想像と力
リザヴェータがカチェリーナをモデルとして描いた絵は、予想以上の高い評価を得て注目を集めていた。写実的な画風でカチェリーナの裸体を描いたため、興味本位で見られる部分も大きかったが、話題を呼んでいるのに間違いはなかった。このリザヴェータの成功を複雑な想いで眺めていたのが妹のグルーシェンカである。リザヴェータとグルーシェンカは天才姉妹として評判であるが、グルーシェンカはこの大好きな姉の才能が花開くのを喜べないのである。グルーシェンカは懺悔室に向かうような気持ちでカチェリーナの部屋を訪れた。
「実はわたしは今まで誰にも話してないことがありまして」
グルーシェンカが切り出すと、ベッドに寝転がっていたカチェリーナが半身を起こした。いつ見てもグルーシェンカはその金色の髪の美しさに打たれるのだが、今はひときわ悲劇的な輝きを持っていた。リザヴェータが描いたカチェリーナ像と実物のカチェリーナが美しさを競い合い、照応し合っているような印象を与えてくる。キャミソール姿のカチェリーナは女らしい肉付きに欠けているが、その痩せぎすの長い手足は特別なスタイルのよさを誇示しており、平均より小柄な彼女があまり小さく見えない。
カチェリーナは黙ったまま、グルーシェンカの言葉を待っていた。どのような重大な発言も、俗世の何てことのない出来事として受け止めるような表情をしていた。
「わたしとリザヴェータ姉さんは天才姉妹と言われています。でもこれは真っ赤な嘘なのです。天才なのは姉さんだけで、わたしはまったく天才ではないのです」
グルーシェンカがこんなことを他人に打ち明けるのは初めてである。カチェリーナの前に立つと隠し事が無意味に思えてくるのだ。
「どういうことだろう。経歴詐称していたということか」
「経歴は本当です。わたしが飛び級でスタンフォード大学を卒業しているのは本当です。しかし秀才であるのは確かですが、どう転んでも天才にはならない人物なのです。これからわたしはさらし者のような人生を歩むんです。本物の天才であるリザヴェータ姉さんは栄達を極めるでしょう。わたしは周囲から多大な期待をされながらも、単なる早熟な秀才であったという地金を暴露されていくのです」
「リザヴェータの絵を見てノイローゼになったんだろう。わたしもあいつの画才に嫉妬して発狂してたからよくわかる」
「これは以前から悩んでいた問題なのです。わたしはニセモノの天才なのに、本物の天才である姉さんと並び称されている違和感です。大人になればわたしはただの人になるのは明らかなので、人々を大きく失望させる確定的な未来に怯えてるのです」
「おまえは『想像と力』という本を出してるよな。10代の少女がラテン語の文献の読解とか駆使して想像力について語った本だ。これはなかなかよい本だが、他人に書かせてるのか」
「全部自分で書いてます。わたしは語学がかなり得意なのでラテン語も完璧です。参考文献に並べた大量の文献は全部読んでます。でも、この本は所詮はいろんな文献を読んで要約しただけなのです。学問的に新たな視点を提示したとか、そういう要素は皆無です。10代の少女が書いたという早熟性がすごいだけで、仮に50歳のおっさんが書いていたらまったく価値がない本です」
カチェリーナは少し考えているようだったが、やがて口を開いた。
「天才の多くは頑固なんだが、おまえは柔軟性がありすぎるよな。頭脳が明晰すぎて、あっさり物事を理解して終わってしまう。裏表があるから、あまり天才には向いていない。天才は馬鹿正直が多いんだ。だが、それは生まれ持った性格だからな。天才になるために頑迷な人間になるとか、そんなことは出来ないだろう」
そう言われると、グルーシェンカはすべてを見抜かれたような気がした。さすがにカチェリーナはその場しのぎのなぐさめなど言わず、グルーシェンカの本質的な問題を言い当てたのだ。
「しかしおまえくらいに現実が見えている人間はいないのではなかろうか。それを活かして天才になることは出来るだろう」
「現実が見えてない方が天才になれるんです。わたしは視野が広すぎて天才的な思考が出来ません」
「それでも普通に成功することは可能だろう」
「わたしは京都大学の教授なら今すぐなれるんです。経済学部ですけど」
「おまえ経済学とか出来るのか」
「経済学は出来ませんが、ポストを得るのに必要な世渡り能力はあります。経済学が出来もしないのに京大経済学部教授になり、当然ながら経済の論文など一本も書かずに退官まで過ごすことも可能なのです。そういう恥知らずな未来をわたしはとても恐れているのです」
「勝ち組になれるならそれでいいのではなかろうか」
「カチェリーナ様を失望させるのが恐ろしいのです。天才少女と謳われているわたしが、ニセモノの天才としてあわれな地金を晒していく人生を歩むのは耐えられません。カチェリーナ様は幼少期にまともな教育を受けてないとはいえ、生まれつきの知能がかなり高いので、いずれわたしの欺瞞性を見抜くでしょう」
「とりあえずわたしと寝るのがいいと思う」
カチェリーナが細くて長い手をグルーシェンカの頬に伸ばした。このような美の化身を前にすると、グルーシェンカは自分を恥じるしかないのである。偽りだらけの自分が、このような絶対的な美に触れるなどあり得ない。
「カチェリーナ様と寝るような資格はわたしにはないのです。今後ニセモノとして腐敗していくわたしが、カチェリーナ様のような本物と触れ合うことなど出来ません」
グルーシェンカはカチェリーナの手を振り払った。カチェリーナはかなりの虚弱体質なので、カチェリーナが無理矢理グルーシェンカを押し倒すのは無理である。
「おまえはそこらへんの立ちんぼと同じレベルのゴミだろう」
「そうです」
グルーシェンカは卑下するしかなかった。
「だったら10ドルでやらせろ。おまえの価値はそれくらいだ」
カチェリーナが紙幣を差し出してきた。
グルーシェンカはそれを受け取るしかなかった。
人類という出来損ないがうごめく地球という大地はたいていは腐臭に満ちたソドムであり、死斑だらけの光景が広がり、凶相を浮かべた娼婦が奇形を生んでは荼毘に付されていく永遠回帰を演じており、この地獄絵図には救いなどないのだが、楽園から爪弾きにされ地べたを這い回る嬰児でも美的観念だけは持っており、その理想だけは手放さないのだ。治安の悪い都市の片隅で汚れたコンクリートに身体を横たえ、朽ち果てながら虫の息で生き長らえている男でさえ、30秒に一度は天使の裸を思い浮かべる。
悪いことに、天使そのままのような少女はごく稀に存在しており、この地球上に生息しているのだ。天使がそのキャミソールの肩紐に指をかければ、この暗澹たる流刑地の背景の中でさえ、天界にいる時と同じ素肌があらわれる。その透き通る肌に触れることが出来るなら、絶対的な美の快楽のすべてを消費することが出来るのだ。これが人生の絶望の根源であり、その手に入らない美に恋い焦がれ、楽園から追放された境遇に気づかされるのである。
はからずも天才と僭称していたグルーシェンカも、楽園から追放された存在である自覚を持っていた。無為に聖書の字句を諳んじ、無聊を託つ時間を紛らすために俗塵に関わっていたわけだが、その欺瞞の空間に天使が手を差し伸べてきたのである。その白い素肌は、このような超越的な美を顕現させることが人を絶望に導くという意味で、とても罪深いように思えたが、グルーシェンカはその天使の指先に導かれて、本来なら自分が拒絶されるべき世界に立ち入ったのである。人間存在をいましめているあらゆる門が軽々と開かれ、禁じられていたことが何もかも赦され、絶対的な美の最深部までまざまざと目にし、その賓客として悦楽に浸った。
「わたしとしては、こういう豪邸に住んでいる育ちのいい上流階級の令嬢と寝るのが夢だったからな」
カチェリーナのそういう言葉でグルーシェンカは現世に立ち戻った。
周りを見回して、さきほどの奇跡が現実だったことを確認した。
「グルーシェンカと寝ることを何度も空想していたが、現実はそれ以上に素晴らしかった。人生で最高の気分だと言っていい。今までおまえの悪魔的な言動にずいぶん痛めつけられているから、こんなに可愛らしいお姫様だとは思わなんだ。やはり貴族の令嬢は特別であり、わたしのように育ちの悪い人間では足下にも及ばない気品がある」
「わたしはカチェリーナ様の美しさに圧倒されているだけでした」
「わたしは生まれてから15年間ひとりも友達がいないわけだが、こういう関係にもなったのだから、友達になってくれてもいいだろう」
カチェリーナは半身を起こしながら、寝ているグルーシェンカの髪を撫でた。
「嫌です。一時的に友達になっても、いずれカチェリーナ様が失望して立ち去ることを考えると、なりたくありません」
グルーシェンカは歓びに浸りながらも自分を恥じていた。カチェリーナの美の絶対性を余すところなく体験したので、ある種の引け目も生じたのだ。
「ゴッホとゴーギャンは喧嘩別れをしたが、それによって二人の絆がニセモノだったと言えるだろうか。わたしたちは偉大なことをやろうとしてるのだから、決裂することくらい当然あるだろう」
カチェリーナからそう言われると、グルーシェンカはこの現在に身を委ねてもいいような気がした。この瞬間にふたりの絆を感じていられるなら、それでいいのだ。
「わかりました。友達になりましょう」
「これでグルーシェンカは攻略だな。次はリザヴェータだ」
カチェリーナは素っ気なかった。
「あなたはもっと人の気持ちを考えてから発言した方がいいと思いますよ」
グルーシェンカはふて腐れてみせたが、カチェリーナがいつも通りであることに安心した。
「実はわたしは今まで誰にも話してないことがありまして」
グルーシェンカが切り出すと、ベッドに寝転がっていたカチェリーナが半身を起こした。いつ見てもグルーシェンカはその金色の髪の美しさに打たれるのだが、今はひときわ悲劇的な輝きを持っていた。リザヴェータが描いたカチェリーナ像と実物のカチェリーナが美しさを競い合い、照応し合っているような印象を与えてくる。キャミソール姿のカチェリーナは女らしい肉付きに欠けているが、その痩せぎすの長い手足は特別なスタイルのよさを誇示しており、平均より小柄な彼女があまり小さく見えない。
カチェリーナは黙ったまま、グルーシェンカの言葉を待っていた。どのような重大な発言も、俗世の何てことのない出来事として受け止めるような表情をしていた。
「わたしとリザヴェータ姉さんは天才姉妹と言われています。でもこれは真っ赤な嘘なのです。天才なのは姉さんだけで、わたしはまったく天才ではないのです」
グルーシェンカがこんなことを他人に打ち明けるのは初めてである。カチェリーナの前に立つと隠し事が無意味に思えてくるのだ。
「どういうことだろう。経歴詐称していたということか」
「経歴は本当です。わたしが飛び級でスタンフォード大学を卒業しているのは本当です。しかし秀才であるのは確かですが、どう転んでも天才にはならない人物なのです。これからわたしはさらし者のような人生を歩むんです。本物の天才であるリザヴェータ姉さんは栄達を極めるでしょう。わたしは周囲から多大な期待をされながらも、単なる早熟な秀才であったという地金を暴露されていくのです」
「リザヴェータの絵を見てノイローゼになったんだろう。わたしもあいつの画才に嫉妬して発狂してたからよくわかる」
「これは以前から悩んでいた問題なのです。わたしはニセモノの天才なのに、本物の天才である姉さんと並び称されている違和感です。大人になればわたしはただの人になるのは明らかなので、人々を大きく失望させる確定的な未来に怯えてるのです」
「おまえは『想像と力』という本を出してるよな。10代の少女がラテン語の文献の読解とか駆使して想像力について語った本だ。これはなかなかよい本だが、他人に書かせてるのか」
「全部自分で書いてます。わたしは語学がかなり得意なのでラテン語も完璧です。参考文献に並べた大量の文献は全部読んでます。でも、この本は所詮はいろんな文献を読んで要約しただけなのです。学問的に新たな視点を提示したとか、そういう要素は皆無です。10代の少女が書いたという早熟性がすごいだけで、仮に50歳のおっさんが書いていたらまったく価値がない本です」
カチェリーナは少し考えているようだったが、やがて口を開いた。
「天才の多くは頑固なんだが、おまえは柔軟性がありすぎるよな。頭脳が明晰すぎて、あっさり物事を理解して終わってしまう。裏表があるから、あまり天才には向いていない。天才は馬鹿正直が多いんだ。だが、それは生まれ持った性格だからな。天才になるために頑迷な人間になるとか、そんなことは出来ないだろう」
そう言われると、グルーシェンカはすべてを見抜かれたような気がした。さすがにカチェリーナはその場しのぎのなぐさめなど言わず、グルーシェンカの本質的な問題を言い当てたのだ。
「しかしおまえくらいに現実が見えている人間はいないのではなかろうか。それを活かして天才になることは出来るだろう」
「現実が見えてない方が天才になれるんです。わたしは視野が広すぎて天才的な思考が出来ません」
「それでも普通に成功することは可能だろう」
「わたしは京都大学の教授なら今すぐなれるんです。経済学部ですけど」
「おまえ経済学とか出来るのか」
「経済学は出来ませんが、ポストを得るのに必要な世渡り能力はあります。経済学が出来もしないのに京大経済学部教授になり、当然ながら経済の論文など一本も書かずに退官まで過ごすことも可能なのです。そういう恥知らずな未来をわたしはとても恐れているのです」
「勝ち組になれるならそれでいいのではなかろうか」
「カチェリーナ様を失望させるのが恐ろしいのです。天才少女と謳われているわたしが、ニセモノの天才としてあわれな地金を晒していく人生を歩むのは耐えられません。カチェリーナ様は幼少期にまともな教育を受けてないとはいえ、生まれつきの知能がかなり高いので、いずれわたしの欺瞞性を見抜くでしょう」
「とりあえずわたしと寝るのがいいと思う」
カチェリーナが細くて長い手をグルーシェンカの頬に伸ばした。このような美の化身を前にすると、グルーシェンカは自分を恥じるしかないのである。偽りだらけの自分が、このような絶対的な美に触れるなどあり得ない。
「カチェリーナ様と寝るような資格はわたしにはないのです。今後ニセモノとして腐敗していくわたしが、カチェリーナ様のような本物と触れ合うことなど出来ません」
グルーシェンカはカチェリーナの手を振り払った。カチェリーナはかなりの虚弱体質なので、カチェリーナが無理矢理グルーシェンカを押し倒すのは無理である。
「おまえはそこらへんの立ちんぼと同じレベルのゴミだろう」
「そうです」
グルーシェンカは卑下するしかなかった。
「だったら10ドルでやらせろ。おまえの価値はそれくらいだ」
カチェリーナが紙幣を差し出してきた。
グルーシェンカはそれを受け取るしかなかった。
人類という出来損ないがうごめく地球という大地はたいていは腐臭に満ちたソドムであり、死斑だらけの光景が広がり、凶相を浮かべた娼婦が奇形を生んでは荼毘に付されていく永遠回帰を演じており、この地獄絵図には救いなどないのだが、楽園から爪弾きにされ地べたを這い回る嬰児でも美的観念だけは持っており、その理想だけは手放さないのだ。治安の悪い都市の片隅で汚れたコンクリートに身体を横たえ、朽ち果てながら虫の息で生き長らえている男でさえ、30秒に一度は天使の裸を思い浮かべる。
悪いことに、天使そのままのような少女はごく稀に存在しており、この地球上に生息しているのだ。天使がそのキャミソールの肩紐に指をかければ、この暗澹たる流刑地の背景の中でさえ、天界にいる時と同じ素肌があらわれる。その透き通る肌に触れることが出来るなら、絶対的な美の快楽のすべてを消費することが出来るのだ。これが人生の絶望の根源であり、その手に入らない美に恋い焦がれ、楽園から追放された境遇に気づかされるのである。
はからずも天才と僭称していたグルーシェンカも、楽園から追放された存在である自覚を持っていた。無為に聖書の字句を諳んじ、無聊を託つ時間を紛らすために俗塵に関わっていたわけだが、その欺瞞の空間に天使が手を差し伸べてきたのである。その白い素肌は、このような超越的な美を顕現させることが人を絶望に導くという意味で、とても罪深いように思えたが、グルーシェンカはその天使の指先に導かれて、本来なら自分が拒絶されるべき世界に立ち入ったのである。人間存在をいましめているあらゆる門が軽々と開かれ、禁じられていたことが何もかも赦され、絶対的な美の最深部までまざまざと目にし、その賓客として悦楽に浸った。
「わたしとしては、こういう豪邸に住んでいる育ちのいい上流階級の令嬢と寝るのが夢だったからな」
カチェリーナのそういう言葉でグルーシェンカは現世に立ち戻った。
周りを見回して、さきほどの奇跡が現実だったことを確認した。
「グルーシェンカと寝ることを何度も空想していたが、現実はそれ以上に素晴らしかった。人生で最高の気分だと言っていい。今までおまえの悪魔的な言動にずいぶん痛めつけられているから、こんなに可愛らしいお姫様だとは思わなんだ。やはり貴族の令嬢は特別であり、わたしのように育ちの悪い人間では足下にも及ばない気品がある」
「わたしはカチェリーナ様の美しさに圧倒されているだけでした」
「わたしは生まれてから15年間ひとりも友達がいないわけだが、こういう関係にもなったのだから、友達になってくれてもいいだろう」
カチェリーナは半身を起こしながら、寝ているグルーシェンカの髪を撫でた。
「嫌です。一時的に友達になっても、いずれカチェリーナ様が失望して立ち去ることを考えると、なりたくありません」
グルーシェンカは歓びに浸りながらも自分を恥じていた。カチェリーナの美の絶対性を余すところなく体験したので、ある種の引け目も生じたのだ。
「ゴッホとゴーギャンは喧嘩別れをしたが、それによって二人の絆がニセモノだったと言えるだろうか。わたしたちは偉大なことをやろうとしてるのだから、決裂することくらい当然あるだろう」
カチェリーナからそう言われると、グルーシェンカはこの現在に身を委ねてもいいような気がした。この瞬間にふたりの絆を感じていられるなら、それでいいのだ。
「わかりました。友達になりましょう」
「これでグルーシェンカは攻略だな。次はリザヴェータだ」
カチェリーナは素っ気なかった。
「あなたはもっと人の気持ちを考えてから発言した方がいいと思いますよ」
グルーシェンカはふて腐れてみせたが、カチェリーナがいつも通りであることに安心した。