なんで七夕に設定しちゃったんだろう。
もともと記念日を覚えるのが苦手なので忘れないという意味では悪くないのだが、毎年七夕が来ると思いだしてしまう。
あの地獄のような日々からもう五年が経った。
本当は6月中に発売したかったんだけど、中国で製造がようやく始まったと思って帰国したら、ソフトが初回起動で必ずハングアップするみたいな状態で、これは絶対に間に合わないから7月7日出荷にしようと決断したのだった。
中国からリモートでソフトウェア開発を管理するというのはほとんど不可能に近かった。これは僕の見通しが甘かったのだ。
あれから現在に至るまで、同規模の、つまりOSからUIからプログラミング言語からオーサリング環境までまるごと全部作る、みたいなプロジェクトは大企業のものも含めてまだ聞いたことがないから、やはり挑戦としてはかなりクレイジーなものだったのだろう。まあいいのだ。クレイジーなことがしたかったんだから。
きっかけは震災だった。
2011年の震災を僕はオースティンで経験した。
もし自分が被災地の子供だったら、コンピュータに触れることが出来ない日々は辛いだろうと思ったのがきっかけだった。
結果的に被災地支援そのものには間に合わなかったが、プログラミングが好きなこどものための機械を作ろうという発想はそのときからあった。
最初は小さいネットブックのようなものにLinuxと簡単な開発環境を入れたものを販売しようと思っていたのだが、当時は「簡単な開発環境」そのものがなかった。
その頃、ほとんど偶然の産物として、enchant.jsが出来上がり、競うための場所としての9leapが出来上がった。
この2つを軸にしてプログラミングの楽しさを広めていこうというプロジェクトを開始した。
それとは並行して、手書きについての思いがずっと残っていた。これに関しても、子供の頃から疑問だった。なぜ自分はキーボードをこんなにも早く打てるのに、手書きでなければ考えられないことがあるのかと。
コンピュータは人間の知的作業を補佐する存在であるはずなのに、紙とペンの方がはるかに有用なタイミングというのは多々あった。コンピュータの利便性と手書きの利便性を融合することはできないか、そんなことを考えていた。
究極の形は、手書きでプログラミングすることである。
しかし手書きでプログラミングする言語なんか存在しない。作るしかないのだ。
手書き端末のデザインが上がってきた時、あふれるオーパーツ感に衝撃を受けた。
こんなもの、本当に作れるんだろうか。
素人の自分が見ても、ハンドルはやりすぎという気がする。明らかに製造工程で足かせになりそうだ。
デザインを担当した安倍吉俊さんは、ハンドルに並々ならぬ拘りがあるらしかった。
じゃあとりあえずやりもせずに出来ないという話もできないから、やってみるか、ということで開始した。
案の定、ハンドルは大量生産で大きな足かせになってしまったのだが・・・
坂井直樹先生に紹介していただいた会社に依頼して作ったモックアップは、なかなかの出来栄えだった。しかし常にハンドルが問題になった。
ペンはハンドルに格納できるはずだったが、機構上どうしても無理ということで諦めざるを得なかった。
会社の技術力をPRするための広告宣伝費として1億使う。利益が出たら御の字。
それでクライアントがついたら、儲けもの、くらいの気持ちで取締役会を通した。
さて、しかし果たしてこんなもの売れるんだろうか。
1000台売って損しない、というのがもともとの目論見だった。
1000台売る自信がなかった僕は、映画監督の樋口真嗣さんと、哲学者の東浩紀さんの協力を経て短編映画を作ることにした。
この二人のファンにとりあえず知ってもらえれば、まあ500台くらいは売れるんじゃないか、と思った。この読みが甘すぎたのだが
東さんが「素晴らしい新世界(Brave New World)」をベースにしたアイデアを出し、樋口さんがその場でスケッチを起こした。これをもとに女を撮らせたら日本一と言われる湯浅監督が素晴らしい短編映画を作ってくれた。
この映像の反響がすごすぎた。
樋口さんと東さんのネームバリューを見誤っていたのかもしれない。
たった500万円の予算で、凄すぎる映像になってしまった。
そもそもこれを発表する場所を作るために東さんとゲンロンカフェというお店をスタートした。会社としてのゲンロンカフェは今も大盛況で、年間数千万後半の売上があり、黒字を出している。これはひとえに東さんの力によるものだ。
ゲンロンカフェで開催した記者会見や発表会も人が来すぎてわけわからんことになっていた。
われわれ秋葉原近辺に生息する単なるクソオタの集まりにしては、世間の注目度が高すぎた。
フタを開けると、予約開始1時間で1000台以上、24時間で4000台近いオーダーが来てしまった。
僕は軽く「売上も予想の4倍になって利益も出せそうだなあ」くらいしか考えていなかったのだが、製造担当の社員は顔を青くしていた。
そんなに作れないのだ。
今ならわかる。なぜ、AIBOが完全予約生産なのか。抽選制でないと買えないのか。特殊な部品を使う機械は、そもそも部品の点数を確保するだけで大変なのである。
だから確実に売れる数だけをまず売る、ということがなによりも大事で、それ以上の注文をとってはいけないのである。
要は僕らがちょっとばかし派手にやりすぎた。
待てど暮らせど生産が始まらないことに業を煮やした僕は、ソフト開発は現場にまかせて単身中国に乗り込み、製造が開始されて最初のロットが出荷されるまで日本に帰らないという決意で居座ることにした。
このとき強力な味方になってくれたのは、チェリーさんである。
彼女なくしてenchantMOONの出荷はあり得なかっただろう。
チェリーさんは今もUEIのスタッフとして中国で働いてくれている。
ところが製造が始まったら、今度はタッチパネルが動かねえのである。ドライバの不良とやらで、まったく動かない。
ほかにもまあトラブルを数えたら両手の指では足りないくらいだったが、この頃の僕は毎日「よく鬱にならないなあ」と自分で感心するほどタフだった。
4末に中国に乗り込んで、やっとこ製造のようなものが開始されたのは6月に入ってからだった。
6末頃にようやく最初のロットができあがって、それをハンドキャリーで東京に持ち帰った。
ところがソフトがボロボロだった。
みんなが連日の激務で疲れているので、もはやなにを品質管理の基準にすべきかという基本的な合意がとれてなかった。
要は僕の指示が悪かったわけで、この時ほど自分の力のなさに絶望したことはなかった。
それでも鬱にならなかったので、たぶん僕は一生鬱病にはならないのではないかと思う。人生のドン底であった。
どうしても6月中に発売したかったが、このクオリティではモルフィーワン以下になってしまうと思ったので苦渋の決断で7月7日に延期した。それで一週間ちょい稼げる。その間に最低限のところまで機能を下げようと考えたのだ。とりあえずチュートリアルを削除して、動かない機能はどんどんオミットしていってある程度は安定する状態にもっていった。
まあしかしどうしてもやっつけなので基本性能が低くなる。動作が重い。書き味のところばかりこだわったので全体の動作の最適化についてはあまりケアできてなかった。
今思えば、ネットの声にいちいちヲタヲタせずにガッツリ二ヶ月くらい発売を延期していればよかった気もする(どうせ7月7日に出荷できるぶんというのは数十台だったわけで)。
しかしこのときばかりは自分も鬱病にならないだけで精一杯で、24時間ずっとパニクってるような状態だった。
それでもかなり速いペースでバージョンアップを重ねていき、ある程度安定しきったところで一旦アップデートをお休みし、書き味以外の動作を最適化してS-IIとして配布した。
同時に、これが一体全体どんなことに使えるのか知るために、いろいろな場所でいろいろな人に使ってもらう実験を繰り返した。アラン・ケイも小学生や中学生にAltoを使わせてチューニングしていったのだと言っていた。
最初の端末による実験は3年くらいやった。
さて、ここまでがこれまでオフィシャルに語られてきた「発売からSIIまで」のストーリーである。
聞き飽きたという人も少なくないだろう。
僕らは発売から五年、別に眠っていたわけではない。
「次」にむけてどうするか日々奮闘していたのであり、今もまだその途上にあるのである。
enchantMOONは広告宣伝費として開発予算が承認された。とはいえ売上高12億円程度の会社の1億の現金というのは、途方もない予算である。
広告業界としては電通という会社と長年付き合っている。彼らの発想や考え方を僕はとてもリスペクトしている(働きすぎなのはよくないとして)。
彼らはよく、広告を「コミュニケーション」という文脈で語る。広告とは、広告主と顧客とのコミュニケーションの方法の提供であり、その究極の目的は理想的な顧客が理想的な広告主(またはその商品)に出会う、エンゲージメントであるという。
そしてこのenchnatMOONに投じた1億は、とんでもない出会いを生むことになる。
このプロジェクトを通して知り合った最初の人は、ジャーナリストの西田宗千佳さんだ。
彼の活躍は遠くからはもちろん知っていたが、映像を作る前に出したごくシンプルなプレスリリース、「映画監督と哲学者を招聘してハードウェアをつくる」という暗号めいたものを瞬時に読み解いてコンタクトをくれた。
西田さんはその後の短編映画の撮影にも同行し、スモークを炊く係までやってくれている。
次の出会いは、津田塾大学の阿部先生の紹介で出会うことになった、アラン・ケイさんである。アラン・ケイさん、という呼び方で失礼にならないのかどうか心配になるほど、伝説上の人物であり、僕の人格形成に大きな影響を与えた人でもある。個人的には、これだけで1億の価値があるようにさえ思えた。
その次の出会い、そしてenchantMOONを通じて最大の出会いは、北野宏明さんである。彼はあの短編映画を見て僕が何をしようとしているのかピンと来て、すぐに連絡をいただいた。僕としては、学生の頃から知っている大人物に突然声をかけられて大きな戸惑いを隠せなかった。彼がサラリーマンの頃に提唱したロボカップの論文を、僕は学生時代に恋人から渡されて読んでいたし、世の中にはこんなに狂った人がいるのだと感動したものだ。
その北野さんが会いたいとまで言ってくださって、製造で中国にいるなか、代官山のイベントのため一日だけ帰国した土曜日に、わざわざ代官山までやってきてくださった。
開口一番「クレイジーだよね」と言われたのが印象的だった。
そうか、僕がやっていることはクレイジーなのか。北野さんがそう言うならそうなんだろう。なんせ僕にしてみれば、2050年までに人間のワールドカップ優勝チームに勝てるロボットチームを作るという目標の方がよほどクレイジーに思えたからだ。少なくとも1997年頃は。
それから北野さんは「手書きやるならディープラーニングやろうよ」とすぐさま言った。2013年の春の話である。
「ディープラーニングってなんですか?」
「ニューラルネットだよ。今また面白いことになってんだよ」
ニューラルネットは個人的に好きで定期的に書いているプログラムの一つだった。
しかしこれが再び注目される日がこんなに早くやってくるとは、僕には予想だにできなかった。
しかし実際この出会いが、僕たちの人生を大きく変えていく一言になったのである。
enchantMOONを通じて、MITの石井裕先生にもお会いすることができた。石井先生もまた「クレイジーだねえ」と言った。
僕はコンピュータ起業家の本道を歩んでいるつもりなのだが、どうも誰から見てもクレイジーに見えるらしい。
石井先生のラディカルアトムも、僕からみれば十分クレイジーなのだが。
さて、北野さんが「やろうよ」と言ってから、実際に共同研究が始まった。とはいっても、最初からディープラーニングに手を出すわけではなかった。新卒で入ってきたスタッフがたまたま趣味で機械学習をやっていたので、彼を中心に機械学習系の技術と手書きの組み合わせについても模索することになっただけだ。
いざやってみると面白い成果が次々と出てきて、enchantMOONがディープラーニングと融合していくのはむしろ必然であるように思えた。
もしこれから新しい端末を作るとしたら、飛び道具的にアニメーターやイラストレーターに頼るのではなく、本物のプロダクトデザイナーを招聘しなければならないと思った。
誰が一番いいだろうと考えた時、たとえば1億人に使われるような機械をデザインするとして、それをやった経験がある人がいればそれにこしたことはない。そこで僕は後藤禎祐さんにお願いしてみようと考えた。
後藤さんはenchantMOONを知っていて、「自分ならハンドルに関してもっといいアイデアがある」と豪語した。
後藤さんとは一発で息があった。
まるでずっと昔から運命で決められていたかのように、後藤さんとはすぐに打ち解けた。
後藤さんの語り口には樋口さんも感銘を受けていたようで、忙しい合間の中でも後藤さんの出る会議には樋口さんもよく出席していた。
そして事実、ハンドルに関してはびっくりするようなアイデアを持っていた。
天才は存在する、と思った。
ソフトウェアの方はAndroidをやめLinuxで実装することにした。
完全なコンパウンドドキュメントで、それぞれのモジュールがドキュメントに埋め込まれながらも独立したプログラムをもって動くようになっていた。
OpenDocやOLE、ActiveXがやろうとしていたことを全て実現できた。
さらに各モジュールやコンポーネントはJavaScriptで記述でき、動的に変化する形のモジュールも実現できていた。
後藤さんはこれに「MEME」と名付けて商品化しようとしたが、後藤さんがもったいぶってる間に他の会社に商標をとられてしまい、商品化はできなくなってしまった。
このコンセプトを商品化するべきかどうかで揉めに揉め、結局、これは商品化しないという決断を僕が下した。
無理やり商品化しようと思えばできたかもしれない。しかし、これを商品化するということは、在庫を抱え、バージョンアップを繰り返し、きめ細かなお客様対応を続けるということだ。商品化まではできたとしても、その後のロジスティクスにはとても手が回らないだろうということを考えると、我々が今やるべきことはもっと別にある。
そもそも今からタブレット端末を販売して、ここまで価格が下がってペンまで対応したiPadに対抗できたとはとても思えない。
ただでさえタブレットの需要は先細りと言われているのに。
我々はenchantMOONに起源を持つ技術で、世の中をAI化していく。たとえばシグマクシスと展開しているディープシグマDPAは、まさしくenchantMOONが得意としていたフリースタイルの文字認識に起源があり、実際に実用として文字読み取りに使われている。
その他にも、まだ公表はできないが、我々がenchantMOONの延長上として研究・開発してきた技術が次々と様々な分野に広まりつつある。
我々の当初の目標はこうした技術のエンドユーザーを1億人にすることだ。この目標はおそらく達成されるだろう。そのために僕はUEIの社長を辞するという条件でちょうど一年前にギリアという会社を作り、代表取締役社長に就任した。
ギリアという会社名も後藤さんがつけたものである。
GHEは地球規模の人間拡張(ヒューマンオーグメンテーション)であり、LIAは「場」を意味する言葉だ。そのうえ三音節なのに.comがあいてるという奇跡のような名前だった。
enchantMOONを予約したんです、という人は意外にお客さんに多い。
先日知ったのだが、ディープラーニング関連でもう二年以上もお付き合いいただいているパートナー企業の方が、実はenchantMOONを予約していたが、あまりに届かないのでキャンセルしたという話を聞いて驚いた(その人は電脳空間カウボーイズZZには契約しているそうだ)。
enchantMOONユーザーからUEIに転職してきた人も何人かいる。
たぶん僕らが思ってもないところでいろいろな人に僕たちというクレイジーな連中がいるということをenchantMOONは知らしめてくれたんだろう。
ギリアは大きく2つの事業を展開する。HE事業とCS事業だ。
HE(ヒューマンオーグメンテーション)事業はさまざまな産業分野の既存の業務をどんどんAI化していく。普通の人の目に見えないところで、大量に、しかも確実にAI化を浸透させていくことを目的としている。これが当面の事業の柱になるはずだ。
CS(コンシューマサービス)事業は、予算規模の小さい会社や、個人といった人々を対象として、AIの裾野を広げる活動を行う。UEIの既存事業やUEIエデュケーションズなどはCS事業の管轄に入る。
そして我々は、全く新しい製品を企画している。
AIをもっと身近に、もっと作りやすく、もっと使いやすくすることで、誰もがAIの恩恵を受けられるような製品開発を目指して日々研究を重ねている。
今の我々があるのは、enchantMOONを予約してくださった人、購入してくださった人、ブログやTwitterで言及してくださった人、使ってくださった人、開発に関わって下さった人、その他UEIに関係してくださったすべての人々のご協力と愛あっての賜物です。
みなさん、ありがとうございました。
そして、どうかギリアが開く未来にご期待下さい。