目次
はじめに
みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね、ちょっと最近のフィクションの内容が社会的問題になるという状況を見ながら、個人的に考えたお話をしてみようと思います。
(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
議題は「戦争映画は必ず『戦争』を否定しなければならないのか?」です。良かったら最後までお付き合いください。
そもそもの疑問の発端
私は日本の戦争、特に広島と長崎に落とされた原子爆弾にはとても興味があって広島や長崎に個人的に赴いて、資料館や戦争の遺産を訪れました。確かに原子爆弾や戦争は負の遺産であり、繰り返すことがあってはならないものですし、こういった資料や遺産を目の当たりにすることで、心を打たれたことも多かったです。
しかし、広島の平和祈念を訪れたとき、私は非常に腑に落ちないものを目の当たりにしました。それは原爆死没者慰霊碑に刻まれた次の文です。
「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから。」
私はこの文に大きな違和感を感じました。戦争を始めるきっかけを作ったのが日本であるから、原爆を落とされて、多くの人が犠牲になったことの非は日本にあるという自虐的な見方なのか、はたまた人類全体の功罪として原爆を捉えるという見方なのでしょうか。
日本が日本人のために建てた慰霊碑で後者の見方は、いくら平和記念公園の意義を考えても少しずれているように感じます。そのため、私は前者のニュアンスでこの碑文を読みました。こう読むと、日本という国は自国の戦争の歴史に対していささか自虐的すぎるのではないかと思います。
戦争に敗北したがゆえに悪なのでしょうか。日本の戦争展示や遺跡は基本的に自国の戦争史を自虐的に捉えて、教訓的な意義を強めているように感じます。反省と自虐、それは似て非なるものだと私は思っています。だからこそ反省には肯定的であっても、自虐には否定的です。
ただ私が気になるのは映画の分野でも同じように、戦争や原爆を扱った作品というのは非常に戦争を繰り返さないという教訓が押し出された作品が多く、自虐的に戦争を見た作品が多いことです。
戦争の恐怖や惨禍を描いた作品は数多くあれど、戦争が持つ魅力やそこに傾倒していく人の熱狂みたいなものを描いた映画ってほとんどありません。映画はもっと自由で良いと思うんです。だからこそ今の日本映画の状況はすごく偏っているような感じがします。
ドイツの戦争映画の面白さ
近年ドイツから送り出された映画「帰ってきたヒトラー」は絶対悪的に捉えられてきた「ヒトラー」に、移民問題等の問題に直面し岐路に立たされたドイツ国民がその肯定的な面をも見出すという点で非常に興味深い映画作品でした。
作品中でヒトラーが街頭インタビューをするシーンがありますが、このシーンは実際に街の人にインタビューするという形式をとったそうです。ヒトラーを演じたオリバー・マスッチ氏は、「私を選挙で選んでくれるか?」と聞いたところ、肯定的な意見を持っている人もいたことを後に語っています。
このことは、ヒトラーは果たして絶対悪だったのだろうか?彼の存在した意義と功罪を多面的に見ていくことで、単なる戦争犯罪者と彼を片付けることは難しくなり、そういう視点が現代ドイツが直面する諸問題の解決に役立てることができるのです。
つまり私が思うのは、自虐というのはある種の「逃げ」だということです。自虐というのは、反省することや問題に直面することから目を背けて、「反省」したふりになることなんだと思います。だからこそ反戦映画(戦争に否定的な映画)を作り続けることが戦争の「反省」には必ずしも繋がりません。
大切なのはもっと物事を多角的に捉えていくことです。戦争のネガティブな面を描くだけではダメなんです。それと同時にポジティブな側面も描かれなければならないと思っています。
『この世界の片隅に』の面白さもまさにそこにある
そういう意味でも2016年に日本を席巻した『この世界の片隅に』という作品が描いた戦争は注目すべきものでしょう。
戦争に対して自虐的な視点で撮られた映画が多い中で、この作品は少し違った見方を取り入れていました。それは、戦争が与えてくれるある種の「ワクワク感」のようなものでした。
というのも、この作品は後半でこそ戦争に脅かされる市民生活を描き出しますが、前半ではむしろ戦争がというものが生み出した文明、技術、生活そして市民の意識といった戦争のポジティブな側面をも描き出していたのです。
この作品を見て、作者のこうの史代さんの考え方をもっと知りたいと思い、同作品を特集していたユリイカ11月特集号を購入しました。
そこでこうの史代さんと西島大介さんの2人の作家による対談が行われていてその内容が興味深かったのでいくつか引用させていただきます。
「わかりやすい『反戦』とか『平和』みたいなものに対して、戦争の”面白さ”もはっきり描こうとしている気がします。」「戦争の悲惨さだけを語っていても、そういうものが好きな人にしか届かないんですよ。人が戦争に惹きつけられてしまう理由を説明するには、その魅力も同時に描かないといけない。」(ユリイカ:2016年11月号:33pより)
この部分を読んで、「この世界の片隅に」という作品に、私がとても頷けた理由が見えてきました。あるものを捉えるときに、そのポジティブな面ばかりにスポットを当てるのも、反対にネガティブな面ばかりにスポットを当てるのもバランスが悪く、一種のプロパガンダのようになってしまいます。両方の側面から捉えることによって、はじめてその本質が見えてくるのです。
このことに関して西島大介さんがユリイカの対談で述べていたのは次の内容です。
「前半は軍艦や飛行機が次々に紹介されて、現代の日本にも通じる技術大国的な夢というか、それこそわくわく感があるのですが、それがあっという間に空襲でメタメタにされてしまうという末路も描いている。・・・・・人の生死にニュートラルなところがあって、情緒に引っ張られすぎないというか、決してお涙頂戴にはならないんですよね。」(ユリイカ:2016年11月号:P34より)
このように、戦争というものを捉えるときは、そのネガティブな面を捉えると同時にポジティブな面も捉えていかなければならないと思うんです。つまり、ある種の客観性ないしニュートラルな見方が必要とされるのです。その点で日本の戦争に対する自虐的な見方は明らかに問題を孕んでいます。
ドイツの戦争展示について
ヨーロッパないしドイツの戦争展示は、ユダヤ人迫害関連のものを除いては、非常に戦争を客観視して、技術展示のような体裁を取っているものが多いと言われています。ユダヤ人迫害は人種的な問題ですので、これを肯定的に演出するというのは少し難しいところでしょう。
ただ日本の戦争資料館が総じて戦争の悲惨さや凄惨さを押し出しているのに対して、ドイツの戦争展示は戦争という出来事が科学の発達を促したという側面をも忘れていないんです。敗戦国でありながら、あくまでもフェアな目線で戦争を捉えています。
このことから考えても、日本とそしてドイツないしヨーロッパの戦争というものの捉え方は大きく異なっていると言うことを感じてしまいます。
18~19世紀のプロイセンに見る戦争が形成した国民意識
ここまで戦争をどう捉えるかについて述べてきたのですが、ここからは具体的にドイツで戦争というものが社会ないし国民にどういう影響を与えていたのかを考察していきたいと考えております。
非常に興味深いのは、軍隊ないし徴兵制が国民意識の形成に大きく寄与したのではないかという視点です。プロイセン軍制改革における一般兵役義務の導入は、市民階級に国家という構造を意識させた、また市民男子に「男らしさ」というものを定着させ、通過儀礼としての軍隊ないし徴兵だったという意義があるのではないかと考えられていますが、今回はこういった、戦争や軍隊というものを自虐史的にではなく、社会との関わりの中で考えていきたいと思います。
まず、近代移行期に徴兵制というものが形作られていきますが、その際に市民社会において市民とされたのは誰だったのかと言う事です。
「近代市民革命のとき、女性は市民ではなかった。婦人参政権を得て、はじめて女性は男性と同等の権利を持つ主体となったのです。婦人参政権は20世紀前半です。」(近代国民国家とジェンダー:江原由美子より)
つまり、徴兵制によって生み出されたのは、国民意識であったと同時に、戦争に参加するものこそが国民ないし市民であるという考え方だったのです。
トマス・キューネの「男の歴史:市民社会と<男らしさ>の神話」でも述べられていますが、祖国防衛のために戦う事こそが愛国的な闘う男らしさとされ、それが市民という概念変化に寄与したのです。同書に次のような一節があります。
「プロイセンは兵役年齢の男性『市民』を『祖国防衛』へと駆り立て、同時にその代償として、『国家公民としての自由権』を約束したのだった。その結果、『民族概念』は、男性の軍事的領域として規定され、『民族戦争』は真の男らしさの見せどころとなったのである。」
(「男の歴史」:トマスキューネ:星乃治彦訳:P48より)
日本における徴兵制も同様の意義を持っていたように思いますが、近代移行期における徴兵制は「市民」の概念を祖国のために戦う「男性」への変化させていき、中産市民階級の男性たちに国家という枠組みを理解させた、つまり国民意識の芽生えにつながったのです。
そこから祖国のために戦える人間こそが「国民」なのであるというある種の英雄思想のようなものが定着していったのです。
また、この考え方が定着したことで、兵役というものは男性のイニシエーション的な役割を果たすようになっていきます。男性は兵役を経ることで、一人前の「国家公民」になれるのです。ここに20世紀半ばまで続いたドイツの男性優位社会の源流があると言っても過言ではないのです。兵役が男性の教育機関であったという見方は、徴兵のこういう役割、意義から来たものと考えられます。
トマス・キューネによる考察では、メディアによる徴兵キャンペーン展開もこの英雄的思想の確立に寄与したことも示唆されています。
プロイセンの軍制改革が行われていたころ、ナポレオンもフランスで徴兵制度が存在していましたが、ここで大きな違いがありました。それは、フランスの兵役には、身代金の制度や代理人の制度が認められていたのです。プロイセンの一般兵役義務においては兵役免除は認められていませんでした。
国土防衛軍や国土民兵隊などに分けられ、中産市民層に役割的な特権は認められていましたが、兵役自体が免除されると言う事は無かったのです。この点でプロイセンの軍制改革は国民意識の形成に大きな意義を持っていたと言えるのです。
そしてこの厳格な兵役義務が1813年の解放戦争でナポレオンが敗れたことを契機に、ライン同盟を介してライン地方にまで拡大していくことになります。この厳格ではありますが、公平で画一的なプロイセン流の一般兵役義務が大きな意義を持っていたという考察もあります。
「ドイツ史と戦争」の第7章「ドイツにおける『武装せる国民』の形成」での丸畠宏太氏によると、プロイセン流の徴兵制の導入がフランス流の徴兵制に比べて、負担が少なく、公平な制度であったことからライン地方の住民は好意的にこの制度を受け入れたことが示唆されています。
「画一的な兵役システムの導入とその徹底により、住民の規律化が進んだというほうが適切だということである。」(「ドイツ史と戦争:第7章 ドイツにおける『武装せる国民』の形成」丸畠 宏太:P221より)
このように、一般兵役制度の拡大は、広範囲における国民意識の拡大とまではつながらなかったまでも、住民の規律化へと繋がっていたのです。
現代の日本で「戦争」「軍隊」「徴兵制」といった言葉を聞くと間違いなくネガティブなイメージが先行すると思います。それはひとえに日本という国が、戦争や軍隊をネガティブなイメージ先行で捉え、戦争を自虐的に見てきたからに他ならないのです。
渡部彬子氏の「日本軍兵士たちの軍隊観」という論文では、軍隊が良かった、貴重な経験であったというような声も戦後になると挙がっていたことが示唆されています。今まで、戦争というものの批判的な面しか見てきませんでしたが、どうやら、戦争を絶対悪と考えてしまうことが、絶対的に正しいとは言えないようです。
今現在、日本では集団的自衛権を巡る憲法第9条の改正が1つ大きな課題となっています。この改正に批判的な方の中には、戦争や徴兵を100%悪であるかのように批判する人がいます。しかし、この見方は、あまりにも「戦争」や「軍隊」というものを一面的に捉えすぎている節があります。自虐的近現代史だけでは、偏った見方しか生み出せないのです。戦争の悲惨さや日本の戦争における功罪に触れることはもちろん大切ですが、もっと客観的に捉えていく必要性があるのではないかと思います。
おわりに
「戦争」を否定することだけが正しいという考え方はもう古いような気がします。本当に戦争の惨禍を繰り返してはいけないという思いがあるのなら、むしろなぜ人々が戦争に傾倒していったのかという「戦争前史」に存在したであろう戦争の魅力やポジティブな側面からも目を背けてはならないんだと思っています。
そして映画というメディアにはそれを描くことが出来る可能性があるように思います、だからこそ「戦争」を否定するだけの戦争映画ばかりが世に送り出される現状に少し疑問を感じてしまうのです。ただ『この世界の片隅に』のような作品は、1つ新しい映画の可能性を見せてくれたようにも思います。
最近話題なのが『万引き家族』の話題です。この映画は万引きを助長させるなどという主張が成され、争点となりました。そもそもこの映画が「万引きを助長させる内容では全く持ってない」ことはさておき、なぜ映画の中で「万引き」を否定的に描くことがマストなのかという疑問があります。
映画はもっと自由であって良いと思いますし、多様な視点や考え方を育めるものであって欲しいと思います。
今後日本映画にもっと自虐的な視点から解き放たれた、戦争映画がどんどんと生まれてきてくれると個人的には嬉しいですね。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
コメントを残す