源氏同世代が3国の王となる

  • モンゴル語の「ジョロー(側対歩)」は日本語の「上臈」が語源
  • モンゴル軍の兜のひさし部分のデザインは笹竜胆
  • 義経伝説は長州閥の最大の不都合
  • 為朝伝説の信憑性
  • 源為朝の子は琉球国王舜天
  • 源氏同世代が3国の王となる
  • 河内源氏の遺伝子

モンゴル語の「ジョロー(側対歩)」は日本語の「上臈」が語源

私は昔から、源義経が成吉思汗(チンギス・ハーン)であったと確信を抱いていた。その決定的な根拠の一つが、義経とモンゴル軍に共通する、弓と騎乗についての指摘である。4年ほど前に読んだ高橋五郎著「天皇奇譚」にも、「源義経がモンゴル軍に側対歩と大型の弓を導入した。」と同様のことが書かれていた。例えば、福岡県博多区、元寇資料館所蔵の弓は従来型の短弓(全高64㎝)であるが、宮内庁所蔵の蒙古襲来絵詞では、腕の長さの2倍は優にある、全高がおよそ1.5mの大型の弓が緻密に描写されている。また、清朝時代には満州弓という満州族の大型の弓(最大1.8m)が導入されており、成吉思汗がモンゴル軍に大型の弓を装備したことは間違いないと思われる。

さらに、上下に揺れる馬上においては、大型の弓は重く扱いにくいが、この欠点を補ったのが、馬の歩調の一つ、「側対歩」である。これも成吉思汗によるものであるが、当時、長弓と側対歩を用いた戦法を駆使していた八幡太郎義家の直系である源義経が、モンゴル軍に新技術を導入したとすれば、その導入時に義経主従が交わす日本語が軍隊用語になったのではないかと思いついた。そこで「側対歩」と言う単語をモンゴル語で何と発音するのか調べてみると、現在は「ジョロー」と呼ばれていることが判明した。「ジョロー」、すなわち、同じ側の前後の足を揃えて走ることによって、馬上が揺れず、乗り心地が好く、数段の威力を発揮する大型の弓を引くのに的が定まりやすくなる。また、騎手も上下動が少ないため疲労しにくく長距離の移動が可能となり、戦術的に広がりが期待できるようになる。この「ジョロー」というモンゴル語に近い音である日本の言葉は、鎌倉時代においては「宇治拾遺物語」にも出てくる「上臈(じょうろう)」があり、意味は“地位・身分の高い人、貴婦人”である。平安時代の八幡太郎義家が「側対歩」の馬を用いたのが始まりと言われているが、乗り心地の良い「側対歩」の馬を「上臈(貴婦人)」と呼んでいたとしたら納得できる話ではないか。そのほか、古代の中国語には「女朗」という言葉があるが、意味は“若い女姓”で、どちらかと言うと“じゃじゃ馬”というイメージがあり、「側対歩」とは真逆の感があるが、ある意味言い当てているような気もする。いずれにしろ、モンゴル語の「ジョロー(側対歩)」の語源は、“貴婦人”のイメージに重なる“上品な乗り心地”の意味の「上臈(じょうろう)」が転訛し、「ジョロー」になったと考えるのが妥当と思われる。八幡太郎義家から受け継いだ側対歩と、長弓を用いた戦術を源義経主従がモンゴル軍に導入した際に、「ジョロー(側対歩)」という言葉がモンゴル語に加わったとすれば、義経伝説実在の有力な根拠となるだろう。


モンゴル軍の兜のひさし部分のデザインは笹竜胆

成吉思汗が義経であったとする決定的な根拠の二つ目に、成吉思汗の笹竜胆の紋章の使用があげられる。前出の元寇資料館にはモンゴル軍の兜(写真参照)も所蔵しており、ひさし部分のデザインを良く見ると、源氏の家紋である笹竜胆に酷似していることに気がつくはずだ。笹竜胆の紋章と比較すると、花と葉の数や、花と葉の位置関係がほぼ一致しているが、葉の形状がかなり膨らみすぎた感があり、複雑な葉脈によって別の紋章にも思われる。しかしこれについては、ひさしを十分な強度と実用的な形状にデフォルメした結果であり、笹竜胆の紋章を基調に義経と共に大陸に渡った藤原氏一門の貴族的なペーストを葉脈部分に加えた日本人的なデザインと言えないだろうか。また、神奈川県藤沢市に建つ白旗神社は、義経の首を祀っており、その建物に笹竜胆の紋章があることから当時の日本人にも義経の笹竜胆が認知されており、モンゴル兜の製作者も清和源氏の流れを汲む家柄を意識し笹竜胆を用いたのは間違いなく、この兜のひさしのデザインは義経伝説が史実であるとする有力な根拠となろう。

 


義経伝説は長州閥の最大の不都合

大正時代の末に「成吉思汗ハ源義經也」という本を著した小谷部全一郎に対し、当時の歴史学、人類学などの学者らは異常とも思える辛辣な批判を繰り広げたという。この本に出会う前の私は、奥州に逃れた義経が頼朝の動きを事前に察知できる状況にあり、北海道に逃れる手段と時間を十分持ち合わせていたにもかかわらず、おめおめ自害するなどあり得ないことであり、成吉思汗と義経の年齢や氏名がほぼ一致することや、東北・北海道各地における史跡や伝承の数と信憑性を重ね合わせると、成吉思汗が義経であることは間違いないと考えていた。しかし、インターネットで義経伝説を検索すると、事実関係の分析や精査ではなく単なる情緒的なこじつけの批判が繰り広げられ、それを目の当たりにするたびに違和感と腹立たしさを覚えていたものだ。それが最近になって、国立国会図書館デジタルコレクションにある「成吉思汗ハ源義經也」の電子本を、偶然にもインターネットでダウンロードして読むことができた結果、小谷部全一郎の偉大な業績を目の当たりにし、今までの疑問が一気に払拭してしまったのである。その内容は自らの現地踏査と博識によって、客観的で信頼性の高い歴史的事実が書かれており、著書のタイトルのとおり成吉思汗が源義経であることを証明するものであった。

私は、義経の部下が「源義経」の名前をモンゴル人に伝える際に、重箱読みの「ゲン・ギ・ツネ」と発音し、それを聞いたモンゴル人が「ジン・ギ・ス」と発音し、別の漢字を当てて「成吉思」になったのではないかと以前から考えていた。ところが、小谷部全一郎も著書の中で、異なる人種や民族によっては、耳で聞いた言葉を口から発した時に、異なる発音に無意識に変化してしまうという原理を発見して論証していたのである。例えば、関西人が先生をセンセイと発音すべき所をシェンシェイと発音するといった類であるが、この異音同義語に変化する原理により、蒙古人の場合は「ゲン・ギ・ケイ・カン(源義経汗)」が「チン・キ・セイ・ハン」に変化することを論証している。具体的には、著書「成吉思汗ハ源義經也」のP136からP137に記述されているが、小谷部全一郎が現地の蒙古人の高僧に「ゲン・ギ・ケイ・カン(源義経汗)と発音してみよ。」と言ったところ、高僧は「チン・キ・セイ・ハン」と言い返したとし、これをもって「蒙古人が古来一般に成吉思汗をチン・キ・セー・ハンと称すると正に同一なり、而して是は取りも直さず吾人が源義経汗(ゲン・ギ・ケイ・カン)と言うと同一なるものとす。」と結論づけたのである。

この一例をもってしても、著書の内容は反論の余地のないものだが、例えば、北海道の小谷部全一郎の自宅を訪ねたことがあるという、当時の著名な言語学者は、反対論者に混じって小谷部の「史論」を記述する場合の方法論について批判を行ったが、小谷部の論拠に対しては具体的に反論を行っていなかったという。それは、小谷部の著書P293からP294の彼の調査結果の要約と考察を読めば、誰でも批判が困難であることに気づくからだ。このように、地位や金銭的な利害が絡むことによって平気で嘘をついてしまうという節操のなさ、この構図が現代におけるSTAP細胞の論文不正問題で、生命科学界や、某大学、マスコミ等における一連の対応に酷似し、しかも日本を影で支配している金の亡者たちが裏で操っていることも共通している。すなわち、小谷部に対して批判のための批判を行う最大の理由は、明治維新において徳川幕府を倒し、最終的に国家権力を握ったのが関ヶ原の戦いでの西軍総大将、毛利輝元を祖とする長州閥であり、その陰で軍事力や財政的な支援を行い莫大な利益を得た大英帝国の死の商人らが存在していたということだ。明治維新とは、戦国時代の関ヶ原の戦いで敗れた西軍の末裔が、清朝を植民地化した大英帝国の後ろ盾を得て、傀儡政権となって行った復讐劇であったと言える。なぜならば、徳川家は義経と同じく清和源氏を祖と主張し、清朝も元朝の成吉思汗を祖と主張しているため、成吉思汗が源義経であれば、清朝と徳川家は同祖となり、長州藩出身者にとって、清朝という存在は徳川幕府と同様敵対する存在であったのだ。しかも、当時の大正時代の政府や軍部の中枢は、表向きは義経伝説を否定しても実際は真実であると信じており、徳川旗本や源氏の末裔が多数職に就いた政府、軍部においては、いにしえのモンゴル帝国を築いた偉大なる祖先の栄光を再び夢見て、大東亜共栄圏という東アジア解放の気運を高め、ますます大陸との結びつきを強くしていったと考えられる。また、小谷部全一郎の著書によって、成吉思汗が義経であったことが定説となった場合は、小谷部の著書の発表が明治維新から50年が経過したとはいえ、かつての源氏の末裔と称する元士族達に精神的主柱を付与する結果となり、当時多数の長州出身者が占めていた政府中枢の権力基盤を揺るがす事態に陥ったことだろう。また、大英帝国の代理戦争とも言える、日清、日露、第一次世界大戦の戦争や外国との貿易で莫大な利益を得た長州閥の民間経営者たちも、自らの血筋が将来の大陸経営に悪影響を及ぼし、権益を損なうことを恐れたに違いない。そこで長州閥は多数の学者を雇い、組織的に学会やマスコミに対しての情報操作を行い、小谷部全一郎の人格や著書を全否定し、世の中から抹殺したというのが概ねの実情であろう。そしてまた、モンゴルで権力の頂点に上り詰めた義経やその子孫においても、皇帝となった頃には自身の栄光や対面を保つため、日本を追われて命からがら大陸へ逃れてきた忌々しい過去を消し去りたいという意識が働き、「元朝秘史」などの歴史書に、義経であったことの痕跡を残さなかったことは想像に難くない。これと同様なのが「古事記」における神武天皇で、いつの時代の人物なのか、本当に実在していたのか、いまだに分からずじまいとなっているのは、神国日本にとって実に残念なことである。

いつの世も、歴史の真実は時の権力者によって書き換えられてしまうものだ。権力者と組織による文書の偽造が強権的、秘密裏に行われ、また、権力者とその周辺の者が地位を利用して不正利得を行い、その証拠となる文書の偽造や隠滅を行ったという話は現代においても日常茶飯事である。まさに「正史は権力者が創るものなり」なのである。


為朝伝説の信憑性

私は5年ほど前、曲亭馬琴の「椿説弓張月」を読んで、「徐福伝説」や「為朝伝説」なるものを詳しく知るようになり、琉球の王・舜天が源為朝の子であるという事実を知ったのも最近のことであった。「徐福伝説」は国内外にかなりの物証・伝承が残されているが、「為朝伝説」についても、琉球の正史・「中山世鑑」(1650年)や中国の「元史類編」(1790年)などに為朝の記述があり、琉球国王・尚真王が建立した16世紀の碑文には王統の開祖として舜天の名が残されている。また、大正11年に為朝上陸の碑が建てられており、薩摩藩士である東郷平八郎が建立に尽力したとされている。明治時代に日本海軍の指揮官として日清、日露戦争を勝利に導いた功績のある人物が、自らの名前を明記して直接的な碑の建立に関わったとすれば、そこには琉球の帰属に対する政治的な意図があったとしても、為朝来島の事実をねつ造しようという悪意は微塵も感じられないはずである。ちなみに日本の「保元物語」では、為朝が大島で自刀したことが書かれているが、九州を平定して武勇の名を馳せた為朝が、流人でありながら八丈島に城を構え、伊豆諸島を支配した事実を考え合わせると、モンゴルへ逃れた義経と同様、朝廷に訴え出た伊豆介・工藤茂光の行動を事前に察知して、八丈島から琉球に渡海したことは想像に難くない。なお、「椿説弓張月」では、青ヶ島に流された中国の王族の末裔たちが登場する。原始的な生活を何世代も経た男たちの姿は、まさに鬼という風貌であったろうが、挿絵では為朝の子供(後の舜天の可能性あり)を肩に乗せており、外見とは裏腹にやさしい性格が伝わってくる。

また、平安末期の久安年間(為朝が大島に流される10~20年前頃)に、南伊豆の多々戸浜に八丈島から多数の悪鬼どもが押し寄せてきたという伝説があり、「椿説弓張月」の物語に登場する徐福伝説と為朝伝説の歴史的信憑性を高める内容となっている。このことから、為朝がなぜ大島という場所に流されたのかという理由が明らかになってくる。それは、青ヶ島を根拠地とする悪鬼、すなわち徐福に捨てられた童男童女の末裔たちが、大島や伊豆半島南端まで出没して、略奪を繰り返し被害が生じていることを伊豆の代官から報告を受けていた朝廷が、罪人である鎮西八郎為朝を大島に送り、悪鬼を退治させようとしたのではあるまいか。それが朝廷の思惑どおりの展開にはならず、為朝は流人の分際でありながら、鬼たちを手なずけて伊豆諸島を支配下においてしまったのである。実は、岡山県が桃の産地であり、古代に「吉備」という地名があった事を根拠として、岡山の温羅伝説が桃太郎の童話の原型になったと言われているが、「椿説弓張月」の作者である曲亭馬琴が、子供向けの赤本に「桃太郎」を描いたのが童話としての始まりだという説もある。すると、桃太郎の童話は鬼退治を命じられて伊豆諸島にやってきた為朝が、大島や八丈島、青ヶ島へと渡り、容姿や言語が異なる異様な配下をつぎつぎに従えたことで、子供向けに犬やキジや猿といった動物に例えたのであって、きび団子も岡山の名産・吉備団子ではなく、弥生時代に渡来した黍の団子を携帯食として持っていた為朝が、新入りの家来におすそ分けしたというのが実情であったと考えられる。また、古くから桃太郎の桃は不老長寿の果実であり、女性器の隠語でもあることから、行く先々で島の有力者の妹や娘と結ばれ、子供をたくさん設けたという為朝の性向を表現しており、曲亭馬琴が桃太郎と命名した由来と言えるだろう。なお、八丈島の「丈」の漢字が、俗字では点の付いた「𠀋」となっていて、「犬」と判別しにくいことから、曲亭馬琴は俗字で書かれた「八𠀋島」を「八犬島」と読み違え、それをヒントに「犬を家来に従えた」と創作し、その着想を「南総里見八犬伝」に対しても反映させたのではないかと考えた。私はなぜ家来が人ではなく犬であるのか、長いあいだ違和感を覚えていたが、曲亭馬琴が八丈小島に代々伝わる、房総半島の里見氏に関する伝承を基に創作したという事実を知って、やっと理解することができた。八丈島は伊豆半島と房総半島からほぼ等距離にあり、八丈小島には房総半島の支配下に置かれていた時代の里見氏に関する古文書が存在していたのである。元々は、「南総里見八犬伝」ではなく「南総里見八𠀋伝」であったのだ。

 


源為朝の子は琉球国王舜天

1,650年に編纂された琉球王国の正史「中山世鑑」によると、初代琉球国王舜天は、源為朝が琉球の豪族大里按司の妹と結婚して生まれた子供(尊敦)で、1,187年に22歳で中山王になったと書かれている。ちなみに、この時代は、北山・中山・南山という三つの勢力が形成されていて、各王はそれぞれ中国との交易を行っており、その後の1,429年に統一王朝である「琉球王国」を尚巴志という人物が建国した。ただし、琉球には舜天以前に王朝が全くなかったわけではなく、日本と同様、天孫氏と呼ばれる王統が25代続いた後、臣下によって天孫氏の王統が滅ぼされ、国が乱れている時に善政を敷いて国を統一したのが舜天だと言う。

ところで、舜天の生年は1,166年となり、源為朝が嘉応2年(1170年)に伊豆の国司の追討を受け、自害したとされる年には4歳ほどに成長しており、大里按司の妹と結婚してできた子供というのでは年齢が合わない。上記の「中山世鑑」で、舜天が天孫氏と源氏の両方の末裔としたのは、琉球王朝が日明の属国として生きていく上での源氏の名を借りた偽装であったというよりも、やはり為朝が討伐の4年前に琉球に渡海して、大里按司の妹と結婚していたのだろう。保元物語には、1,165年に為朝が伊豆の青ヶ島の海賊衆を配下として伊豆諸島を完全に支配したとあり、献上品や盗品を売りさばくため、翌年になって手下と共に琉球に渡り、大里按司の一族を配下に置いたとすれば、舜天の生年のつじつまが合ってくる。

舜天王統は3代目で滅んで別の王統に変わるのだが、その3代目の王の名が義本(1,249~1,259年)という。源氏の神・八幡太郎義家の「義」と、日本の「本」の漢字を用いた和名の人物なのである。また、舜天王統が滅んだ後の14世紀初頭から、八幡大菩薩の幡が立てられた八幡船と呼ばれる海賊船が突如出現し、中国や朝鮮、琉球、日本などの東アジア一帯に出没したと言われている。これについては、義本一族が、かつて鎮西八郎為朝が平定した九州で、「元寇の役」が起きた際に琉球から武力商船隊を率いて参戦し、その後も九州に定着して、元や高麗に対して海賊行為を続けながら孤軍奮闘戦いを挑んだというのが真相ではなかろうか。

この頃、琉球では頻繁に王統の交代を繰り返していたが、尚巴志が統一王朝の琉球王国を1,429年に成立させるのである。


源氏同世代が3国の王となる

このタイトルを読んで、「初めて聞いた話」と驚かれた方が多いと思う。すなわち、舜天(為朝の子)が1,187年に琉球王国の中山王(1,187~1,237)になり、5年後の1,192年に、源頼朝が日本国の征夷大将軍(1,192~1,199)に任命され、その後の14年を経た1,206年に、成吉思汗(源義経)がモンゴル帝国の皇帝(1,206~1,227)に即位している。このように、河内源氏である八幡太郎義家の系統に連なる同世代の3人が、鎌倉時代の始めに東アジア3国の覇者になったのである。義経伝説、為朝伝説が史実であることを多数の人が認識する必要があるが、私個人としては前述のとおり確信を抱いており、このタイトルが教科書に記載される日が、いずれやって来ると信じている。

真実かどうかではなく、多数の人が支持する仮説が史実になり得るのである。

 


河内源氏の遺伝子

前述のように、源氏の同世代が三国の王になったとすると、日本人にとって、鎌倉時代の源氏一族の快挙は第二次世界大戦の緒戦に匹敵するほどの輝かしいものであったと、誇らしげに感じてしまうが、日本列島から大陸に向けての大規模な侵攻が、古代から繰返し行われていた事実を認識してみると、現代の中国人や韓国人、そして沖縄県民が、日本のたび重なる侵略によって遺伝子に刻み込まれてしまった恐怖の深層心理を、我々は十分理解する必要があるだろう。このように好戦的な遺伝子を持つ日本人が、平和的であったと言われている縄文時代の末期に、突然変異で多数自然発生することは考えられない。縄文時代末期には徐福一行が渡来してきているが、その徐福が入植したとされる吉野ヶ里遺跡では首を切断された人骨が多数発見されており、組織的な戦闘が行われた形跡があることから好戦的な遺伝子を持つ武人が多数いたと考えられる。また、古墳時代に呉や朝鮮半島から数万人規模の武人が断続的に渡来してきており、特に伊勢周辺に両時代を通じて定住した精強な武人の遺伝子が、河内源氏に受け継がれたように思えてしかたがない。

欧米列強の侵略によって、アジアが植民地化された戦国時代末期から江戸時代にかけて、日本は武士という存在によって植民地化を阻止することができた。アジアで唯一欧米列強と武力で対峙することができた我々日本人に宿る好戦的な遺伝子が、八幡太郎義家を神と崇める河内源氏という武士の家系にあったというのは、まんざら誇張ではあるまい。


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