日本での生活
医療現場を歩んできた私
私は日本で約16年間、急性期医療の現場で看護師をしていました。
急性期医療というのは、救急外来、ICU、外科病棟等であります。まさに命の前線で仕事をしてきました。
医療器具はどんどん進化していきます。勉強しないとついていけないのです。
休みの日には看護協会でのセミナー、結婚や家庭に憧れていましたが恋愛する時間もなく16年が経過していきました。
看護師の給料は悪くはありません。しかし、使う時間がないのです。1年に2,3 回ほど、1週間ほどの長期休暇をとって海外にダイビングに行く事くらいしか。
それ以外はほとんどプライベートの時間はないのです。ただ、貯金だけが増えていきました。
それでも、救命の前線でアドレナリンを噴出して、そしてやり遂げてホッとする時間が好きでした。
気がつけば34歳でした。35歳になれば、四捨五入すれば40歳になります。体力勝負の急性期医療ですが体力にも限界を感じ始めていました。物覚えも悪くなっていくのです。そして、医療現場しか知らない人生を振り返って焦っていました。
経験が長い分医療に関しての知識だけは豊富になっていきます。医者は経験、知識が豊富な中年看護師よりも、何も知らない新人看護師が好きなのです。新人看護師たちは次々に医者と結婚していきました。
私はお局様だったのです。
人生の宝物
そんな時、世の中ではエリートと呼ばれる男性に出会いました。彼は、私より12歳も年上でした。特にときめいたわけでもないですが、今つかまえとかないと一生お局様で終わってしまいます。
2004年2ヶ月間の交際でスピード結婚をし、夢の結婚退職をしました。
そして、すぐに息子リオを授りました私が35歳の時でした。
リオが可愛くて可愛くてたまらないのです。
ところが、私の夢の結婚生活は、結婚から1年半、リオが生後10ヶ月の時にスピード別居となってしまいました。
リオには申し訳ないですが、私はそれでもよかったのです。
人生最大の宝物リオがいるからです。リオを私に授けてくれただけで感謝でした。
それから、リオと私のふたり生活の始まりました。生活には困りませんでした。別居中であっても毎月60万円くらいのの生活費は入れてくれたからです。
地域の中では、有名幼稚園にリオを入れ、午後は、スイミングスクール、子供英会話スクール、公文 幼稚園のお母さんたちとの会話を楽しんでいました。
教育ママというわけではなくリオと二人で楽しんだのです。
そして、リオに色々な国の人達と交流してほしい。私も色々な国の人と交流したいという思いから、自宅近くの桃山大学の外国人学生のホストファミリーとなりました。
ほとんどの、学生はヨーロッパから日本にアニメの勉強のために留学していた。
ホストファミリーは、ビジネスではありません。ボランティアです。リオと学生たちと料理に旅行と生活を楽しみました。
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8. フィリピン・セブ島との出会い
リベンジ(再起):目次
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