敏感の彼方に

HSPエンジニアがお送りする、前のめりブローグ

「そこそこの人生」を作っては壊しながら「生きる意味」を考える人たち

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乳幼児を見ていると、積み木でもブロックでも砂場遊びでも、何かを作っては壊し、ということを飽きずに延々とやっている場合が多い。人間は、「つくる」ことと同じかそれ以上に、「こわす」ことが好きらしい。

 

最近、ムスメAのホームステイ先から家族プロフィールがやってきたのだが、その家庭の男児の趣味の1つとして、「building & destroying」と書かれていた。こういうのを見ても、「つくる」「こわす」が万国共通の「趣味」であることが分かる。

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「モノ」を作って壊す

人が「モノ」を作る理由はいろいろある。

 

身体と五感をフルに活用して、リアルな世界に何かを作り上げることで、自分自身が同じリアルな世界に存在していることを確認する意味もあるんだろうし、「完成」という未来の状態に向かって進むことで、自分が何らかの「理想」に近づいている充足感を味わう意味もあるんだろう。

 

そうやって苦労して作り上げた「モノ」を壊す理由もいろいろある。

 

「完成」という究極の状態(それ以上前に進めない状態)に到達して、「理想」を追い求める悦びがなくなってしまったため、そのような状態を一旦リセットする意味もあるんだろうし、自分がかつて追い求めた「理想」なんかに本当は大きな意味などなかった、ということを確認する意味もあるんだろう。

 

「社会」を作って壊す

同じことが「社会」についても言える。

 

戦争という「破壊」を出発点として、戦後の高度経済成長期には、「平和な社会」「民主的な社会」「三種の神器」「持ち家」といった共通の理想を掲げ、そのような理想に向かって多くの人が、苦しみながらも前向きに「社会」を作ってきた。

 

社会を作り上げることで、「何故そこに存在するのか?」「なぜ生きるのか?」という「実存」問題の答えを(表面的かもしれないが)十分に確かめることができただろうし、未来に向かう充足感もたっぷりと味わえただろう。

 

しかし、バブルが崩壊する前には既に、「完成」という究極の状態(それ以上前に進めない状態)に到達し、社会全体として「理想」を追い求める悦びがなくなってしまった。

 

もはや、(特にモノを)作る悦びがほとんどない状況である。

 

そして、1995 年3月

理想に向かって前進したり上昇したりするモチベーションがなくなり、理想でもって「実存」の問題を解決できなくなったら、次にできることは「破壊」しかない、という考えは、特殊なようで、実は多くの人々の意識に内面化されているような気もする。

 

www3.nhk.or.jp

 

「生きる意味を見出せないから世界を変革する」というのはあまりに短絡的すぎるし、このような事件のせいで、「実存」を考えること自体が「危険でおかしな行為」と見なされるようになってしまったのは、とても残念でならないが、たとえどんな状況になっても、人間の中の「実存」と「破壊」の底流が消えてなくなることはない。

 

そして、必然ではなく単なる偶然だと思うが、この事件と機を同じくして、「インターネット」という「救世主」が日本でも浸透し始めた。

 

「あちら側」に実存する

以下では、『ウェブ進化論』に倣って、ネットの世界を「あちら側」、リアルの世界を「こちら側」と呼ぶことにする。

 

www.overthesensitivity.com

 

もはや「こちら側」で作るものがほとんどなくなり、かと言って、作り上げたものを「壊す」ことなど常識的にはできっこない状況において、そのような実存の隙間を埋め合わせてくれる数々の「虚構」が「あちら側」で増殖し続けている。

 

ゲームもアニメもマンガも、最近では仮想通貨なんかも、「あちら側」で実存の隙間を埋めてくれている。映画、ニュースやスポーツの動画など、ありとあらゆるコンテンツが「あちら側」を充実させてくれている。

 

こうなってくると、もはや「実存」を問えなくなった「こちら側」がバーチャルな世界となり、「あちら側」がリアルに近づいていくような錯覚に襲われる。

 

バーチャルな「こちら側」で働き、飲食し、寝起きし、それで身体が満たされたら、リアルな「あちら側」に移動して、脳を満たそうとする。

 

「こちら側」では教育や倫理・道徳、コミュニティとの相互作用などによって縛られている「不自由」な自己愛や承認欲求、競争心などを「あちら側」で存分に楽しみ、フェイクニュースに「フムフム」とうなずいてみたりする。気が付いたら、それらをすべて「リアル」と思い込む自分がいる。老若問わず。

 

「こちら側」で強くなる女性

以上の話は、だいたい男性に当てはまる。

※ 一般的な「男性」という意味であり、当然ながら、当てはまらない男性もいる一方で、このような話が当てはまる女性もいる。

 

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一方の女性は、「#Metoo」運動などに見られるように、「こちら側」で女性がもっと住みやすい世界を作ろうとしている。「あちら側」に実存したいと考える女性はあまりいないように思われるし、ある意味、男性が「原理主義的」に踏み荒らした後に「あちら側」へと移行しつつあるタイミングで、より「現実的」な世界を「こちら側」に構築しようとしているようにも見える。

 

男性が続々と「あちら側」に吸い込まれていく姿を尻目に、女性は用事がある時こそ「あちら側」に出掛けるものの、基本的には「こちら側」にしっかりと根をはることになるんじゃないだろうか。

 

片や男性は、用事がある時こそ「こちら側」に戻りはするものの、基本的には「あちら側」の「リアル」に耽溺することになり、「あちら側」でしか実存を確認できなくなるかもしれない(というのは、極論かもしれないけど)。

 

ヒト・モノ・コトの存在

「こちら側」で作ったり壊したりすることがままならなくなった人間は、「あちら側」に移動して、そこで「実存」の問題に取り組む(フリをする)。

 

ただし、「あちら側」は、テキストや画像、動画でのコミュニケーションが基本であり、そのようなコミュニケーションはとてもホリスティック(全体的)ではない。つまり、生(なま)のヒト・モノ・コトに触れる機会がない。

 

一方、ひとたび「こちら側」に戻れば、いろんな雑事が待っている。仕事であれ、学校であれ、家事・育児であれ、自治体活動であれ、ボランティアであれ、リアルな「あちら側」に対して相対的にバーチャルな「こちら側」にこそ、生(なま)のヒト・モノ・コトは存在する。

 

それらが、「そこそこの人生を生きる」ためのきっかけとなり得る。

 

「そこそこの人生」を生きる意味

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主に男性が「原理主義的」な世界を構築しようとしている「あちら側」に対して、主に女性がより「現実的」な世界を構築しようとしている「こちら側」では、「そこそこの人生」を生きることができる。

 

「そこそこ」というと聞こえが悪いかもしれないが、「実存」の問題は、どこまで行っても答えらしきものが見つからない。せいぜい、「実存」の問題を無限ループで考えることぐらいにしか答えがないし、そもそも答えなんて無いのかもしれない。

 

そういう点で、「そこそこ」という落としどころがある世界は、多くの人にとって救いになるんじゃないかと思う。

 

実際、仕事・勉強・家事・育児・自治体活動などに関わっていると、「実存」の問題なんか簡単に吹き飛んで、「そこそこ生きる」ことしかできなくなる。でも、それで良いとも思える。

 

「あちら側」がリアルに近づけば近づくほど、バーチャルな「こちら側」で雑事に取り組みながら「そこそこ生きる」ことがちょっとした癒しにすら感じられるようにもなる可能性がある。たとえば、ベーシックインカム(BI)が現実化して「あちら側」のリアル化が加速すれば、「こちら側」の癒し感はますます高まるかもしれない。

 

誰もが多かれ少なかれ「破壊」を内面化しているとするなら、それを「そこそこ」で抑える装置が必要になってくる。

 

 

さいごに

現在の「あちら側」は、視覚と聴覚で認識することがほとんどであり、まだまだホリスティックとは言えないし、だからこそ「作る」段階にあると言えるが、やがて五感すべてで感じられるようになったら、(特に)男性はまた、その世界をも「破壊」へと導こうとするのだろうか。あるいは、「あちら側」のさらに「あちら側」を探すことになるのだろうか。

 

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