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DOOM

島田 裕巳

DOOM ブック・カバー
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第一話

2018.06.11 更新

 目覚めてからが地獄だった。
 幻覚など、それまで体験したことがなかった。
 幻覚が、これほど苦しいものだとは思わなかった。そもそも自分が幻覚に悩まされるようになるとは想像もしていなかった。
 覚せい剤を使ったわけではない。
 世の中には覚せい剤と同じような作用を起こさせるものがある。
 私は病院に入院した。症状を落ち着かせるために、一週間にわたって眠らされた。
 最初は一週間の予定だったようだが、実際には、眠っていた期間は十日間に及んだ。週末をはさんだことなど、病院側の都合もあった。
 私を眠らすために用いられたのは、解離性麻酔薬である。後遺症などなく、安全なため、医療の現場では広く使われているものらしい。
 解離性麻酔薬は、脳の表層の部分を抑制し、反対に深層を活発に活動させる。そのため、表層と深層の間に解離という現象が起こり、それが幻覚を生むことに結びつくのだ。
 解離性麻酔薬を施されたとき、その治療を受けるかどうか尋ねられたはずだ。けれども、何も覚えていない。何しろからだ全体が苦しくて、まっとうな状態ではなかったからだ。
 からだがおかしいことは、少し前から分かっていた。腹が張り、膨らんでいて、元に戻らなかったのだ。
 それでも、風邪のたぐいだと思っていた。あるいは、そう思おうとしていたと言った方が正確だろう。
 いよいよ苦しさが増し、どうしようもなくなった。そこで、医者にかかる決心をした。当時は、医者にかかることがなかったので、なかなかその踏ん切りがつかなかった。
 その日は天気がひどく良かった。
 十月の空は晴れ渡り、おかげで苦しいながらも、外気に触れたことに心地よさを感じることができた。
 もしその日、秋晴れでなかったとしたら、私は、苦しいまま家に閉じこもり、医者にはかからなかったかもしれない。
 天候のおかげだ。
 医者のところには自転車で行ったが、それ自体が大変だった。途中に軽い坂がある。普段なら、気にもしないほど緩い勾配だ。
 けれども、その日は、簡単に登りきることができなかった。途中で、自転車を降り、休んだ。そこに坐れるものがあったからだ。心地よさを感じたのは、そのときだった。苦しいなかでも少しだけ幸福な気分を味わうことができた。
 かかったのは初めての医者だった。診察を受け、レントゲンも撮った。レントゲン室は二階にあって、階段を上るのにも難儀した。
 医者からは近くにある大きな病院にかかることを勧められた。選択肢はそれ以外になかった。
 救急車を呼ぶという手もあったが、私はタクシーを呼んでもらうことにした。救急車に乗せられるほど重病ではない。そう思いたかった。自転車は、その医者のクリニックにおかせてもらった。
 向かったKという病院もはじめての場所だった。病院の名前は知っていたが、どこにあるのかもはっきりとは分かっていなかった。
 タクシーが病院に着くと、救急外来にかかった。おそらく、事前に知らせがいっていたのだろう、すぐに診察がはじまった。
 救急外来の医者は、腹水が溜まっていると言い、肝硬変の疑いがあると告げてきた。
「肝臓ガンかもしれない」
 そうも言われた。
 私はいきなりガン告知を受けた。けれどもそのことに、さほど驚きはなかった。ガンの疑いと言われても、その実感がなかったからだ。もちろん、自覚症状のないガンもあるわけだが、からだの方がガンではないことを知っていたのかもしれない。肝硬変とも思えなかった。
 医者は、とりあえず腹水を抜く処置をはじめた。腹に針を刺し挿し、水を抜いていくのだ。水がプラスチックの容器にたまっていく。それは、かなりの量だった。水は徐々にしか抜けていかない。自分のからだのなかに、こんなに大量の水がたまっていたことが不思議だった。肝臓ガンの場合、腹水がたまることがあるらしい。
 私は長く医者にかかっていなかったので、過去のカルテもなければ、健康診断の結果もなかった。
 そんな状態では、医者としても原因は何なのか、すぐに見当をつけることができない。
 まさに自業自得だ。

 その後、記憶していることは二つだけだ。
 一つは、ベッドに横たわっているのだが、じっとしていることができず、くり返しからだを起こしてしまったことだ。そばには看護師がいて、寝ているように注意されるのだが、それができなかった。看護師には、そうした状態が理解できないようだった。
 ところが、そのときの私には、からだを起こしているより寝ている方が辛かった。しばらくは我慢できても、そのうちに耐えられなくなり、からだを起こしてしまうのだ。
 もう一つは、そこと同じ場所でのことなのか、それがよく分からない。違う部屋かもしれないと思うのは、最初にいたところの記憶より部屋が少し広く感じられたからだ。ベッドで寝ている私のまわりを数人の医者が囲んでいた。
 私には、医者たちの会話する声が聞こえていた。
 彼らは、私の病気の原因が何かを話し合っていた。症状を分析し、該当する病気をあげていくのだ。
 話し合いはかなりの時間続いた。病名について該当するものが見出せないのか、その場の空気は重苦しかった。病名をはっきりと割り出せないことに、医者たちも苛立っていた。
 それほど私の病は特殊なものなのだろうか。それを聞いてみたかったが、議論の輪のなかに入ることもできなかった。専門的な知識はないし、自分でも見当がつかなかった。
 そんな状態がしばらく続いた後、突然、女性の医者が、「これは甲状腺ではないか」と言った。
 その一言で、部屋の空気が変わった。
 他の医者たちにも思い当たるところがあったのだろう。それからは甲状腺の病気の可能性について活発な議論が展開された。甲状腺の異常として考えてみると、いろいろなことが符合するようだった。
「検査の結果が出てみないとはっきりしたことは言えないが、とりあえず、甲状腺の線で治療をはじめることにします」
 医者の一人からそのように告げられた。
 それまでのことは覚えている。だが、その後のことは、何も覚えていない。おそらくそのときに、解離性麻酔薬を使うことが告げられ、承諾を求められたのだろう。
 その後、私は眠らされてしまった。
 ほんとうに目覚めるのだろうか。家族はそれを疑ったらしい。絵の上手な娘は、そのときの私の様子を描いていた。鼻やら口やらにはチューブがつながれている。目覚めてからその絵を見せられたことがあったが、正視したくない自分の姿だった。
 私が眠らされている間に、プロ野球の日本シリーズがあった。ダイエーと阪神が戦い、ダイエーが勝利を収めたはずだが、一試合も見なかった。
 アメリカの大リーグでもワールドシリーズがあり、ヤンキースがマーリンズと戦って、敗れたものの、松井秀喜がホームランを打つなど活躍したはずだが、それもリアルタイムで見ることはなかった。
 普段なら、どちらも時間があれば見ていたはずだ。見ていたはずのものをまったく見ておらず、しかも、記憶がいっさいない。十日分の時間が、私の人生からすっぽりと抜け落ちていた。
 それは、永遠に取り戻すことのできない時間だった。

 目覚めたとき、医者からは、こうした治療を受けた患者の多くは幻覚を見ると言われた。言われたときには、それがどういうものか、理解できなかった。まして、それが苦しいものだとは考えもしなかった。
 私の目の前に一冊の本があった。大きめのサイズで、絵本だった。
 絵本にはさまざまな場面が描かれていたが、その絵が飛び出してきた。飛び出す絵本というものなら知っているが、それとは違う。仕掛けで絵が飛び出して見えたのではない。実際に絵がページから離れ、空中へと舞い上がっていったのだ。
 そのように書くと、幻想的で楽しげなことに思えるだろう。
 しかし楽しいのは、見るという行為をコントロールできるときの話だ。飛び出す絵本なら、普通は本を閉じれば、もう何も飛び出してはこない。
 そうではないのだ。
 見るのを止めようとしても、絵はどんどんと飛び出してきて、終わりがない。目を閉じても状況は変わらない。そうなると、それはひどく苦しいことでしかない。
 もっと恐ろしい幻覚もあった。
 私は車椅子に乗っていた。食事を摂るために、病室から出ていた。
 私の前には階段があった。
 階段の前にいる私の周囲は三方、ガラスで囲まれていた。ガラスはすりガラスで、外が見えないようになっていたが、下の部分だけは透明になっていて、外で雪が降っているのが分かった。だが、雪が降るような季節ではない。
 私の横には女性の看護師がいた。
 看護師は、食事を摂りたければ、自力で階段を上るしかないと、私に告げた。
 車椅子ではとても階段は上れない。かといって、降りて、歩けるような状態ではなかった。
 階段を上らなければ、永遠に食事を摂ることができない。階段を上らず、その場から逃れることもできなかった。私は閉じ込められたような状態だった。
 それでも看護師は、車椅子で階段を上るよう迫ってきた。その看護師には、明らかに私に対する悪意があった。私をいじめ、苛むことが彼女の目的だった。殺そうとしているようにも思えた。
 食事が摂れないくらいで、大げさだと思われるかもしれないが、そのときの私は、そう思い込んでいた。幻覚を見ている状態では、常識的な判断などできないのだ。
 やがて看護師の姿は私の前から消えていた。私は、そこに放置されていた。どうやってそこを逃れたのか、何も覚えていない。
 医者に殺されそうになったこともあった。
 そこは集中治療室なのだろう、部屋にはベッドが一つしかなく、私はそこに横たわっていた。
 私には、ある医者が自分を殺そうとしているという確信があった。なぜそう考えたのか、理由は分からない。とにかく、私の頭のなかには、「医者が私を殺そうとしている」という直感だけがあった。
 夜になっていた。
 隣の部屋から、声が聞こえてきた。その声は、私を殺そうとしている医者のものだった。医者は、私を殺す話をしていたわけではないが、すぐにでも私のところへやってきて、殺人を実行するかもしれなかった。
 医者が患者を殺すなど、普通はあり得ないことだ。それに、私が殺されなければならない理由もない。冷静な状態であれば、そう思えるのだが、それができなかった。
 居ても立ってもいられなくなったが、逃げ出すこともできない。逃げ出すということさえ思いつかなかった。私はまったくの囚われの身だった。
 私は、付き添ってくれていた娘に懇願し、その夜は病院に泊まってもらった。到底一人で夜を過ごせそうになかったからだ。
 人は夢を見る。
 幻覚を見たことがない人はいくらでもいるが、夢を見たことがない人はいない。
 幻覚を見たことがない人は、夢と同じのようなものだと思うかもしれない。
 だが、この二つはまるで違う。
 夢は見ても、大半はすぐに忘れてしまう。夢を見た直後に、その内容を詳しくたどってみない限り、内容を覚えていることはない。
 よく覚えているという人もいるかもしれないが、それは何かしら内容を記憶する作業をしているに違いない。
 夢は消えていくが、幻覚は消えていかない。はっきりとその内容が記憶される。私が幻覚を見たのは、今から十数年前のことになるのだが、依然としてそれを記憶している。少なくとも、夢のように簡単には消えないのだ。
 幻聴もあった。
 廊下から知り合いの声が聞こえてきた。見舞いに来てくれたのだ。
 私はその人たちがやって来るのをベッドに寝ながら待っていた。
 けれども、いっこうにやって来なかった。
 こんな幻覚もあった。
 私にはそれをどうやって見たのか、そこがまったく分からないのだが、病院の玄関が見えていた。ベッドに寝たままだ。
 病院は、何かの勢力によって攻撃を受けていた。そのなかに猿もいて、猿たちは玄関に攻め込んできていた。
 猿たちは、受付の前で、一匹ずつが仲間の肩に乗って、塔のような形になっていた。
 受付の前で九層に重なっていた。
 それは、まるでトーテムポールのようだった。
 あり得ない光景だが、私の目には、九段に重なり合った猿の姿がはっきりと見えていた。
 私のなかでこの病院は、宗教色の濃いところになっていた。しかしそれも、幻覚のなせる思い込みだった。実際には普通の病院で、宗教色などまるでなかった。
 とくに宗教的な飾りつけやモノがあったわけではない。とにかく私の頭のなかでは、この病院は宗教団体が経営しているのだということが前提になっていた。
 病室を掃除しに来る清掃員も、信者がボランティアでやっているものと思い込んでいた。私は、それを前提に、清掃員に対して感謝のことばを述べたこともあった。
 病院を抜け出したこともあった。もちろん幻覚のなかでだ。
 私は、原宿にある裏原宿と呼ばれる地域に逃げていったのだが、そこには阿片窟があった。私も阿片を試し、まったりとした気分に陥っていた。
 このことが知られたら、医者にこっぴどく叱られるに違いない。そう思いながらも、阿片の誘惑に勝てなかった。そこからどうやって戻ってきたかも分からない。
 幻覚や幻聴がある期間は、いったいどれほど続いたのだろうか。二日、あるいは三日、そのくらいだっただろうか。四日も五日も続いたようには思えない。
 幻覚とはこういうものなのか。私ははじめてそれを知った。
 宗教家や修行者が経験する神秘体験も似たようなものかもしれない。それも、解離という状態が生み出したものだろう。意図的に解離を引き起こすために、宗教家は修行に勤しむのだ。

 すぐに幻覚は見なくなった。幻聴も去った。
 だが、からだの方はすぐに治るわけではない。
 十日間にわたって眠らされていた間、もちろん食事は摂れなかった。栄養は点滴を通して摂っていた。
 そんな状態なので、からだはやせ細っていく。七十キロ以上あった体重は、五十キロ前後にまで落ちていた。
 強制的にダイエットさせられたようなものだが、必要なのは、その状態を維持することではなく、むしろリバウンドの方だった。体力が回復しなければ、病気も治らない。
 病気は、女性の医者が言い当てたように、甲状腺の異常によるもので、甲状腺亢進症にかかっていたことが明らかになった。
 甲状腺はからだの活動をコントロールしている機関で、そこから出るホルモンが過剰になると、からだ全体の活動が活発になりすぎてしまう。
 私の場合、甲状腺亢進症とどのような関係があるのか定かでないが、十二指腸潰瘍も併発していた。眠らされたのも、からだの活動を抑えるためで、目覚めてからも心拍数が二百を超えることもあった。その時期、心拍数は常時モニターされていて、高くなりすぎると看護師がかけつけてきた。
 甲状腺亢進症を起こさせる原因として考えられるのがバセドウ病である。これは、女性がかかることが多い病気で、眼球の突出を伴うことでよく知られている。男性でもかかることがある。
 振り返ってみれば、入院する前は疲れやすかったり、汗を大量にかいたりしていた。たんなる汗っかきではなかったのだ。相当前から、私の甲状腺の働きには異常なところがあったのだ。
 入院する五年ほど前には、急に痩せてしまった。その時期の写真を見ると、病気をした後と比べて、かえって年取って見える。今は見たくない自分の姿だ。
 いったい人はなぜ病気にかかるのだろうか。原因はなんなのだろうか。病気になった人間は、誰でもそのことを考える。
 医者はその原因を教えてはくれない。私が甲状腺亢進症になったのはどうしてなのか。入院生活は四十日間にも及んだが、医者からその答えを聞くことはできなかった。
 病気がどのようなもので、それが本人のからだにどういった影響を与えるのか、あるいは今後どう影響するのかについては、医者は事細かに教えてくれる。
 けれども、なぜその人間が、その病気にかからなければならなかったのかは説明してくれない。
 それは、いくら診察を重ねても答えが出ないことなのだろう。診察によって、からだの状態は分かっても、あまりにも多くの要因がからんでいるので、病気が発生する機序を明らかにすることはできないのだ。
 医者が教えてくれなくても、本人はやはりそのことを考えてしまう。自分がどうして病気になったのか、その原因を知りたいと思う。
 生活習慣病なら、思い当たることも多いだろう。病気によっては遺伝の可能性もあり得る。
 過大なストレスが原因ではないか。それは、一番あり得る結論の一つだ。少なくとも、これまで私の家族に甲状腺の異常を訴える人間はいなかったので、遺伝の可能性は低い。
 ストレスなら、思い当たることがあった。
 それどころではない。私を見舞ったのは、なかなか考えられない事態だった。
 私は大学の教授の職を退かなければならなくなったのだ。それも、自身のセクハラやパワハラが原因ではなかった。研究費の使い込みなど、不正をしたわけでもない。
 一九九五年、OS教団による地下鉄サリン事件が起こった。警察は、その前から、教団に対する強制捜査を準備していた。前の年、長野県松本市で猛毒のサリンが噴霧され、多数の死傷者が出る事件があった。教団がこの事件にかかわっていた可能性が高いと判断されての強制捜査だった。
 教団は、自分たちに疑いの目が向けられているさなか、ふたたびサリンを使って無差別殺人を実行した。しかも、使われた場所は東京の地下鉄の車内で、いくつもの路線でその行為が行われたということでは、同時多発テロとも言えるものだった。
 地下鉄サリン事件の勃発を機に、世間の関心は一斉に教団に向けられた。報道は事件と教団のことで一色になった。その状況は、教祖が逮捕されるまでの二カ月近くに及んだ。
 私は、教団を擁護したということで非難されるようになった。大学には大量の抗議電話がかかってきた。テレビに生出演し、その場でつるし上げをくらったこともあった。
 やがて騒ぎは収まっていったが、地下鉄サリン事件から半年が経った時点で、あるスポーツ紙が、私がOS教団の幹部であるという報道を行った。事実無根だが、それが決定打になった。激しいバッシングが巻き起こり、私はその責任をとって大学を辞職しなければならなくなった。
 解雇されたわけではない。大学では、私の問題に対して調査委員会が設けられ、私もその場に呼ばれて、委員から質問を受けたりしたが、その調査によって、私に責任があるとされたわけでもない。むしろ、責任はないと判断された。
 だが、世間を騒がせたということが問題だった。まして、私がつとめていたのは、イメージを気にする女子大だった。
 私は、その年の四月に助教授から教授に昇格していた。教授としての生活はわずか七カ月間で終わった。
 大学を辞めた直後は、自分に起こった出来事が信じられなかった。そんなことが、よりによって自分に起こるとは、予想もしないことだった。どうしてそんな目にあわなければならないのか、理不尽だという思いが強かった。
 これからどうしていくのか、どうしていくべきなのか。それを考えなければならないはずだったのだが、まともに考えられなかった。漠然と教壇に戻りたいと考えていた。周囲にはそのために尽力してくれた人もいた。けれども、それはかなわなかった。
 普通なら働くということを考えるはずだが、その方向に動くこともできなかった。
 どこかに雇ってもらって勤めるという道はほとんど考えられなかった。そんなところがあるとも思えなかった。
 人を頼って、仕事を探すべきだったのかもしれない。ある程度の貯えはあったが、稼ぎがなければ、それもすぐに底をつく。家族とは事件が起こる前後から別居状態にあったものの、そちらにも金を回さなければならなかった。
 いまから振り返ってみると、いったい自分はどうしようとしていたのか、まるで分からない。大学を辞職しなければならなくなったという現実をうまく受け止めることができなかった。そこには、精神的な意味での解離が存在していたようにも思える。
 事件が起こった後、私は一冊、OS教団とその事件について本を書いた。その時点では、裁判も進んでおらず、情報も限られていたため、なぜ彼らが前代未聞の事件を引き起こしたのかを十分に解明した内容にはなっていなかった。
 それでも私は、その本を書くことで、一応のけじめをつけたつもりになっていた。それ以降、OS教団のことからは離れようとした。
 けれども、自分が置かれた状況にはまるで変化がなかった。OS教団を擁護した宗教学者という負のレッテル、スティグマは剥がれなかった。
 私は次第に、教団が起こした事件に真正面から取り組む必要があると考えるようになった。この問題に興味を持つ人たちを集めて勉強会を開いたりした。
 調べあげたことを踏まえ、二〇〇一年には大部の本を出すことができた。原稿の枚数は一四〇〇枚にも及んだ。
 反響は大きかった。本が出た直後に、アメリカで同時多発テロが起こったことも、私の本に対する世間の関心を強めることに結びついた。なにしろ本のサブタイトルは、「なぜ宗教はテロリズムを生んだのか」だったからだ。
 反響は大きかったが、それで私のもとに仕事が来るようになったわけではなかった。それどころか、半年にわたって、仕事が何もない時期が訪れた。
 私が病に見舞われたのは、その直後だった。こういった長年にわたるストレスが原因になっているとしか、私には思えなかった。
 入院生活をしている間に、医者から言われた。
「もし感染症を併発していたら、死んでいたかもしれませんね」
 自分でもその感覚はあった。あのまま私は目覚めずに死んでいたかもしれない。その可能性は実際にあったのだ。
 目覚めてから退院するまで一カ月ほどの期間があった。それは、体力を回復させるための期間になった。体重も徐々にではあるが、増えていった。
 そんななか、ある日のこと、私は病院のベッドでテレビを見ていた。
 それはニュース番組だった。番組は、OS教団の教祖の裁判が終わりを迎え、翌年の二月二十七日に東京地裁で判決が出ることを告げていた。
 私は、そのニュースを見て、判決が出れば、大きな変化があるにちがいないと直感した。
 長年にわたって私にまとわりついていた重い空気が消え去っていくのではないか。判決によって、事件に大きなけじめが着く。それは、私がおかれた状況をも変えるはずだ。ニュースに接して、そう思ったのだ。
 その直感は正しかった。

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著者プロフィール

島田 裕巳

宗教学者、作家。
1953年、東京都生まれ。東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業、同大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を経て現在、東京女子大学非常勤講師。
著書に『創価学会』『葬式は、要らない』『キリスト教入門』『靖国神社』『死に方の思想』『「日本人の神」入門――神道の歴史を読み解く』『日本の新宗教』などがある。