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西野ジャパンまとめ ~"無い"ということを論じてみる
2018年07月11日 (水) | 編集 |
本当に退任しちゃうのね西野さん。
というわけで短くも充実していた、西野ジャパンのまとめ。


凡庸だが陳腐ではない

今回のW杯も含めて、西野監督の"実績"が普通に言って立派なものであるのは論を待たないと思いますが、では例えば西野監督が監督学校なりなりを開いた時に、そこで何を教えるのか何を教われるのかと想像すると、意外とよく分からないというか何事かは学ぶものはあるんだろうけれど入学金の振り込みには慎重になるところがあるというか(笑)、まあそういう感じだとは思います。
それぞれの状況で概ね常になにがしかのものは示して来た有能な監督なのは間違いないんですが、一方でこれといった"方法"なり定式化言語化されたものが見当たらず、"何"を教わりに行ったらいいのかというビジョンが持ち難いという。(笑)

"不立文字"なら"不立文字"でもいいんだけれど、そもそも伝えるものがあるのか"門外不出"にするにしても"門"を立てられるのか、"相伝"される"一子"にすらおぼつかないところがあるとかまあ悪乗りはこれくらいにするとして。(笑)

分野を問わず定式化の要求が厳しくなるこの時世で、またその結果良し悪しは別として高い水準に定式化されたものに囲まれて育った世代が主流となって行く中で、こういうタイプの人の価値が認められにくいのは当然だと思いますし、僕も代表監督就任の段階でそれほど積極的に"認めて"いたわけではなかったですが、一方でこういう人だからこそ今回の"成功"をもたらし得たと、そういう面もあると思っています。多くの人に予想外だったろう、成功の。

確かに"新しく"はないし、ソフトとして"売れ"そうな分かり易い特徴もない。しかし新しくないからこそ不明瞭だからこそ、言い換えれば最初から"新しさ"を目指さずに自分の身体性との対話に専心してサッカーと向き合っているからこそ、どの時代でもどの状況でも常にそれなりには通用するものがあるし、意外と"攻略"もし難い対峙し難い、そういうところもあると思います。・・・"論理"的なものは論理で返せますけどね。
それらは五輪でもJリーグでもW杯でも同じで、例えば岡田監督や反町監督や手倉森監督なら悩んだろう、「世界との本番」でどうするかというような特定的な悩みは、西野監督にはほとんどなかったのではないかと。岡田監督などはさぞかし今頃微妙に悔しい思いをしているのではないかと(笑)、そう想像します。
だから「攻撃的」というより、やっぱり「いつも通り」なんだろうと思いますね。"サッカー"をやっただけというか。

・・・ああ、なんか思い出して来ました。2006~2009年くらいの時期、僕は結構本気のレッズファンだったんですが、その時"対戦相手"として見た西野ガンバが実際そんな感じで、ガンバ以外のチームは「攻撃的」だろうと「守備的」だろうと、「南米的」だろうと「欧州的」だろうと、基本的に対処法はあって試合展開の予測もほぼつくんですが、ガンバだけは何回やってもよく分からなくて、やるたびにやってみないとどういう試合になるか、それどころか終わった後も勝っても負けても、今一つ納得感の無いまままあいいやと忘れることにするみたいなそんな感じで(笑)。自分のは勿論人の解説を読んでも、どれも一面だけの説明に思えてそのものずばり感は。
思えばその時点で既に僕にはよく分からない人だったんだなと。(笑)

いっそ何でもないんだと思ってしまえば楽なんですが、こうも"成果"を出されると。(笑)

とにかく「凡庸」ないし「平凡」・・・という言い方はかなり語弊がありますが、分かり易く「非凡」ではない、少なくとも「斬新」ではない、しかし一方でありきたりではない「陳腐」ではない、切り捨てたり理解したりが容易に出来ない、そういう結構厄介な監督かなと。
本人は単に、思う通り感じる通りにやってるだけなんでしょうけどね。その都度。実はそれ自体結構難しい事かも。しかもこのレベルで。

"陳腐"ではないというのはある意味当たり前のことで、陳腐、あるいは「類型」性というのは、「形」の世界、定式化されたものの世界の中で身の置き所を探すから生じて来る性格で、"新しさ"などというものもその中で"違い"を主張する行為なわけですが、西野監督は最初からそういうものとは余り縁が無い。
逆にだから情報としては"新しい"ものが含まれていても全体として陳腐なもの型にはまったものというのはいくらでもあるし、"新しい"ものが"新しい"からこそやがて古くなって新たな「類型」となって次の"新しい"ものと喧嘩するなんてことは、当たり前のようにある皮肉なわけですが。

そろそろまとめなければいけませんが(笑)、例えばセネガル戦の時"終わらない"西野監督の不思議という話をしましたが、それもまあ、要するに最初から新しくないから古くならないというか、始まらないから終わらない?、それはあんまりか(笑)、とにかくそういう西野監督の非時間的な性格から来るものでしょうね。
似たような"不朽性"は例えばアレックス・ファーガソン松本育夫さんなんかにも僕は感じますが、ただ彼らの場合はどちらかというと"総監督"的な目線の高さ、一歩下がった自己意識によりそれを獲得している面が強いと思いますが、西野さんの仕事ぶりはむしろ自己沈潜的、あえて言えば"低さ狭さ"の方を強く感じるので、また少し違う例だなと。(ただしサッカー的には"総監督"的なバランス志向)

某アーセナルのベンゲルさんなんかの場合は、"総監督"的立ち位置でありながら"監督"であり過ぎた留まり過ぎたのが仕事の評価を難しく(古く?)している気がしますが、まあこれは余談か。これはこれで西野監督と対照的な例と、言えなくはないかも知れませんが。
そろそろ次に行きます。(笑)


"無戦術"ということの意味

今回見かけた"識者"系の論の中では、前フットボリスタ編集長の木村浩嗣氏のこの文章が、面白かったというか琴線に触れたというか。

ロシアW杯18日目。日本、史上ベストマッチとメキシコの限界。日本なら“戦術無き戦術”もありか?(yahoo!ニュース)

が、それ[メキシコの"良質な"サッカー]が通用するのは一流レベルまでで、ブラジルのような超一流には歯が立たない。
(中略)
時間の経過とともにスコア差が開いていくのは必然だった。極めて堅実な、論理的とさえ呼べるブラジルの勝利であり、彼らの強さとメキシコの限界がよく見えた。

誰か日本の戦術は何だったか言えますか? カウンター? ポゼッション? 両方であり、同時にどちらでもなかった。体力、展開、スコア、時間帯によって日本はラインを上げたり下げたりし、相手GKへもプレッシャーを掛けたし、11人が自陣に引き籠りもした。主要なトーンは前から行く、であり、全4戦の中で最も攻撃的な姿勢だったが、それが支配的というわけではなかった。

攻撃ルートはサイド。これは明確だった。


「ブラジル×メキシコ戦との比較」「サイド攻撃への注目」(ベルギー戦評)、「良くも悪くも不定形な("アトランタ"式?)戦い方の面白み」(コロンビア戦評)と、単純に着目点が似ているということでもありますが。

まあ"似ている"だけなのでより具体的には、木村氏自身の文章を読むべきですが(笑)、とにかく更に木村氏は、こんなことも言っています。

運動量と規律、犠牲的精神で“無戦術”が成立

悪く言えば個のツギハギなのだが、叩き込まれた規律を遵守する日本人ならそれでもチームとして成立する。少々の戦術的綻びをカバーする運動量がベースとしてあり、その上で、献身的で犠牲的な精神を決して忘れず、エゴイスティックなプレーに走ってチームがバラバラになることはない。(中略)
“スタイルが無いのがスタイル”というのは日本ならありかもしれない。

"無戦術"というのは随分思い切った言い方ですし、また木村氏はこれを"メキシコが突破出来ない壁を突破する為の逆転の発想"として提示しているようで、そこまでの狙いは僕は持っていませんが、言いたいこと、言いたくなる気持ちは何となく分かります。
・・・どうなんですかね、前に西部謙司さんがブラジルの第3戦コロンビア戦での"無秩序アタック"妙に評価していましたが、普段論理的な人ならではのいよいよとなった時の意外なロマン性なんでしょうかこれは。(笑)


僕自身が"無戦術"という言い方で思い浮かべた/思い出したのは、こういうことです。

加茂ゾーンプレスによって日本に"プレッシング"という(守備)戦術が本格導入され、またそれは当初の違和感からすれば随分とスムーズに日本サッカーに浸透したと思いますが、それによって一つ起きたのは、サッカーの(特に守備の)"二分化"、即ち「前から激しくプレスするか」「がっつり引いて守るか」の二つ、別な言い方をするとそのどちらかを意図的に徹底しないチームは要するに「守れない」、チームが崩壊する、そういう直接的には"論"調ですがほとんど現実の方もその通りに展開する形で、ある時期以降の日本サッカー・Jリーグは落ち着いて(?)行ったと思います。

実際にそうなんだからそうなんだろうと思いつつも僕が引っかかっていたのは、でも"プレッシング"とそれを武器として登場したオランダトータルフットボールやサッキミランは「革命」だったんだよね、それで"優越"していたわけだよね、だから当然「革命」"以前"というのも存在するわけだし、「革命」"でない"並みの(笑)サッカーというのも存在する/したわけだよね、それはどうだったのどうなってるのと。プレッシングじゃないからと言って、みんながみんながベタ引きしてたわけじゃないよね、それじゃ競技が成立しないよね?(笑)

何かもっと中間的な、あるいはそこまで極端ではない中庸的なサッカーのあり方があったはず、あったどころかむしろそれが大多数であったはずだと考えられるわけですが、そういう前の時代の"常識"や"日常"性というのはなかなか言語化され難いし、また当事者にとっては当たり前のものなので言語化の意識すら持たれることが稀なんだろうと思いますが、とにかく論理的には、あったはずなんですよね。それはどこへ行ったんだろうどういうものだっんだろうという。欧州トップシーンならいざ知らず、この片田舎のリーグでも、それらの"痕跡"はなかなか見出し難い。

例えば「二分化」の時代においても、一種の"緩衝材"としてのポゼッション/ボールキープの技術というものは様々な形で働いてはいますし、また近年では"プレッシング"の位置自体を前だけでなく真ん中、後ろと多段階的に設定する考え方も一般化しては来ています。それらは「中間」を埋めるものではあるでしょう。ただだからといって本当に"守備の手段"としてポゼッションをコンスタントに意図的に活用したチームは、森保サンフくらいしか実在しない気がしますし、プレッシングの多段階性というのは既に言ったように近年一般化したものです。
何よりそれらは"所詮"と言ってはなんですが定式的なものでしかなくて、僕の関心のある(前時代的)曖昧性日常性の、どこまで行っても近似的な代用品でしかない。

まあサッカーの「考古学」自体はマイナーな関心に過ぎないわけですが、ただ"二分法"の現実性を受け入れつつも、またそこに"ポゼッション"を加えてもいいですけど、ただそれだけでは語れない、あるいはそれら「型取り」を実際に機能させるもっと不定形な現実性があって、それらこそが実際のチームの成功不成功を左右しているようにも思うしそしてそれらは実は"前時代"から引き継がれてもいるものではないのかと、そういう感覚も僕は持っているんですよね。
ここらへんのリアリティをとにかくなるべく細かく考えたいという僕の志向は、例えば少し前に書いた「"ゲームメイク"の発展段階仮説」論などにも表れていると思いますがそれはともかく。


さて西野ジャパンですが。
思うにこのチームは、あるいは"西野監督の"チームというのは、そういう"前時代的な不定形な現実性"が、前面に出ている、むしろ"主役"として活躍している、そういうチームのように思うんですよね。「カウンター」「ポゼッション」「プレッシャー」「引き籠り」(木村氏)といった諸概念に型取られつつも、そのものではない。

何やら"革袋"の「中身」が飛び出してウニョウニョ自力で活動しているような落ち着かない感じはしますが、それは多分「概念」に守られ慣れた我々がヤワなので(笑)、昔の人はそれで平気なんでしょう。勿論西野監督も平気。
そして面白いのはそういう"前時代的"リアリティに満ちたサッカーが、この2018年のW杯本大会などという舞台でも意外と通用しちゃってることで、そのことを木村氏も面白がっている(笑)。「個のツギハギ」(の綻び)を「運動量と選手個人の規律でカバーする」という木村氏の当面の分析は、少し表層的に過ぎる、つまりそもそもの"西野監督の接合力"という(僕の考える)事態の本体に届いていない気はしますが、ただ"面白がる"姿勢があるのはいいと思います。信頼出来る人だなと思いました。虚心な観察の出来る人というか。

西野監督としては単に"サッカー"をやっただけで、そしてそれしか出来ないんでしょうけど、どんな舞台でも。
若干"天然"の疑いもありますが(笑)、やり切った根性"背骨"の太さには、感銘を受けました。一つの言い方ですが、例えばこれは、ジーコがやりたくて出来なかったことでもあると思います。ジーコの場合は、実はジーコなりの「観念」化「概念」化が先行して、それが"自然"の発露を妨げていたのではないかと僕は思っていますが、ともかく西野監督の方が自分の身体性を信じてそれを現実化する力が強かったと、そういうことになると思います。

まあ何ですかね、サッカーの進化の"ミッシングリンク"を目撃したというか、科学時代にもどっこい生きている"精霊"の働きを見たというか、そんな気にはなりましたかね(笑)。来たれ風の精よ。ピューー、あ、ちゃんと飛んだみたいな(笑)。そりゃそうだ、風は風だもん。何で起こそうと。


西野ジャパンはなぜ成功したか

最後にいきなり今更な感じの話ですが。
これは凄く簡単な話で、もう1試合目から自分的には結論が出ていました。
それは「チームをまとめて、"戦える"状態で大会に入れたから」、それだけだと思います。
戦術的サッカー的に、何かが「証明」されたというよりも。

つまり毎度戦前戦後には様々"戦術"的な議論が喧々諤々されたりはするんですが、「世界大会の本番」という極限の緊張にしかも基本短期決戦で放り込まれるチームの問題としては、特に普段レベルの高い試合をする機会に恵まれない極東の代表チームとしては、どんな戦術を取るかそれ自体よりもいかに意思統一してかつむしろごちゃごちゃと複雑なことを考えないで済む状態で試合に臨めるかが、結局は成績を決定していると、そのように過去のフル代表五輪代表等の「世界大会」での戦いを見ると思えるわけです。
戦術やその選択というのもむしろその為にあるというか、戦術"で"勝つというよりも。だからいい戦術というのは、消化出来る戦術。出来ている戦術。邪魔にならない戦術。戦術元気で留守がいい。少なくとも最初は。

だから今回の西野ジャパンの"成功"を見ても(例えば)「パスサッカーがいい」とは言えないと思いますし、一方でいかにも"消化"に苦労していたハリルホジッチの戦術も、本番で有効に機能した見込みはそんなに高くないと僕は思います。まあ決勝トーナメントくらいまで行けば、確かに役に立ったかもしれませんけどね。

ハリル激白!日本代表のベルギー戦逆転負けに「私が監督だったら…」(サンスポ)

「もし私がベンチに座っていたら、日本は2-0のリードを失うことはなかった。それは保証できるね。なぜなら私は、ベルギーに3点を奪われないために、どう動けば良いか分かっているからだ」

そうかも知れないし(誰かが)そう言うかなとは思いましたが(笑)、基本的には余り言うべきではないタイプのタラレバ。なぜなら外野ではなく当事者"候補"であったハリルホジッチが本当に問題とされるべきは、「予選リーグを突破して決勝トーナメント1回戦のベルギー戦で2-0でリードする」というその状況までハリルホジッチならたどり着けたかの方なので、その"先"の話だけしてもしょうがないというか不公平に過ぎるというか。
勿論たどり着けたかもしれないですし出来ないと言うつもりはないですが、証明の方法は無いわけで。

まあでも、あの"2点差"を守れないのはあの後のベルギーの動きへの対応がスムーズでなかったのは、ご本人も言う通り("定式"性の薄い)西野監督の「方法」の、弱点ではあったでしょうね。残念です。(笑)
とにかく"毎回"それではしょうがない気はするんですけど、でも結局"毎回"世界大会の後に思うのは思い出すのは、「要はいかに落ち着いて大会に入れるかだよな」ということで。次の4年でつい忘れるんですけど。(笑)

それに西野監督は成功した。それが成功の"理由"。最も簡単に言った。


西野ジャパンの、また「西野監督の」まとめとしては、こんなところですかね。
「日本代表の」とまで広げると、また少し違う論じ方も必要になると思いますが。
まあよくやりました、立派でしたよ。ベルギー戦後のテレビインタビューでの、西野さんのほとんど泣きながらの「何が足りないんでしょうね」という"本気"の悔しがり方が、あの人が一切のエクスキューズを自分に与えずに戦っていた、「これが今の自分の全てだ」と衒いなく言える戦いをしたことの、驚くほど素直な証明だったと思います。
日本サッカーにまた一つ、名場面が生まれたと思いましたね。あの録画は永久保存にします。(笑)

客観的に見ると「あの準備期間でよく」とか、何ら「先端的知見」とかとは無縁のところでよく臆しもせずとか考えてしまうんですが、本当に関係無いんでしょうねあの人には。
続けるんじゃないかと思ったんですけどね(笑)、あの悔しがり方を見た時は。あそこまで悔しがれるのなら、全然現役じゃないかと。それはそれでまた別だったらしい。(笑)

森保さんですか。
まあ"クリンスマン"や"ドナドニ"よりは、文脈は設定しやすいかも。いずれ解任されるにしても。(おい)
まあ楽しい記事を書ける代表になるといいですね。楽しかったです、西野さん。(笑)


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テーマ:サッカー日本代表
ジャンル:スポーツ
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