第17回カンヌ国際映画祭で最高賞パルム・ドールを獲得した是枝裕和監督の『万引き家族』は、東京の片隅で万引きや窃盗、年金の不正受給などをしながら暮らす「家族」の物語であり、豊かだと思われていた日本で格差が広がるにつれて生じてきた、貧困の問題を告発する作品である。
そのような意味で、是枝作品、そして『万引き家族』は「格差社会」と「家族」のあり方をテーマにしていると受け止められている。これは当然のことに聞こえるかもしれない。
だが、『万引き家族』は格差社会についての作品でなければ、家族についての作品でもない。そうではなく、『万引き家族』は、格差社会の外側の人びとの物語であり、あり得べき「階級社会」についての物語なのである。
どういうことか。その疑問を解きほぐしつつ、現在の日本における格差と階級をめぐる議論の盲点を指摘していきたい。そして明らかにしたいのは、「格差社会」日本は、早く「階級社会」を目指すべきであるということである。
格差社会とは何だろうか。また、その言葉によっていかなる社会がイメージされているのだろうか。
格差社会という言葉が頻繁に使われるようになったのは2000年代からで、この言葉を広めたのは、社会学者の山田昌弘の2004年の著書『希望格差社会』だとされる。ユーキャン新語・流行語大賞でトップ10に入ったのが2006年であった。
ただし、橋本健二(『新・日本の階級社会』)によれば、最初にこの言葉が日本社会を表現する言葉として使われたのはもっと早く、1988年11月19日の朝日新聞社説「『格差社会』でいいのか」であった。
1980年代終わりから2000年代、そして現在へ。この間に生じた日本社会の変化をひと言で表現するなら、それは「新自由主義化」であろう。
新自由主義は、企業間だけではなく、会社の内部の個人同士の自由競争がより良い社会を作りあげるという信念を広める。そして、そこで生じた貧富の差は、スーパーリッチが生み出す富が貧者へとしたたりおちる(トリクル・ダウン)かぎりにおいて、正当なものであるとした。
またそれは、自由競争を阻害するもの──国による規制、労働組合、労働組合と一体となった護送船団的・日本的経営──はなんであれ、排除されるべしとした。
「格差社会」という言葉は、この新自由主義の広まりを背景として使われ始めた。そしてこの言葉は、上記のような状況(格差)を批判する言葉として、少なくとも一部では使われたのである。
だが意外なことに、格差社会という言葉は、一見そうした状況を批判しているように見えながら、その裏側では、密かに新自由主義を肯定する、もしくは新自由主義的な競争を煽るための言葉として機能してしまっている。
どういうことか。これを理解するためには、「格差社会」の対義語、もしくは格差社会に先行して存在した社会はなんだったかを考えればよいだろう。それは「総中流社会」である。