)に初斎院の雑事を尋ねる】
左経記 長元7年7月13日 【前斎院(選子)、源光清の復位を関白頼通に依頼】
左経記 長元8年6月15日 【前斎院(選子)病悩】
左経記
日本紀略他
長元8年6月22日 【選子内親王薨去】
『日本紀略』
 前斎院一品選子内親王薨。<年七十二。>
左経記
日本紀略他
長元8年6月26日 【故選子内親王の薨奏】
左経記 長元8年7月27日 【故選子内親王の五七忌法会】
左経記 長元8年8月4日 【故選子内親王の六七忌法会】
左経記 長元8年8月11日 【故選子内親王の七七忌法会】



史料 記述
一代要記

村上天皇
皇女 選子内親王 斎院、天延三年、母安子中宮

円融天皇
斎院 選子内親王 村上四女、天延三年卜定

後一条天皇
斎院 選子内親王 號大斎院、長元四年九月【竊】出本院、
出家依老耄也、歴五十七年、同六月二十二日薨

【】内の字はこちらです

賀茂斎院記

選子内親王
村上天皇第十皇女也。母中宮安子。藤原師輔女也。
円融院天延三年六月二十五日卜定。以陸奥守貞盛二条万里小路宅為潔斎所。
貞元元年四月二十五日賀茂祭。選子未入本院。仍無供奉。
九月二十二日。選子入大膳職。
二年四月十六日選子禊于東河入紫野院。中納言藤原為光為前駈。
天元五年三月二十二日宣旨。賀茂斎王禊祭之間。陪従人等着綾羅之事事可禁制。
四月二十二日賀茂斎王禊也。上卿中納言済時。参議伊陟。称有故障而不参。被催他卿相之間。日即暮矣。遂不参。仍命左中弁懐忠為上代。外記伝宣。亥刻選子向禊処。今日禁中有犬死穢。御料牛自陣外被奉之。
永観二年八月花山院受禅。九月五日遣参議藤原公季于賀茂社。告斎王不改之由。
寛和二年七月一条院即位。斎王不改。
正暦三年十一月五日強盗入斎院。依是諸卿参彼院。二十六日遣幣使于賀茂社。
長徳元年四月十八日斎王禊也。上卿権中納言源伊陟。以有傍親服而不参。参議藤原実資行之。今日前駈等触関白家穢之由雖申之。内許之。選子輿過堀河之間。雷電霹靂。時人云。穢気之人供奉之所致也。頃之晴。選子還院之後。降雹大如栗。
寛弘四年四月十六日斎院禊延引。昨日内裡有犬死穢之故也。仰外記云。一条院北至于堀河。例年禊祭供奉人皆以下馬。但今年不可然。皆可騎馬。
三条院即位之後。斎王不改。
長和元年四月十九日大外記敦頼献伊勢斎王帰京。賀茂斎院不改之勘文。
後一条院即位之後。斎王不改。
長元四年九月二十二日選子依有老病私以退出。天長八年有此例之由外記勘申之。
是月二十八日選子落飾為尼。
選子在斎院之間。凡歴五代。当時称大斎院。選子善詠倭歌。嘗遣人于上東門院。請見新奇之草子。於是上東門院命紫式部。新撰源氏物語以遣之。
長元八年六月二十二日薨去。<年七十二。>

枕草子
(85段)

【中宮定子、斎院選子内親王と贈答】
 局へいととく下るれば、侍(さぶらい)の長なるもの、柚(ゆ)の葉のごとくなる宿直衣(とのゐぎぬ)の袖の上に、青き紙の松に付けたるを置きて、わななき出でたり。
(清少納言)「それは、いづこのぞ」
と問へば、
(侍)「斎院(選子)より」
と言ふに、ふとめでたうおぼえて、取りてまゐりぬ。
 (中宮定子は)まだ大殿籠りたれば、まづ御帳(みちょう)にあたりたる御格子を、碁盤などかき寄せて、ひとり念じ上ぐる、いと重し。片つ方なれば、きしめくに、おどろかせたまひて、
(中宮)「など、さはすることぞ」
とのたまはすれば、
(清少)「斎院より御文のさぶらはむには、いかでか急ぎ上げはべらざらむ」
と申すに、
(中宮)「げに、いととかりけり」
とて、起きさせたまへり。御文あけさせたまへれば、五寸ばかりなる卯槌(うづち)二つを、卯杖(うづえ)のさまに頭(かしら)などを包みて、山橘、日かげ、山菅(やますげ)など、うつくしげにかざりて、御文はなし。ただなるやうあらむやは、とて、御覧ずれば、卯杖の頭包みたる小さき紙に、

(選子)
 山とよむ斧の響きを尋ぬれば祝ひの杖の音にぞありける

 御返り書かせたまふほども、いとめでたし。斎院には、これより聞えさせたまふも、御返りも、なほ心異(こと)に、書きけがし多う、御用意見えたり。御使に、白き織物のひとへ、蘇芳なるは梅なめりかし。雪の降りしきたるにかづきてまゐるも、をかしう見ゆ。そのたびの御返しを、知らずなりにしこそ、くちをしう。

栄花物語
(1・月の宴)

【選子内親王誕生と中宮安子崩御】
 そこらの内外(うちと)額(ぬか)をつき、おしこりてどよみたるに、御子(選子)いかいかと泣きたまふ。あなうれしと思て、のちの御事どもを思ひ騒ぐほどぞいみじき。「や」とののしる程に、やがて消え入らせたまひにけり。かくいふことは応和四年四月二十九日、いえばおろかなりや。思ひやるべし。内裏(うち)の宮たちもよべぞ出でさせたまひつる。
 此たびの宮(選子)、女にぞおはしましける。宮たちまだ幼くおはしませば、何とも思したるまじけれど、おほかたのひびきにいみじう泣かせ給ふ。(中略)
 さてやはとて、今宮(選子)は、侍従命婦かねてもしか思ししことなれば、やがて仕うまつる。
「あはれ、例のやうに平らかにおはしまさましかば、こたびは心ことにいかにめでたからまし」
と言ひつづけて、殿ばら、女房たち泣きどよみたる、ことわりにいみじき御事なりかし。(中略)

 かくて宮たち内裏に参らせたまふに、今宮も忍びておはしますを、あはれに悲しと見たてまつらせたまふ。(選子は)いみじうおかしげにめでたうおはします。御五十日(いか)は里にてぞきこしめす。御衣(おんぞ)の色ども、ひたみちに墨染なり。(中略)

 女十の宮(選子)、この(円融天皇の)御時に斎院にゐさせたまひにけり。

栄花物語
(3・さまざまのよろこび)

【一条天皇朝の斎院】
 帝はかはらせたまへど、斎院には同じ村上の十の宮(選子)におはします。

栄花物語
(4・みはてぬゆめ)

【斎院選子内親王、藤原斉信へ弔問】
 (太政大臣藤原為光の)御忌のころ、この中将(斉信。為光の子)のもとに、斎院(選子)より御とぶらいありける。かくなん、

(選子)
 色かはる袖には露のいかならん思ひやるにも消えぞいらるる

 あはれなることども。

栄花物語
(8・はつはな)

【斎院選子内親王、道長に返歌】
 小忌(おみ)の夜は宰相の五節に童女の汗衫(かざみ)、大人のかしづきにみな青摺をして、赤紐をなんしたりけるといふことを、後に斎院(選子)聞しめして、をかしうもと思しめして、召したりければ、御覧じて、げにいと今めかしう思しめして、青き紙の端にて袂に結びつけて返させたまへり、

(選子)
 神代より摺れる衣といひながらまた重ねてもめづらしきかな

(中略)

 中宮(彰子)の若宮(敦成親王=後一条天皇)、いみじういとうつくしうて走りありかせたまふ。今年は三つにならせたまふ。四月には、殿(道長)、一条の御桟敷にて若宮に(賀茂祭の)物御覧ぜさせたまふ。いみじうふくらかに白う愛敬づき、うつくしうおはしますを、斎院の渡らせたまふをり、大殿、これはいかがとて、若宮を抱きたてまつりたまひて、御簾をかかげさせたまへれば、斎院の御輿の帷より、御扇をさし出でさせたまへるは、見たてまつらせたまふなるべし。かくて暮れぬれば、またの日、斎院より、

(選子)
 光いづるあふひのかげを見てしかば年経にけるもうれしかりけり

御返し、殿の御前、

(道長)
 もろかづら二葉ながらも君にかくあふひや神のしるしなるらん

とぞ聞えさせたまひける。

栄花物語
(25・みねの月)

【三条院皇后娍子の崩御・葬送】
 (雲林院の)西の院には、その日(娍子の葬送の日)になりぬれば、さるべき御有様、日一日(ひひとひ)いそがせたまふ。西の院の戌亥の方に築地つきこめて、檜皮葺の屋(や)いとをかしげに造らせたまひて、そこに納めたてまつらせたまふべきなりけり。院(小一条院)などの一夜(ひとよ)も今夜も歩ませたまふぞ、おろかならず見えさせたまふ。御念仏の僧など数知らず多かるなかにも、四の宮(師明親王)の御方より、奈良、仁和寺などより参りこむ。あはれなる御けはひも、(紫野から)遠からぬほどを、斎院(選子)に御耳とまりて、とみに御殿籠らず、よろづ思し知らせたまふ。

※皇后娍子(せいし/すけこ)の「せい(すけ)」の字は、女偏+成。こちらを参照(字源)。

栄花物語
(27・ころものたま)

【上東門院彰子出家、斎院選子内親王と道長の贈答】
 (上東門院彰子が出家して)日ごろ過ぐさせたまふままに、内(後一条天皇)にも、東宮(敦良親王=後朱雀天皇)にも、ゆかしき御有様を、いつしかと心もとなく聞えさせたまふ。斎院(選子)よりかく聞えさせたまへり。

(選子)
 君すらもまことに道に入りぬなり一人やながき闇にまどはん。

 この御返り、殿の御前(道長)聞えさせたまふ。

(道長)
 あとをたれ人みちびきにあらはれてこの宮仕惑ひしもせじ

と申させたまへり。

栄花物語
(31・殿上の花見)

【斎院選子内親王の退下】
 斎院(選子)は、村上の十の宮、ゐさせたまひて年久しくならせたまひぬるが、おりゐさせたまひぬれば、二の宮(馨子内親王)ゐさせたまふべし。(中略)

 斎院(選子)おりゐさせたまひて、御せうとの入道の兵部卿宮(致平親王)に対面(たいめ)せさせたまひて、聞えさせたまひける、

(選子)
 今日ぞ思ふ君にあはでややみなまし八十余りの年なかりせば

 いみじうこよなきほどの年月なりかし。いと若くて院にならせたまひ、兵部卿宮かたちことにならせたまひにしかば、いかでかは見たてまつらせたまはん。御はらからにぞおましましける。
 まことや、殿上の人々も花見、関白殿も御覧じけるに、斎院より、

(選子)
 残りなく尋ぬなれども注連(しめ)のうちの花は花にもあらぬなりけり

と聞えさせたまへりければ、東宮大夫(頼宗)の御返し、

(頼宗)
 風をいたみまづぞ山べを尋ねつる注連結ふ花は散らじと思ひて

 この歌の返しは、かくこそ集には、

(選子)
 残りなくなりぬる春に散りぬべき花ばかりをばねたまざらなん

と聞えさせたまへり。

大鏡(上)

村上御記曰、応和四年四月廿九日、辰刻使蔵人文利問中宮(安子)、兼令問止産養否之由、
還来申、伊尹朝臣申云、自今暁寅刻、気息雖▲通、不可敢存坐、更不可被行他事、
即令召惟賢、々々参来、令文利申云、中宮気已絶、但聞、御身頗暖、依有事疑、不能参上、
兼通朝臣有令申所、為之如何、令仰云、若未終給以前参来者、早可参上、
惟賢参上、申云、兼通朝臣令申、候宮諸司官人等、若可被忌御穢者、不可令通、随仰将進止、
令仰云、聞此由悲嘆不知所為、宮人暫不可令通内裏、又遣文利問、中宮巳刻崩、文利還来、申云、中宮已崩、加持僧等皆退下(後略)

※▲=糸扁に免二つ。こちらを参照(字源)。

 母后(安子)の、御年二十三四にて、うちつづき、この帝(円融天皇)・冷泉院とうみたてまつりたまへる、いとやむごとなき御宿世なり。御母かたの祖父(おほぢ)は出雲守従五位下[上?]藤原経邦と言ひし人なり。(中略)
 中后と申す、この(安子の)御ことなり。女十宮(選子)うみたてまつりたまふたび、かくれさせたまへりし御嘆きこそ、いとかなしくうけたまはりしか。村上御日記御覧したる人もおはしますらむ。ほのぼの伝へうけたまはるにも、およばぬ心にも、いとあはれにかたじけなくさぶらふな。そのとどまりおはします女宮(選子)こそは、大斎院よ。

 さて、この御腹(中宮安子)におはしましし、女宮一所(承子内親王)こそ、いとはかなく、うせたまひにしか。(中略)
うみおきたてまつらせたまひし度の宮こそは、今の斎院(選子内親王)におはしませ。いつきの宮、世に多くおはしませど、これはことに動きなく、世にひさしくたもちおはします。ただこの御一筋(師輔流)のかく栄えたまふべきとぞ見申す。
 昔の斎宮・斎院は、仏経などのことは忌ませたまひけれど、この宮(選子)には仏法をさへあがめたまひて、朝ごとの御念誦かかせたまはず。近くは、この御寺の今日の講には、さだまりて布施をこそは贈らせたまふめれ。いととうより神人(かみびと)にならせたまひて、いかでかかることを思し召しよりけむとおぼへさぶらふは、賀茂の祭の日、一条の大路に、そこら集まりたる人、さながらともに仏とならむと、誓はせたまひけむこそ、なほあさましくはべれ。さりとてまた、現世の御栄華をととのへさせたまはぬか。御禊よりはじめ、三箇日の作法、出車(いだしぐるま)などのめでたさ、おほかた、御さまの、いと優(いう)にらうらうじくおはしましたるぞ。

 今の関白殿(頼通)、兵衛佐にて、御禊に御前せさせたまへりしに、いと幼くおはしませば、例は本院に帰らせたまひて、人々に禄などたまはするを、これは(賀茂川の)河原より出でさせたまひしかば、思ひかけぬ御ことにて、さる御心まうけもなかりければ、御前に召しありて、御対面(おんたいめ)などせさせたまひて、奉りたまへりける小袿をぞ、かづけたてまつらせたまへりける。入道殿(道長)、聞かせたまひて、
「いとをかしくもしたまへるかな。禄なからむもたよりなく、取りにやりたまはむもほど経ぬべければ、とりわきたるさまを見せたまふなめり。えせ者は、え思ひよらじかし」
とぞ申させたまひける。
 この当代(後一条天皇)や東宮(敦良親王=後朱雀天皇)などの、まだ宮たちにておはしましし時、祭見せたてまつらせたまひし御桟敷の前過ぎさせたまふほど、殿(道長)の御膝に、二所ながら据ゑたてまつらせたまひて、
「この宮たち見たてまつらせたまへ」
と申させたまへば、御輿(みこし)の帷(かたびら)より赤色の御扇のつまをさし出でたまへりけり。殿(道長)をはじめたてまつりて、
「なほ心ばせめでたくおはする院なりや。かかるしるしを見せたまはずは、いかでか、見たてまつりたまふらむとも知らまし」
とこそは、感じたてまつらせたまひけれ。

 院より大宮(中宮彰子)に聞こえさせたまひける、

(選子)
 ひかりいづるあふひのかげを見てしより年積みけるもうれしかりけり

御返し、

(彰子)
 もろかづら二葉ながらも君にかくあふひや神のゆるしなるらむ

 げに賀茂明神などのうけたてまつりたまへればこそ、二代までうちつづき栄えさせたまふらめな。このこと、
「いとをかしうせさせたまへり」
と、世の人申ししに、前(さき)の帥(そち,藤原隆家)のみぞ、
「追従(ついそう)ぶかき老狐かな。あな、愛嬌(あいぎゃう)な」
と申したまひける。

無名草子

 また、
「昔のやうの宮ばらの御ありさま、あまたうけたまはる中に、大斎院(選子内親王)こそ、めでたくおはしましけむとおぼえさせたまへ。ただ今の時の后にておはしまさむ御方々は、華やかに今めかしくも、また、心にくくもおはしまさむ、ことはりなり。
 これ(選子)は、いつもめづらしからぬ常磐(ときは)の蔭にて、有栖川の音より外(ほか)は人目稀なる御住まひにて、いつもたゆみなくおはしましけむほどこそ、限りなくめでたくおぼえさせたまへ。
 さりながら、御年なども若くおはしまさむほどは、ことわりなりや。むげに老い衰へ、御世も末になりて、そのかみ参り慣れてはべりけむ人もをさをさなく、今の世の人もはかばかしく参ることもなき末の世になりてしも、九月十日余日(よひ)の月明(あ)かかりけるに、雲林院の不断の念仏の果てに参りたりける殿上人、四五人ばかり、帰さに、本院の御門(みかど)の細めに開きたるより、やをら入りて、昔より心にくく言はれさせたまふ院のうち、忍びて見むと思ひけるに、人の音もせず、しめじめとありけるに、御前の前栽心にまかせて高く生ひ茂るを、露は月の光に照らされてきらめきわたり、虫の声々かしがましきまで聞こえ、遣水の音のどやかにて、船岡の颪(おろし)、風冷ややかに吹きわたりけるに、御前の簾(す)少しはたらきて、薫物の香(か)、いとかうばしく匂ひ出でたりけるだに、今まで御格子(みこうし)も参らで月など御覧じけるにやと、あさましくめでたくおぼえけるに、奥深く、筝の琴を平調に調べられたる声、ほのかに聞こえたりける、さは、かかることこそと、めづらかにおぼえける、ことわりなり。
 さて、かかる御ありさまを、見けると、知らせたてまつらざらむ口惜しさとて、人などの参る方へ立ち回りたまへりける、そこにも女房二三人ばかり、物語してもとよりはべりけるに、いとをかしくて、琴など弾き遊びて、明け方になりてこそ、内裏(うち)に帰り参りて、めでたかりつることどもなど語りたまひけれ。

今鏡
(1・子の日)

 三年の正月十九日太皇太后宮(彰子)御さまかへさせ給ひき。后の御名もとどめさせ給ひて、上東門院と申しき。四十だにまだ満たせ給はぬに、いと心かしこく世をのがれさせ給ふ。めでたくもあはれにも聞えさせ給ひき。
 大斎院と申ししは、選子内親王と聞えさせ給ひし、この御事を聞かせ給ひて、詠みたてまつらせ給へる御歌、

(選子)
 君はしも真の道に入りぬなりひとりや長き闇にまどはむ

 この斎院は村上の皇后宮(安子)の生みおきたてまつらせ給へりしぞかし。東三条殿(兼家)の御妹なれば、この入道殿(道長)には御伯母にあたらせ給ふぞかし。



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