なんでもは知らないわよ、知ってることだけ 『知の果てへの旅』
「なんでもは知らないわよ、知ってることだけ」……とある美少女のセリフだが、これ、科学の本質を言い当てている。だからこそ、「森羅万象は物理学で説明できる」「神は数学者である」という話を聞くと、「知るとは何か?」についてモヤモヤする。
宇宙に果てはあるのか? 時間とは何か? 意識とは何か? 科学はすべてを知りうるのか……「人の知」の果てへ挑戦した本書のおかげで、このモヤモヤが晴れてくる。「科学では分からないことがある」という(これまた使い古された)セリフは、「まだ分かってないだけ」なのか、「完全に不可知」なのか見えてくる。同時に、本書のアプローチでは足りないところも見えてきて、大変たのしい読書となった。
本書の紹介の前に、「知っている」について話したい。「知っている」とは何か、知っているだろうか? それは、名前を言えることだろうか。他と区別して認知・定義できることだろうか。メカニズムを理解して計算できることだろうか。予測したり再現できることだろうか。メタ的なら、「それがあることを信じている」状態だろうか。
どれも「知っている」に相当するが、わたしはそこに主語「人が」を加えたい。知の限界を考える際に重要なポイントである。人が(それを)知っている、人が(それを)知らないという観点から検証するのだ。科学の客観性や普遍性が「人」という枠内で考えるなら、限界は「人」になる。「なんでもは知らないわよ、(わたし=羽川翼が)知っていることだけ」なのだ。ここを明確にしないと迷走するし、まさに著者は迷走している(ここが面白い)。
『知の果てへの旅』はどんな本か
著者はマーカス・デュ・ソートイ、数学者だ。『素数の音楽』などが有名だが、数学という入口から知性の偉大さを知らしめる興味深いドラマを分かりやすく紹介してくれる。
『知の果てへの旅』では、著者の身の回りのモノ―――サイコロや腕時計、チェロやチャットアプリ、クリスマス・クラッカー―――を題材に、ニュートン力学、相対性理論、カオス理論、量子力学という物理学の世界を一望し、ケプラーの法則やビックバン理論、多元宇宙論といった天文学の世界を見せてくれる。さらにニューラルネットワークから意識について斬り込み、非ユークリッド幾何学やゲーデルの不完全性定理から数学の「限界」に触る。知の世界への導き方が巧みで、あっという間に連れて行かれるだろう。
その一方で、著者とともに「知の果て」で戸惑うことも請合う。おそらく、著者の頭には世界がこう見えているのだろう。「知らない」とは、自然や宇宙、意識や現象であり、「知っている」は知性となる。要するに、知性が自然を説明するという構造である。
「知っている」から出発した科学の発展に従い、「知らない」世界が「知っている」世界になってゆく。それは、「『知らない』ことを知っている」が増えることと同義である。ちょうど、未知の大海に浮かぶ既知の「島」が成長するにつれ、島の海岸線(=未知と既知の境目)が伸び・複雑になるのと同じだ。
この「知っている」もののうち、コアにある抽象的なものとして、数学や論理学がある。そこから派生して自然を説明する際の体系ができあがっている。コアから遠ざかれば遠ざかるほど具体性を増す一方で、観察結果による変更を余儀なくされる。
「知っている」「知らない」の境界線が微妙に変わるくらいならビクともしないが、説明体系を揺るがすような事象が生じた場合どうするか? 系の変更を最小にする方向で改訂するか、あたらしい学(たとえば量子力学)を導入するか、あらたな例外的な係数や概念(たとえばダークマター)を作り出す。数学や物理学が見せる、一種の必然性は、この「知っている」を護るかのように成り立つ系のおかげである。
「知の果て」にあるもの
物理学や数学で全てを説明できると言い切る人は、系が護られているだけでなく、「そうなるように系ができている」ことに気づかない。そして、この系の中にいる限り、矛盾を孕んでいるかどうかすら分からない。著者は、ゲーデルの不完全性定理を援用しながら、今の科学の枠組みでは、宇宙の外側や意識の内側がどうなっているか分からないという。
すなわち、ある閉じた系にいる限り、その外側の系を説明できない(たとえできたとしても、絶対的な"正しさ"に至ることはない)というのである。P.497から引用する以下の文が、「知の果て」の行き着く先になる。
おそらく、自分たちがその系の一部であるこの宇宙を、内側から理解することは不可能なのだろう。宇宙がある量子波動関数で記述されているとして、その関数を観察するには系の外の何かが必要なのではないのか。カオス理論を踏まえると、系の一部を孤立した問題として理解することは不可能である。なぜなら宇宙の反対側にある電子の影響で、カオス的な系がまったく異なる方向に進展する可能性があるからで、系全体を理解しようとすると、系の外に立たねばならない。これを理解することは、意識を理解するという問題についてもいえて、人は自分の頭、つまり自分自身の系に閉じ込められていて、ほかの人の意識にアクセスできない。
著者はウィトゲンシュタインを引きながら、「語り得ぬものについては、沈黙せねばならぬ」を改変し、「知りえぬものについて、想像力を働かすことができる」ほうが望ましいという。この「知りえぬもの」が原書のタイトル(What We Cannot Know)につながる。
旅をやりなおす
人類の叡智の歴史を振り返り、クオークの世界から宇宙の果てまで旅をし、知の果てにたたずむ著者の戸惑いは、読み手に伝染するかもしれない。だが、安心するといい。わたしたちには羽川翼がいる。「なんでもは知らないわよ、知ってることだけ」なのは、羽川の範囲なのだ。科学は、あくまでも「人の範囲」に限定された知なのである。すると、世界はこう書ける。
まず、「人が知っている」「人が知らない」という、『知の果てへの旅』が扱っている世界がある。そして、その外側に、知るとか、知らないとかと無関係の世界がある。
それは、「知らないことを知らない」ではないし、「知っているのか、知らないのか、分からない」でもない。また、今は知らないけれど将来的に発見・創造する概念や事象でもない。便宜上、「知っている、知らないの外」と書いたが、本当なら指差すこともできない。「人が(それを)知っている/知らない」の「それ」で指定できないからね。ウィトゲンシュタインが、「語りえぬもの」と語ったものがこれ。そして、ソートイが ”What We Cannot Know” として指したかった(しかし思い至らなかった)概念がまさにこれなのである。
そして、この「知っている、知らないの外」から考えることができるなら、言葉や数式、さらにそれらを支える文化に拠らない知性という斬り口ができる。この観点から、「知の果てへの旅」をふたたびやりなおすことが。できる。いくつかアプローチを示しておこう。
たとえば、環境とともに身体化された知性を研究したバレット『野性の知能』[書評]を読むと、知性といえばヒトの専売特許みたいに思っていることが誤りだということに気づく。動物や昆虫、あるいは単純なプログラムで動作するロボットが、あたかも「知性がある」ように振舞うのは、実際にヒトのような知性があるからではない。実際は、生物が適応的に振舞う際、あたかも原因となっているかのような情報に反応しているに過ぎない。
この考えに基づいて、ヒトの認知を代行させた上で、集積し、一定のプロセスでヒトに分かる判断結果を出すという仕組みが考えられる。ベタならAIの深層学習だが、SFからだと昆虫や微生物を用いたセンシングシステムが浮かぶ。ヒトの”知性”の外部化である。身体化された認知から「知っている」ことの再定義ないしアップデートするアプローチである。
あるいは、ユクスキュルの環世界から数学を見ると、ヒトが知っている「数学」という世界そのものが、離散的な構造から出発していることに気づく。2つの目、10本の指を持ち、「私」という一つの認識主体がある。仮に知能を持つ存在が手や指を持たなかったら? 深海に棲むクラゲのような種族だったとしたら? 周囲にあるのは水で、基本的な知覚データは運動、温度、圧力だけになる。このような中では、不連続な量は発生しないので、数えるものは何もない。
不連続な量が発生する世界に身体を持つ存在にとって、「数を数える」という行為は自然なものである。そして、「自然」数を始めとし、分数、整数、有理数、無理数、実数、複素数と数を拡張していった。同様に図形や構造、空間といった数学的なテーマも、人の身体や知覚を基盤とし、そこからの組み合わせ・対応付けを繰り返すことによって拡張していったといえる。この歴史をいったん外して、仮に、不連続な世界で「数学」をやり直すとしたら、どのような数学になるだろうか? その数学はおそらく、「(人が)知っている、知らない」の外側に至るアプローチとなるだろう。
まだある。「(人が)知っている」その「知」は、本当の意味で普遍的か? 歴史や文化を超えているか? 著者は、この旅を始めるにあたって、神の存在の吟味から始めている。神が存在すると主張することは、宇宙に関して答えられない問い(=不可知)があると主張することと等価であるという。全知の神を持ってきたがために、「知っていること」の基盤である科学の前が、キリスト教であるバイアスに気づいていない。
たとえばビックバン理論が現在一般的とされている理由が、まさに「光あれ!」に支えられていることに気づいていない。聖書が正しいと言いたいわけではない。ビックバン理論を「知っている=信じる」理由として、聖書の影響があると言いたいのである。
現在の宇宙を(物理学から)説明する際、ビックバン理論以外に他の仮説が多々あったはずだ。そして、他の仮説は、ビックバン理論と同じくらい確からしく説明できているはずである。なぜなら、誰もそんなものを”見た”わけでもないし、残された証跡を物語づけられるなら、その物語の数だけ仮説が成り立つ(要するに、観測結果と現在の物理学と一貫性を保てる仮説であれば、”なんでもあり”なのだ)。
そして、なぜビックバン理論が採用されたかを考えるなら、キリスト教を信仰する/しないにもかかわらず、その文化で育った人々が多数を占める集団だからと言う他はない。聖書を信じているからではなく、キリスト教文化により受け入れやすさの下地ができているからになる。
これは、多宇宙論に対する「居心地の悪さ」についても同様のことがいえる。ソートイ自身、本書で「居心地の悪さ」に言及しておきながら、その理由として「検証不可能だから」で片付けている。これは理由として不十分だ。本当は、唯一神と多宇宙の相容れなさが、彼を居心地悪くしている。ソートイは無神論者であるが、キリスト教文化に影響されたパラダイムを自覚できていない。
問題は宗教ではない。歴史を振り返ると、宗教に取って代わる形で科学が進展してきたことはすぐわかる。最初の「知っている」の定義を思い出してほしい。「それがあることを信じる」ためには、多かれ少なかれ文化や社会の影響を受ける。完全に独立した「知」など存在しえない。重要なのは、その影響に自覚的であるかどうか、という点にある。
そうすることで、「知っている、知らない の外」があることに気づける。異なる文化や歴史を持つ者であれば、「知っている、知らない の外」から逆方向に「知っている」に至る航路を見いだせるかもしれない。
どんなに科学が発展しようとも、「ほんとうに知る」に至ることはない。科学はただ観測可能な現象を正確に予測・再現する理論構築の営みにすぎない。そして、科学の歴史とは廃棄された理論の墓場になる(エーテル、フロギストン等)。いま成功しているからといって、その理論が真である理由にはならない。なぜなら、正しかろうと誤っていようと、経験的に正確な予測を行うことができるからね。
だから、この知の果てへの旅をやりなおすには、羽川さんのこの言葉がふさわしい……「なんでもは知らないわよ、知ってることだけ」。
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