こうした状況を考える際に、ヒントとなる用語がある。「キャッチ・オール・パーティ」である。
かつて政治学者のオットー・キルヒハイマー(Otto Kirchheimer, 1905-1965)は、脱イデオロギー化して、特定の階級や支持層ではなく、幅広い国民的な得票を目指す政党をcatch-all party(日本語の政治学の文献では「包括政党」と訳されている)と呼んだ。
イデオロギー的にさして違いがない政党が競争することになるので、政治リーダーの「好感度」が重視されるようになる。ここでは「こだわり」を持って抵抗したり、金切り声をあげて反対したりすることは忌避される。「キャッチ・オール」するためには、誰からも嫌われないように振舞わなければならない。
「キャッチ・オール・パーティ」の世界は、「コミュ力」の世界と同じではないが、重なるところがある。
このタイプの政党のプレイヤーは、ある特定課題に「こだわり」を持つ人たちや、ある法案に必死に抵抗しようとする勢力を排除する。これをスマートにやることで、彼らは感じのよい振舞いをディスプレイする。
この「感じのよさ」の基準からすれば、法案に反対してプラカードを掲げる野党議員や、暑い夏の日に、タオルを巻いて座り込みを続ける人たちの評価はどうしてもよいものにはならない。
「こだわり」を持つことも、「情念」を出すことも禁じられれば、対抗する側(「野党」は英語ではoppositionである)はその分ますます無力になる。おかしいと思う問題に「こだわり」続ければ、「まだやっているのか」と言われ、不正義に憤って大きな声を出せば、「冷静な議論ができない」と言われ、党内で論争しただけで「内ゲバ」と言われる。
そして恐ろしいことに、そうしたレッテル貼りには、抗いがたいほどの共感が広がっていく。
しきりに「コミュ力」が強調される時代に、与党と野党の競争は、人びとが思っているほどフェアではない。感じのよさ(「好感度」)をめぐる競争にあって、政権与党であるプレミアムはあまりに大きく、野党であることのハンディキャップはあまりに重い。
そもそも、政党の役割とはなんだろうか。
実は、古代からの党派・政党へのコメントを集めてみれば、そのほとんどが否定的なものである。一部の人が徒党を組んで「全体」の利益を損ない、足の引っ張り合いをし、憎悪の感情をぶつけあう。いい感情を抱くことの方が難しいかもしれない。
こうした通説に対して、例外的に政党を評価したのが、「保守主義の祖」として名前が出ることが多いエドマンド・バーク(Edmund Burke, 1729-1797)だった。
民衆の感覚から遊離して「宮廷の私的恩寵にもとづいて君臨する」権力に対しては、「公共的人間が広範な民衆の熱烈な支持を背景としてこの集団に対抗して固く団結する以外には断じてこれを封じる手段が存在しない」と、彼は主張する(「現代の不満の原因を論ず」『バーク政治経済論集』法政大学出版局、2000年、85頁)。
権力者とその取り巻きが私利私欲に走らないようにするには、民衆の不満を吸い上げ、民衆に支持される、対抗する党派が必要である。彼はこうして政党政治を擁護する。