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神保町系オタオタ日記

2006-03-04

[] 大川周明トンデモ本の世界(その4) Add Star


2 大川周明と藤澤親雄


 大川周明の自伝『安楽の門』には、「大学を出てからも別に職を求めることもせず、多くも要らぬ衣食の資を参謀本部の独逸語翻訳でかせぎながら、毎日大学図書館に通って居た」とある。また、大塚健洋『大川周明』(中公新書)の略年譜によれば、


  明治44年 7月 東京帝国大学文科大学卒業(宗教学専攻) 

  大正 7年 5月 満鉄東亜経済調査局に嘱託として採用

       10月 老壮会結成

     8年 8月 猶存社結成

        9月 満鉄職員となり、11月、東亜経済調査局編輯課長となる。



 ところで、2月3日にとりあげた偽史論争での藤澤の発言によると、「大川周明氏と一緒に官吏を辞めた。官吏は向かないから、満鉄経済調査局に入つた。大川周明、佐野学が一緒だつた。」とある。藤澤の記憶を信用すれば、大川は満鉄入社前に、官僚だったことになるが、本当だろうか。本当だとすれば、大川と藤澤はどのようにして知り合ったのか、色々疑問がわいてくる。そこで、さっそく調べてみよう。

 

 まず、藤澤親雄の経歴を『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』(戦前期官僚制研究会編/秦郁彦著)で見てみよう。


 明治26年9月生まれ、昭和37年7月死去

 帝国大学教授藤澤利喜太郎の長男

 大正6年 7月 東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)卒

   7年 2月 農商務省工場監督官補

   8年 9月 特許局審理官

   8年 9月 辞職 

   9年 1月 協調会副参事

   9年 4月 辞職

   9年10月 国際連盟事務局員

  10年 1月 外務事務官

  12年 4月 辞職

  13年 2月 帰朝 

  14年 1月 九州帝国大学文学部教授

 昭和5年 8月 辞職

   

 これと、大川の経歴を合わせると、大正8年9月に官僚を辞して、二人とも満鉄へ入社したと推測することができる(ただし、大川はその前から嘱託満鉄にいたようではあるが)。


 ここで、大川とは五高時代からの親友で大川を満鉄に推薦した永尾策郎に登場してもらおう。『永尾策郎』(拓殖大学創立百年史編纂室。平成16年3月発行)所収の「日本改造法案大綱大川周明博士」によると、


 そのうち大正2年秋ころ私は、高野岩三郎先生から松岡均平先生に紹介せられて、松岡先生が主宰して居られた満鉄東亜経済調査局員として採用せられた。(中略)日本人の新進の局員は、後の山口高商教授日柳某君といふ人が居たが、この人は間もなく去り、私よりも数個月以前に局員となつた後の上海市顧問石井成一君だけであつた。そこへ私が採用せられた。それで私は大川周明君を松岡均平先生に推薦して、採用していただいた。(中略)

 その頃政変があつて、仲小路廉氏が農商務大臣に任命せられた。仲小路氏は後藤新平氏の共鳴者で、新たに省内に臨時産業調査局を設定した。それで私と大川君が、満鉄から調査の経験者として貸されて行き、両人は大正8年末まで、農商務省の嘱託であった。大正8年に内閣が更迭されると、野村竜太郎総裁、中西清一副総裁満鉄に臨むことになり、私は大川君と共にその年末に東亜経済調査局に復帰した。(中略)

 ちなみに、仲小路の大臣就任は大正5年10月、臨時産業調査局設置は大正6年2月、寺内内閣から原内閣への交替は大正7年9月、野村竜太郎の総裁(正しくは社長)就任は、大正8年4月。


 以上のことから、推測すると、大川と藤澤は、大正7年5月以降、農商務省で知り合い、大正8年9月、藤澤は辞職、大川も辞職(満鉄への復職を前提とした形式的辞職)して、満鉄の社員となった。調べている過程で、大塚氏の『大川周明と近代日本』(平成2年発行)に、「日本改造法案大綱大川周明博士」(初出『日本人の肉眼』(昭和36年))に基づき、「翌年[大正8年]末頃までは農商務省臨時産業調査局の嘱託も兼任していた」と記していたのに気づいた。僕としては、永尾の記憶による大正8年末までというよりは、藤澤の「大川周明氏と一緒に官吏を辞めた」という発言を採用し、大正8年9月までと解すべきかと思う。

 

 この項を終わるに当たって、今やおなじみの人物となった平凡社創設者下中彌三郎に登場してもらおう。『下中彌三郎事典』中「大川周明」の項目によると、



大正7年(1918年)10月、老壮会が結成された。この会は左右両翼の思想家・実業家・軍人等各種各様の人々から成り、堺利彦・吉野作造・高畠素之・下中弥三郎・北原竜雄(中略)大川周明北一輝満川亀太郎・権藤成卿(中略)鹿子木員信・笠木良明(中略)中野正剛(中略)等が名をつらねている。満川亀太郎が世話人であったが、下中と大川が親しくなったのは、この会の前後からだ。


 大塚氏の『大川周明と近代日本』によると、大正8年10月16日の老壮会例会で藤澤がエスペラントの由来、組織、使命について講演している。藤澤も同会の会員であったと解されるから、下中は、竹内文献の信奉者である藤澤とも交流があったと思われる。