第2回 素晴らしかった小渕内閣文・堺屋太一 |
小渕内閣は素晴らしかった。小渕恵三首相も良い首相だった。そのことは、まず内閣支持率に現れている。
小渕内閣の支持率は、朝日新聞の世論調査によると、発足当初は最悪だった。98年10月の調査(面接)では支持23%、不支持56%。不支持が支持の倍あった。金融大恐慌で自由民主党自体が不人気になっていた上、自民党総裁選でも一般の人気は小泉純一郎氏に集まっていた。
小渕氏自身にも大衆受けする要素が乏しかった。「人柄の小渕」といわれていたが、大衆人気をつかむ派手な言動は不得手だった。海外のメディアも、小渕氏を「冷めたピザ」と評したことがある。「美味くも珍しくも目立ちもしない」という意味だろう。
ところが、就任後半年で金融再現の難題を克服、景気を上向きにしたことで人気は上昇、支持率も徐々に上がった。最高だった就任1年半後の1999年末には「支持43%不支持34%」、何と支持が不支持を9%も上回った。
大抵の内閣は発足当初が高く、その後は低下傾向をたどるものだが、小渕内閣は逆だった。成立後1年ほど経ってこの内閣の真価が一般国民にも評価されたのである。
第二は、政治政策での実績である。まず政策では金融再生法をはじめ、数々の経済政策を打ち出した。中でも発足当初の臨時国会で成立した金融再生法は、参議院での少数を前提に「野党案を丸のみ」した上、「字句整理」と称して一晩ほどで内容から趣旨までを大幅に変えて成立させた。私もこの作業に加わったが、共同作業してくれた自由民主党の津島雄二議員は「換骨奪胎した」と自賛されたものだ。
このほか、労働者派遣法、国家国旗法などの懸案法規を数多く成立させた。
政局の面でも公明党を与党に加えたほか、野党から分裂してできた自由党をも与党に加えた。
この結果、小渕内閣の「支持基盤は盤石」と思われた時に、小渕首相が突然の病に倒れられたのである。
小渕首相は多忙な政策推進と過密な政局運営の合間にも、多くの市民に電話を掛ける「ブッチホン」は知られていたが、そんな気配りが過労を募らせていたのかも知れない。小渕首相の発病は日本にとって重大な損失だったと思う。
(週刊朝日2014年8月8日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載2に連動)
(更新 2014/7/29 )
プロフィール
堺屋太一(さかいや・たいち) 1935年生まれ。本名は池口小太郎。60年に通商産業省に入省し、大阪万博をプロデュース。退官後は作家・経済評論家として活躍。経済企画庁長官を務め、現在は内閣官房参与。主な著書に『団塊の世代』(文春文庫)、『平成三十年』(朝日文庫)など |