21世紀のオウム報道から消えたもの

2018年7月13日(金)

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 7月6日の朝、麻原彰晃こと松本智津夫以下7名の「オウム真理教」関連の死刑囚が処刑された。

 私は、W杯観戦シフトで昼夜逆転した生活を送っていたため、このニュースに気づいたのは昼過ぎだった。

 で、すぐにテレビをつけたのだが、5分ほど画面を眺めたところで受像機のスイッチを切った。
 理由は、いまさらのように驚いてみせている画面の中の人たちに同調できなかったからだ。

 こういう書き方は誤解を招く。言い直そう。
 私は、当日のテレビ番組に出演していた人たちが、ほんとうは驚いてもいないのに、善人ぶって大げさに驚いたふりをしていたとか、そういうことを言おうとしているのではない。

 ありていにいえば、テレビの番組が提供しているオウム事件の概要説明に納得できなかったということだ。
 だから、これ以上自分を不快な気持ちにさせないために視聴を断念した。それだけの話だ。

 私は、誰かを責めているのではない。
 むしろ自分を責めている。

 私は、自分がもはやこの種のニュースには動揺しないだろうと思っていたその予断が裏切られたことにわがことながら驚き、そしてなんだかわけもわからず腹を立てていた。

 そんなふうに自分の心の動揺に対して素直になれないことも含めて、オウム事件は、私の世代の人間にとって特別な出来事だったのだろう。 

 当日のスタジオ出演者は、テレビカメラを向けられている人間としては、相応に自然な振る舞い方をしていたと思う。
 別の言い方をすれば、テレビに出ている人間はああいう感じで応答するほかに選択肢を持っていないということだ。その事情は私にもよくわかる。

 というのも、出演者の受け答えの真実味をどうこう言う以前に、そもそも視聴者である私たちの側が、テレビの中の人間に、ビビッドな表情とわかりやすい言葉を求めているのが実情だからだ。

 出演者のオーバーアクションは、スタジオに常駐している演出担当のスタッフが出演者に強要しているものであるよりは、テレビのこちら側にいる視聴者の集合無意識が、テレビ発祥以来の伝統に基づく合意事項として申し渡している「型」なのであって、少なくともライブ進行で放映されている番組では、普通の人間が自室でくつろいでいる時のような無表情は、許されていないと考えなければならない。 

 たぶん、私があのブーメラン型のテーブルに座らされていたのだとしても、アタマの中に浮かんだ通りのコメントをそのまま口にするような無思慮な対応はしなかったと思う。

 すなわち、半笑いで
「さあね」
 とは答えなかっただろうということだ。

 ここのところは、ちょっと説明を要する。
 私は、最近、ほとんどすべての出来事に関して、最も誠実なコメントは
 「さあね」
 なんではなかろうかと思いはじめている。

 なぜなら、テレビのスタジオのせわしない時間の中で10秒で説明しきれるお話なんて、ほとんどあり得ないはずで、だとしたら、真面目な人間は
 「さあね」
 なり
 「わかりません」
 と答えるほかにどうしようもないはずだと思うからだ。

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「21世紀のオウム報道から消えたもの」の著者

小田嶋 隆

小田嶋 隆(おだじま・たかし)

コラムニスト

1956年生まれ。東京・赤羽出身。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。1年ほどで退社後、紆余曲折を経てテクニカルライターとなり、現在はひきこもり系コラムニストとして活躍中。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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