「先生…」この呼び方が、林郁夫をオウム真理教から人間に戻した
- 地下鉄サリン事件“実行犯”で唯一の無期懲役となった林郁夫受刑者
- 心臓外科医の地位も名誉も捨ててオウム真理教へのめり込む
- オウム解体につながった林受刑者の自供をどう引き出したのか
7月6日、オウム真理教の教祖、麻原彰晃こと、松本智津夫元死刑囚をはじめ、オウム死刑囚7人の死刑が執行された。
今から23年前、首都・東京を、世界で初めて化学兵器による無差別テロが襲い、死者13人、負傷者6300人以上という、未曽有の大惨事となった『地下鉄サリン事件』。オウム真理教の関与が疑われる中、警察は、決定的な証拠をつかむことができずにいた。
真相を巡り、オウム真理教への取材合戦が過熱する中、教団の全てを知るといわれたキーマン、村井秀夫が刺殺される。このまま事件の真相は闇に消え、再び新たな犯罪が起きてしまうのでは、という恐怖が日本中を襲う中、ある一人の男の証言をきっかけに、オウムにまつわる数々の事件が解決へ大きく進んでいくことになる。
その証言をしたのは、地下鉄サリン実行犯の林郁夫受刑者。
7月12日に放送された「直撃!シンソウ坂上」(フジテレビ系)では、全面自供を引き出した主任取調官・稲冨功氏への取材を元に、取調室で交わされた2人の攻防に迫った。
当初、“重要人物”ではなかった林郁夫受刑者
1995年4月8日、機動捜査隊から捜査一課に駆り出されていた稲冨功氏は、元ピアニストの信者に対する監禁容疑がかかっていた幹部の一人、林郁夫受刑者の取り調べを任された。
専門外の機動捜査隊員が取り調べを行った理由としては、警察が林を重要な人物だとみていなかったからだ。
1947年1月23日に医師の家庭に生まれた林は、その後、自身も国立病院の心臓外科医となった。
林は医師として多くの患者の死に触れる中、絶望的な無力感に苛まれ、「死」という過酷な現実に対してできることはないか…という純粋な思いから宗教にのめり込んでいく。
そんな林が地位も名誉も捨てて出家したオウム真理教は、麻原を開祖として誕生した新興宗教。
違法薬物を使ったイニシエーションと呼ばれる修行を行うなど、信者たちを洗脳して多くの反社会的活動を行っていた。
サマナと呼ばれる出家信者は、オウムに全財産を寄付し、教団施設で共同生活を送っていた。
教団には厳格な階級制度があり、麻原は人類救済を提唱する絶対的な存在としてあがめられていた。
「先生」と呼び、独自のやり方で取り調べ
元は暴力団など組織犯罪の担当だった稲冨氏は、林の中に組織犯罪の闇を感じて、留置場の看守にも林のことを「先生」と呼ぶように徹底させるなど、捜査一課とは異なる独自のやり方で取り調べをしていた。
稲冨氏は、林がかつての気持ちを思い起こすはずだという確信を持っていたが、その裏では起訴に向けて検察の取り調べも行われ、稲冨氏とは違う厳しいやり方に心を閉ざした林は「オウムの修行を見せる」と断食断水を実行し始めてしまう。
林には、一流大学を出て若くして幹部となった男が弁護士としてついていた。
その弁護士が林を訪ねてから突然、断食をやめ、修行の一環だと黙秘権を行使した。
弁護士は、スポーツ紙などで林の様子が詳細に報道されていることを「警察が情報を漏らしている」と吹き込み、弁護人と面会をする部屋に警察が盗聴器を仕掛けていると林に話したという。
4月20日、林は稲冨氏に盗聴器に関して問い詰めるが、その時の稲冨氏は、普段は理性的な林の心の乱れを感じ取っていた。
そんな中、4月23日に、教団幹部の村井秀夫がオウムの東京総本部の出入口付近で、刃物を持った男に刺殺された。
ナンバー2であり、科学部門のトップでもある村井は、サリン事件における重要人物だとみられていた。村井の不可解な死は、林を大きく揺さぶったという。
オウム真理教附属病院の院長に就任していた林は、本来は東洋医学や瞑想も取り入れ、末期がんなどの難病治療に取り組むはずだったが、理想とはまるで違う現実が待っていた。
自白をさせるための薬の処方や電気ショックで記憶を消す技術の開発など、オカルトめいた違法行為ばかりをやらされた林だったが、必死に信仰心を保とうとしていたという。
林の手記によると、弁護士から昇格をちらつかされたことで「修行の成果である昇格を、なぜこんな風にエサに使うのか、黙秘は単なる口止めではないか」とオウムへの不信感を急速に募らせていったという。
「私がサリンを撒きました」
当時、オウムには近々強制捜査の手が及ぶことが決まっていたため、地下鉄サリン事件は警察の捜査をかく乱するために計画されていた。
林は断る術はなく、その実行犯に選ばれた。
林の手記には、「いやだ。やりたくない」と人を殺すことにためらいを覚える一方で、「オウムを潰そうとする国家権力との戦いだ」と自分に言い聞かせるなど、複雑な心境が見え隠れしていた。
だが、林の撒いたサリンのせいで地下鉄職員2名が犠牲となった。
稲冨氏は取り調べの中で、オウムや地下鉄サリン事件などのことには触れることなく、昔を思い出させるような話をすることで、林は徐々にかつての自分を取り戻しつつあった。
常に林を「先生」と呼ぶ稲冨氏に、「先生という呼び方はやめてほしい。私はもう医師ではない。そんな風に思われるのは面はゆい」と林は伝えるも、稲冨氏は「実際にあなたは人の命を救ってきた。立派な仕事をされてきたので敬意を込めて呼ばせてもらいます」と言ったという。
稲冨氏の言葉に心が揺れ動いたのか、5月6日、林は「オウムが解体された後の信徒たちを救ってほしい」と稲冨氏に要望を突き付けた。
稲冨氏も「気持ちを尊重して私なりに努力する」と答えたという。
そして、林はついに「私がサリンを撒きました」と口を開き、供述を始めた。
林の自供がオウム真理教の解体へ
1995年5月16日、林の自供を受けて警察はオウム真理教の教団施設に対し、強制捜査を実施。札束を抱えて隠し部屋に潜んでいた教祖の麻原は、地下鉄サリン事件の首謀者として逮捕された。
結果として、林の自供がオウム真理教の解体へとつながった。
そして、林はあらゆる事件の起訴事実を全面的に認めた。
1997年10月7日、林の裁判に出ることになった稲冨氏は、この公判で「警察は林と地下鉄サリン事件との関係をつかんでいなかった」と主張。それにより、検察は林の自供を「自首」として認め、結果的にサリン事件実行犯で唯一の無期懲役という求刑につながった。
"慟哭の裁判"とも言われた、林の涙ながらの裁判は、傍聴した人々の心を大きく動かした。
そして、1998年5月26日、判決の日。
林に言い渡された判決は無期懲役。
林が「法廷で麻原彰晃のまやかしを明らかにする」と、他の信者の法廷に30回も証人として立ったことで、麻原含めて多くのオウム真理教幹部たちに実刑が言い渡された。
一方で、無期懲役となった林の判決に対しては警察内部で「なぜ、死刑にできなかったのか」という非難の声もあったという。
林の自供を引き出し、結果的にオウム事件を終結させた稲冨氏は、出世することなく2007年に退官し、その後も獄中の林と交流を続けた。
稲冨氏は「林がサリンを撒いたことを自供した後で、『なぜそういうことが起きるんだろう』ということで私が聞いたときに、彼が言った第一声は『閉塞感』という言葉でした。
日本人は例えば、一つのコミュニティに入る場合、一つのコミュニティの中で弾き出されたら生きていけないという発想、見捨てられるという恐怖、会社もスポーツ界もそうです。がんじがらめになっているんです。
『おまえ、これやらならきゃ使わないから』と。
こういった傾向はまだまだ日本に出てくると思います。宗教云々の同じ形態では起きないかもしれませんが、別のコミュニティが暴走することはあるかもしれない」と訴えた。
「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54