あのキャラたちが紹介する「手賀沼ディズニーランド」の計画図(広報あびこ1961.1.1より。一部モザイク処理をしています)
我孫子市にある手賀沼。千葉県民の僕にとって思い出ぶかい地のひとつだが、ここは全国的に「かつて日本一汚かった湖沼」として知られる。
なにせ1974年から27年連続で「水質汚濁ワーストワン」だった。ちなみに平成28年度公共用水域の水質測定結果ではワースト3位。 そんな沼だが、じつは我孫子町を中心に、柏市、当時の沼南村をまたがった「手賀沼ディズニーランド」なる空前のビッグプロジェクトが掲げられ、一時は土地の買収と埋立て、工事まで進んでいた。 壮大すぎる夢の計画は、元東京都知事、後楽園スタヂアム社長、東京都競馬会長、京成電鉄社長、東武鉄道社長らのそうそうたるメンバーにより「全日本観光開発株式会社」が発足し、夢の扉が開こうとしていた。
ライター、番組リサーチャー。打率210 本塁打0 打点3ぐらいの人生ですが、いつかはホームランを打ちたい。好きな即席麺はサッポロ一番みそラーメン。そのほか卓球、競馬、ローカルフードが好き。
前の記事:「1985年誕生「Windows1.0」を触ってみたら、恐怖のおっちょこちょいOSだった」 人気記事:「50年前に2万人の移住で九州文化が大流入! 千葉県君津市はまだ少し九州だった」 > 個人サイト 文化放想ホームランライター 「地味な我孫子」に、一大パークが建設されるはずだった手賀沼ディズニーランドの完成予想図。計画修正後のもの(朝日新聞 1963年1月26日 千葉版(中部)より)
1983年に浦安市でオープンした東京ディズニーランド。その19年前の1964年、東京オリンピックの前までに完成予定だったのが、東洋一の遊園地をめざした「手賀沼ディズニーランド」だった。
それはどんな計画で、どのように頓挫してしまったのか? 情報を集めて、建設予定地の中心だった我孫子へ向かった。 我孫子駅に到着
JR我孫子駅に到着。ここ「我孫子市」は、東葛地域ではスター扱いの「柏市」の影に隠れ、千葉県民の僕たちから見ても、ちょっと地味な市という認識だ。
駅前にある説明板。文人らが別荘を建て、我孫子を愛した。
しかしその歴史は輝かしい。志賀直哉、嘉納治五郎、柳田国男、武者小路実篤、バーナード・リーチといった文人・文化人がこぞって別荘を建てた、東京近郊の人気別荘地で、いまの軽井沢のような場所だったのだ。
だが戦後になると、文化的な別荘地としての地位も徐々に過去のものとなってしまった。そんな折に舞い込んだディズニーランド計画。 大きな財源のない当時の我孫子町はすがる思いでそれに命運を託し、あらゆる面で協力を惜しまなかった。 「我孫子市史」の著者・小林康達さんと歩く「平和の記念碑」のある手賀沼公園
駅から12分ほど歩き、手賀沼に到着。手賀沼は東京にほど近い沼であるが、そこまで観光地化はされておらず、平日の昼の人影はまばらだ。そんな静けさからはじまる今日の旅。
今回はありがたいことに、小林康達さんという、我孫子市教育委員会嘱託職員で郷土史家の方に旅のガイドをしていただいた。 小林さんは手賀沼ディズニーランド計画を詳細に記した「我孫子市史」の執筆者だ。 残念ながら顔写真NGとのことなのでその姿はお見せできないが、今年76歳とは思えない、若々しくハツラツとした方である。 ディズニーになるはずだった計画地を見下ろす図書館などが入った複合施設「アビスタ」
まずやってきたのは、我孫子市生涯学習センター「アビスタ」。我孫子市の郷土資料が集まった図書館などもある複合施設で、街のいこいの場だ。
宅地化でディズニー計画が頓挫した際、開発会社から施設寄付された施設(現在は建て替えられている)
ここには屋上に見晴らしのよい広場がある。
眼下に広がる住宅街
この画像に広がる住宅地。そこは手賀沼ディズニーランドとなる予定地だった。
こちらは2002年(平成14年)の航空写真。赤く色が変わっているところが手賀沼ディズニーの中心的な場所となるはずだった「我孫子地区」のだいたいの敷地だ。 大きな道路があるところぐらいまでが敷地だった(我孫子市史 近現代編より)
この我孫子地区を含め、柏地区と沼南地区を合わせ、総面積30万坪となる予定だった(最終的には70万坪まで拡張する計画も)。
この手賀沼ディズニーランドの敷地予定地はいまでは「若松」という地名になり、北側がもともとあった我孫子新田。南側は新たに埋め立てた土地で構成されている。 こちらは昭和30年の手賀沼の姿。ここから埋め立て地ができていく(提供 我孫子市)
高さ100m! シンボルになるはずだった、手賀沼タワーなおそこから離れた手賀沼西側の岸(柏側の地区)には、目玉施設ができるはずだった。それが手賀沼タワーである。高さは100m。中には多彩な娯楽施設や、売店が立ち並ぶ予定だったのだ。
地上100mの手賀沼タワー。いまある高圧線の鉄塔に近いサイズ。手賀沼公園から撮影
小林さん曰く、「柏市東台東端部(東台は旧地名)」に建設すると説明した資料を見たことがあったそうで、だいたいこのあたりに手賀沼タワーが建つ予定だったという。
なおタワーの形状はわからないので、仮のシルエットを置いた。以下、施設のシルエットなどが多く登場するが、いずれもどんな形になるかはわからないので、同じように仮のもので行う。 なお、新聞によっては「8000m」と書かれたものもある。さすがに誤植だろうが、これがホントだったら高すぎて恐ろしい(が、想像すると楽しい)。 まさかの8000メートルタワー?(読売新聞 1960.3.2より)
ケーブルカーで手賀沼を縦断する手賀沼ディズニーの目玉ライドのひとつが、1kmにもおよぶ長さで我孫子側と沼南側を結ぶケーブルカー。この場所も大体の見当をつけるしかなく、地図と照らし合わせたところ、このあたりと思われる。
手賀沼を眼下に見ながら、優雅に空中旅行を味わえたはず
東京ディズニーランドに昔あった、「トゥモロー(ファンタジー)ランド行きスカイウェイ」のような感じかも知れない。
施設予定地をめぐる西から東へと歩きながら、当時の各施設予定地のあたりがいまどうなっているかを確認していく。
この計画図は大雑把なもので、施設間の正確な距離などを反映したものでは無いが、これをだいたいの参考にする
食堂や簡易宿泊施設などを備えた温泉ヘルスセンターになるとした「パークハウスセンター」のあるあたりは、現在キムチなどを売る韓国食品館に。
宿泊もできる大々的な温泉施設→韓国食品館に
さらに考古学、地質学、天文学、生物学、その他各般にわたる学習研究の場となるはずだった「科学館」のあたりにはリサイクルショップが(休業日?)。「音楽堂」のほうには(つぶれた)レンタルビデオ屋があった。
「科学館」→リサイクルショップ
「音楽堂」→(つぶれた)レンタルビデオ屋
そして多いのは家! 家! 家である。住宅地に転用されたので当然ではあるが。とにかく平坦で歩きやすい、夏の暑い通りを歩く。
埋立地らしく、整然とした町並み
我孫子高校の場所にはジェットコースターがあるはずだった遊園地的なアトラクションが多いのは、いま我孫子高校が建っているあたり。
野球部は強く、2度の甲子園出場を数えるほど。前阪神監督の和田豊も輩出した。そんな名門我孫子高校も、ディズニーランドがあればここに存在しなかったのだ。 我孫子高校がある場所にはジェットコースターや、豆自動車のレーンや子供電車の線路などがあり、子供たちの歓声が上がっているはずであった。 ひときわ遊園地らしい一画
硬派な佇まいの学校に、ジェットコースターの姿を重ね合わせる
さらにこのほか、宙返りロケットや飛行機やメリーゴーランドのほか、なぜか釣り堀や卓球場まで置く予定だったとか。いいな、ディズニーランドの卓球場。
ディズニーに釣り堀。
まさかの「箕輪城再建計画」手賀沼ディズニーでは、室町時代から安土桃山時代にかけて存在したとされる「箕輪城」を再建しようという計画さえあった。しかも白亜六層という立派な天守閣である。
(千葉日報1965.3.28より)
近くには箕輪城の位置を指し示す碑も
もともと建っていた場所に再建されると仮定すると、いま手賀沼病院が建っているところあたりに築城される
それにしても6層の天守閣とは、かなり立派なものを造る予定だったのだろう。有名な城で6層なのは松本城などがあるが、もしこんなお城が「ディズニーランド」にできているシーンを、一度で良いから見てみたかった。
松本城は同じ(5階)6層。これと同じように立派なお城ができていた?
そのほか、運動場やロッジ、博物館らがこのあたりにできる計画だった
「動物が放し飼いになった人工島」まで計画なお将来的に計画されていたのが、1万5000坪に及ぶ「各種動物が放し飼いになった人工島」。我孫子側と沼南側の中間地点にできるはずだったという。
東京ドーム1個分(14149坪)よりちょっと大きい規模で、聞くからにダイナミックすぎるが、危険防止の処置をとった上で「青少年の科学教育に役立てる自然動物園」をめざしていた。 見たかった、人工島の放し飼い動物園
夢の計画、変更と縮小を強いられるまさに夢物語のようだった手賀沼ディズニーランド。しかしここから、計画は変更と縮小を余儀なくされる。
当初手賀沼タワーらを建てる予定であった柏市は、思うように土地買収が進まず、徐々に計画からフェードアウトした。 さらに昭和37年に発表された計画図は、当初予定された計画からガラッと様変わりした。 当初のものとはガラッと変わり、計画図には沼南村側の記載が無い(読売新聞1962年8月11日より)
手賀沼ディズニーランド、頓挫へさらに1963年ごろから、雲行きがどんどんあやしくなる。
手賀沼ディズニーの命運を託された全日本観光開発株式会社は土地を埋め立てたものの、一向に施設工事をはじめない。 さらにその「ディズニーランドを造る」として埋め立てた土地が、よりによって「住宅に転用される」というまことしやかなウワサが広まっていき、それが真実味を帯びてくると、観光都市化を期待していた我孫子の町議会でも、抗議の声が上がった。 なぜ会社側が宅地にしたがったかというと、宅地にしたほうが手っ取り早く儲かるから。当時資金繰りが厳しかった会社は、その決断に迫られていたとされる。 さらに時代は高度成長期。それに伴うマイホーム需要の増加に加え、手賀沼が長年悩むこととなる、著しい「水質汚染」も計画に大きな逆風を吹かせた。 当初のタイムリミットだった「東京オリンピック」に間に合わず……(読売新聞1964年8月4日)
夢の国は、住宅地へそして1965年。住宅化で進んだ手賀沼の水質悪化と、会社の財政悪化を理由に、ディズニー計画の中止と宅地転用の意向を申し入れた。
しかし「公共的レクリエーション施設」を喧伝し、県や町の協力を得て獲得してきた土地を「宅地」に転用することは当初目的と異なり、法に反するのではという議論になり、それは国会にまで発展。 だが最終的には宅地造成が決定。その際、会社から町へ「お詫び金」のような形で土地1万坪と1億円相当の施設が贈られた。その名残が、冒頭の「アビスタ」である。 これといった財源もなく、手賀沼ディズニーランドに賭けた我孫子町の夢は終わった。 手賀沼ディズニーの土地、売られるそして手賀沼ディズニーランドになるはずだった土地は、「我孫子分譲地」として販売された。
1平米あたり16200円均一で販売。
常磐線も通っており交通の便の良い我孫子は、東京のベッドタウンとしての立場を固めることとなった。
いまでは完全なる住宅街に。
さて、ここまでディズニー計画を見ていただいたのだが……実は公式に彼らがディズニー側と接触した記録は見つかっていない。
水面下では交渉が成されていたのかはわからないが、それで「ディズニーランド」の名を掲げて突っ走れた、高度成長期の無鉄砲かつおおらかな空気を感じる。 ディズニーがいなくなった湖に、華を添えて(公式HPより)
夢が終わっても、人生は終わりではない。「夢の国」となる計画が頓挫した我孫子は、そこから東京のベッドタウンとなる命を得た。いまは「現実の国」を生きる人たちの確かな日常があった。
あまり注目されていないが、手賀沼の周りには遊歩道もあり、歩くのはなかなか気持ちが良い。道の駅や温泉施設などもある。 毎年8月上旬には手賀沼花火大会も開催される。夏の華を見ながら、手賀沼ディズニーのランドの儚い夢にも思いを馳せてみてほしい。 なお1998年。脳内出血で倒れた、我孫子在住の手島久さんが作詞した「あびこ手賀沼音頭」という曲が発表されていた。 これには偶然、音楽仲間である「元東京ディズニーランド音楽監督」の、平野桂三さんが曲をつけた歌であった。手賀沼とディズニーランドが奇しくもつながった曲の一節とともに、この記事を終える。 ♪ちょいとあの娘に 声かけて ♪ぎっちら櫓を漕ぎ 蛍狩り ♪手賀沼よいとこ ハアきやしゃんせ。 (毎日新聞1998.6.23より)
|
|
▲デイリーポータルZトップへ | バックナンバーいちらんへ |