テレビで時々見かける
特徴をよく捉えたマラドーナのモノマネ
だがプレーを見ると
巧さに驚かされる
それもそのはず
横浜マリノスジュニアユースから帝京高校
高校選手権で2回準優勝
順天堂大学でもプレーしていた
さらに驚かされるのは
今は芸人だけではないということだ
会社社長としても活躍する
「ディエゴ・加藤・マラドーナ」とは何者か
帝京高校の10番はサッカーを諦めて芸人になった
自分のサッカーの肩書きだけで言えば、中学校は横浜マリノスのジュニアユースで、高校は帝京高校でプレーして、高校選手権では準優勝を2回経験してます。「10番」も付けてました。
ただ、高校は最初に別の高校に入って帝京高校に入り直したので、中田浩二さんとは生まれた年は1年違いでしたが、学年は2つ違って。それで1998年の、雪の中で行われた高校選手権の決勝のときは1年生でした。
その決勝には出られなかったんですけど、1年生から25人のメンバーには入れて、そこから自分としても伸びたかな、と思ってます。
小学校高学年のときに三浦知良選手を見て憧れて、それからJリーグができてあの舞台に立ちたい、カズさんすごくかっこいいと思ってたんです。あとでディエゴ・マラドーナも好きになっていったんですけど。
高校を卒業するときに、J2のチームと大学2校から誘ってもらえたんですよ。古沼貞雄監督に「僕プロになりたいんですけど、どこがいいと思われますか?」って相談に行ったんです。先生から見ても、僕は身体能力が高いわけじゃなかったし、うまくても小さいし、スピードがあるわけじゃなかったし。だから「プロになるんだったら大学に行ってからもなれるから、人生長いから大学に行っとけ」ってお言葉をいただいて。それで順天堂大学にしたんです。
だけど、大学卒業するときプロサッカー選手になれないって悟って、いい終わりじゃなかったというか。浪人して1人でプロを目指すというのも考えて行動もしてたんですけど、大学のときの最後ちょっと人間関係に挫けることがあって。
それで普通に人材紹介会社に就職して、2年ほど働いていたんです。最初の半年はサッカーをしないで、本当に何か、腐ったような感じで「もうサッカーなんていいや」ってサッカーとは無縁でした。
そうしたらマリノスのジュニアユースの1つ上の先輩に誘われて、当時関東リーグ2部で、今はJ3にいる横浜YSCCでプレーするようになったんです。マリノスのときのコーチが監督だったりコーチに入ってて、プレーヤーもマリノスの下部組織出身の選手が集まってました。
チームは2004年、関東リーグ1部に上がって、それから先は月曜から金曜までは社会人として過ごして、週末は自分の趣味として社会人サッカーでプレーするという日々でした。ただ、プロになれなくて就職してプレーしてたんで、そのころは何も将来に光り輝く自分の目標を見いだせなくて。仕事を定年までやるという感覚も持てなくて、ただ週末の横浜YSCCのサッカーに打ち込んで、人生を楽しんでいるという感じだったんです。
けど、それもそれで人生を考えたときに「サッカーって単に趣味じゃないか」って。試合に勝った、負けた、試合に出られた、出られなかったということで一喜一憂を繰り返してるだけだったんですよ。趣味だから、それはそれでいいんですけど、でも僕は「サッカーもいつまでできるかわからないし、何も残らないな」って正直、心のどこかに引っかかって。
自分の中だけで完結する、自分だけで満足してその日を終える。点を取ったら「いい一日だった」と思うけど、でも、何も残らないというか、ちょっと幸福になるか、悔しい思いをするかだけで。ビジネス的な考えかもしれないですけど、頑張ったことでお金がもらえたとか、そういうのはないから。そんな日常ことにちょっと疑問を感じ始めたというのがありまして。
そうこうしてると、24歳のときに「お笑いブーム」が起きたんです。2005年には「リンカーン」っていう番組が始まって。そこで芸人さんを見ていて、僕は芸人さんがカズさんと同じように見えたんですよ。なんてかっこいいんだって。
それまで「お笑い」って考えたことがなかったし、やったこともなかったけど、「そっち側、行っちゃダメかな」「そっち側になれないかな」って、そんなことを単純に思って。
その日から、それこそお笑いのことばっかりネットで調べたんです。事務所がどこがいいかとか、どうやったら芸人になれるのかって。そのままワタナベエンターテインメントの養成所、ワタナベコメディスクールに入るという決断をしました。2007年、25歳のときですね。
養成所にいられるのは1年間なんです。その1年が終わって事務所に所属できるかどうかが決まるんですけど、僕は帝京のときの同級生とコンビを組んで何とか所属できました。
当時は、やっぱりサッカーネタが多くて、体を動かしてコントをやってましたね。で、あるとき「マラドーナがファミレスにやってくる」というネタをやったらおもしろいんじゃないかって、相方とネタ作りしたんです。僕たちの中では「あ、売れたわ」「うわ、すごいの作っちゃったな」みたいな。
ユニフォームを揃えてメイクしたらコントでいけるんじゃないかって、ネットでユニフォームを全部揃えて、カツラは普通にドン・キホーテで買って。それをワタナベのライブで思い切ってやったら、もうダダスベリして(笑)。今までのネタの中で一番受けない。
やっぱり若い女の子が多かったんで、マラドーナとかみんな知らない感じですよね。まったくサッカーボケが通じない。今になると「それはそうか」って思うんですけど、当時は傷ついて、揃えたユニフォームもタンスの奥にしまって、もう2度とやらないって心に決めました。
そうこうしているうちに、「スキマスイッチ」の常田真太郎さんがつくった芸能人チーム「SWERVES」に呼んでもらったんです。芸人やってて帝京出身ということで「サッカーできるんだったらおいでよ」ってことで。
そのとき「何か芸ないの?」って聞かれて、「一応マラドーナの芸をやってた」って話したら「そっちのほうが絶対おもしろいよ」「思い切ってやろう」って言われて、タンスの奥にしまってたユニフォームを引っ張り出したんです。それがセレッソ大阪の前座試合で、長居スタジアムにマラドーナの格好して出て行ったら、これがまぁこれがウケて。2008年か2009年ですね。
ただ本当に細かいことを言うと、そのときってユニフォームは揃えてたんですけど、スパイクとかは用意できてなくて、そこまでこだわれてなくて。白のスパイク履いてて、みんなから「それは違うだろう」ってツッコまれる感じでした。70点ぐらいのマラドーナですね。
当時から太ももが一番似てるって言われますね。太もも周りは63センチあります。マラドーナが68センチですよね。お笑いなのに足が太くてまぁボールも蹴れるんで、そのギャップがおもしろいって言ってもらって。だから10年間やれている気がします。
でも本当のことを言うと、足を太くするためには基本的に何もしてないんですよ。中学のときから人より太いとは言われてましたし、高校でも太くいほうでした。今もこの太さを維持するためにジムで筋トレやってるとかはなくて、ただ、普通にサッカーやったり走ったりしてるだけなんですけど。
太いとパンツが股から裂けるんです。恥ずかしい話、今履いてるデニムも股が破れてるんですよ。スーツなんかも既製服だと合わないんです。
提供:Japan Staff Association
芸人に区切りをつけ事務所を辞めた途端に仕事が来るように
芸人だった10年間は芸人とイタリアン・レストランのアルバイトだけでやってました。アルバイトは夕方18時から翌朝の5時まで。本当に大変でした。とにかくお金が無かったですね。ワンルームの部屋の家賃を払うためにバイトする感じで。それ以外は芸人の仲間同士で寄り添って、やっすい飯食ったり。安い酒飲んで。
売れない芸人ってお金がもらえないけど、時間が拘束されることってたくさんあるんですよ。事務所のライブに出るための「ネタ見せ」をしなければいけないというのがあって。それってまず交通費がマイナスです。何も出ないんです。でも時間は拘束されて。
「ネタ見せ」は順番の取り合いみたいなのもあるんです。全部で50組から70組ぐらいが「ネタ見せ」するんですけど、たとえば70番目になると、6時間ぐらいワタナベの事務所にいるんです。11時から「ネタ見せ」があると、17時とか平気でなっちゃうんで、「18時からのバイト入れてんだよ。だからちょっと早めでいい?」ってみんなで順番待ちして。
それでライブに出られるのが20組ぐらい。ふるい落とされるんです。しかもライブに出てもお金がもらえるわけじゃなくて。逆にチケットを買わされて、自分でそれをさばいて、っていう劇団員みたいな感じでした。
オーディションもそうですよ。「テレビ局のオーディションがあるから行ってこい」って事務所に教えてもらって行くんですけど、これはワタナベだけじゃなくて、吉本興業や人力舎なんか他の事務所の芸人も来るし。
ネタをするまでに4時間とか待ち時間は普通だし、それでもみんなオーディションだから気合い入れていくじゃないですか。それで結局落ちるっていう。受からなかったら交通費だけマイナスで。そういうのの繰り返しですよ。
ディエゴ・加藤・マラドーナが最初にウケたのが10年前で、そのあと僕は最初のコンビから変わってトリオで、「春夏笑冬(しゅんかしょうとう)」という名前で活動してました。3人のガチコントで人間関係にずれが生じて笑いを取るという、しっかりとしたストーリーの、ちょっと劇寄りのコントだったんです。
僕の相方2人は、芸人としては同期なんですけど1歳年上でした。その相方2人が34歳になった2013年に、1年後の35歳で区切りを付けたいっていう話をしてきました。だから2014年の「キング・オブ・コント」で準決勝以上という、わかりやすいボーダーラインを作って、そこにいけなかったら辞めようということになったんです。
そこに向けて1年間やってきたんですけど、結局最後いけなかったんで。それで事務所に「解散する」って言いに行って。それを機に僕も事務所を辞めたんです。所属させてもらって、ちょろちょろテレビ番組に出してもらったいい時期もあったけど、悪い時期とジェットコースターのようでしたね。
僕はそのまま芸人も辞めて、会社を設立して自分で事業をやって生きていくことにしました。歳も34歳だったし、人生としてはもう芸人で売れて食べていくというのは難しいのかなって。芸人としては約10年ぐらいやって来たんで。
今は会社の社長として、人材紹介会社とか業務提携していろんなことをやってます。サッカー選手と企業を紹介し合って、そこでビジネスを始めたりとか。それからコーヒーメーカーの代理店業務もやってます。イタリアのエスプレッソマシン、プロ用の機材ですね。でもまだ3期目で柱になるものってないんです。
そうしたら自分のオフィシャルページだったりFBだったりに掲載していたディエゴ・加藤・マラドーナの写真を見て、たくさん……いや、ちょこちょこ、仕事の依頼が来まして。自分の会社を立ち上げてたんで、そこで自分のマネジメントをしながらお仕事をやっていこうかなということになり。そうしたら、マラドーナの仕事が半分以上仕事を占めることになってきて。不思議なもんですよ、ワタナベを辞めた途端に芸人の仕事が来るようになって。
不規則だった芸人時代の食生活
芸人のときのご飯って、バランスっていうことに関しては最低だったと思いますね。まず3食きっちり食べることなんてないです。18時から5時までアルバイトするという生活が基本だったし、朝5時に終わって自宅に帰り着くのが6時や6時30分になるんですけど、そこからほぼ毎日コンビニか松屋だったんです。眠たいんですけど腹減ってて。
アルバイト先のレストランでは「まかない」がありました。「まかない」と言っても夜だけなんですけど、夜ご飯は楽しみでした。18時から入って、ちょっとお店が落ち着いた21時とか22時とかに食べられて、最低ラインの好きなものは言っていいみたいな。米は好きなだけおかわりしていいとか。芸人さんって「まかない」付きの仕事を探すのが多いんです。ごはんをいかにお金をかけずに食うかっていうのが大切で。
朝、松屋で食べたあとに寝るわけですけど、ぼくはまだ20代だったりしたんで、基本的には5時間睡眠でも大丈夫で、7時に寝て12時、遅くても13時には起きて、毎日走ってました。いつ「ネタ見せて」って声をかけられてもいいように。動けなかったら僕の特長は何もないと思ってたんで。「ネタ見せ」があったら、その前とか、寝ないで走って行くとか、必ず走るというのをその当時は入れてました。
だいたい1日2食ですね。規則正しくなんて、全然なかったです。その中でもライブがあったり、ライブが終わると先輩に声かけられてお酒のみに行ったりとか。お笑いって先輩が奢るっていう風習があるんで、先輩といるときは奢っていただきました。同期と行くと、みんなで先にお金を見せ合って「オレ、いくら」「オレこれぐらい」って、居酒屋で値段見ながら頼むとかしてました。
正直に言うと、お金ができたあとに、自分がアルバイトしてたレストランに行きました。いろんな思いがありましたね、やっぱり。飲食店って冷たく当たってくるお客さんもいたりとか、おいしそうなご飯をたくさん頼んでたくさん残すってお客さんがいるんです。誰も悪くないし、従業員なんで「すみません」って謝るし、お金が無いんでアルバイトしてたから、おいしそうなものを食べられなくて当然なんですけど。
でも「オレ、いつかそっち側に行ってやる」って。「そっち側で店に来たい」という気持ちはありましたね。
働いてたのは、麻生十番の「プレゴ」っていう店です。1階と2階もあって。おしゃれなイタリアンレストランでした。すごくおいしそうな食べ物ばっかりで、「いつか思いっきり頼んでやる」と思ってました。
お勧めは、パスタとピザはもちろんのこと、僕はイカの揚げたフリッターのタルタルソースと、ビーフカツレツですね。僕が働いていた当時、フリッターとカツレツをつまみに、エクストラコールドというキンキンに冷えたビールを飲むのが夢でした。
そのメニューを頼むお客さんがいると、「うわっ、この人センスいいわぁ」とか思いながら提供してました。冷えたビールをつぎながら「うまそうだなぁ」って。だからその2つは絶対に食べたくてね、実際に食べましたよ。
提供:Japan Staff Association
サッカーとディエゴ・加藤・マラドーナはやり続けたい
僕は本当に芸人やってよかったなって思ってます。芸人って、特に売れない芸人って、人の下を行ってる人たちというか、業種といいますか、そういう体験とか経験をしてると思うんです。それでそういう経験をした人って、結構強いって思ったりするんですよね。今でも芸人さんってすごい好きで。ワタナベ辞めてますけど、ワタナベのときの後輩とはたまに飲んだりとか。仲良くしてるやつらはいますから。
最近でいうと僕はワタナベコメディスクールの5期生なんですけど、サンシャイン池崎さんが1期生で、僕が売れないときにご飯へ連れて行ってもらったりしてた人で、彼が売れたときは本当にうれしかったです。池崎さんも売れない時期が長かったけど、本当に素敵な人柄で、今でも変わらないんですよ。
なんか芸人をやった子たちって、そういう部分を持ってると思うんで。売れる売れないにしても、いろんな人生に役立ってほしいなって。そう思いながら後輩と接してます。芸人で売れないで最終的に芸人を辞める子のほうが圧倒的に多いんで。
それから僕は芸人やっててたから、そこで会えた人がいて、サッカーをやってたから、サッカーができるということで出会えた人がいました。プロを目指そうとサッカーを頑張っててよかったよなってこともたくさんあって。
東京ヴェルディのエキシビションマッチに出させてもらって、FKを蹴らせてもらったんですよ。ボールをセットしたら、隣に同じチームだったラモス瑠偉さんがいらしたんです。ラモスさんはもっちろん大好きだった選手で、そのラモスさんから「おい、マラドーナ。お前が蹴れ」って言っていただいて。
ラモスさんに言われたら、これはもう絶対に外すわけには行かないじゃないか。外したら「オレが蹴っておけばよかったじゃないか!」って言われちゃうなって。それで運良くゴールが決まったんですよ。
そのときの映像を後で見せてもらったんですけど、FKが入った瞬間にラモスさんが大喜びして手を叩いてくださってて。で「お前、うまいよ」って言っていただいて。もう本当にうれしくって。
それから、トップミュージシャンの方なんですけど、サッカーで知り合うことができて。その方は地位も名誉も財力とかも全部日本のトップだと思うんです。そんな方がメチャメチャ謙虚だったんですよ。「止めてください」って言いたくなるほど腰が低くて。
そこで心に刻んだんですよ。僕がその方より偉そうな態度を取ることはこの先一生無いなって。ビジネス上でお付き合いのある社長さんも、素敵な考え方や人に対して共通するものが、2人とも同じなんですよね。人に対する対応、人生の考え方、振る舞い方とか、今そういう根本を学ばせててもらってて。だから自分は調子に乗っちゃいけないなって思ってます。
今後は会社の経営もありますけど、サッカーとディエゴ・加藤・マラドーナはやり続けたいと思ってるんです。
僕はもともとビートたけしさんの人間像とか、かっこよさにも憧れてて。売れてない僕なんかが偉そうなこと何も言えないんですけど、芸人としてトップのビートたけしさんが映画監督とかもやられてて、そういうピシッとした一面も持ちながら、現在でも番組に出るとかぶり物をしてボケたことを言うというのが、すごくかっこいいと思ってて。僕もそういうところもマネして、やってみたらいけないかなぁって思ってます。
もしもですよ、事業を、全然そうじゃないのに大きく言いますけど、10億円、20億円、50億円ぐらいの会社に大きくしても、「そういうヤツがマラドーナもやってるの? この社長さんが?」って思われるふうになりたいんですよ。僕は純粋にビートたけしさんがかっこいいと思うから。
僕、ディエゴ・加藤・マラドーナとして変装もしてますけど、一応見せられる特徴もあるから今、役ができてると思ってるんです。50歳とか60歳に近づけばいつまでプレーできるかどうかわからないとは思います。けれど、それでもやり続けたいなって思ってるんです。だから体の維持というか、サッカーのトレーニングというか、1日おきに走ったりとか食事制限したりとか。そういうのを意識はしてます。
そうやってずっと続けられたら、自分の中では、たけしさんにちょっと近づいた気がするんじゃないかって。ビジネスで成功してるのに、威張ることなく生きたいというか。かっこ悪くいることがかっこいいというか、そう思ってるんで、そこ、今目指してるんです。
提供:Japan Staff Association
ディエゴ・加藤・マラドーナ プロフィール
横浜マリノスジュニアユースから帝京高校、順天堂大学でサッカーをプレーした後、就職。社会人ではYSCCなどでプレーするも、サッカーを諦め芸人へと転身。ディエゴ・加藤・マラドーナとしてライブ、TV番組などで活躍した。
35歳で芸人を辞めた後は会社経営のかたわら、ディエゴ・加藤・マラドーナのキャラクターで出演することもある。
1980年生まれ、神奈川県出身
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。
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Source: ぐるなび みんなのごはん