2代斎院 時子女王(内親王)
名前の読み(訓) | 品位 | |||||||||||||||||||
ときこ | 無品 | |||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | ||||||||||||||||||
父:仁明天皇(810-850)
母:女御滋野縄子<従四位上> |
未詳(824~830頃?) | 承和14年(847)2月12日 | ||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | ||||||||||||||||||
淳和(823~833,大叔父) | 卜定:天長8年(831)12月8日
退下:天長10年(833)2~3月? |
天皇譲位? | ||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | ||||||||||||||||||
宣子女王(いとこおば) 父:仲野親王 母:菅野氏 |
卜定:天長5年(828)2月12日 野宮:不明 群行:天長7年(830)9月6日 退下:天長10年(833)2月28日 |
天皇譲位 | ||||||||||||||||||
同母兄弟:本康親王(901没,一品式部卿) 柔子内親王(869没,斎宮) 仁明天皇第一皇女。 外祖父滋野貞主が延暦4年(785)生まれであり、このことから長女である母縄子は少なくとも800年以降の生まれと考えられる。また父仁明天皇の元服(823/8/1)からも鑑みて、時子内親王自身はおよそ824~830年頃の生まれと見ていいだろう。(※生年の判明している歴代の斎宮・斎院で、数え1歳で卜定された皇女は存在しない) 藤原乙牟漏=======桓武天皇 | | ┌────┤ ├────┐ | | | | 平城天皇 嵯峨天皇 淳和天皇 仲野親王 | | | | 仁明天皇 宣子女王 | (斎宮) | ◆時子 『河海抄』によれば、『源氏物語』以前に女王で斎院となったのは9代直子女王のみとする。しかし時子内親王の斎院在任は実際には父仁明天皇即位前であったので、2代「時子女王」が斎院初の女王である。(※8代穆子内親王も、父光孝天皇の親王時代に女王として卜定、その後在任中に父帝の即位で内親王宣下を受けている) ただし当時の淳和天皇には少なくとも有子内親王(862没)・貞子内親王(834没)の二人の娘があった。彼女たちの年齢は不明だが、母高志内親王(789-809)の没年や同母兄弟の恒世親王(805-826、高志17歳の子。恐らく長子か)の生年から見て、831年当時は22~25歳程度であり充分候補に該当したと考えられる。(なお有子・貞子の同母姉氏子内親王(885没)は823年、恐らく17~18歳で斎宮に卜定されている) またこの頃は斎宮でも女王になった例はそれほど多くなく、何故敢えて当時まだ皇太子だった正良親王(仁明天皇)の娘時子女王が選ばれたかは不明である。(斎院制度が始まって間もない頃でもあり、はっきりとした基準が定まっていなかったものか?) なお「皇太子の娘」の斎王卜定は、斎宮では井上女王(聖武天皇皇女)、斎院では時子が史上唯一の例であった。 |
淳和天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
類聚国史 (『日本後紀』 巻卅九逸文) |
天長8年12月8日 | 【時子女王、賀茂斎院に卜定】 賀茂齋内親王齢老身安依令退出<留>代<尓>。 時子女王卜定之由。 |
仁明天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
続日本後紀 | 承和2年7月12日 | 【時子内親王、讃岐国の空閑地を賜る】 賜讃岐國三野郡空閑地百餘町時子内親王。 |
続日本後紀 | 承和2年10月30日 | 【時子内親王、河内国の荒田を賜る】 河内國荒廢田八十五町賜時子内親王。 |
続日本後紀 | 承和3年11月2日 | 【時子内親王、河内国の荒田を賜る】 河内國荒廢田三十三町賜時子内親王。 |
続日本後紀 | 承和10年11月15日 | 【時子内親王、摂津国の荒田を賜る】 摂津國上郡古荒田十八町八段賜時子内親王。 |
続日本後紀 | 承和14年2月12日 | 【時子内親王薨去】 无品時子内親王薨。 遺兵部大輔従四位下豊江王。弾正大弼従四位上橘朝臣永名。 兵部少輔従五位下大和眞人吉直。左京亮従五位下飯高朝臣永雄等。 監護喪事親王者。天皇之皇女也<云々>。 |
史料 | 記述 |
一代要記 |
淳和天皇 斎院 時子内親王 仁明第一女、母従四位上滋野綱守[子]、貞主之女也、 承和十四年四月薨 仁明天皇 皇女 時子内親王 母同本康、承和十四年二月薨 |
賀茂斎院記 |
時子内親王 仁明天皇第九皇女也。 母曰滋野縄子。貞主之女也。 天長八年十二月卜定。 遣参議正四位下藤原愛発于賀茂神社告事由。 |