2018年6月11日から17日、フランス・アヌシーにて第42回アヌシー国際アニメーション映画祭が開催された。本稿では映画祭のメインであるコンペティションのなかから、長編部門についてレポートする。

1960年に第1回が開催されたアヌシーは、現在でも継続しているものとしては世界最古のアニメーション専門映画祭で、規模も世界最大を誇る。アニメーション映画祭は当初、市場とは別の基準に基づいたアニメーション評価を打ち立てる目的を持っていた。つまり、世界のアニメーション映画祭シーン全体が商業性より芸術性を重視するという傾向にあったのだ。そんななか、違う方向へといち早く舵を切ったのもアヌシーだった。世界的な長編作品の製作本数の増加を背景に長編部門を開始し(当初アニメーション映画祭のコンペティションは短編部門だけだった)、(現在MIFAと呼ばれる)見本市を設立するなど、商業性にも重きをおくようになった。

現在アヌシーは「一強」の状態

アヌシーはかつて、ザグレブ、オタワ、広島などと並んで「世界4大アニメーション映画祭」と並んで呼ばれることもあったが、今は違う。アニメーション産業にとっての世界的なハブとなることを目指していく試みを先進的に進めるなかで、現在ではハリウッドもその重要性を認識しはじめているし、日本のアニメーション産業関係者のあいだでも、アヌシーという名前は広く通用しているように思われる。結果として現在、アヌシーは「一強」の状態となっている。世界のアニメーション関係者であれば誰もが名前を知っている、唯一の地位を確立しているのである。

アヌシー2018プレイバック動画

そんなアヌシーにおける長編部門は、世界中で作られた作品が一堂に会するきらびやかな舞台となっている。ハリウッド作品が応募されることは稀だが、それ以外の地域・分野の作り手の多くは、アヌシーという場で上映されることをひとつの目標および名誉として考えているだろう。

長編アニメーションは実写映画と比べると全体的な製作本数が少ないこともあり、カンヌ、ベルリン、ベネチアといった主要な実写映画祭と異なり、プレミア上映であることを応募の条件に課すことがない。それゆえに、数々の注目作はプレミア上映に関しては(アヌシーに先立つ)ベルリンやカンヌを目指すことになるのだが、アヌシーもまた、アニメーション業界にその名を知らしめるために重要な舞台となる。日本作品も毎年確かな存在力を発揮しており、昨年の長編部門では『夜明け告げるルーのうた』(湯浅政明監督)がクリスタル(グランプリに相当する)、『この世界の片隅に』(片渕須直監督)が審査員賞(準グランプリに相当する)を受賞したことも話題となった。

前述したアニメーション映画祭の歴史もあり、アヌシーは今でも授賞式で短編部門の受賞作品の発表を最後に行う。位置付け的には、長編部門はその「前座」である。とはいえ、実際の映画祭の実際において最も話題になり、注目を浴びるのが長編部門なのは間違いない。そして、中国作品『ハブ・ア・ナイス・デイ』が中国政府からの圧力によって上映取り下げとなった昨年と比べると、今年の長編部門は粒ぞろいで、当たり年であったといえる。

様々な地域の作品をカバーし、社会的・政治的なトピックを取り上げる作品を重宝する。

アヌシーは、作品の文脈について極めて意識的である。かつて筆者がアーティスティック・ディレクターのマルセル・ジャンにインタビューした際、「アヌシーは世界のアニメーションのトレンドのすべてを見せる場所にする」という旨の発言をしていた。それは、アヌシーが、世界中のアニメーション界から人々がやってくる唯一の場所であるという「アヌシー一強」時代における選択でもある。その結果、アヌシーは、作品の水準や美的な判断と同じくらい、様々な地域の作品をカバーし、社会的・政治的なトピックを取り上げる作品を重宝する。それはおそらく、映画祭参加者の「語りやすさ」への配慮でもあるのだろう。ハリウッドから実験アニメーション、テレビからミュージックビデオまで広範な範囲をカバーする映画祭だからこそ、作品の特徴を「タグ」のようにして貼り付けたかのようなセレクションをすることで、同じアニメーションではあれどバックグラウンドの異なる様々な人々が、作品に入り込みやすくなっていく。

今年の長編部門のコンペ入選作品10本には、「特定の地域の物語」、「社会性」、「女性」といったアヌシーが最近気にしているテーマの作品が多く揃った。エクアドル出身の漫画家Powerpaolaの自伝を原作とした南米の女系一家の一代記(『ウイルス・トロピカル Virus Tropical』)、タリバン政権下のアフガニスタンで少年に変装することで家族を救おうとする少女の物語(『生きのびるために』)、クメール・ルージュ期の激変のなかで生き延びようとする母親の物語(『フナン Funan』)、ピノチェト独裁政権下で力を持ったドイツ系移民コミュニティ「コロニア・ディグニタ」から逃げ出そうとした少女が辿る不吉な旅路(『ウルフ・ハウス The Wolf House』)と、苦境に置かれた女性たちの生存の物語を語る作品が目立ち、なおかつそれらの作品はクオリティ的にもかなり充実したものとなっていた(『フナン』はクリスタル、『生きのびるために』は審査員賞、『ウルフ・ハウス』はスペシャル・メンションを受賞した)。

女性の物語ではなくとも、SNS時代における恐怖喚起社会に対する警告のような『ティトと鳥 Tito and the Bird』、イスラエルとパレスチナを隔てる「壁」をめぐる物語『ウォール Wall』など、現実の社会を見つめ、それを批判的に捉える眼差しを持った作品が揃っており、表向き「平和」な面立ちをした日本作品の2本(『未来のミライ』、『若おかみは小学生!』)はむしろ異色に映るほどであった。

『ウィルス・トロピカル』予告篇

これらの「大人向け」のアニメーションは、21世紀のヨーロッパのアニメーションが重点的に掘り下げてきた分野である。『ペルセポリス』(2007年)のヒットにより、ファンタジーではなく社会的な題材を取り上げる実話ベースの物語が増えた。それらの作品のフォロワーには、ドキュメンタリーや漫画家など、アニメーションを専門としない非専業作家による取り組みであることに特徴があり、(動きを作るという意味での)「アニメーション」という水準、もしくは「映画」という水準からみると、首を傾げたくなるようなものも散見された。しかし、今年のアヌシーの長編部門の作品は、「大人向け」でありつつも、「アニメーション映画」としての質も充実した作品が揃っていたように思われる。筆者はここ10年近くアヌシーに来続けているが、今年実感されたのは、長編アニメーションの表現が成熟した、ということである。

クリスタル(グランプリ)を獲得した『フナン』は、ベルギー=カンボジア=フランスの合作で、今年の注目作であった。この映画は、クメール・ルージュ体制下への突入とともに、慣れ親しんだ首都プノンペンの生活から強制的に追放され、バラバラになったある家族とその周辺の人々のサバイバルを描く過酷な作品だ。物語の中心となる母親そしてその息子はドゥニ・ドゥ監督の実の母親と兄の実際の体験をベースにしており、本作はその2人に捧げられている。

グランプリに輝いた『フナン』

アヌシーの観客の多くはヨーロッパ中から集まるアニメーションを学ぶ学生で、上映前には紙飛行機を飛ばし、動物の鳴き真似をするお遊びが恒例になっている。シリアスであるというよりは、きわめて気軽にアニメーション映画を楽しむ……そのような雰囲気の映画祭である。しかし、アヌシーがワールドプレミアとなった本作の上映に際しては、上映前のおちゃらけた雰囲気とは打って変わり、上映後には10分間にわたるスタンディング・オベーションが起こった。このような状況は筆者の限られたアヌシーの経験では体験したことがなかったものであり、本作が事前の期待を超える素晴らしい出来であったことを証明したように思われる。本作品のクリスタル獲得に異議を申し立てる者は少ないだろう。

『フナン』はアニメーション表現の面でも果敢なチャレンジをしている。本作品が語るのは、体制の変化によって人々の命が脅かされ、尊厳が奪われる非常事態のなかで、人々が(時に残酷なまでに)必死に生き残る様子である。それを描くため、強制労働所における人々はどのキャラクターも感情移入しえないような距離感から眺められ、キャラクター・デザインはおそらく意図的に似たような顔つきになっている。キャラクターたちは、そのポジションと周囲の人との関係性によって性格づけられていくのである。そのような構造であるがゆえに、迫害するものは迫害される側へと入れ替わる。他人を陥れもすれば、しかし尊厳ある態度で他人のために犠牲になりもする。生と死を分けるものは偶然に過ぎない、という感覚が映画全体から漂うなか、ベタなドラマのような演出も随所に施される。夫と妻のあいだの親密な関係性を示すとある仕草は、最後の最後で観客の心を強く揺さぶるだろう。

『フナン』予告篇

審査員賞となった『生きのびるために』もまた、『フナン』と同様に(そして邦題が示すとおり)「生きのびる」ための物語である。タリバン政権下のアフガニスタンにおいて、父親と元教師の祖父が投獄されてしまい、女性と小さな子どもだけが残された家族が物語の中心となる。女性がひとりで外出することを許されないなかで、主人公の少女パヴァーナは、家族を救うために男装して働くことを決意する。

『生きのびるために』

本作の制作はアイルランドを拠点とするカートゥーン・サルーン・スタジオで、スタジオとしては3本目の長編にあたる。監督のノラ・トゥーミーは同スタジオ初の長編作品『ブレンダンとケルズの魔法』でトム・ムーアと共同監督を担当している。日本で最も知られているカートゥーン・サルーンの作品は『ソング・オブ・ザ・シー うみのうた』だろうが、『生きのびるために』に先行するこれら2本の長編は、アイルランド古来の歴史や物語を題材としつつ、「書物」(『ブレンダンとケルズの魔法』におけるケルズの書)と「神話」(『ソング・オブ・ザ・シー』におけるセルキー神話)の消滅の危機を大きなテーマとして掲げる。語り伝えられてきた物語が消滅するということは民族の歴史の消滅に等しいというマクロな視点での重要性を主張する一方で、人々の生存のためにも「物語」がいかに重大かというミクロな視点も欠かさない。比較的ハードなテーマを、ソフトな絵柄のアニメーションを用いて語るところに特徴があるのだ。

『生きのびるために』では物語の舞台はアイルランドから離れるが、しかしその特徴自体は(前2作と比べるとハードな方向で)引き継がれる。戦火に生きることに加え、女性であること自体の苦難が次々と襲いかかるなか、少女パヴァーナの生存の意志を支えるのは、小さな弟に安心を与えるために語り聴かせていた物語である。その登場人物と自らを重ね合わせることで、少女は自らをなんとか奮い立たせていく。『生きのびるために』は、カートゥーン・サルーンの方法論が成熟を迎えた良作である。

『生きのびるために』予告篇

スペシャル・メンションを受賞したチリ作品『ウルフ・ハウス』は、その独特な手法によって大きく注目された。監督のクリストバル・レオンとホアキン・コシーニャはかつて『LUIS』、『LUCIA』という連作短編で注目を集めていた。これらの短編は、部屋を舞台に、壁面上の木炭画、部屋の中での実際の家具などを用いての等身大のコマ撮りアニメーションを同時展開する特殊な手法を用い、オオカミを恐れる少年と少女の心情をホラー調に描き出していた(レオンによれば、この手法自体はヤン・シュヴァンクマイエルにインスパイアされたものだというが、うなずける)。

『ウルフ・ハウス』はこれらの短編の続編もしくは集大成として想定されたものであり、驚くべきことに、その手法自体をキープしたまま、長編化されている。物語もまた凝っている。本作は実写のアーカイブ映像から始まり、ピノチェト独裁政権下で力を持ったドイツ系移民のコミュニティ「コロニア・ディグニタ」を思わせる団体が子供たちの教育のために制作していたと思われるアニメーション映像が発掘されたという設定で、物語は始まる。本編であるアニメーションのパートが語るのは、コミュニティから逃げ出そうとした少女が狼を恐れて空き家に入り込み、そこで恐怖と悲劇を体験していくというものである。教訓として語られる「コミュニティを出てはいけない」というメッセージは、チリのかつての現実において、カトリックの極度な純潔を遵守するコロニア・ディグニタが実際に子供たちを監禁し、外へと出そうとせず、脱出しようとした人々をチリ軍の援助のもと強制送還させていたという歴史的な事実と重ね合わされるし(一説によれば指導者はペドフィリアだったことが伝えられている)、狂ったような信条が支配するコミュニティ全般についての寓話としても機能する。

今回長編部門において賞レースに絡んだ3作品はどれも、歴史的事実を背景としながら、人間が人間として扱われなくなる状況下になんとか生存しようとする人々の物語を描いている。それに加えて、アニメーション表現としても非常に豊かで革新的な要素を含んでいる。とりわけ『ウルフ・ハウス』のような作品が賞に絡んだことは意義深い。なぜならば、アヌシーはどちらかといえば「狭義の」アニメーション作品のみを重宝する傾向にあるからだ。ここでいう「狭義の」とは、アニメーション産業の経済圏の内部で作られる作品という意味である。『ウルフ・ハウス』の作家2人は、アニメーション産業ではなくギャラリー・システムの美術の領域に属している。現地にてレオン監督と話す機会があったが、「自分自身をアニメーション・コミュニティの人間と思ったことはない」と明言していた。あくまで美術活動の一環として、アニメーションというメソッドを使っているという意識なのである(本作の制作自体も、チリの複数の美術館での公開制作によって行われていったという)。

『ウルフ・ハウス』予告篇

アヌシーは他のアニメーション専門映画祭に先駆けて、商業化の道を行き、その結果として世界最大規模の影響力を誇るようになった。その過程においては、アニメーション映画祭が出来上がったばかりの頃の目的である芸術的観点からのアニメーションの評価がないがしろにされているという批判も多く上がる時期があった。前アーティスティック・ディレクターのセルジュ・ブロンベルグ(『メリエスの素晴らしき映画魔術』の監督でもある研究者兼コレクター)の時期がそれに当たる。

2013年に現アーティスティック・ディレクターのマルセル・ジャンが就任すると、元々は実験映画やドキュメンタリーなどオルタナティブなストーリーテリングをする映画を専門的に研究し、短編アニメーションの世界的拠点であるカナダ国立映画製作庁(NFB)のプロデューサーを長年務め、現在ではモントリオールのシネマテーク・ケベコワーズの総合ディレクターを担当する経歴を活かして、実験作品やオルタナティブな作品に対する門戸をもう一度開いた。その象徴となるのが短編部門に設置された「オフ・リミッツ」部門である。この部門はまさに狭義の意味でのアニメーションにおさまらない実践を対象とするものであったわけだが(ただしこの部門の設置によって実験アニメーションがメイン・コンペから締め出されたという批判も出ている)、今年の長編部門の結果は、ジャンが推し進めてきた改革が、実を結んだと言ってもよいのかもしれない。

『未来のミライ』(C)2018 スタジオ地図

日本からの出品作として注目を集めていた細田守監督の最新作『未来のミライ』は、今年のようなコンペティションのラインナップの中に並ぶと、どうしても違和感を感じざるを得ないものであった。それが何に端を発するのかといえば、コンペの多くの作品が異質な存在と向き合うこと(もしくは同じ人間が異質で別の何かへと変わっていくこと)を通じて、多様性への気づき・啓示をもたらそうとするなかで、本作が徹底的に内向きの同質性を目指す方へと向かっていたからであるといえるかもしれない。

『未来のミライ』は、4歳の男の子「くんちゃん」が、妹であるミライの誕生をきっかけに自分が家族の中心でなくなったことを不満に思うところから始まり、その後、未来の妹をはじめとする家族の過去や未来の姿と出会い、それを契機に成長していく物語である。そこで語られる家族の物語は、同質な日本人の歴史と言ってしまっても否定できないような系譜を描いているのだ。とりわけ、同質性の幻想が脆くも崩れ去り、同じコミュニティ内の存在であっても同じ人間としてみなされなくなるような極限的な状況を描く作品が優れた成果を挙げた年だったからこそ、それが強く感じ取られてしまった。

単独の視点によって物語を語り、世界を眺めようとする方法論自体が、その存続の意味を強く問われている。

ちなみにだが、長編コンペの他の作品のなかでも、個人作家による長編――たとえばニナ・パーリーの『セダー=マゾヒズムSeder-Masochism』は『未来のミライ』と同じものを感じさせた。個人的な物語を長編化する彼女の作風自体が、同質な世界を提示することしかできないという限界を露呈させていたのである。自伝漫画が原作の『ウイルス・トロピカル』やSNS時代における恐怖支配への警鐘というメッセージ性を前面に押し出した『ティトと鳥』もまた、その圏域から抜け出ていないように感じられた。問題は、作品が観客の多視点を開き、同時に多視点を持った観客に対して開かれているかどうか、ということなのである。単独の視点によって物語を語り、世界を眺めようとする方法論自体が、その存続の意味を強く問われている。同質性の幻想を超えて、様々なものが混ざり合う状態を受け入れることに対し、果たして準備が出来ているかどうか。

そう考えると、昨年の長編部門において、『夜明け告げるルーのうた』が日本作品としては22年ぶりにクリスタルを受賞したその理由も、おぼろげながらわかってくるのではないか。人間の少年と人魚の少女のあいだの交流を描く同作品は、昨年のアヌシーの記者会見の際に、移民問題の寓話としても読めることを指摘されていた。それはやはり、異質な他者と向き合う体験を提供するものとして理解されていたということである(その方向性は、Netflixのオリジナルシリーズ『DEVILMAN crybaby』で存分に発揮されることになる)。日本のアニメ作品は、よくも悪くも同質的なビジュアルによって特徴づけられる。そんななかで、国際的な文脈で活躍する湯浅政明のスタイルが、これまでのアニメとは異なるものとして受け止められた向きもあるだろう(そもそも、湯浅政明は『マインド・ゲーム』以降、アニメーション映画祭界隈では神格化されていた存在でもある)。

アヌシーの今年の受賞作の選定に文句を付ける人はあまりいないだろうが(それほどまでに3作品は突出していた)、一方で、その選考基準が全てなのかといえば、そうではない。アヌシーに欠けている部分を明らかにするのもまた、日本のアニメ作品である。長編部門には、コンペティション本戦への選出には及ばなかったものの、特筆すべきもののある作品を上映する「アウト・オブ・コンペティション」という枠がある。日本からその枠で選ばれたのは、『さよならの朝に約束の花を飾ろう』と『リズと青い鳥』である。

『さよならの朝に約束の花をかざろう』は人気脚本家の岡田麿里の初監督作品で、年を取らない部族の少女マキアが戦争で孤児となった人間の子供を育てていく話である。この作品はまるで、人間の世界を外から見つめる視点によって人間の世界を改めて見つめ直し、再発見していくかのような眼差しを持っている。『リズと青い鳥』は卒業を控えた高校の吹奏楽部の女子2人の関係性に焦点を当てた作品で、互いを異なる宇宙に住む存在のようにして眺め、観客もまた同時にその2人の関係性を覗き見る。これらの2作品は、日本アニメ(もしくは日本という国)の文脈、つまり同質性に支配された領域のなかに他者性の萌芽を見出すかのようなものであるといえるわけで、作品の質的にもコンペティションに選出された作品に劣らないものである。

『リズと青い鳥』の監督である山田尚子の前作『聲の形』は昨年の長編コンペに選出されているが、おそらくそれは、聴覚障害者を題材にしているからであるといえるだろう。前述のとおり、アヌシーは多様な観客が作品を語りやすくなるようにするためか、テーマや文脈、地域性などで明文化しやすい特徴を持った作品を選びがちであり、同質のものに見える日本アニメの内部に生まれつつある新たな傾向を捉えるような微細な目は持ち合わせていないからだ(ちなみに、『若おかみは小学生!』については筆者は未見だが、映画祭カタログに記されたアーティスティック・ディレクターの言葉では、宮崎駿作品の主要スタッフによる長編であることにフォーカスが当てられていた。つまり、「ポスト宮崎駿」という文脈が提示されようとしたということである)。

アヌシーは今年も過去最高の動員を記録した。その充実は今年、商業性と芸術性を高次元で融合させた長編部門の質の高さによって象徴されていたように思われる。多彩な視点を呼びこみ、同質性が消えあらゆるものが穏やかに混ざり合っていく多彩な状態への眼差しを切り開く作品がアニメーションの新たな方向性を示し、一方で、同質性に留まる作品は衰退するように感じられた(本稿では語らなかったが、今年の短編部門の低調さも、個人作家的な同質性の視点から抜けきれないことに原因があるように思われた)。

今年のアヌシーでは湯浅政明監督の新作長編が来年完成することが発表された。(アヌシーの常連である)原恵一も新作が控えているし、新海誠や宮崎駿も新たな作品を準備中である。様々な文脈に気を配り続けたアヌシーは、塗り替えられつつある世界のアニメーションの勢力図を現在うまく伝えることができている。そのなかで、日本作品は常に確かな存在感を放ってきたが、そのポジション自体は多彩なものになりつつある。そんななか、今後、何が評価を分けていくのか? それを考えるためのヒントが、今年のアヌシーにはあったような気がしてならない。