聖徳太子は、子供のころの私のヒーローだった
十人の言葉を一度に聞き分けるほど聡明で、皇太子になると、摂政として叔母の推古天皇を助け、天皇への忠誠と人々の「和」を説いて国内をまとめ、隋という巨大帝国との対等外交を成功させた。
こんなスゴい人がいたことを知って、子供ながらに感激した。
だから高校の教師になったとき、授業では聖徳太子の活躍は熱を入れて語ったものだ。
ところが二〇〇二年、改訂された教科書を読んで愕然とした。
聖徳太子がまったく別人のように変化していたからだ。
それ以前(一九九九年)の教科書では、
「推古天皇は、翌年、甥の聖徳太子(厩戸皇子)を摂政とし、国政を担当させた」
「六〇四年に聖徳太子は憲法十七条を制定し、豪族たちに、国家の役人として政務にあたるうえでの心がまえを説くとともに、仏教をうやまうこと、国家の中心としての天皇に服従することを強調した」(『詳説日本史』山川出版社)と、太子が推古朝の政治の中心だったと書かれていた。
ところが、である。
二〇〇二年の教科書は、次のように変わってしまった。
「推古天皇が新たに即位し、国際的緊張のもとで蘇我馬子や推古天皇の甥の厩戸王(聖徳 太子)らが協力して国際組織の形成を進めた。六〇三年には冠位十二階、翌六〇四年には 憲法十七条が定められた」(『詳説日本史』山川出版社)
主語が推古天皇に取って代わり、太子は単なる政治の協力者に成り下がってしまったの である。
驚くべき変化だといえよう。
いったい何が原因なのか? じつは、太子に関する新たな学説の登場により、歴史学界で激震が起こっていたのだ。
一九九九年、中部大学名誉教授の大山誠一氏が『〈聖徳太子〉の誕生』(吉川弘文館)を刊行したのがきっかけだった。大山氏は同書のなかで、聖徳太子の実在を明確に否定したのである。
推古朝に厩戸という名の皇子はいたが、彼は政治の中心になるような人ではなかった。
聖徳太子は、権力者である藤原不比等や長屋王などによって『日本書紀』で創作された聖人であると明快に断じたのだ。
聖徳太子がフィクションだなんて信じがたい。
そう思う読者も多いはず。
が、じつは戦前から言われてきたことなのだ。
歴史家の久米邦武氏や津田左右吉氏、福山敏男氏などは、太子に関する史料は信憑性に乏しいとして、史実としての太子の業績に疑問を投げかけていた。
けれど、瀧川政次郎氏や坂本太郎氏といった歴史の大家が強く実在説をとなえ、とくに坂本氏が歴史教科書に深く関わったため、聖徳太子の実在説は定着したとされる。
いずれにせよ、大山氏の説が出ると、これに反発する学者たちも続々と登場、太子の存在をめぐって大論争が勃発した。
ただ、教科書の記述を見ればわかるとおり、大山氏ほど「太子不在説」を強く打ち出していないものの、有力な皇族だが太子が政治の主導者ではないことをはっきり理解できる文章になっている。
つまり、学界の主流は大山説に傾いたことがわかる。
小学校ではヒーローと習い、高校では脇役として出会う
しかしながら、摩訶不思議なことがある。
現在の小学校社会科の教科書だ。
「天皇の子として生まれた聖徳太子は、20才のときに天皇の政治を助ける役職である摂政になりました。そして、当時大きな力を持っていた蘇我氏とともに天皇中心の新しい国づくりに取りかかりました。聖徳太子は、冠位十二階を定め、家柄や出身地に関係なく能力や功績で役人を取り立てました。政治を行う役人の心構えを示すために、十七条の憲法も定めました。また、仏教をあつく信仰していた聖徳太子は、法隆寺などを建てて、仏教の教えを人々の間に広めようとしました」(『新編新しい社会 6年上』東京書籍 二〇一五年)
このように、いまも小学校では聖徳太子を英雄として扱っているのだ。
それには理由がある。
文科省の学習指導要領に、「次に掲げる人物を取り上げ、人物の働きを通して学習できるよう指導すること」とあり、取り上げるべき四十二名の歴史上の人物の中に聖徳太子が含まれているのである。
これは、二〇一七年三月に公示され、二〇二〇年から完全実施される新学習指導要領でも変わらない。しかも新学習指導要領解説(文科省が発行する指導要領を詳しく解説した書)では、飛鳥時代の大陸文化の摂取に関して「聖徳太子が法隆寺を建立し、小野妹子らを遣隋使として隋(中国)に派遣することにより、政治の仕組みなど大陸文化を積極的に摂取しようとしたことなどが分かる」よう指導せよと述べているのだ。
このため聖徳太子は、小学校では現在も、そしてこれからもヒーローなのである。
ということは、聖徳太子はスゴい偉人だと習った小学生が、高校生になると、推古天皇の単なる脇役としての聖徳太子と出会うことになるわけだ。
この矛盾を防ぐためには、小学校学習指導要領の学習するべき偉人の項目から聖徳太子を除いてしまえばいいのだが、そうは簡単にできないから面倒くさいのだ。
もちろん文科省でも、こうした矛盾を少しでも解決しようと考えたようで、新しい小・中学校の学習指導要領では「聖徳太子」は死後の呼称なので、存命中の名・厩戸王を登場させ、中学校では「厩戸王(聖徳太子)」、小学校では「聖徳太子(厩戸王)」と表記すると発表した。
二〇一七年二月のことだ。
ところが翌月、文科省はこれを撤回する。
これについて国民からパブリック・コメントを求めたところ、批判が殺到したからだ。
一説によれば、変更に難色を示す人々が「聖徳太子抹殺計画」だとして組織的に反対意見を寄せた結果だともいわれている。
個人的には、呼び名は聖徳太子でも厩戸王でもかまわないが、教科書には学界における有力な説をきちんと載せるべきだと考えている。