死者といえども情けは無用 桂歌丸篇

2018-07-04 | 記事

落語家の桂歌丸が先日死んだのはすでに既報の通り。落語界の長老で長年「笑点」の出演者並びに司会を務めた事は誰もが知っているはずだ。同時に歌丸に関して必ずと言って良いほどつきまとうもう一つの特徴として「反戦主義者」だったというのがある。今回の訃報でもこの部分をクローズアップした記事が多く見かけられた。例えば以下のように。

https://www.huffingtonpost.jp/2018/07/02/utamaru-legend_a_23472620/
 2018年07月02日 19時14分 JST | 更新 17時間前
桂歌丸さんは訴えていた、戦争の愚かさを。「あんなものは愚の骨頂です」


また、3年前の記事だが、旧「噂の真相」の流れを汲む(割には酷い論調だが)リテラにもこんな記事があった。

http://lite-ra.com/2015/11/post-1639.html
リテラ > 芸能・エンタメ > お笑い > 歌丸が戦争批判!戦時中の落語界は…
桂歌丸が戦争の空気に危機感! 戦争がもたらした落語界の暗い過去…子供を産まない女性を糾弾する国策落語まで
2015.11.01


こうした記事だけ追っていると「歌丸師匠はさすが戦争を知っている最後の世代だ」と感心してしまうかもしれない。が、しかし…。
桂歌丸はこのような「反戦派」の顔を持つ一方で、かつて靖国神社の「みたままつり」に毎年のように自作の絵を奉納していたという事実があった事を忘れてはならない。

http://jinja-kikou.net/yasukuni-mitama23.html
「靖国神社~第65回みたままつり」
<平成23年8月記載>

上記リンク先は2011年のものだが、これ以外にも2013年まで歌丸はほぼ毎年のようにみたままつりへ東海道五十三次の絵を描いて奉納していた。ネット上で調べた範囲ではこの翌年から奉納した形跡が見当たらないが、歌丸の死因となった慢性閉塞性肺疾患が極度に悪化したのがこの2014年にあたるので、体調悪化で奉納する絵を描けなくなっただけと考えるのが自然であろう。靖国神社やみたままつりそのものに対する考えが変わって奉納をやめたとは考え難い。
言うまでもない事だが靖国のみたままつりというのは一言で言って「狂信右翼の全国大会」そのものであり、そんな所へ毎年のように絵を奉納しておいて反戦平和もへったくれもないであろう。「英霊が静まる空間に、みたま包む光の祭典。「英霊ありがとう」の想いを胸に抱き、みたまとともに楽しみ賑わう空間」に毎年のように絵を奉納しておきながら「戦争は愚の骨頂」というのは酷すぎるのではないか。

桂歌丸に限らず、普段は平和主義者やリベラルや「反安倍」のごときツラをしていながら、裏では靖国神社大好きという著名人は非常に多い。冒頭のリンク先記事を見れば分かるように、これらの奉納者の中には漫画家のちばてつやや俳優の故・愛川欽也らの名もある。また、みたままつりではないが、ジャーナリストの上杉隆も記者クラブ制度を批判するなどいかにも欧米的合理主義者のようなツラをしながら、その実態は毎年8月15日になると靖国神社へ参拝に行くという救いようのねえアナクロ右翼だ。

・狂気の靖国フェチ上杉隆のありがたい語録
「わしはのぉ、こないだの8月15日にママと一緒に靖国神社へ参拝してきたんやでえええええッ!」
「一刻も早くテンノーヘーカが靖国神社を参拝出来る環境を作らなあかんのやあああああッ!」

…桂歌丸、ちばてつや、愛川欽也、上杉隆。この4者に共通しているのは偽善者そのものという事と、戦争に対するあまりに薄っぺらな想像力であろう。
「自分は子供の頃に戦争で疎開したり中国から引き上げて苦労したんだ。だから戦争は嫌だ」
これはまあ分からんでもない。けどそれがどうして靖国大好きになるのか? 反戦平和を語りながら靖国神社に奉納したり参拝するなどジキルとハイドもびっくりな二重人格の偽善そのものだ。それにこの連中の語る「戦争」はどこまで行っても「日本が被害者としての戦争」であり、「日本が加害者としての戦争」を語って反省する姿をほとんど見た事がない。アジア侵略についてはほぼアウトオブ眼中であり、だから平気で靖国に参拝・奉納出来るのだ。この者達の言う「平和」とやらは「英霊達の尊い犠牲によって築かれたもの」であり、まさに「大東亜戦争聖戦論」「戦後70年間日本は平和国家だった教」そのものでしかない。こんなの安倍と何が違うんだ? 安倍だって「戦後70年間日本は平和国家だった」と主張していたし、2013年までは靖国神社に総理として参拝していたではないか(その後は真榊奉納だけになったが)。それは奇しくも歌丸が最後(筆者が確認した限り)にみたままつりへ絵を奉納した年と同じである。

桂歌丸の言う「平和・反戦」とは結局の所、「日本人の日本人による日本人の為だけの平和」という極めて身勝手なものでしかなかった。こんなのでもパッと見は安倍晋三よりまともに見えてしまうのであろうが、歌丸と安倍がいずれも「穴兄弟」ならぬ「靖国兄弟」であった事を考えれば、そのようなのを過大評価する事は許されない。
靖国大好きなくせに反戦平和を語るという矛盾は、韓国大統領・文在寅の偽善ぶりとも通底するものがある。「戦争はやだ。でも北の体制を東ドイツみたいに転覆して吸収統一だけはしたい」という身勝手さと何てそっくりなのかと思う。
桂歌丸の落語家としての業績だけを評価するならまだしも、その「反戦平和主義」とやらを誇張して好意的解釈する必要は全くない。むしろ有害ではないかとすら思える。元気だった頃は靖国みたままつりへ毎年のように絵を奉納していた事実にこそ注目すべきであるし、それを踏まえた上で歌丸の言う「戦争は愚の骨頂」という言葉の矛盾と偽善を突く事が重要だ。歌丸の事例を以って安倍に抵抗する事など元より出来はしないのだから。

例え故人と言えども情けをかける必要はない。水に落ちた犬は打ち(打落水狗 타락수구)、生前に罪を犯した死者は剖棺斬屍(ぼうかんざんし 부관참시 死者に対する斬刑)すべし。打落水狗・剖棺斬屍の一体何が悪いというのか? それこそが今の日本のような危世・乱世で真に反戦平和を追求して生きる者の作法たるべし。

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